刀達の記憶 -前-
「閉鎖の儀――」
零れ落ちた言葉は山姥切国広のものだった。
ぼろ布の下で俄かに開かれた瞳が揺れている。
広間に集められた刀剣男士――山姥切を筆頭として座する彼等の眼前には、スーツ姿の男と、装束を纏い布で面を隠した男。
スーツの男が手にした書類を読み上げると、刀剣男士達の間にどよめきが起こった。
「これからこの本丸は速やかに儀式の準備を行います。執行は三日後。審神者の代理はこちらの者が務めます」
指名された装束の男は微動だにしなかった。
「お待ちください!審神者は……我らの主は戻られないのですか!?」
一際大きな声で制したのは一期一振。
正座から片膝を立て、身を乗り出して問う。
「審神者本人による執行は困難と判断しました。代行についても彼女から承諾を得ています」
スーツの男に眉一つ動かさず淡々と返され、一期は押し黙るしかなかった。
その横で勢い良く立ち上がったのは今剣。
大きな瞳を揺らして懸命に訴える。
「やくそくしました、あるじさまは、かならずかえってくると!だからぼくは、あるじさまをまちます!」
その訴えを機に、次々に声を上げる刀剣男士達。
「そうだ、主は帰ってくる!」
「主がいないまま終わるなんて……」
「いや、主が戻ってくれば閉鎖の儀なんて必要ない」
盛り上がる室内。
数名が立ち上がりスーツの男へ抗議する。
僅かに眉を寄せた男は、大きく咳払いをした。
一瞬小さくなった騒めきの合間に、厳しい言葉を突きつける。
「閉鎖の儀は審神者の最後の務め、彼女も儀式を執行するつもりでした。だというのに貴方がたは、審神者の最後の意志を無視するつもりですか?」
しんと静まった広間。
唇を噛んで俯く者、瞳を潤ませる者……男士達の間に悲痛な空気が漂う。
そこへ、軽い調子の言葉が放り込まれた。
「いいじゃないか」
それは最後列に座した青年……鶴丸の言葉だった。
その一声に、部屋中の視線が集まる。
「鶴丸殿……」
一期は驚愕に目を開き、山姥切は言葉こそ発しないが訝しんだ。
この本丸に主と鶴丸の仲を知らない者はいない。
だというのに、彼の纏う空気はこの場の誰よりも静かだった。
「主の最後の務めとあらば、果たすのが俺達の使命だろう?柱は俺が任されよう」
だが、鶴丸の表情を見て全員が悟った。
「なあに、俺は墓に入っていた事もある。水底に沈むくらい訳ないさ」
鶴丸は覚悟している。
主との別れを済ませているのだと。
それ以降、抗議を続ける刀剣男士はいなかった。
***
柱役として狭苦しい部屋に隔離され、鶴丸は三日間を過ごした。
部屋の中に持ち込んだのは自身の日記帳と筆。
最後の文字を書き連ねて、ふと手元のそれを見下ろした。
ぱらぱらと無造作に頁を捲ると、脳裏に浮かぶ記憶の数々。
人間の体を与えられてから、自身は様々な驚きを体験した。
瞳に映す色も、鼻で吸い込む匂いも、耳を震わす音も、ただの刀だった時には味わえないものばかりだ。
振るわれるだけの道具ではなく、一人の人間として扱われた。心を通わせる事も出来た。
目蓋を落として過去を噛み締める。
様々な出来事があったが、総合すると恵まれた人生だった。
ともすれば、失う事を悔やんでしまう程に。
――この日記はこの部屋に残して行こう。
百年後、或いはそれ以上後、再びこの屋敷に誰かがやってきて、何かの拍子にこの部屋の扉を開いた時、これを見付けるのだろう。
願うなら、それが主であるように。
ゴーン……
屋敷全体に鐘の音が響く。
それは開始の合図。
閉鎖の儀が、始まる。
幾つかの足音が、この部屋に近付いてくる。
日記を閉じて、鶴丸は立ち上がった。
狭い部屋、振り向けば眼前に背の低い扉がある。
外の足音が止まり、閂の擦れる音が鳴る。
そのひと時、一度だけ振り返った鶴丸が、日記に向けてぽつりと漏らした。
「主……約束だからな」
軋む音、開かれる扉。
現れたのは、布を被った表情の見えない男。
「時間だ、鶴丸国永」
ゴーン……
それは、悪夢の始まりの音。
そして――
――結界は破られる――
***
山姥切は、煽られた長い前髪の隙間から、眼前を阻む巨躯を見上げた。
"大太刀"から伝わる圧はこれまでのどの敵よりも高い。
真っ先に人間……審神者同様刀剣男士に力を与える存在を狙った時間遡行軍。
確実に滅ぼすつもりなのだと、焼かれるような肌の痛みが告げる。
小山の如く聳え立っていた"大太刀"が、不意にぐんと縮んだ瞬間。
「ッ!」
爆発。
巨体が弾丸のように飛び、山姥切に迫る。
乱暴に薙いだ凶刃は、地面に張り付いた山姥切の頭上を掠めた。
乱れた空気が外套を引き上げ、それだけで山姥切の体が浮きかける。
食いしばってしがみ付く山姥切。
素早く顔を上げると、四肢で地面を叩いて飛び退った。
その直後、彼が居た場所に振り下ろされた太刀が地面を抉る。
一刀が嵐の如し、寸でのところで躱し続ける山姥切だが、徐々に動きが乱れ始める。
「……っ」
身体が重い。
肌が粟立つ感覚というのも久方ぶりだ。
思えば、審神者の元で出陣を繰り返していたのは随分と前になる。
だとしても、彼女が本丸を去った後も鍛錬を怠っていた訳ではない。
身体が動かない理由は別にある。
それは――
「!」
一瞬、ほんの僅か。
左足首が力を失った。
"大太刀"が振り上げた刃を避けようと、地面を踏みしめた瞬間だった。
崩れる体、傾く視界。
刃が迫り――
くぐもった鈍い音。
水風船が破裂するような衝撃。
斬るよりも叩き伏せることを目的とした一撃は、肉を潰して吹き飛ばした。
地面を擦った山姥切の体が、小石の敷かれた庭に長い跡を残す。
「……あ」
震える喉が、僅かに声を漏らす。
両手にべったりと付いた紅が、傷の深さを教えた。
「な、んで」
震える腕を、腹部に運ぶ。
触れたのは己の腹ではなく、華奢な肩。
乱れた黒髪、小さく上下する胸、そして真っ赤に染まった腹。
其処には――堀川国広がいた。
大きな青い瞳で山姥切を見上げる。
「きょう、だい、怪我は、ない?」
「な、んで……俺を」
山姥切の腕の中で、堀川は浅い呼吸を繰り返す。
山姥切が隙を付かれた一瞬、"大太刀"の刃が届く直前……ほんの僅かな隙間に、堀川が滑り込んでいた。
"大太刀"の一撃は二人を吹き飛ばし、直撃を食らった堀川の身体を砕いた。
「駆け回って、ぎりぎりだったけど……間に合って、よかっ、た」
唇から血を零し、堀川は弱く微笑む。
「きょうだいで、最後だ……後は、頼む、ね」
力無い表情に、山姥切が必死に声を掛ける。
「駄目だ兄弟、目を閉じるな!俺なんかを庇って逝くな!」
だがその声は届かず。
堀川の頭が、かくんと項垂れた。
四肢の力が抜け、人形のように垂れ下がる。
「……!」
山姥切は頭巾の下で目を見開き、腕の中の兄弟を見下ろした。
堀川の目蓋は重く閉じられ、二度と開かなかった。
じゃり。
小石を踏み締める音。
二人の前に、大きな脚が現れる。
俯いたまま動かない山姥切。
"大太刀"は、無慈悲にもその刃を高く掲げた。
「――ぉお!!」
振り下ろされる刹那、白刃が煌めく。
堀川を下ろした山姥切の手には、己が依代の打刀が握られていた。
予想外だったのか、"大太刀"が僅かに仰け反る。
力を失った彼の一太刀は、"大太刀"の皮膚を僅かに裂いただけだった。
だが山姥切はその隙を逃しはしない。
「はあぁ!!」
全霊を持って連撃を浴びせる。
思うように動かない腕。
振るう中でも、みるみるうちに力を失っていくのを実感した。
猛攻を浴びせるが、"大太刀"はろくに傷付いていない。
俄かにその巨躯が震え――次の瞬間、大鬼が強引に腕を振るった。
「ぐぁ……!」
全身が千切れそうな暴風を身に受け、山姥切の服が破れ皮膚が裂ける。
目深に被っていた頭巾が飛び、金糸の髪が露わになった。
宙に投げ出された体、それ目掛けて"大太刀"が刃を引く。
だが――戦闘の最中、彼等は屋敷の傍まで移動していた。
山姥切が吹き飛ばされた方角には屋敷の縁側。
体を捻り、柱を蹴る。
反転した山姥切は、"大太刀"が腕を振るう前に間合いに詰めた。
「斬る!!」
両手で握った刀を胴体に叩きつける。
衝撃に、閃光が走った。
そして……先の連撃が効いたか、"大太刀"はよろよろと数歩下がる。
がくんと大きく傾いた後、その巨躯は後ろに倒れた。
重い音と、巻き上がる砂埃。
動かなくなった巨躯が、末端からぼろぼろと綻んでいく。
「は……はぁ……」
それを見届けて、山姥切は膝を付く。
全身は赤く染まり、腕に力は入らず、地面に刀を突き立てて何とか支えている状態だった。
消え逝く"大太刀"の傍らに、冷たくなった堀川が横たわっている。
「……っ」
せめて彼の傍に行きたかったが、最早一歩も動く力が無かった。
体が重い、視界も狭い、遠いところで喧噪が続いている。
このままでは――
山姥切は顔を上げる。縋るように、祈るように。
破れた結界の跡形も無くなった空には、ただ暗雲が広がっているだけだった。
そこへ――
ザバアァァ!!!
「!?」
不意に荒れた水の音。
池から立ち上った巨大な水柱が天を突いた。
茫然と見上げる山姥切の視界の中、大蛇の如くうねったそれが津波となって押し寄せる。
避ける間も無く、山姥切の視界は漆黒に飲み込まれた。
***
「これは……」
僅かに口を開いた太郎太刀。
足元を濡らした黒水に、太郎太刀は眉を顰める。
見下ろせば、足袋を染めた黒が皮膚へ侵食し、じわじわと足首から上ってきていた。
喧噪は過ぎ去り、代わりに耳を侵すのは途切れない繰言。
"失わせない、失いたくない、終わらせない、終わりたくない、許さない、許さない、許さない、許さない、許さない……"
脳を埋め尽くさんばかりの呪詛。
延々と続く羅列に耳を傾けるのを止め、太郎太刀は目蓋を閉じる。
「――ここまでのようですね。出来うるならば、最期まで現世で供をしたかったのですが」
誰にでもなく告げて、依代の大太刀を握り締めた。
力の入らない腕では、自身を持ち上げる事すらままならない。
皮肉気に笑いながら、太郎太刀は刀を掲げた。
「一足先に還るとしましょう……」
自身の真上に運んだ刃。
重量に任せ、その腕を下ろす。
――一瞬の後、大太刀は砕け散った。
破片は塵も残さず、夜闇に消えた。
***
「何故、こんなことに……」
愕然と佇む一期の目に映るのは、廊下に斃れた弟達。
全身は傷に塗れ、握り締めた刀も欠けていた。
「ああ……乱、前田……目を開けてくれ!」
小さな体を掻き抱いて絶望を叫んでも、彼等の目蓋は持ち上がらない。
脱力した体から、みるみる内に温もりが失われていく。
――そこへ、背後から音も無く押し寄せる黒泥。
「!?」
ただならぬ気配を感じ、一期は腕に抱えた乱ごと立ち上がった。
直後、廊下を埋めるように伸びた泥が、一期の足首を侵す。
抱えられなかった短刀達の体の上を這い、泥は広がっていく。
「一体これは……」
どろりと濁った流体は、一目見て良くないものだと直感した。
正体も出所も分からないが、あれがやってきた方角は、妙な静けさに包まれている。
「ッ!?」
突然一期の体ががくんと傾いた。
膝を付いた拍子に腕の中の弟が飛び出し、黒水の上に投げ出された。
「乱……く、ぅ!」
激痛。
足首を引きちぎられるような感覚と、焼けるような熱を感じた。
だがそれは一瞬の後に失われる。
痛みが引いた――否、足首より下の感覚が、無い。
「な、にが……!」
振り返った一期の視界に、黒く染まった自身の足首が映った。
衣服も何をも巻き込んで、漆黒が体を這い上ってくる。
泥の付着した手の平も黒く変色していく。
見れば、廊下に斃れた弟達も頭の上まで黒に染まっていた。
"許さない、許さない、許さない……"
耳の奥で繰り返される呪詛。
無念の言葉が廊下中に染み渡る。
そして――奇妙な事が起こった。
漆黒に染まった弟の体が、身震いしたのだ。
驚愕に目を見開く一期。
認めたくはなかったが、確かに彼等は生を終えていた。
脈を失い冷たくなった体を廊下に横たえていた筈だ。
だが、彼の眼前で、前田が手をついた。
べちゃり、べちゃりと音を立て、その上体を持ち上げる。
「な――」
その様を見て一期の心に宿ったのは、安堵や歓喜ではなかった。
弟から以前のような気配を感じない。
その後ろ姿から、ただひやりとした空気が流れてくるばかりだ。
「前、田」
名を呼ばれ、前田がゆっくりと振り返る。
その顔は、だらりと空いた口、何も映さぬ虚空の目。
「――!」
あれは最早、元の前田ではない。理性を失った屍だった。
一期の足元で、乱もまたわなわなと震え出す。
「乱……」
長い髪を乱雑に垂らして、乱が立ち上がる。
戦場でさえ自身の格好に気を使っていた弟が、乱れた衣服もそのままにだらんと腕を垂らしている。
「こんな、こんな事が……!」
身体が冷たい。否、冷たさすら感じない。
自身の体を這っていた黒が、腰まで届いていた。
黒を通して、体中を呪詛が這う。
気を抜けば引っ張られてしまいそうな強い思念。
これが全身を侵せばどうなるか……一期の頬を汗が伝う。
だが、弟達が居る。
虚ろな視線を彷徨わせて、ふらふらと歩き始める憐れな子等が。
不安定に揺れながら伸ばした腕は、誰かを求めているように見えた。
「……っ」
置いてはいけない、大事な弟達を。
この本丸には数多の家族がいる。
彼等を見捨ててはいけない――!
「一期殿」
不意に背後から名を呼ばれた。
感覚を失いつつある体で何とか振り返ると、廊下の中央に大股で立つ人物がいた。
裂かれた衣服は赤に塗れ、頭の宝冠は取り払われ、全身に激しい切り合いの痕が垣間見える。
山伏国広……この本丸の一振りだ。
黒水の方角からやってきた彼もまた、下半身が黒く染まっていた。
顔から血の気が失せ呼吸も乱れているが、彼の目は未だ生気に満ちていた。
状況に戸惑う一期に、山伏は迷い無い足取りで近付く。
「山伏殿――」
「御免」
山伏は、一期の耳元で短い断りを告げた。
「……な、?」
鈍い衝撃が一期を貫いた。
俯けば、自身の腹部を深々と貫く山伏の太刀。
じわりと広がる紅い染みが、黒よりも早く一期の体温を奪っていく。
「このままではお主も取り込まれよう。その前に現世から離れるのだ」
突き立てた刀を握り締め、山伏は冷静に諭す。
「しかし、弟達、が」
一期がごぼりと口から紅い泡を吐く。
体に力が入らず、あえなく山伏にもたれ掛かった。
揺れる瞳が色を失う。暗くなる視界の中で、必死に弟を探す。
そんな一期に、山伏はからりと笑った。
「なあに、心配めされるな。あれの中には拙僧の兄弟が居る。弟殿等も必ず救ってくれようぞ」
黒に染まり色を失っていく本丸の中で、その笑顔は眩しい程に快活だ。
心の底から信じているのだ、こんな状況でも。
誰よりも長くこの本丸に在った兄弟刀の事を。
その光を映して、一期の瞳は震えを止めた。
目蓋を伏せ、残った力で山伏の肩を抱く。
「……そう、ですね……私は……先に……弟達を、頼みます――」
――山姥切殿……
そう告げたきり、一期は動かなくなった。
彼の太刀にひびが走り、粉々に砕け散る。
停止した肉体もまた、淡い光となって消えた。
それを見届けて、山伏はその場にどかりと腰を下ろす。
廊下には虚ろな短刀達が数人、消えた粒子を探すように宙を仰いだ。
「兄上殿は先に逝ったぞ。拙僧ではお主等は救えぬ……拙僧も未だ修行の足りぬ身であった」
山伏は、一度太刀を脇に置いて、ゆっくりと呼吸をする。
侵食する黒は胸元まで登り、息を吸い込む感覚も薄まっていた。
瞳を閉じて、痛みを、内側を這う呪詛を退ける。
全ての音を遠ざけ、山伏はすうと目を開けた。
堂々と太刀を持ち上げ、刃を己の首に当てる。
「後は頼んだぞ、兄弟」
この場に居ない打刀に言葉を遺し、刃を引いた。
***
分厚い雲に覆われた空の下、荒れ果てた本丸が在った。
襖は破れ、家屋は倒され、柱や壁には幾つもの刀傷が刻まれている。
其処に生者の気配はなく。
屋敷中に溢れていた喧噪は消え、代わりに這いずるような呪詛が満ちていた。
ぽつり、漆黒の瓦に水滴が跳ねる。
雨水を溜め込んだ空が耐えかねて零した一滴は、それを契機にぽつぽつと降り落ち、やがて無数の粒が本丸をけぶらせた。
凄惨な痕も、悔恨の骸も、全てを隠すように。
悲しみで包み込むように。
2019.06.23