二十
――どれだけの時間が経ったか。
ふと、吸い込んだ空気が苦しくないと気付いた。
黴と湿気、鉄錆の匂いは相変わらずだが、屋敷中を蠢いていた得体の知れない気配が消えている。
顔を上げた私に反応して、白さんも周囲を見渡した。
「これは……」
閑散とした廊下に、呟きが虚しく反響する。
濁りが消えたせいか、心なしか屋敷の中に光が差し込んでいるようにも見える。
黒頭巾が消えた事で、鬼達が完全に消滅したらしい。
「もしかして、外に出られるかも」
淡い期待が口からぽろりと零れ、白さんと顔を見合わせる。
「確かめてみるか! ……と、うぐ」
喜び勇んで腰を上げようとした白さんだが、直ぐにその体が大きく傾く。
「危ないっ」
慌てて支えると、白さんは申し訳なさそうに苦笑した。
「はは……もう少しだってのに、このざまじゃな」
「白さん……」
立ち上がれない彼の代わりに、私が確かめよう。
白さんの身を案じつつ立ち上がったその時、視界に飛び込んだ一冊の本。
黒頭巾が現れた時に咄嗟に持ってきた、かつての住人の日記。
先のごたごたでその辺に転がしてしまったようだ。
咄嗟の事で意識していなかったが、私が触れた時は特に何も起こらなかった。
だが、どうにかこの中身を知ることが出来たなら、白さんの失った記憶の糸口となるに違いない。
「白さん、これ!」
拾い上げた日記を、白さんの眼前に突き出した。
持ち上がらない腕を擦っていた白さんが、途端に目を丸くする。
「そいつは……日記か?!」
「そう、さっき見付けたんです、白さんが居たっていう小さな部屋で!」
「今まで集めていた欠片の大本か……これがあれば過去の記憶が見られるか?」
しげしげと眺めていた白さんが、一拍置いてから慎重に左腕を持ち上げた。
彼の指先が、湿気て凸凹になった表面に触れる。
「……」
「……」
「何もないな……」
「そうですね……」
何も起きなかった。
白さんが触れれば記憶が再生されるやもと思ったが、その予想は外れた。
記憶が再生されるのは破片だけなのだろうか。
そもそも現象の要因もよく分からないので、如何ともしがたい。
やや落胆しながらも、他の手段を模索する。
白さんがしかめ面で睨む表紙に題はなく、中身を一頁ずつ解読するしかないのだろうか。
辟易して彼と似たような顔で裏表紙を睨むと、こちら側には文字が書かれているのに気付いた。
筆で書かれたであろう手書き文字で、読み取ろうにも慣れない字体に苦戦する。
本自体が汚れているのもあり難解だが、一文字一文字を読み取っていく。
それは四文字の漢字だった。
画数の多い文字と単純な文字で構成されており、記載された位置を考えても名前のようだ。
恐らくは、この日記の持ち主が几帳面に記した自身の名前。
それは――
「……」
四つの文字を解読した時、奇妙な感覚がした。
期待感と、何処か郷愁にも似たような心地が胸の中に薄く広がる。
図形として見ていた時には感じなかった既視感を抱き、その正体をぼんやりと探る。
「――鶴丸国永」
音に出した瞬間確信した。
やはりこれは名前だ。
白く美しき鳥の名を冠した、古風な印象は刀であるが故のもの。
刀――ひいては刀剣男士の名。
私の零した声を聞いた瞬間、目の前の青年が短く息を吸った。
日記越しの白さんが、その目を大きく見開く。
「その、名前、は」
震える唇がそろりと吐き出した、吐息に掻き消えてしまいそうな声。
その表情を見て確信する。
「白さん……貴方の名前だ。貴方の本当の名前は……」
「俺の、名は――」
"いいや、違う"
「!?」
突如響いた声が、白さんの言葉を遮る。
私のものではなく、当然白さんのものでもない、第三者の声。
正体の分からない声が続けて響く。
"お前は鶴丸国永じゃあない"
喉を潰されたような、ざらざらと雑音の混じる音。
決して大きな音ではないが、まるで屋敷全体に響き渡るようで出所が掴めない。
視線を四方へ巡らせども、人影一つ見当たらなかった。
"何もない、ただの抜け殻だよ"
非情を纏った冷たい声が、ざらざらと耳を侵す。
聴覚を奪われる感覚に眩暈を覚えた時、ふと気付いた。
この声を私は知っている。
つい最近――否、ずっと以前から、何処かで聞いた声だ。
"醜い執着が生んだ泡沫の影法師"
響いた声に記憶の奥底が刺激され、泥に沈んでいた何かが引き上げられる。
「この声、は」
思い出した。
ずっと昔から何度も聞いていた……夢の中で。
何時から見ていたものか覚えてはいない。
眠る度に何度も同じ夢を見て、しかし目が覚めるとその事をすっかり忘れていた。
夢を見たことすらも忘れていたのに、その夢の中の光景が、声に鼓膜を揺らされる度にフラッシュバックする。
"嗚呼……本当に、酷い有様だな"
薄暗く人の気配のない屋敷で、私を呼ぶ声。
その声に誘われひたすら歩き続ける夢だ。
最初の頃は、数歩と進まない内に目を覚ましていた。
けれど回数を重ねる度に歩く距離は長くなり、最後に私は何処かの扉を開けていた。
"汚点が形を持って彷徨うなんて、質の悪い夢だ"
「……!」
数度目の声が決定づけた事実に、全身が総毛立つ。
今、夢と現実と交わった。
夢の中の光景は、この屋敷と一致している。
私を呼ぶ声が、確かに聴覚を刺激する。
私をこの屋敷へ誘ったのはこの声だ――!
"だが、それも終わる"
非情な声が短く響いた直後。
「あ――」
聞こえたのは、白さんの小さな声。
それ以外の音は無かった。
空気の振動も無く静かに、しかし確実に。
あまりにも唐突で、現実離れしていて、網膜に映るその様相が飲み込めなかった。
「白、さ、?」
白さんがぽかんと口を開いている。
彼も状況が分からないのか、右目がぐるぐると動き回っていた。
やがてその目が自身の左を向いたとき、ぴたりと止まる。
「あ、あ……?」
意味のない疑問の声が彼の唇から零れた。
有り得ない光景――白さんの顔面から、刀が伸びている。
その左目から、赤黒い刃がぬらりと顔を出していた。
後方から頭蓋を刺し貫かれた訳では無い。
白さんの背後には誰も居らず、刀の柄も何も存在しない。
視覚情報だけで述べるなら、その刃は白さんの内側から生え出ていた。
それを理解した白さんが、小さく息を吸った。
「嗚呼――」
漏らした言葉は朧気で、中空を揺蕩って掻き消える。
「そう、か……俺は……ただの虚像……」
見開いた目がゆっくりと閉じられて、白さんの全身が脱力していく。
「白さん……?」
ゆっくりと天を仰ぎ、そして――俄かにその体が綻び始めた。
「なっ……白さん、白さん!?」
何が、いったい何が起きている。
白さんの指先から、柔らかな紙を摘まみ取るようにばらばらと千切れ始める。
繊維が一つずつ解けるように、鱗が一枚ずつ剥がれるように、白さんが小さくなっていく。
「在りし日の……記憶に縋った……陽炎……」
白さんは上の空で、その視線は虚ろ。
その間にも彼の破片が舞い上がり、屋敷の中に広がっていく。
慌ててその肩を押さえる。それが駄目なら全身で抱き留める。
それでも、どこを押さえても止まらない。
白さんの足が、腕が、胴体が、私の体一つでは到底足りない速度でみるみる内に崩れ行く。
焦りが混乱を招き、ただがむしゃらに腕を伸ばした。
眼前で形を失っていく白さんに、縋るように呼び掛け続ける。
「どうして、白さん、約束をしたのに! ずっと一緒に居ようと、共に在ろうと言ったのに!」
「約束、は……」
「白さん……白さん!!」
「俺、は――……」
契った指が解ける。
願った唇が崩れる。
金の瞳が破れ、最後の破片が、私の指先をすり抜けた。
「そん、な」
はらりはらりと飛び去った破片。
伸ばした腕、手の平には何もない。
何一つ、残っていない。
「あ……ああ……」
空の両手を見下ろした。
空の廊下を見下ろした。
つい先ほど、そこに居たひとがいない。
恐怖を分かち合い、共に罪を背負い、これからを生きようとしていたひとが。
鳥のように舞い、刃のように貫き、雪のように儚いひと。
その在り方が、美しいと思った。
――白さんが、居ない。
その事実を飲み込んだ瞬間、全身から力が失われた。
膝から崩れ落ちて、がくりとうなだれる。
じわりと広がる喪失感が、全ての色を奪っていく。
雨音も遠ざかり、寒々とした空気に包まれる。
居ない、白さんが居ない。
ほんの僅かの間で、彼の身に何が起こったのか分からなかった。
どうして、何故と誰にも問うことの出来ない疑念が渦を巻くばかりで、視線は力無く虚空を這う。
消えた。白さんが、消えた。
ばらばらになって、宙を舞って。
まるで今までの鬼達のように、跡形も無く消えてしまった。
「……」
"鬼達のように"。
今まで鬼を貫いてきた白さんの木刀と、先程白さんの面から伸びた刃が過ぎる。
嗚呼、先程見えた刃が、彼を鬼達と同じようにしてしまったのか。
鬼が白さんを……否、鬼達は皆いなくなった、黒頭巾さえも送った。
では、先程見えたあの刃は……?
ぽた。
瞬間、鼓膜が唐突に音を拾った。
たった一滴、水滴の垂れる音。
外の雨音とは異なる、屋敷の内側で鳴った音。
俯いた私の視界には、日記。
白さんがその指先で表紙を撫でた冊子が、無残な姿で落ちている。
比較的良い状態で残っていたそれが、元の形も分からない程ばらばらに引き裂かれていた。
衝撃的すぎる出来事の前に気付きもしなかった。
この僅かの間にいったい誰が――その答えは。
足が、見えた。
日記の傍に、足がある。
ぽたりとまた一つ落ちた粒が、足元の床板に吸い込まれていく。
その足は、高い下駄の黒い履物に、、同じく黒い脛当をしていた。
袴の上に巻いた草摺は濃紺の塗装が剥げ、金の縁も錆が酷く赤黒く変色している。
纏う衣は漆黒。
全身濡れそぼり張り付いた衣。
重なり合った布地で幾らか膨らんでいるはずだが、それでも尚細いと感じる体躯。
黒く濁った肌が幽鬼を思わせる。
脛当、羽織、そして腰に下げた刀の鞘と、要所に施された鎖飾りは、劣化して千切れ不格好に垂れている。
頭巾を目深に被り俯いた男、その相貌は分からない。
黒い肌、黒い外套、その様相は鬼のもの。
まだ残っていた、この本丸最後の鬼だというのか。
"もう時期終わる……この悪夢は。そうだろう?"
俯いた男が唇を動かすと、脳髄に声が反響した。
鬼がゆっくりと顔を上げる。
肌、髪の一本に至るまで、黒く染まった相貌。
結膜もまた黒く、その中央に紅色の光が浮かび上がっている。
こけた頬、窪んだ瞳、萎んだ唇。
されど僅かに残る面影に息を呑む。
同じだった。
その面は、色こそ異なれど、白さんと瓜二つだ。
"来てくれた"
"なあ"
鬼が唇を動かす度に、ざらざらと濁った音が頭蓋に反響する。
拒むことも出来ず、嫌悪感が増幅する。
"君が、来てくれた"
そうして鬼は、唇の両端を吊り上げた。
「……ッ!」
それに見詰められただけで、体の芯から凍り付く。
あれはいけない、関わってはいけないと本能が告げた。
あれから溢れる瘴気が、静けさを取り戻した空気を一瞬で塗り替えた。
これまでの鬼達とは比べようもない、屋敷を飲み込んでしまう程巨大な禍々しい気配。
あれが僅かに動くだけで、屋敷全土の空気が歪む。
矮小な人間が触れてしまえば一瞬で溶け消えるだろう。
逃れなければ、一刻も早く、あれから離れなくては。
だが、あれの気配に染まった空気がこの体を圧し潰そうとして、腕を持ち上げることすら能わない。
口を三日月に歪めたまま、鬼がゆらりと動く。
びくりと身構えた私の前で、気だるげに首を傾けた瞬間、鬼の輪郭が溶けた。
「ッ!?」
熱湯を浴びせられた氷の如く、一瞬で黒い水と化した体が私目掛けて一直線に走る。
思わず目を瞑ると、私の全身を泥水が容赦なく打ち付けた。
瞬間――
"……"
"……!!"
怒号、悲鳴、狂騒。
幾つもの金属がぶつかり合う音、木材の割れる音。
噎せ返る鉄錆の匂い、雨の匂い。
視界を覆う紅、全身に纏わりつく黒。
時間も場所のばらばらの、様々な光景が一気に押し寄せる。
幾人もの声、幾つもの音、脳に流れ込む幾多の情報。
目も耳も塗り潰され、無理やりねじ込まれた頭蓋に痛みが走る。
"……して!"
"じゃあ、こ……"
"……殿、よいの……"
荒波の如く押し寄せた映像は、どれも断片的でただただ溢れ返るのみ。
息が出来ない、何も分からない。
熱い、冷たい、灼ける、凍える、焦げる、溶ける、荒れる。
次々と浴びせられる様々な感覚に、脳が悲鳴を上げた。
"主は戻ってこない"
"約束は果たされなかった、それだけだ"
男の声。
幾つものノイズの中を縫って届いた鮮明な言葉。
感情を殺した、冷たい声。
それも一瞬の事、再び押し寄せた波に声も何も飲み込まれる。
苦しい、痛い、溺れる。
消えない。
眠れない。
終わらない。
どうして。
どうして。
どうして、どうして、どうして。
どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして……!!
膨らんだ激情に押しつぶされかけた直前。
"来てくれ"
「――!」
通り過ぎた。
自分自身を見失う程の嵐が消え、鉄砲水を浴びせられたような激痛が止む。
「はぁ……は……っ」
心臓が早鐘を打ち、呼吸が荒い。
先程のものはいったい。
周囲を見渡しても、何もいない。
不思議と床は水浸しにはなっておらず、あれの痕跡も残っていない。
黒い影も、白い青年も、居ない。
独りとなった長い廊下に、ただ私の呼吸音だけが虚しく溶け消えた。
2019.04.13