二十一
廊下にへたり込んだまま、幾ばくかの時が過ぎた。 此処に時を刻むものはなく、外界からの雨音だけが絶え間なく鳴り続ける。 「……」 停止していた脳が漸く再起動を果たし、私はゆるゆると腕を伸ばした。 触れると小さな音を立てる細切れになった紙の山。 書かれていた墨の文字も、これだけ刻まれては読み解くことも出来ないだろう。 ぽたり、雫が落ちる。 鬼の姿は無く、相変わらず廊下には私のみ。 ぽたり、また雫が落ちる。 この雫は、私から。 二つの目から溢れた液体が、頬を伝って顎へと流れていた。 はらはらと涙を落とし続け、目頭が熱くなり頭がぼんやりとする。 霞む脳裏に浮かぶのは白い衣の青年。 白さんが居たのだ。 つい先ほどまで、腕を伸ばせば届くすぐそこに。 だのに、今は独り。 互いの存在を確かめ合ったばかりのひとが、居ない。 彼と共に生きようと、彼のために在ろうと思った。 白さんがいたから竦んだ足も前に進んだ、立ち上がる事が出来た、恐怖に塗れた心も和らいだ。 彼が居なくなった今、私を立ち上がらせるものは無い。 雨雲の元、薄闇の屋敷の中で蹲ったまま。 私の時間が、止まる。 「……」 けれど――私の中に湧き上がる、白さんの残響。 初めて見上げたすぐ傍の顔、鬼を叩き伏せる勇姿、怪我を負いながらも微笑む表情、顔を歪めて縋る姿…… 様々な彼が浮かんでは過ぎていく、私の中に溢れてくる。 ――そうだ、終わりじゃない。 唇を強く噛み締める。 まだ、まだだ。 白さんを、訳も分からず消えた彼を、明かさず終える事は出来ない。 彼との旅路は失われていない、此処で立ち止まるわけにはいかない! 考えろ、行動しろ、彼の手掛かりを手繰り寄せる為に。 ぎゅうと握り締めた拳の中で、日記の欠片がくしゃりとひしゃげた。 それを見下ろして、もう一度声に出す。 「鶴丸、国永」 裏表紙に書かれていた、日記を書いた人物の名。 白さんの本名だと直感した。 告げた名に、白さんの目が丸くなったのをはっきりと覚えている。 それなのに次の瞬間、何が起こったのか。 先の出来事を一つ一つ思い返す。 白さんから伸びた刃、切り裂かれた日記、現れた黒い男、それから…… ポケットに入れていた物を引っ張り出す。 裂けたお守り、ぼろぼろの集合写真、幾つかの日記片、そして青年の写真。 頭巾の付いた羽織をゆったりと着た、美しい顔立ちの青年。 胸元の飾りから伸びる繊細な金の鎖が衣の膨らみに合わせて流れ、白を基調とした衣装に色を加えている。 白さんと同じ顔。 そして――先の鬼と同じ顔。 鬼は全身を黒く濁らせていたが、纏う衣装にはかつての面影があった。 黒い髪、黒い肌、しかし造形はこの写真の青年と同じだ。 彼が現れる直前、名を口にした。 あれは、彼の名だった。 「あれは……鶴丸、さん」 あの鬼の正体は、鶴丸国永。 かつてこの本丸に居住していた刀剣男士、日記を書いた本人。 白さんの顔から生えた刃は、彼が腰に下げていたものだ。 彼が白さんを屠った。 彼も例外なく、儀式の失敗によって鬼と成り果てていた。 だが、白さんは? 彼も同じ顔をした"鶴丸国永"だ。 同じ刀剣男士が同時に複数存在するなど有り得るのだろうか。 人の常識では測れないのかもしれないが…… 「……!」 否、彼等の言葉を思い返す。 白さんは何と言った? 黒い鶴丸さんもまた、彼の事を例えていた。 "お前は鶴丸国永じゃあない。何もない、ただの抜け殻だよ" "在りし日の……記憶に縋った……陽炎……" 抜け殻、陽炎……まるで白さんが紛い物とでも言わんばかりの表現。 白さんが抜け殻だとは思わない。 彼の感情の機微は、間違いなく本物の、生きるものとしての息吹だった。 それでも彼自身が用いた言葉、虚像……記憶に縋った陽炎……その意味とは。 「……、……。………………!」 思考が導き出した仮定がある結論に至る。 それが正しいとすれば、彼等の言葉が示すものはまだこの場に残っている。 白さんの正体は、黒い鶴丸さんとの関係は、此処に在った。 撫でるように滑った指先が、山を少し乱す。 ばらばらになった鶴丸さんの日記。 あの時鶴丸さんに貫かれたのは、あの時壊されたのは、紙片の山となった日記だったのだ。 白さんの正体は、これだ。 百余年前に書かれた鶴丸さんの日記に、長い歳月を経て魂が付随した。 鶴丸さんの記憶を元に形作られた付喪神、それが白さん……もう一人の"鶴丸国永"。 生まれたばかりの魂に記憶はなく、しかし"鶴丸国永"として元となった存在の記憶を観ることが出来た。 彼が見出した寂しさも苦しみも淡い希望も絶望も、全て日記に封じられていた鶴丸さんの感情。 鶴丸さんであって鶴丸さんではない、陽炎のような存在。 「……嗚呼、そうだったのか」 腑に落ちたと同時に胸中に芽生えるもの。 この感情を、何と表すべきだろうか。 白さんの本当の名前を呼ぶことは出来なかった。 そもそも本当の名と言えるのかも分からない。 だが、彼が"鶴丸国永"であろうとなかろうと、彼との約束は決して紛い物ではなかった。 今もこの胸に宿っている。 「白さん」 これまで集めた紙片を日記の山にそっと重ねた。 砕けてしまった日記は、もう二度と元に戻ることはない。 紙片達が徐々に綻び、塵となって宙へ浮き上がる。 音もなく広がって、螺旋を描きながら屋敷の方々へと。 消えていく。 決して長い期間ではなかった。 けれど、確かに苦楽を共にし、罪を分かち合ったひと。 その残骸が、消える。 残ったのは、虚しさと―― どくん。 「……、」 揺れた。 この屋敷が、否、この大地が小さく揺れた。 どくん、どくんと、鼓動のように断続的に揺れている。 ――まだ、やるべき事が残っている。 ならば、立ち上がれ、歩き出せ。 重い腰に力を入れ、わなわなと震えながら両足で支える。 残り僅かな体力を振り絞り、引き摺るように歩き出した。 *** 自分の呼吸音と足音、外からの雨の音。それ以外には何もない。 が――鶴丸さんが現れた後から、生き物の身じろぎを感じるような、耳元で誰かが呼び掛けているような気がする。 屋敷全体が生きているように脈動していた。 鶴丸さん……本物の"鶴丸国永"。 とはいえ先程のあれも恐らくは本物ではなく、黒い水が形作った見てくれだけの器のようなものだろう。 本当の彼が何処に居るのか、答えは既に知っていた。 薄暗い廊下、入り組んだ道。もう地図を見る必要はない。 この道を何度も歩いてきた。夢の中で、鶴丸さんの声を頼りに。 今の私は、夢の中と同じ事を、彼の思惑通りにしているのだ。 足を動かしながら思い返す。 探索時に目を通した本丸規定、そこに記されていた閉鎖の儀。 柱となった刀剣男士は棺に納められ、本丸の何処かに沈められる。 それは恐らく、この本丸の土地全体の中心に位置する場所――中庭の池の中だ。 鶴丸さんは、私を其処に誘おうとしている。 柱は鶴丸さんだった。 彼の肉体や刀本体がどうなっているのかは定かではないが、その魂は未だ囚われている。 黒水が通り過ぎた瞬間垣間見たもの、あれは今の鶴丸さんが置かれている状況。 水の中、あらゆる感情や記憶が溶けて混ざり合い、元の形も分からない程捩れている。 何度も繰り返される苦痛、幾度も繰り返される問い。 永劫に続く悪夢が穢れを増長し、やがて溢れ、零れようとしている。 何故儀式は失敗したのか、何故審神者は鶴丸さんを置いて本丸を去ったのか……未だ分からない事はあるが、時は一刻一刻と迫っていた。 *** 幾つかの角を曲がり、開かれたままの扉を潜る。 長く伸びる廊下の途中、折れ曲がった直ぐ先にある木造の扉、その手前に。 「やあ」 腰を下ろした青年が一人。 「あ……青江さん?!」 紺色のジャージに身を包んだ長髪の青年。 にっかりと意味有り気な笑みを湛えた表情は記憶と合致する。 間違いなく青江さんその人の姿があった。 予想外の人物の登場に目を白黒させる。 「ど、どうして青江さんが……その姿は……?」 驚いたまま手を伸ばして、その肩を――掴めなかった。 私の手は青江さんの体をすり抜け、虚しく宙を掻いた。 「え……」 「おや、そんな顔するのかい?自分達が何をしたか忘れた訳じゃないだろう」 肩を竦めた青江さんがさらりと口にした言葉に、私の喉がひゅうと鳴る。 忘れる筈がない。浴場での死闘、あれは真実あった出来事だ。 では此処にいる彼は。 「僕は少しこの手の事に詳しくてね。他の皆より堪え性があるんだ」 なんとなしに手をひらつかせる青江さん。 彼が言うには、今の彼は魂だけの存在らしい。 肉体は鬼と化して滅んだが、魂だけとなった今、元の姿で私と会話が出来るのだと。 刀剣男士というのはつくづく想定外の存在だが、その中でも青江さんは特別だ。 簡単に納得できる事ではないが、いちいち驚いていては話が進まないので無理矢理飲み込むことにする。 その青江さんがそんな状態で、何故こんなところにいるのか。 「僕の本体もとっくに砕けているけれど、まだ少しだけ仕事があってね」 「仕事……?」 青江さんの目的、というやつだろうか。 肉体が滅び魂のみとなっても成し遂げようという目的……それは一体何なのかと尋ねてみたが、青江さんは答えてくれなかった。 「この先に行きたいかい?」 代わりに返された何気ない問い掛け、しかしその視線は試すようにこちらを見詰める。 行きたい、そう答えるのは簡単だが、その視線の鋭さにたじろいだ。 「この先に行けば、君は知る事が出来るだろう……この本丸の事も、彼の事もね。けれどその時君は、今の君で居られなくなる」 青江さんの言った事の意味はよく分からない。 だがその表情は真剣なもので、冗談を言っている訳ではないと伝わってくる。 「本当は、こんな深くまで来るべきじゃなかったんだ、君は」 暗がりの廊下、狭い空間に立つ青江さんの顔に濃い影が落ちる。 「……君は、主に似ている」 「え……?」 溜息のように吐き出された言葉。 それはかつて彼自身が告げた言葉。 あの時話した大事な人とは、この本丸の主の事だったのか。 小さく頭を振った青江さんが言葉を続ける。 「似ているだけさ、本人じゃない。君はただ巻き込まれただけ。そして僕は君を利用した、僕の目的の為に」 俯いた彼の視線が廊下を這うように彷徨った。 「僕の目的は、仲間達だった」 「仲間……?」 「ああ、此処で暮らしていた皆さ」 それはかつての住人、刀剣男士。 青江さんや鶴丸さん、黒頭巾……名前の知らない刀達。 「儀式が失敗した時、彼等の魂は本丸に繋がってしまった。より正確に言えば、彼……柱に飲み込まれてしまったんだ」 「柱……鶴丸さんに?」 「ああ……」 それから青江さんは、ぽつぽつと儀式の事を語り始めた。 「閉鎖の儀……その本質は、付喪神の力を大地に還す事」 刀剣男士とは、特別な力の宿ったもの、人間とは異なる存在。 その神気を持ってすれば、翳りを断つ事も出来うる。 閉鎖の儀を行うと、柱となった刀剣男士の魂は本丸の大地に還る。 意識も存在も溶けて、大地と融合する。 その神気で大地を潤す事で、その地の安泰と、更なる刀剣男士の顕現に繋がる――かつて彼等の所属していた集団では、そう考えられていたのだという。 百余年前のこの場所で、柱の役目に鶴丸さんが選ばれた。 彼は棺へ納まり、この本丸の中心――扉の向こうにあるであろう池へ沈んだ。 当時の彼の胸中は定かではないが、儀式は順調に進んでいた。 けれど。 「あの時何が起こったのか、僕も正確には把握していない。でも、一瞬だった。一瞬で僕達の本丸は地獄に変わった」 悲鳴、怒号、破壊音。 鶴丸さんが垣間見せた記憶は、その時のものか。 それ程に彼の魂に焼き付いている。 砕かれた、壊された、彼の居場所は失われた。 その時―― 「溶け始めていた彼の意識が、拒否してしまった」 穢れに対する怒りか、それとも別の感情か、鶴丸さんが激情に染まった。 それは本丸の大地へと広がり、その場に居た刀剣男士をも飲み込んだ。 激情は彼等の身を焦がし、眠る事も能わず、本丸から逃れる事も出来ない。 鶴丸さんが悶え続ける限り、彼等もまた止まった時を繰り返す。 永遠に繰り返し続け……いつしかその身は鬼と成り果てた。 「僕も含めて、彼等は柱と同化してしまった。繋がりを断つには、柱自身の手で切り離してもらうしかなかったのさ」 鶴丸さん自身によって肉体を破壊される事で、その魂は解放される。 しかし鶴丸さんは池の底――現れたのは、白さん。 本人そのものではなくとも、彼もまたこの本丸の"鶴丸国永"だ。 白さんが屠る事で、鬼達の魂は呪縛から解き放たれる。 だから青江さんは、その身を支配されかけながらも私達に鬼を倒させるように行動した。 そして最後には、自分さえも砕いた。 「この本丸に、もう彼等は居ない。ただ一人を除いてね」 結果的に、白さんが、私達が行ったことは悪ではなかった。 青江さんは、白さんに刃を振るわせる為に私の存在を使ったのだ。 「ごめんね……なんて、今更言ったところで手遅れだけれど」 青江さんは力無く笑った。 思えば、何故私は此処に招かれたのだろう。 かつての彼等の主……審神者に似ていたからだろうか。 白さんが無意識に私を求めたのも、鶴丸さんの記憶が審神者の面影を重ねたからかもしれない。 私はただの人間で、審神者でも刀剣男士でもない。 本当なら、今すぐにでも逃げ出してしまいたい。 でも、私は。 「構わない。私は……今の私は、自分の意思で此処にいます」 私が、白さんと出会った。 私が、青江さんや白さんと共に行動した。 今更巻き込まれたなどと思わない。私はもう当事者だ。 「そうか……」 私の言葉を聞いた青江さんは、感嘆を漏らして、片方しか見えない目元を僅かに緩ませた。 長い息を吐き出して、彼の肩がゆっくりと上下する。 「なら、最後は君に委ねよう」 そう言った青江さんが、徐に自身の胸の中に右手を突っ込んだ。 「!?」 こればかりは驚いた。 彼の手が己の肉体――魂だけではあるが――の中を弄る様子に、かつて対峙した青江さんが"抜刀した"時の記憶が蘇り、一瞬で血の気が引く。 「これを持って行くといい」 平然と右手を取り出した青江さんが、そのまま私の眼前にずいと突き出した。 体に痕は無く、手も汚れていない。 魂だけの状態だと、そんな事をしても平気なのか。 「これは……?」 その手の中に何かが握られている。 青江さんが指を動かすと、小さな金属の鍵がぷらんと吊り下がった。 「見た通り、ただの鍵さ」 何の変哲もない鍵だが……これもまた"鍵"ということか。 手を器の形にすると、青江さんが摘まんだそれをぽとりと落とす。 手の中に納まった鍵は、冷たく金属の光沢があって、確かに存在している。 まじまじと見下ろす向こうで、青江さんが小さく息をついた。 「どうするかは君が選んでおくれ。この先を見守れないのは心残りだけど……僕は一足先に逝くよ」 それはどういう意味だろうか――そう思い顔を上げた直後、青江さんの輪郭がぼやけた。 「青江さん……っ」 青江さんの体が、徐々に色を失っていく。 彼の背後にある扉の木目が、その体を透かして見えた。 「じっくりと時間を掛けたけれど、そろそろ果てる頃合だねぇ」 体がぼやけ、声も遠くなっていく。 それでも尚青江さんは言葉を続けた。 「勝手な事を言うけれど、君の事は嫌いじゃなかった。利用した、命も厭わなかった、けれど最後は……」 青江さんはその表情も分からない程薄まっていたが、僅かに目蓋を閉じたのが見えた。 その体が淡い光の粒となって溶けていく。 「やっと、嗚呼、やっと終わる……」 「青江さん……」 青江さんには青江さんの目的があって、彼はその為に行動してきた。 長い……本当に長い時を、この屋敷の中で。 私には、彼のこれまでの苦労を測る事は出来ない。 けれど理由はなんであれ、その道程で私を助けてくれたのは事実だ。 だから、この言葉を伝えておきたい。 「青江さん、ありがとうございました」 小さく頭を下げると、青江さんは目を丸くした。 それから、ほんの少し頬を持ち上げる。 "…………" にっかりと笑ったその唇が言葉を紡いだように見えたが、音は届かなかった。 輪郭は完全に失われ、粒子が空へと昇っていく。 青江さんが消える。 残響の後、耳の痛くなるほどの静寂だけを残して。 「……」 そして、再び耳に届く雨音。 薄闇の向こうには木の扉が待ち構えていた。 胸の前で鍵を握り締める。 この先にあるものは渡り廊下、大きな池のある中庭。 ――彼が待っている。 2019.04.27
DADA