二十二
閂を開け、木造の扉をゆっくりと押す。
僅かに軋む音を立てながら、扉は向こう側へ開いた。
出口から舞い込んだ空気が、屋内の黴臭さを和らげる。
外だ。
濡れた土から立ち上る匂いも、雨にけぶる景色も、外のものに他ならない。
「あ……」
最初の目的は、この屋敷から脱出することだった。
思い出したように息を吸い込むと、肺が外界の空気を取り込んだ。
屋根の付いた渡り廊下は両側に背の低い手摺が取り付けられているが、足を持ち上げれば容易に超えられるだろう。
けれど、瞳に写り込む庭の光景がそれを留めた。
かつては美しい情景だったのだろうが、今は荒み切っている。
折れた木々は枯れ、橋は落ち、その下の池は淀んだ水に満たされていた。
無数の粒が叩く水面は俄かに泡立ち、雨にも流されない禍々しさが渦巻いている。
あの中に、居るのだろう。
今から私は、彼処へ行くのだ。
決意を胸に視線を戻し、渡り廊下の先の扉を引いて再び屋内に入る。
湿気た匂いの充満する薄暗い廊下、左手に並ぶのは襖。
この離れは本殿に比べて荒れ模様が少なく、襖に描かれた上品な風景画も綺麗な状態で残っていた。
一目襖を見るだけで、この部屋が特別なのだと分かる。
息を大きく吸い込むと、黴の匂いが鼻をついた。
ゆっくりと吐き出して、取っ手に指を添える。
僅かに力を籠めると、襖は滑らかに開いた。
「……」
静謐の部屋。
入口の向かい側は一面障子で、向かって左は壁、右側は襖だった。
壁際に背の低い書棚が置かれ、中央には文机、天井近い壁には小さな額が飾られている。
大きな家具も無く、一人で過ごすには広い場所だと感じた。
文机の上にあるものは、繊細な意匠の施された筆記用具と、細長い形状の何か。
楕円形で握り締めるのにちょうどいい厚み、中央からややずれた位置に切れ目が入っていることから筒状に加工されたものだと判断できる。
護身刀というものだろうか。これは刀剣男士のものではないらしい。
そして一番目につくのは、一つの文箱だ。
桜と流水の繊細な模様が施され、漆器特有の上品な光沢を放っている。
ぐるりと白い帯が巻かれており、両端に取り付けられた金の輪が中央で重ねられ小さな錠で留められていた。
手の中の鍵が僅かに揺れる。この鍵は、この錠のものか。
室内の品はどれも繊細で美しく、上等なものばかりだ。
予想される持ち主は女性、そしてこの屋敷において身分の高い人物……即ち審神者。
この部屋は審神者の部屋。この文箱も審神者のものだ。
この鍵を使って中に入っているものを手にすれば、審神者の、ひいては本丸の過去を知る事が出来るだろう。
しかし、先刻の青江さんの言葉が蘇る。
"けれどその時君は、今の君で居られなくなる"
その言葉の真とするところは分からないが、この錠を解き放った時、私は何かを失ってしまうのだろう。
手の中の鍵の感触を確かめる。
私は――
***
ふと、網膜が光を捉えた。
障子の向こう側、外から入った光らしい。
渡り廊下で見上げた空は分厚い雨雲に覆われていたが、この光は何かと顔を向ける。
――絶句した。
眼前に異様な光景が広がっていた。
紅い光が障子全体を血の如く染め上げている。
その中央に影が一つ、ぽっかりと空いた穴のように映し出されていた。
人の影にも酷似したそれは、歪に長く伸びている。
向こう側に、居る。
無音だった。雨音も聞こえない。
ただ影だけが、紅い光の中でゆらゆらと蠢いていた。
深呼吸を一つ、それからゆっくりと立ち上がり、障子の傍へ歩み寄る。
そして、静かに引いた。
隙間から広がる景色は中庭のそれ。
縁側の先に並ぶ飛石、その更に向こう側には石に囲まれた池。
黒く淀んだ池の水が渦巻く中心――
高い下駄を立てて、水面に浮かんでいる。
風も無いのに揺れる袖。
ふわりと持ち上がる頭巾の下で、濡鴉の髪から雫が滴った。
「悪夢のような時間だった……眠りに就くことも許されず、止まった時の中を永遠に彷徨い続ける」
その唇から紡がれるのは流暢な言葉。
「だが、それも漸く終わる」
伏せた目蓋が持ち上がる。
暗黒の目が紅い光を宿して此方を見た。
それがすうと細くなり、黒い唇が弧を描く。
「やっと、来てくれた」
短い言葉。
それだけで本丸の空気が震撼する。
びりびりと表皮を走る痛みに眉を寄せるが、気を取り直して口を開いた。
「鶴丸さん」
面と向かって名を呼ぶのは、これが初めてだ。
びくりと体を跳ねさせた鶴丸さんが、自身の体を抱き締める。
「早く、早く、溢れる……もう、抑えきれない」
急かすように私を見上げる彼の前で、障子から縁側へと出る。
庭へ降りて一歩ずつ歩を進める私を、鶴丸さんは食い入るように見詰めた。
「来てくれ……来てくれ、主……早く……」
ぶつぶつと同じ言葉を繰り返す鶴丸さん。
池の縁、並べられた石の手前まで辿り着いた。
顔を持ち上げた彼が腕を伸ばす。
縋るように、求めるように、私の方へ。
紅い光、黒い肌、行う行動はかつての鬼達と同じ。否、鬼達こそが、鶴丸さんの意志に操られていた。
「……私は」
その手が届く前に、口を開く。
「私は、貴方の主ではない」
告げた言葉に、鶴丸さんの手がぴたりと止まった。
「どう、して。主、何故……君が、来てくれた、のに……」
伸ばした手がわなわなと震え始める。
足元の渦が荒れ出し、池から飛び出した飛沫が私の足を湿らせる。
瞳孔が開いた紅い目が、ぎらりと此方を睨んだ。
怯みそうになるがぐっと耐え、言葉を重ねる。
「私は迷子。短い間"白さん"と共に在ったただの人だ」
私は――鍵を、開かなかった。
文箱の中に入っていたものは見ていない。
審神者の記憶は審神者のものだ、私のものではない。
私は、私のまま此処に立っている。
「何故だ……何故、何故、何故!」
鶴丸さんが歯を剥いた。
怒りに満ちた表情で、両腕を大きく振り乱した。
「君が主でないと言うのなら何故此処に居る、どうして俺の前に現れた!!」
その体から、めきめきと音が立つ。
大きな羽織が盛り上がり、その下から鋭い刃物が突き破った。
背中から生え出た無数の刃、幾重にも重なったそれはまるで翼のようで、彼が動くたびに金属が絡み合う音が鳴る。
「が、あ、あ」
苦しいのか、怒りなのか、くぐもった声を上げて身を捩る鶴丸さん。
掻き毟った顔面から、ぼろぼろと何かが零れ出した。
羽毛だ。
小さな羽が皮膚を突き破って半面を覆う。
その足元、鼻緒の千切れた下駄は渦に飲み込まれ、足袋を突き破って現れたのは巨大な鉤爪。
猛禽類のそれに酷似している。
「ある、じ……あ、アアアア!!!」
咆哮。
彼の姿は最早人間を超越していた。
鶴の名を冠した刀剣男士――だがその姿は鶴というにはあまりにも醜いく、これまで遭遇したどの鬼達よりも歪んでいる。
水面を強く蹴った鶴丸さんの、長く伸びた鋭い爪が私に振り下ろされる。
「……っ!」
一瞬の痛みの後、世界が反転した。
ぐんと引かれた体が水面に叩きつけられる。
高い水柱が立ったが、私の体は水面に浮いたまま。
ぼたぼたと降り注ぐ水飛沫が全身を濡らす。
私の首を掴んだ鶴丸さんが、覆われていない左目で此方を見下ろした。
刃の羽が広がり、私の視界を覆いつくす。
影に沈む黒い体、その中に浮かぶ紅い目に射貫かれて、体の芯から凍り付きそうだ。
それでも負けじと彼を見上げた。
「"約束"を、果たしに来た」
私の首に絡みついた指が固まった。
「約、束」
刃の摺り合わさる音に隙間に、鶴丸さんの声が挟まる。
「俺は……そうだ、俺は主と約束を、それだけが俺を!」
鶴丸さんが声を荒げて身悶える。
擦り切れた記憶の断片の中で苦しんでいる。
彼も、百余年前――こうなる以前、約束をしたのかもしれない。
審神者と、心を通わせた人と、大事な約束を。
それは私には分からない、私には果たせない。私は審神者ではないから。
だから、私は私の出来ることをする。
「私は私として、貴方との約束を果たす」
白さんとの約束。
共に在ろうと誓った、外の世界を見に行こうと笑った。
白さんは鶴丸さんと似て非なる存在ではあるが、彼の抱えていた寂しさは鶴丸さんと同じもの。
白さんとの約束は鶴丸さんとの約束でもある。
彼もまた白さんを通して私との時間を見ていたのだから。
「共に在ろう、鶴丸さん」
「――」
鶴丸さんの目、紅い光が僅かに弱まった。
「君、は」
その目が、"迷子"を見た。
「鶴丸さん」
貴方を此処に縫い付けているもの。
過去の出来事、失敗した儀式。
悠久の時を沈み続けた鶴丸さんを此処から切り離す、その為に。
持っていたそれを両手で掲げた。
美しい文様に飾られた鞘を放ち、現れた刃は錆一つなく美しい。
「……ッ!」
鶴丸さんの大きく開かれた目、その表情が刃に映る。
僅かに緩まった腕。
その一瞬、滑らかな刃を鶴丸さんの胸に突き立てた。
錆びた鎖がちゃりちゃりと踊り、彼の衣が翻る。
「っ……!」
強く握った柄を通して、手の平へ伝わる硬く湿った肉を裂く感触。
刃を振るうことも儘ならない、まして人を刺すなんてもっての外で、血の気が引いて両手が震える。
それでも離すまいと歯を食いしばった。
「それ、は……主の……」
鶴丸さんの口から零れたか細い声は、驚きの色が濃い。
その目に映るのは、先の部屋で見付けた審神者の護身刀。
鶴丸さんの悔恨が宿った鬼達は、審神者に似た私を求めた。
日記に記憶がこびり付く程、彼の中は審神者に支配されている。
彼を此処に留めているのは審神者だ。
ならば私は、審神者の刃をもって審神者との楔を断つ。
彼の肉体を、解放する。
「……っ……!」
ありったけの力を込めて、鶴丸さんに刃を押し込んだ。
ぶちぶちと何かが切れる感覚と共に、手の平にぬるりとしたものが伝わって、恐ろしさに目を瞑る。
と、不意に私の喉を圧迫していた指が消えた。
目蓋の向こう側で影が微かに動いたので、両手を離してそっと目蓋を持ち上げる。
視界の中、鶴丸さんが体を起こし茫然としていた。
背中の刃も力無く垂れ下がり、その目はただ虚空を見ている。
「消、える……主、約束……俺の、全部、が、あ、あああ!」
苦悶の表情を浮かべて頭を抱えた鶴丸さん。
その喉から漏れるのは、言葉にならない喚き声。
胸を抑えたかと思えば頭を掻き乱し、顔を覆って悶絶する。
「ああ、あああ……」
やがてその声は小さくなり、鶴丸さんは動きを止めた。
垂れ下がった羽織、落ち込んだ刃、水面も静まり返っている。
一瞬の間、全てが停止した。
――が、不意に彼が顔から両手を離す。
「溢れ、る」
瞬間、小刀の刺さったままの傷口から、どろりと黒い泥が零れ出した。
「!?」
真っ黒に染まった肉体は力を失い、刃の翼が末端から崩壊し始める。
顔面の穴という穴から泥が溢れ出し、瞬く間に鶴丸さんの全身が溶ける。
重力に従って落ちる泥、彼の数倍はあろう物量が私の頭上に降り注いだ。
「……ッ、う……ぐ」
圧し掛かる重量に従い、ずぶずぶと体が水中に沈み始める。
呼吸も儘ならず、もがいた腕は宙を掻くばかり。
鶴丸さんの肉体は解放された。確かに跡形も無く失われた。
けれどこの泥は何だ。私の動きを奪っていく重く冷たい塊は。
「鶴丸、さ」
覆われ掛けた顔で、僅かに唇を動かして名を呼ぶ。
すると、頭の奥に彼の声が反響した。
"共に、沈んでくれるか"
「――」
たった一言、憂いを湛えた声。
その言葉で悟った。
肉体を滅ぼしても、大地に溶けた彼の魂は解放されない。
私では、怨嗟の中に沈んだ彼を掬い上げることは出来ないと。
ならばせめて――
「うん……もう、貴方を独りにしない」
約束を果たそう。
私の心はとっくに決まっている。白さんに、鶴丸さんに救われた時から。
微笑みながらゆっくりと目蓋を閉じた。
尚も溢れ出る泥が、私の体を沈めていく。
真っ黒な水中へ、渦巻く思念の奥底へ。
無数の怨嗟が絡み付き、焦がすような痛みが訪れた。
しかしやがて感覚は希薄になり、全身の境界が曖昧になる。
意識も薄れ、息苦しさも冷たさも消えていく。
水底に棺が一つ。静かに扉が開いた。
…………
……
***
無人の家屋に風が通る。
荒れ果てた内装を意にも掛けず、ただひゅうと鳴らしながら。
破れた襖の広間、剥がれた土壁の廊下、割れた食器の厨、水が張ったままの浴槽……廊下に散らばる紙が風に煽られ虚しく音を立てた。
屋敷の中心、淀んだ池。
静かに揺れる水面、其処にはもう誰もおらず。
雨は、上がっていた。
2019.05.03
***
指で挟んだ鍵を錠に差し込む。
軽く捻ると小さな手応えがして、錠がゆるりと開いた。
はらりと落ちる帯、顕になる文箱。
滑らかな手触りを確かめながら、蓋を持ち上げた。
中にあったものは、糸で綴じられた一冊の本。
上質な和紙の表紙は無地、手に取って裏返しても全くの無地、開かなければ中身は分からない。
意を決して、表紙を開いた。
「"睦月"……」
一行目にあったのは日付だ。
筆で書かれた筆跡だが、私にも読める書体だ。
"……今日から私は審神者となる。小難しい講習を一ヵ月も受けたが、正直内容は理解しきれていない。これからの業務に少々不安を覚える。初めての顕現は何とか成功したが、顕れたのはあまり顔を見せたがらないような青年で……"
日付の後に続くのは、取り留めもない日常と筆者の心情。
「これは……」
日記だ。審神者となった彼女がつけ始めた日記。
この本には連綿と彼女の思い出が紡がれている。
"……鍛刀を経て新たな刀剣男士を迎えた。最初の彼とは異なる刀種で、短刀と呼ばれる……"
"……部隊が脇差を持ち帰った。新たな戦力となったのは……"
"……ようやっと一部隊を埋められる数が揃った。刀剣男士達はみな見目麗しく、個性も著しい。私を主と慕ってくれる以上、私も職務に励まなければ……"
日付も疎らに記された出来事、その文字を指で辿ると、不安や期待、喜び、口惜しさが芽生える。
まるで審神者の心情を映したかのような心地だ。
そして、記録はある月に至る。
「……"皐月"」
指が、一瞬動きを止めた。
何故かは分からない。だが、予感がする。この月には何かがある。
その予感が何処から来るものなのか分からないまま、私は次の行を追った。
"今日、新たな刀が鍛刀された。その刀の名は――"
「――"鶴丸国永"」
その名を口にした途端、目の前の景色がちかちかと点滅し始める。
視界が急に白み、次いで沢山の色が流れ込んできた。
洪水の如く押し寄せる光に流され、私の五感が遠くへと運ばれる。
"よっ。鶴丸国永だ。俺みたいのが突然来て驚いたか?"
目蓋の裏に浮かぶ青年の快活な笑みと、同時に響く彼の声。
白い衣、白い髪、金の鎖に金の瞳。
これまで共に居た青年と瓜二つの姿と声。
「鶴丸、さん」
しかしその光景は一瞬で過ぎ去り、入れ替わるように次の場面が浮かび上がる。
"ああ、そいつは楽しみだ。どんな驚きが待ち構えていることか……"
首元に紅色のマフラーを巻いた青年が、頭上の紅葉に手を翳す。
かと思えば、再び場面が切り替わる。
"そいつは名案だ。早速今日の驚きを……"
"……不思議なもんだな、人の体というのは"
入れ替わり立ち代わり、浮かんでは消えていく陽炎。
夏の空、頭上広がる星の大海の下。
秋の原、虫の織り成す奏での中。
冬の窓、溶け込んでしまいそうな雪原の前。
幾つもの影が通り過ぎ、その度に彼の声が再生された。
手元の日記が忙しなく頁を捲り、其処に描かれた記憶が私の中に蘇る。
目まぐるしく移り変わる景色に頭がくるくると回り出し、最早日記の文字を追えているのかも定かでは無かったが、不意に横切った単語を瞳が捉えた。
「"卯月"――」
鶴丸さんが日記の中に現れてから初めての春――そう認識した途端、私の心臓が大きな音を立てる。
"桜の季節がまたやってきた。鶴丸は桜を見るのは初めてだ。美しいなと溜め息を零していたけれど、私はどうしても、桜を眺める彼の横顔が目に焼き付いて離れない。"
"私は、鶴丸が"
文字はそこで途切れている。
それ以上は空白で、日記ははらりと次に捲れた。
「あ……」
次の頁に、突然現れた走り書きの文字。
力加減を誤ったのか、文字が潰れて読み辛い。
にも拘わらず、何と書いているのか直ぐに分かった。
"庭で待つ"
今までのものとは明らかに異なる筆跡の短い言葉。
その内容は日々の出来事ではなく、持ち主に向けられた伝言。
「この字は……この、文字は……」
いっそう強く揺れた視界が、白に溶けていく。
***
桜の舞い散る庭で、白い衣の青年が佇んでいた。
ただじっと桜を見上げる背中に声を掛ける。
「は……は、っ、鶴丸……!」
慌てて駆けたせいで息も乱れて髪もぼさぼさで、気持ちだけが止まらない。
私に名を呼ばれ、青年が振り返る。
瞬間、強く吹いた風に煽られ思わず目を閉じた。
それも一瞬の事、すぐに開けた私の瞳に映るのは、振り返った鶴丸。
数多の花弁が舞い散る空間で、真っ白な衣をはためかせながら、金の目でこちらを見詰めている。
白い頬がほんのりと朱を注しているように見えるのは、きっと周りの桜の色を写したせいではない。
「主」
鶴丸が私を呼ぶ。
私はと言えば、彼の視線が私に向けられた途端に何も返せなくなってしまった。
「あ、の……日記、わ、私の」
何とか口をついて出たのはしどろもどろな言葉ばかり。
鶴丸は顔の前で手を合わせる。
「勝手に見たのは悪かった……謝る、すまん、この通りだ」
別に謝ってほしい訳ではない。訳ではないのだけれど、上手く言葉が出てこない。
まごつく私の前で、鶴丸が下げていた頭を持ち上げた。
「けど、お陰で……覚悟が決まった」
彼の瞳が私を映す。
その目に真っ直ぐ射貫かれて、息が出来ない。
私の肩に両手が置かれ、しっかりと留められた。
鶴丸が大きく息を吸い込む。
「好きだ」
唇から紡がれた言葉が、私の鼓膜を、心臓を、全身を貫く。
「君の事が好きだ。いつからなんざ覚えちゃいないが、気付いた時には好きだった。君は俺の知らない事を幾つも教えてくれた。新しい驚きを知る度に胸が躍って、心が熱くなる。君と共に居ると、俺は驚かされてばかりだ。だから、これからもずっと、共に居たい」
一言一言をそっと掬い上げるように、鶴丸は言葉を紡いでいく。
春風に遊ばれる髪も意に介さず、鶴丸は潤む瞳で私を見つめ続ける。
「なあ、君も……俺の事、好いてくれるかい?」
眉を下げて小さく頭を傾ける鶴丸。
懇願するように見詰めてくる様は不安げな子供の様、けれど私を離さない腕やその声はまぎれもなく大人の男性のもの。
受け取った言葉が胸の中で溢れて熱を帯び、私は頷くだけで精一杯だった。
「そうか……そうか」
噛み締めるように呟いた鶴丸が、ふにゃりと笑った。
その笑顔でさえ胸がきゅうと苦しくなってしまう。
鶴丸の手が、私の肩から背中へ滑る。
彼が一歩近づいて、腕の中にすっぽりと収められた。
「ありがとう、主。俺を此処に呼んでくれて。ありがとう……俺の事を好いてくれて」
耳元で紡がれる言葉。
全身で感じる温もりは、まぎれもなく彼の体温。
耳で感じる二人分の鼓動に涙腺が緩んでしまいそうで、彼の胸に顔を埋めてごまかした。
「……ずるい」
「そうだな、すまん……不甲斐ない」
彼が勝手に日記を見たという事実には変わりない。
負け惜しみで言った言葉に、鶴丸のばつの悪そうな声が返ってくる。
「でも、本当に良かった。嬉しいよ、人生で一番だ。これを幸せと言うんだろう」
「そうだね……私も嬉しい、人生で一番」
鶴丸の腕がきつくなって、くっついてしまう程抱き締められる。
幸せ。今この瞬間を表現するのに、ぴったりの言葉だ。
胸の内の熱が、優しい温みへと変わる。
内側の熱と外からの熱、二つが溶けあう心地よさにゆるり目蓋を閉じた。
そこへ、大きな風が吹いた。
周囲の木々が煽られて、さわさわと音を立てる。
枝を彩る花弁が離れ、一面にはらはらと降り注ぐ。
「わあ……」
体を離して、その光景に目を奪われた。
満開の桜、舞い散る花弁、その中に浮かぶ真白の君。
私の肩に乗ったひとひらに手を伸ばしそっと持ち上げるのがくすぐったくて、笑みがこぼれる。
私を見て、鶴丸もまた滲むような微笑を浮かべた。
「また、こうして桜を見よう」
「うん。来年も再来年も、貴方の隣で」
桜色の雨が降る。私達を包み込む。
一年の内で刹那の輝きと言えど、四季が巡るたび幾度も咲き誇るのだろう。
それを共に見に来よう。何度でも、何度でも。
***
春が過ぎ、夏が過ぎ、秋が過ぎ、そして――冬が訪れる。
冷たく張った空気、降り積もった雪が全ての音を飲み込む。
曇り空は光を通さず、明かりの消えた室内は薄暗い。
「……貴方を、柱に命じます」
気丈な声が響く。
指名された鶴丸は、じっと黙ったままだったが、やがて小さく息を漏らした。
「池の底で何百年、か。それは、ああ……退屈で死んでしまいそうだ」
落胆して、諦めの入り交じった声だった。
対する彼女は、沈痛な面持ちで黙り込んでいた。
「……ごめん」
が、堰を切ったように彼女の唇から嗚咽が漏れる。
「ごめん、ごめんなさい。貴方を閉じ込めたくなんてない。たった独りで、永遠になんて。本当は、私も――っ」
言葉は途中で途切れ、彼女は激しく咳き込んだ。
その背中を擦って、鶴丸は頭を振る。
「いいや、いいや、謝らないでくれ。君を責めたりはしない。なんたって、他でもない君の頼みだ。俺を俺として見てくれた君の為なら、喜んで柱となろう」
声色は柔らかく、彼女を労わっているのが伝わってくる。
彼女は――布団の上にいた。
起こした上半身は痩せ、肌の色は青白く、髪にも艶がない。
鶴丸は、咳の治まった彼女の体を支えながらゆっくりと布団に寝かせた。
「……だが、一つだけ頼みがある」
傍に胡坐を掻いた彼が、再び口を開く。
「必ず此処へ戻ってきてくれ。この本丸へ」
顔を歪め、苦し気に吐き出された願い。
寂しさを隠すように、鶴丸は笑った。
「約束してくれるなら、俺は何百年だって待ち続けるさ」
「約、束」
目を開いた彼女が、はっと息を吐く。
一瞬揺れた瞳、それを隠すようにぎゅっと目蓋を閉じる。
それから、やんわりとほほ笑んだ。
「そう、だね。約束しよう。また此処で、桜を見ようって言ったもの。来年は難しいけど……きっと必ず、戻ってくるから」
「ああ、約束だ」
布団の隙間から伸ばされた手を鶴丸が掴む。
小指と小指を絡めて、ひっそりと交わした。
***
白んだ世界が戻ってくる。
静謐の部屋、暗がりの中に置かれた日記は最後の頁が開いていた。
其処に挟まる一片の紙片が、役目を終えたように音も無く崩れ去る。
視界を覆っていた映像は止んだ。
けれど、幾つもの記憶が波のように押し寄せ続ける。
綺麗な頃の本丸、移り行く四季の庭、数多の武器を携えた男達、白い衣の青年……
これは日記に記された記録ではない、私の内側から呼び起こされているものだ。
これは、"私"の記憶だ。
「……、」
はっと息をつく。
溢れた記憶が、両の眼から零れ落ちた。
懐かしさと物悲しさに襲われて、胸がずきりと痛み出す。
私は――審神者だ。
審神者、だった。
かつてこの本丸の主に就任し、道半ばでその役目を終えた女。
……原因不明の病だった。
刀剣男士の顕現には審神者の霊力を使用する――業務遂行が困難と判断した当時の政府は、私に本丸閉鎖を命じた。
通常閉鎖の儀には審神者が立ち会い、刀剣男士の刀解と儀式完了の確認までを行う。
けれど直前に私の病状が悪化し、閉鎖の儀を自らの手で行う事が出来なかった。
政府から代行者が派遣されたと聞いたのは、重症患者用のベッドの上。
その後本丸がどうなったか終に分からないまま、私は"私"としての生を終えた。
そして――その魂は、今再びこの地にやってきた。
交わした小指は失われても、約束は消えていない。
彼は今も此処で待っている。
私は、その為に呼ばれたのだ。
「行かなきゃ……」
ふと、外から光が差す。
紅い光が障子全体を血の如く染め上げている。
その中央に影が一つ、ぽっかりと空いた穴のように映し出されていた。
人の影に酷似したそれは、歪に長く伸びている。
向こう側に、居る。
無音だった。雨音も聞こえない。
ただ影だけが、紅い光の中でゆらゆらと蠢いていた。
ゆっくりと立ち上がり、障子の傍へと歩み寄る。
そして、静かに引いた。
隙間から広がる景色は中庭のそれ。
縁側の先に並ぶ飛石、その更に向こう側には石に囲まれた池。
黒く淀んだ池の水が渦巻く中心――
高い下駄を立てて、水面に浮かんでいる。
風も無いのに揺れる袖。
ふわりと持ち上がる頭巾の下で、濡鴉の髪から雫が滴った。
「……」
その唇は俄かに震え、何事か呟いている。
暗黒の目の中央で紅い光が朧気に明滅している。
私は静かに庭へ降り、彼へ一歩ずつ歩み寄った。
「……」
彼は虚空を見詰め、言葉にならない声を紡ぎ続けている。
「――鶴丸」
名を呼ぶと、ぴたりと唇が止まった。
紅い光を宿した目がきょろりと私を見下ろす。
「ア……ル、ジ」
がさついた喉をひっかいた音。
戦慄く腕が伸ばされる。
真っ黒で、肉が溶け皮がぶら下がった腕。
私はそれを拒まず、、交差するように自身の腕を持ち上げた。
頭巾に覆われた鶴丸の頭、げっそりとした首に両手を伸ばす。
池を囲う石に乗り、つま先を立てる。
彼の指が私の頬を掠めた瞬間、伸ばした腕を背中に回す。
力を込めて引き寄せて、鶴丸を強く抱き締めた。
「ア……」
彼が声を上げた。
腕の中の冷たく濡れそぼった体に熱を奪われる。
それでも離すまいと固く握り締める。
目蓋を閉じると訪れる暗闇。
その奥に――滲み出す、記憶。
***
寒さの厳しい日だった。
冬の間降り積もった雪は解けていたが、今日は夕方まで冷たい雨が降っていた。
今は上がっているが、空には暗雲が立ち込め星一つ見えない。
明りの無い夜、本丸を松明のみが照らしていた。
廊下に立ち並ぶ刀剣男士達は、布を被った男の後ろを静かに歩く鶴丸に視線を向ける。
鶴丸はただ足元を注視したままで、一言も発さなかった。
やがて池のほとりに移動した鶴丸の前に、山姥切国広が現れた。
手に掲げた松明が鶴丸の足元を照らし、彼を先へと誘導する。
先にあるのは漆黒の塊。蓋の開かれた棺箱。
男に促され、鶴丸はその中へ足を入れた。
中に満たされた水の冷たさに一瞬動きを止めたが、直ぐに再開し黙々と体を沈めていく。
首まで浸かった鶴丸が見上げた先には、四角く切り取られた曇り空が見えた。
そこへ空を割くように現れた男の手が、棺の両側に備えられた扉を持ち上げる。
ゆっくりと狭まる視界、薄らぐ光。
両の扉が完全に合わさると、暗闇が訪れる。
音も遠のき、自身の微かな呼吸音だけが鼓膜を刺激する。
やがて伝わり出した振動が、棺を動かしている事を示した。
一際大きな揺れの後、がくんと傾く体。
揺れる水面、腕を伸ばしても直ぐに壁。
暗闇の中、上下の感覚もあやふやになり、何時しか頭までも水に浸かっていた。
冷たくなる体、苦しさは一瞬の間だけで、やがて感覚が希薄になる。
全身の境界が曖昧になり、眠るように意識が消えていく。
溶けていく。
棺も、水も、何もかもがひとつになって。
全てが遠ざかって――
"……"
――?
失った筈の聴覚が、何かを捉えた気がした。
目蓋の感覚もない筈だが、鶴丸はうっすらと目を開く。
"……"
眼前に、審神者が居た。
その姿を見間違うはずもなく、暗闇の中に浮かぶ朧げな主に、失い掛けた意識が動揺する。
――主?
どうして此処に、約束には早すぎる。戻ってきてくれたのか、けれど此処は水の底で……
消えかかった思考は鈍く、動くこともままならない鶴丸の前で、愛しい人は切なげに眉を下げた。
"……"
――え?
その唇が僅かに動いたかに見えたが、聞き取れなかった。
音が出ていたのか、そも鼓膜が動作していたのかも定かではない。
だがその唇の動きは、"ごめん"と言ったように見えて――
――!
瞬間、甲高い音がした。
感じ取ったのは、全身の皮膚が裂かれるような鋭い痛み。
彼の肉体に変化は無く、水底で揺蕩うばかり。
だのに、全身を貫く激痛に、僅かに残った意識がガンガンと殴られる。
広がった感覚が、全方位で悲鳴を上げている。
ひび割れる、壊れてしまう。このままでは。
激痛に悶えようにも、砕けようとしているのは自身の身体ではない。
破壊されているのは――
***
ところ変わって地上、静まった池の水面を廊下から見下ろす刀剣男士達が集まる中庭。
池の底をのぞき込んでいた男が顔を上げ、後方へ振り返った。
「儀式は終わった。後は柱が眠るのを待つだけだ。その後お前達は――」
ピシリ。
「――?」
その言葉の途中に聞こえた妙な音。
山姥切は眉を潜めて周囲を見渡す。
他の刀剣男士達も違和感を覚えたのか、怪訝そうにしている。
「今、何か感じなかったか?」
「急に体が重く……」
顎に指を当てた青江も口を開いた。
「これは……主の霊力が……」
ピシリ。
再び鳴った音。
出所を探っていた山姥切が、上を見上げた瞬間弾かれたように振り返った。
「お前達、今すぐ本体を取りに戻れ!」
ビキビキビキィ!!
吠えた刹那、屋敷中に轟く音、揺れる大地。
空に浮かび上がる巨大なひび。
「結界が壊れ――」
バキィィン!!
「が――」
「――!!」
一瞬の出来事だった。
空から落ちてきた巨大な塊が、覆面の男を押し潰した。
ゆらりと上体を起こしたのは屈強な肉体の大鬼。
突き立てた大太刀を持ち上げ肩に担ぐと、足元に広がった赤黒い泥も意に介さず、緩慢な動作で一歩を踏んだ。
「遡行軍……!!」
天に空いた大穴は、空を引き裂き広がっていく。
半円状に展開していた不可視の膜が砕け、四方から穢れた気配が侵入する。
囲まれている。この時を待ち構えていたのだ、敵は。
慌ただしく動き出した刀剣男士達。
穢れを禁忌とする儀式のため離していた武具……己の依代を求めて駆ける。
「くそ、どうして結界が破られた?!」
長髪を乱して走る和泉守兼定、その後を追う堀川国広が応える。
「分からない、けどあれは主さんの力で保っていた筈だよ!」
「なら、その主はどうなったんだ!!」
「それは――」
焦燥に駆られた和泉守が口走った疑問、だがそれに対する回答は最悪を予期させた。
堀川が口にするのを躊躇した一瞬、二人の前に雷が落ちる。
「!」
濛々と煙が立ち上り、現れたのは二体の"太刀"。
廊下を塞ぎ、ぎちぎちと歯を鳴らして威嚇する。
「ちぃ、もう少しだってのに……」
舌打ちした和泉守の前に進み出た堀川が腰を低く構えた。
「兼さん、ここは僕が」
相棒を先へと促す。
幾度となく相対した敵とは言え、今は丸腰だ。
鎧も付けていない状態では、ただ摩耗していくだけだ。
和泉守が無傷の状態で刀を入手できれば、少なくともこの"太刀"を下す事は出来るだろう。
狭い廊下、和泉守を庇いながらどれだけ動けるか。
だが和泉守はその場から動かず、堀川の肩を掴んだ。
「いいや、奴らの相手は俺だ。国広、お前ならあの隙間を抜けられるだろ。他の奴らの刀を持ってこい」
喧噪は四方から響いていた。既にそこら中に遡行軍が湧いている。
単にこの場を切り抜けるだけでは意味がない。
少しでも多くの刀剣男士達に刀を行き渡らせなければ押し切られてしまう。
「でも、それじゃあ兼さんが!」
「……おら、てめえの相手はこの俺だ。どっからでもかかってきやがれ!」
堀川の声を無視し、和泉守が両腕を大きく広げた。
二体の"太刀"の四つの目が和泉守を睨む。
軋む歯の隙間から唸り声を上げ、"太刀"が刀を持ち上げた。
「走れ国広ぉ!!」
「兼さん……!」
武器も無いまま、和泉守が"太刀"目掛けて突っ込む。
振り下ろされる刃を避け、掠めた長髪がばらばらと宙に散る。
胴を蹴り、腕を掴み、和泉守は必死の形相で二体の鬼を封じている。
「……っ」
堀川は強く唇を噛み、その脇を走り抜けた。
***
――なんだ。
――なんだこれは。何が起きている。
鶴丸は、今起きている出来事を視ていた。
水底に沈みながら、屋敷中の騒動が伝わってくる。
乱暴に蹴り破られた襖から、"打刀"の鬼が室内に侵入する。
部屋の隅で体を縮こまらせていたのは、怪我を負った五虎退だった。
獲物を見付けて舌なめずりした"打刀"――その頭上に影が差した。
高く跳躍した薬研藤四郎が振り下ろした短刀。
だが、それは"打刀"の皮膚に容易く弾かれた。
驚愕する薬研に"打刀"が刃を振り上げ――
――止めろ。
石切丸の振るった大太刀が猛然と"短刀"達を薙いだ。
だが、僅かに欠けただけの骨をうねらせ、"短刀"達は悠々と宙を泳ぐ。
守勢に転じた石切丸は、敵方の猛攻に眉をしかめた。
――止めろ。
返り血を浴びた"太刀"が、ずるずると廊下を進む。
その先は行き止まり、肩で大きく息をする一期一振が、その背に弟達を庇っている。
一期も弟も、満身創痍なのは一目瞭然。
次の矛先を定めた"太刀"が、足の爪をかちゃりと鳴らした。
――止めろ。
本丸に残った仲間達。
彼等は皆、力が十全に出ていないようだった。
本丸閉鎖の儀を終えると、審神者との接続が断たれ、やがて彼等の顕現は解ける。
儀式は正に終わる直前だった。
直前に、審神者の力が消えた。
慟哭が聞こえる、憤怒が聞こえる。
審神者の力を受けた刀剣男士達、間際の思念が大地を通して鶴丸に流れ込む。
斃れる仲間達、流れる紅、阿鼻叫喚の地獄。
死と怨嗟に蝕まれ、鶴丸の躰を黒く染めていく。
――止めろ。
穢れていく、かけがえのない場所が。
愛した人と想い出を紡いだ本丸が。
大切なものが失われていく。それなのに、どうして自分は何もできない。
藻掻いても動かない。叫んでも聞こえない。
水底からでは、伸ばした腕も届かない。
無力感、焦燥感、喪失感、あらゆる感情が彼の中に渦を巻き、怨嗟と混ざりどろどろと変質していく。
漏れ出た黒が水の中へ溶け出し、広がり、生物のようにうねり出す。
壊され続ける本丸の中、止まらない死の恐怖が、激痛が、絶望が押し寄せて鶴丸を飲み込んでいく。
"痛い"、"怖い"、"苦しい"、"悔しい"、"酷い"、"恐ろしい"、"悲しい"……
――止めろ、止めろ、止めてくれ!
"死にたく、ない"
――あ。
遥か頭上に揺蕩う水面、その更に向こう。
厚い雲の上、遠い空の彼方。
降り注ぐ桜雨の中、頬を綻ばせる女性。
――主。
――俺は、君と共に……
――約束を――
浮かぶ姿に、手を伸ばした。
そして――弾けた。
ザバァァ!!!
それは楔の如く、守りを失った天を貫く。
大地を揺るがす轟音と共に、黒い柱が本丸の中心に立ち上がった。
降り注ぐ雨は濁った水。大地に染み、建物に染み、怨嗟の声を膨らませる。
渦を巻いた水柱が、大蛇のように鎌首を擡げた。
――もう、自分と本丸の区別も付かなかった。
激情に身を任せ、鶴丸は"己"を振るった。
彼の手足となった黒水は、瞬く間に屋敷中に広がる。
遡行軍は濁流に飲まれて消えた。草木は枯れ、生物は死に絶え、かつての仲間達は理から外れた存在となった。
それでも黒水は留まる事を知らず、屋敷の隅々まで浸し続けた。
消えない、終わらない、止まらない。
治まらない激情、生まれ続ける怨嗟に飲まれ、全てが黒に埋め尽くされていく。
不完全に終わった儀式は、鶴丸に眠りを与えない。
落ちる、墜ちる、堕ち続ける。
仄暗い水底へ、果ての無い暗黒の渦へ。
――……
けれど、一つだけ。
身を焼く炎に包まれても、長い時を経ても、消えないものがあった。
遠い遠い空の向こうに浮かぶ小さな光、それは――
――約束。
――それだけが、俺を此処に留めている。
――だから、早く。
――早く、来てくれ――
***
「……っ……ぅ」
私の頬を濡らすのは、閉じた目蓋の隙間から溢れた涙。
はらはらと零れ落ちるそれを拭おうともせず、ただ鶴丸を抱き締める。
「ごめん、ごめん……ずっと、ずっと待たせて、ごめん」
鶴丸は無言だった。
泣きじゃくる私の頭上で、彼もまた静かに涙を流していた。
透明な液体が落ちる度、彼の衣が白へと変わる。
肌から淀みが失せ、穢れが祓われていく。
嗚咽を飲み込み、彼を見上げる。
彼の潤んだ瞳から、紅の明滅は失せていた。
「鶴丸……約束を、果たしに来た」
瞬間、足元に生まれた波紋。
凛と空を震わせ、屋敷中へと広がる。
黒が白へ、穢れが禊がれ、時が動き出す。
永遠の冬が終わりを告げ、春が訪れる。
不意に、鶴丸の腕が私の背中へ回される。
ぎゅうと抱き締め、私の肩に頭を埋めた。
「主……主……!」
震える声で、そう泣いた。
「ずっと、ずっと待っていた。自分が何者かも分からなくなって、懺悔の理由も忘れて、卑しくも外へ飛び立とうと求める程……」
冷たい空を溶かすように、柔らかな日差しが二人に降りた。
暖かな空気が世界に色を取り戻していく。
空の色を写す水面、若草の茂る庭、池のほとりに蘇った桜が薄紅色を映す。
何処からか響く鳥の歌声、花の匂いを運ぶ穏やかなそよ風。
そっと肩から頭が離れた。
私の目の前に現れた鶴丸の顔は、真白な肌と白銀の髪をしていた。
衣は白に蘇り、細い鎖が小さく揺れる。
潤む金の瞳が、きゅうと細められた。
「けど、ああ……やっと、会えた」
涙を零し続けながら、鶴丸は笑った。
私は顔はしわくちゃになっているのに、鶴丸は何処までも美しい。
鶴丸が、居る。
私の愛したひとが此処に居る。
金の瞳に、私が映っている。
生を終えて、別の人間に生まれ変わって、悠久の時の果てに再会した。
胸の内にこみ上げる感情が、涙を止めてくれない。
どれだけの苦労を掛けただろうか。
どれだけの絶望を、苦しみを感じさせてしまっただろうか。
不甲斐なさと申し訳なさに唇を噛み締める。
けれど、やっと会えた。
これから取り戻そう。
失ったものも、壊れてしまったものも。
長い時を掛けてでも、貴方と共に。
「鶴丸……これからは共に居よう。もう貴方を独りにしない」
その目を見上げたまま、彼の腕を引く。
しかし鶴丸は目蓋を閉じて、小さく頭を振った。
「いいや、この地は穢れてしまった……俺が穢してしまったんだ、仲間も本丸も巻き込んで」
悲し気な声だった。
「鶴丸……?」
桜が散る。
風に乗って無数の花弁が宙を舞い、枝には若草色が茂る。
視界を覆う程の花吹雪の中、私からそっと体を離した鶴丸が、ゆっくりと後ろを向いた。
「だから、俺は俺の務めを果たす。穢れは俺が持って行く」
歩き出す鶴丸。
その足跡を隠すように水面に浮かび上がる緑。
幾つもの大きな葉を広げ、その隙間から茎が伸びる。
先端に付いた包まった蕾が解け、淡い色の花弁が開いた。
池の中心で立ち止まった鶴丸が、こちらを振り返る。
強くなった陽の光を受けて、鶴丸がきらきらと輝いた。
「約束は果たされた……それで、十分だ」
水面に広がる睡蓮の花が、鶴丸の足元を埋め尽くす。
彼が何をしようとしているのか、気付いた時には既に遅く。
「そんな、鶴丸、私も一緒に……!」
水面に浮かぶ体は、足を動かしても進まない。
彼に向かって必死に手を伸ばしても、鶴丸は首を振るだけだった。
「……君と共に、生きたかった」
少し俯いた彼の顔に影が差し、仄かに寂しさを滲ませる。
「君は、生きてくれ」
そう言った彼は目蓋を上げ、真っすぐに此方を見た。
光の中で、めいいっぱいの笑顔を浮かべて。
初夏の日差しの中、睡蓮の中心に浮かぶ鶴丸。
白い肌、細い首筋、繊細な白銀の髪。
長い目蓋に縁取られた金の目が細められ、持ち上がった頬がほんのりと血の色を透かす。
白い衣がはためいて、金の鎖がしゃらりと澄んだ音を紡いだ。
水面に反射する光が、鶴丸をきらきらと彩る。
うつくしい、ひと。
瞬間、鶴丸の足元に穴が開く。
鶴丸が、黒い水と共に穴の中へと飲まれていく。
私の足元でも水が流れ、しかし私の足は宙を踏むばかり。
「そんな……ずっとずっと待ってくれていたのに、また貴方は一人で行くの?!」
消える。
日差しの向こうに、白い姿が消えていく。
本丸中に風が吹き、濁りが穴の中へと流れる。
睡蓮の花が揺れる水面、開いた穴が徐々に広がって――
「待って、鶴丸……待って――」
***
「鶴丸!!」
自分の大声で我に返った。
上半身を起こして、腕を伸ばした格好で固まっていた。
濡れた土の匂い、青々と茂る木々の隙間から落ちる光が、水滴に反射して煌めいた。
「……、……」
気付けば、山の中にいた。
何処からか私を呼ぶ捜索隊の声。
――雨は、止んでいた。
2019.05.18