十九
黒頭巾――まだ残っていたのか。 随分と気配は減ったとはいえ、屋敷の中は未だ濁った空気で満たされていた。 外へ通じる扉が閉ざされている以上、終わってはいないと思っていたが。 絡まる冷気に体温が奪われる。 心臓が鼓膜の内側で爆音を鳴らす。 全身が石のように動かない。 一寸でも動けば崩壊する、否、直ぐにでも逃げ出さなければ、否、動けば終わる、否、否、否。 再稼働を果たすも混迷する思考。 消費される燃費を補給する為、早くなる呼吸。 何もできないまま、いたずらに時間が過ぎていく。 「……?」 そう、時間だけが過ぎていた。 私が微動だにしない間も、背後の気配はじっと佇んでいるだけ。 何も起きない事に徐々に思考は落ち着き、意識して呼吸を整える。 考えろ――黒頭巾は、何をしようとしている? いつもなら鬼達は、私を見るやいなや襲いかかって来た。 腕を伸ばす者が大抵で――場合によっては荒れ狂って武器を振りかざす者もいたが――思えば黒頭巾はその中でも特殊だった。 一番初め、白さんが見たという時……黒頭巾は遠くから私達の様子を伺っていただけだった。 それから次は、私達を"太刀"の元へ誘導して隙を突き、私に……夢を見せた。 虚ろなる鬼達とは異なる動き。 黒頭巾は目的意識を持って……青江さんのように、何かしらの目的のために自分の意思で行動していたように思える。 あの瞬間まで、黒頭巾の呪いは完成していなかった――青江さんや白さんのように、彼はまだ名前のある誰かだったのかもしれない。 けれど、呪いは徐々に進行する、穢れの充満した屋敷の中に在る限り。 だから次に遭遇した時、虚ろに腕を伸ばし、そして一度引いたのだ。 消えかかっていた最後の自我が、その行動を引き留めた。 しかしその直後、彼の呪いは完成した。 自我が崩壊し、黒頭巾は鬼へと変じた。 紅い光に惑わされて、彼等は私に襲い掛かる。 「……」 思い切って振り返る。 背後には、やはり予想通りの姿が在った。 染みに侵された外套、黒く濁った肌、どろりと溶けた顔。 腕は力無く垂れ下がり、落ち窪んだ瞳が紅い点滅を繰り返す。 その目と視線が交わった瞬間、黒頭巾がぶるりと震えた。 わなわなと揺れる腕を持ち上げ、こちらに伸ばす。 自らの意志を紅い光に埋め尽くされ、操られたかのようながむしゃらな行動。 それは誰の意思だろうか。 「ア……」 蕩けた唇が動くと、粘性のある音が鳴った。 「ア、ル」 明滅する瞳が私に向けられている。 黒い腕が、ふらふらと私に伸びてくる。 「……貴方と共には在れない。私は白さんとこの屋敷から出る」 その腕が届く前に、はっきりと告げた。 それが誰の意思であれ、応えることはできない。 停滞した時の中で永遠に彷徨う鬼達。 私は止まることを選択しない、共に在ろうと約束したひとがいる限り。 すると黒頭巾の腕が固まり、彼の唇も動きを止めた。 たがそれも一瞬の事。 「……ッ、ゥア、アアアアアアア!!」 激昂。 黒頭巾の眼の不安定な明滅は失せ、ぎらぎらと紅い光を放つ。 振り上げた腕を思い切り振り降ろし、私に掴み掛からんとした。 「っ!!」 寸でのところで掻い潜り、姿勢を低くした拍子に日記を掴み取る。 そのまま転がるように足元を抜け、廊下へ飛び出した。 「は……は……っ!」 息を乱して駆ける。 背後から叫び声が聞こえる、乱暴な足音とぶつかり合う武具の音も聞こえる。 追ってきている。 黒頭巾から溢れる瘴気が足元に絡みつくようで、何度もつんのめりながら、必死に動かし続けた。 白さんの眠る手入れ部屋には向かえない。彼にこれ以上負荷を掛けるのは避けたい。 ならば何処に向かえばいい。 分からない、今は兎に角逃げるしかない。 あの廊下を右へ、いや左か。何方へ行けば……! 「!?」 揺れる視界の中、不意に現れた影。 銀糸の髪と、斑の衣。 「白さ……!?」 名を呼ぼうとして、白さんの様子が可笑しいと感じた。 別れる前、酷い状態だった白さんが何故こんなところにいるのか。 黒い衣、侵食された肌……怪我も相当重い筈だ。 壁に体を預けるようにして、血の気の失せた顔で項垂れている。 まさか、否―― 一瞬の逡巡の間、白さんが俯いていた顔を上げる。 そして―― 「迷子」 名を呼んだ。 白さんが、金の瞳で、凛と私を見た。 「――!」 そのまま速度を落とさず、白さんのいる曲がり角まで駆け抜けた。 足が縺れ頭から滑り込み、腕が床との摩擦で熱を帯びる。 「!」 入れ替わりに廊下へ躍り出た白さんが、黒頭巾の真正面に立ちはだかる。 「……!……アアアアアッ!!」 その姿を捉えた黒頭巾が咆哮し、白さん目掛けて突進する。 影を纏い膨らんだ外套が、その姿を何倍にも大きく見せた。 巨大な黒い塊となった黒頭巾が、白さんを飲み込まんとする勢いで迫る。 白さんは退かない。 僅かに残った白が影に飲み込まれ―― ぶつかり合う刹那の前、軸を右へずらした白さん。 僅かな隙間を掻い潜り、黒頭巾の刃を回避した。 「はぁあっ!!」 白さんが突き出した刀。 左腕を主軸とした突き。 勢いの衰えなかった黒頭巾の体は、自身の速度が仇となって深く刃を食い込ませる。 「ガ……ッ……」 身悶えする黒頭巾。 胴体を突き抜けた切っ先が、外套を高く持ち上げていた。 わなわなと震える腕が白さんを掴んだが、押し戻す力は無かった。 白さんは木刀を押し込んだまま、注意深く黒頭巾を見上げる。 はくはくと動く唇。 瞳の紅い光が徐々に弱まっていく。 急速に力を失っていく黒頭巾の体が、白さんへしな垂れかかる。 紅明の最後の明滅が終わる、その直前。 「――……」 黒頭巾が、白さんの耳元に唇を寄せたかに見えた。 白さんの頭に重なり判別が出来なかったが、白さんの背中が僅かに硬くなった気がした。 それから、例に漏れず崩れ始める黒頭巾の体。 指先から形を失い、頭巾もばらばらと宙へ流れ出す。 顔を覆っていた布が崩れ、頭髪が現れた。 目元を覆う程伸びた前髪、頭頂部に僅か残った金色は、本来の彼の髪の色なのだろう。 紅い光を失った翡翠の瞳が、俄かに動く。 黒頭巾は最期に、私を見た。 「――」 ――そうして、頭巾の男は崩れ去った。 無数の塵が白さんに降りかかり、私の元にも流れてくる。 宙を舞う黒い塵、その中に紙の欠片。 日記の欠片が、白さんの元へ降り落ちて―― *** 其処は暖かな日差しに満ちていた。 穏やかな春の陽気の中、薄紅色の花弁が舞う。 ひとひらの花弁を追って、視界は右へと流れていく。 流れる視界に映り込んだのは、"彼"の隣に立つ人。 着物姿の女性……審神者だ。 彼女の肩に乗った花弁をそっと持ち上げると、気付いた彼女がくすぐったそうに笑った。 桜の花弁のような微笑を綻ばせる姿を、彼は愛おしそうに見詰める。 「また、こうして桜を見よう」 「うん。来年も再来年も、貴方の隣で」 見上げれば満開の桜、その下に居る審神者。 美しい光景だ。 彼の心に満ちるのは、かつてない多幸感。 どちらともなく身を寄せ合って、そっと指を絡める。 幸福な日を切り取った一枚。 空間を満たすのは、二人分の穏やかな心。 かつてない幸せを噛みしめて、彼はそっと目蓋を閉じた。 *** 世界が白む。 穏やかな空気が遠のき、ぼんやりとした感覚が戻ってくる。 柔らかな温もりが失せ、入れ替わるように肌を撫でる冷たい空気。 雨の音に刺激され、鼓膜が周囲の音を拾い始める。 目蓋を上げれば暗い天井、塗り潰されていた視界が自分の元へ戻ってきた。 倒れ込んでいた体を起こしながら、先程見たものを思い返す。 あれは、日記の持ち主の記憶。 黒頭巾が所持していた断片、穏やかな春の景色。 追体験する中で、彼が感じていた感情がひしひしと伝わってきた。 日記の彼と審神者は想い合っていた。 来年も再来年も、永久に共に在ることを願う程。 それなのにどうして―― 「どうして……」 白さんの声。 顔を上げれば、白さんが頭を抱えて蹲っている。 「君は誰だ、どうして君を見ているとこんなにも胸が締め付けられる……!」 彼も同じ映像を見ていたのだろう。 かつてこの屋敷で暮らしていた白さんは、記憶の中の審神者と知己である筈だ。 けれどこの取り乱し具合はどうしたことだろう。 記憶が戻った、というわけでは無さそうだが。 「白さん?」 悶える肩にそっと手を置く。 顔を上げた白さんは酷く狼狽していた。 「迷子……」 私の顔を見詰めること数秒、突然弾けたように白さんが抱き着いた。 「しっ――!?」 「迷子、もう俺を独りにしないでくれ……!」 突然の事に肩が跳ね上がる。 しかし、私の鼓膜を震わせた悲痛な声に、動揺は一瞬で消えた。 白さんが、感覚の無い腕で必死に力を籠めているのが痛いほど伝わってくる。 縋るように肩に顔を埋め小さく震える白さん。 嗚呼、そうだった。 眠ったままの彼を、私は手入れ部屋に置いてきた。 戻るつもりではあったけれど、白さんが目覚めた時に傍に居なかった。 彼の孤独を知って、約束をして、共に居ると誓ったのに。 彼に酷いことをしてしまった。 震える体を抱き締め返す。 体温を感じない冷たい体。 「……ごめんなさい、勝手に居なくなって」 だというのに白さんは、最後まで私を守ってくれた。 見るがいい、今の彼の有様を。 右腕は最早力も入らないのか垂れ下がったまま。 美しかった白き衣は穢れぼろぼろになり、幾つもの傷を受けた肌は斑に濁っている。 常人ならば倒れていても不思議ではない姿、辛うじて繋がっているのは刀剣男士ゆえか。 こんな状態で尚彼は、私を守るため剣を振るってくれたのだ。 これ程の恩を、私はどうして返せるだろうか。 ――ならば私も、最後まで報いよう。 この身全てをもって、彼と共に居よう。 「今度こそ独りにはしません。一緒に居よう、白さん」 約束を違えぬように、強固な意思を口にした。 白さんが小さく頷いたのを肩で感じて、私は目蓋を閉じる。 抱き合ったまま、緩やかに時間が過ぎていく。 呪いの侵食は止まらない。白さんの傷付いた体は癒されない。 けれどどうか今だけは、腕の中の温もりを、耳元の吐息を、鼓動の音を、互いの存在を確かめていたい。 せめて彼の心が、恐怖に脅かされないように。 2019.03.24
DADA