刀達の記憶 -後-
落ちる、墜ちる、堕ち続ける。
仄暗い水底へ、果ての無い暗黒の渦へ。
己を構成していたものは水中へ溶け消えた。
記憶は薄れ、感情は濁り、残ったのはこの身を焼く漆黒の炎。
事の始まりも忘れ、燃えて、溶けて、沈んでいく。
そして……漆黒の中にただ一つ、灯り続ける光。
"約束"。
それは誰との何だったか、もう思い出せない。
ただ"約束"があった事だけが残っているが、いつかそれすらも消えてしまう。
嗚呼、だから、どうか。
この想いが消えてしまわぬ内に――
***
幾許かの月日が経った。
停止した時の中に取り残された本丸では正確な時間は分からないが、激しく傷み朽ちた屋敷は、長年雨風にさらされ続けた事を知らせている。
あの日からずっと、雨が降り続いていた。
屋敷を荒らした遡行軍は濁流に飲まれて消えた。
鶴丸の無念が敵に死を与えたのだ。
だが行き過ぎた感情は、刀剣男士達に不死を与えた。
妄執に支配され、生を終えた肉体を無理矢理動かすだけの存在。
長い年月の果て、やがて鬼へと変じた身体。
それでも生前の行動が染みついているのか、刀剣男士達は無意識に最期の日を繰り返している。
主が戻ってきてはいないかと、へし切長谷部が玄関へやってきた。
それに釣られるように、今剣が駆けてくる。
誰もいない玄関を見て、再び廊下を戻る二人。
数刻後には、再び此処にやってくるのだろう。
彼等の後ろ姿を見送る影一つ。
廊下の壁に背中を預けた山姥切は、黒く染まった頭巾を目深に被った。
肌も髪も黒く濁っているが、山姥切の外形はかつてのものに近い。
審神者の加護を誰よりも長く受けていたからだろうか。
今はまだ、山姥切国広の自我を自覚出来ている。
しかし、屋敷の瘴気は今も濃度を増し続け、日に日に意識を失う時間が増えていた。
じわじわと侵食され、いずれは己も――
「大丈夫かい?」
考え込む山姥切に、曲がり角の向こうから声が掛かった。
深緑の長髪、濃紺のジャージ姿の青年。
問題ないと小さく頷く山姥切をじっと見詰め、彼は小さく頷いた。
「ならいいんだ」
にっかり青江――その外見こそ以前と変わらないが、その内側は他の刀剣男士同様呪いに侵されている。
本人が言うには、"内側に無理矢理押しとどめているだけで、いずれは溢れてしまう"状態らしい。
あの日――閉鎖の儀が失敗した直後、黒水に飲まれた山姥切。
再び意識を取り戻した時、本丸の様相は様変わりしていた。
屋内の至る所に泥がこびり付き、家具は損壊し、何処へ行っても生者の気配は無く、代わりに蠢くのは亡者となった仲間達。
鏡に映った己の姿に絶望しかけたその時、青江に遭遇した。
唯一変わらぬ姿の仲間は、動転した山姥切に冷静に語りかけてきた。
状況を確かめ、山姥切の自我を認めると、青江は彼ににっかりと笑いかけた。
それから顔を合わせる度、まだ自己を保っているか互いに確かめている。
地獄へと変じた本丸に、唯一残っていた男。
この男が居なければ、己は既に狂っていただろうと山姥切は思い返す。
「それじゃあ、例の"彼"の事だけど――」
青江が語り始めたのは、ある存在について。
それは、同じ時を繰り返すばかりだった本丸に、突然起こった変化点。
今に至るまで、山姥切と青江は仲間達を救う手立てを探り続けていた。
刀で斬っても彼等の肉体は再生する。
肉体を破壊するだけでは、呪縛から解放出来ない。
屋敷内に残ったあらゆる物を使ってみたが、呪いを解く方法は見付からなかった。
そんな中、本丸内に新たな存在が生まれたのを感じた。
鶴丸が儀式の直前まで幽閉されていた部屋の中だ。
本丸と一体となった鶴丸、そして彼に飲まれた刀剣男士達もまた、本丸の変化をある程度感じ取れるようになっていた――それを自覚しているのはこの場に居る二振りのみだが。
山姥切の目は以前のように機能せず、物体や光を映すことよりも、魂を映す事に長けるようになっていた。
だからこそ、壁を隔てた小部屋の中も"視る"ことが出来た。
――それを初めて"視た"時の衝撃は、まだ強く残っている。
小さく、無垢で、何にも染まっていない。
鶴丸国永と瓜二つの魂。
その魂は肉体を得ていた。
それこそ鶴丸国永と瓜二つの青年の姿を。
だが鶴丸は百年前に水底に沈んでいる。
その意識が屋敷全土に侵食しているからこそ、山姥切達は此処に在るのだ。
「"彼"は、彼そのものではないようだね。あの魂は、部屋の中にあった物に宿ったみたいだ」
「……」
「そうだね……"彼"は、彼の日記なんだろう」
小部屋にあったのは鶴丸の日記だ。
百年余りの月日を経て、日記にも魂が宿り付喪神となった。
だが通常刀剣男士は、依代に卸した魂に審神者の霊力をもって現世に顕現する。
魂だけ宿しても、肉体を得る事はない。
それがどういう訳か日記の魂は、鶴丸国永と瓜二つの肉体を得ている。
「憶測だけれど……この本丸に満ちる彼の呪詛が、"彼"の肉体を編んだのかもね」
同じ形の魂と、本丸中に溢れた濃い瘴気。
特殊な条件が重なり、奇跡に近い顕現を果たした。
恐らくは、この本丸から離れれば綻びる脆弱な肉体だろう。
それでも、利用しない手はない。
鶴丸国永による呪いならば、同じ"鶴丸国永"の手で断ち切れる可能性がある。
「今はまだ目覚めていないようだけれど、"彼"を使えば――」
その時。
「……ッ」
ぴくりと跳ねた山姥切の指先。
言葉を途切れさせた青江も、小さく息を吸った。
二人同時に感じたのは、新たな異変――本丸の敷地内に何者かが侵入した。
今の本丸は混沌と化し、現世から隔離されている。
そのような場所に足を踏み入れるのは容易ではない。
内側から招き入れでもしない限り、此処に辿り着くことさえ出来ないだろう。
そんな場所に現れたのは、いったい何者か。
青江と視線を交わし、山姥切は廊下の窓から注意深く外を探った。
荒れた庭、玄関へと続く石畳の上。人影が一つ、ふらふらと此方へ近付いてくる。
雨に濡れた体、覚束無い足取り……ゆっくりと大きくなった影が、雨の靄から抜け出す。
「――」
瞬間、一切の思考が停止した。
山姥切の隣で、青江も息を飲む。
その魂は、瓜二つだった。
遠く、遠い所へ行ってしまった人に。
最期まで皆が焦がれた、この本丸の、審神者に。
彼女が屋敷の入口まで辿り着くと、玄関扉はひとりでに開いた。
式台に近付いたところで、彼女は糸が切れたように倒れる。
支える事も出来ずただ見下ろす山姥切、その身体がわなわなと震え出す。
見開いた目が、彼女を凝視していた。
頭が揺さぶられる。
身体の奥底から何かが沸き立つ。
欲しい、目の前に居るものが。
待ち焦がれたものが、手を伸ばせばすぐ届く場所に。
震える腕が持ち上がり、渇いた喉が喘ぐ。
指先が、彼女に向かって伸びて――
――否。
違う。
この歓喜は、違う。
持ち上がった腕を抑えた山姥切。
その傍らで、青江が唾を飲み込み言葉を紡ぐ。
「……"彼"が、呼び寄せたのか」
そうだ、この感情は自身のものではない。
懐かしいのは事実だ、望んでいたのも同じく。
しかしそれよりも疑問の方が大きい。
何故ならあの時結界は消えたのだ。
審神者の力で働いた結界が消えた時点で、彼女がどうなったかの答えは出ている。
彼女の魂は理に従い、輪廻へと旅立って行ったのだ。
例え何十年待っても彼女は戻らないのだと、山姥切は既に悟っていた。
ならば、この感情は。
浮き上がる程の歓喜、痺れる程の望郷、溶かす程の狂気。
これは――自身を侵す呪いから伝わってくるものだ。
水底に沈んでもなお、鶴丸国永は諦めていない。
「……ッ」
ぐんと意識が引っ張られ、山姥切は敢え無く膝を付いた。
ぐらぐらと視界が揺れる。
彼女を瞳に映す度、鶴丸の呪いが大きく波打つ。
山姥切の内側を巡る呪いが、急速に濃度を増していた。
「……一先ず離れよう。あちらにとっても、君のその姿は刺激的すぎる」
ままならない山姥切の肩を支える青江。彼もまた、額に汗を滲ませている。
倒れた彼女を残したまま、二人は体を引き摺るようにしてその場を離れた。
***
彼女から姿が見えない場所まで移動すると、山姥切の容態は落ち着いた。
廊下の暗がりに身を預け、山姥切は彼女の姿を思い返す。
審神者と同じ魂を持った人物。
審神者が転生したのか、それとも同じ形をした別人なのか。
どちらかは分からないが、あまりにも瓜二つだ。
もしかしたら本当に主が戻ってきてくれたのかと思う程。
「いずれにせよ、彼女は僕達の主じゃない。彼女は彼女としての人生を歩んでいるんだ」
瞳を伏せた青江が告げた言葉に、山姥切は小さく肩を落とす。
もしも本当に主が戻ってきたのだとしたら、きっと現状を打開出来ただろう。
この本丸をやり直す事だって出来たかもしれない。
だが、彼女は違う。もう我らの主は居ないのだ。
「……けれど」
俯いた山姥切に届いた青江の言葉。
顔を上げた山姥切は、能面のように無表情な青江を見た。
「彼が彼女を主だと認識しているのなら、利用できるかもしれない」
抑揚の無い声で淡々と告げる。
元々感情をあまり表に出さない男だが、殊更抑え込んでいるようだった。
「――"彼"が、目を覚ました」
青江が、視線を遠くに移す。
山姥切も感じた。"鶴丸国永"がにわかに動き出したのを。
顕現してから眠り続けていた"鶴丸国永"がこの瞬間に目を覚ました、そのきっかけは明白だ。
その気配は見えない糸に引かれるように、彼女の元へと向かっている。
"鶴丸国永"の魂は未だ無垢とは言え、その形はこの本丸の鶴丸と同じだ。
このまま二人が相対すれば、何かが起きる。
止めに行くべきか――そう考え腰を上げた山姥切だが、そこに青江の手が伸びる。
首を振った青江が、口を開く。
「彼女を"彼"に守らせれば、皆を解放出来る」
「……!」
自我を保っていた自分達でさえ飲まれかけた強烈な感情――審神者と同じ魂を見付けたなら、刀剣男士達は一目散に駆け寄るだろう。
皮肉にも今の彼等の外見は時間遡行軍と変わらない。この姿で迫れば、襲ってくるのかと誤解する。
そこを、"鶴丸国永"に断ち切らせる。
刀剣男士達のおおよその位置は把握出来る。多少の誘導も可能だ。
"鶴丸国永"を潰さないように、彼等を少しずつ送り込んで解放させる。
手段としては可能だ。
だが彼女は、審神者に似ている別人だ。
審神者は現れない。それは百余年前に定まった事実だ。
無関係の人間を巻き込む事を、青江は是と言っているのだ。
青江が廊下の先に目を向ける。
山姥切もまた、その向こうの気配を感じ取った。
"鶴丸国永"は、着実に彼女との距離を詰めている。
考える時間はない。
正面を向いた山姥切は、青江と視線を合わせた。
「僕は彼女達の導き手になる。君は皆を頼む」
手短に告げた青江に、山姥切は深く頷く。
素早く立ち上がった青江が、廊下の先へ消えた。
山姥切もまた、屋敷内の仲間達の気配を探る。
玄関には二振りの刀剣男士が近付いていた。
「……」
最後にもう一度だけ、彼女を思い返した。
審神者と同じ魂に、懐かしさと苦しさを抱く。
似ている――けれど、異なる。
それでいい。
他人でもいい。何だっていい。
どんな手を使っても、仲間達を解放する。
看取り役として、初期刀として、本丸の最期を主から任されたのだから。
そして――仲間達や、兄弟からも。
要らぬ感情は捨て、託された想いを抱え直す。
この重みだけは、最期まで。
***
山姥切は迷子等から姿を隠しながら、途切れ途切れの意識の中で仲間達を誘導した。
"鶴丸国永"と迷子が本丸の奥へ進むにつれて、山姥切の内側で呪いが濃度を上げていく。
蛇のように体の中を這いずり回る呪いと、そこから溢れ出す感情。
水底で男が蠢いている。まだかまだかと待ちわびている。
"鶴丸国永"――迷子から「白さん」と呼ばれた男は、柱となった鶴丸によく似ていた。
刀剣男士の性格は、元となった刀が同じでも本丸によって多少の違いは出る。
本丸間での交流は無いが、数月に一度行われる会合で、近侍として審神者に同行した事がある。
その時出会った他所の本丸の山姥切国広が、向こうの審神者に頭巾を剥がされて、多少諫めるに止めていたのに驚愕した記憶があった。
自身にとってみれば、審神者や兄弟だけならともかく、人前で頭巾を剥がされるなど刀剣破壊に等しい行為だったからだ。
――つまり、外見が瓜二つといっても中身まで一致することは無いに等しい。
けれど"鶴丸国永"は、戦闘時の太刀筋や、唐突に見せる童のような無邪気さなど、その所作や言動まで元の鶴丸にそっくりだった。
鶴丸の日記から形作られた魂は、強度に差異はあれど、性格は元の鶴丸と同等という事らしい。
迷子を守ろうとするのも、彼女を無意識に求めるのも、あれの魂が鶴丸だからだ。
じくりと、山姥切の内側を呪いが蝕む。
何も知らない顔で、迷子を庇い、時には助けられて。
純真無垢な魂を瞳に映す度、山姥切の奥底で黒い塊が脈動する。
ひび割れていく。最後の自我が砕けていく。
自分の意思で身体を動かせているのか、もう考えることも出来ない。
そして――"鶴丸国永"は、ある言葉を口にする。
『俺は生きたい。君と共に、在りたい』
願いなど、我らにはとうに失われた物。
だというのにあれは、屋敷から出たいなどと宣った。
「―――!!!」
瞬間、怒り。
烈火の如く吹き出した呪いが一瞬で全てを染め上げ、山姥切は彼等に襲い掛かる。
山姥切を貫いた衝動は、最早どちらのものか分からない。
留まる事を知らぬ憤怒に掻き立てられるまま、"手足"をけしかけ、刃を振るった。
消せ、潰せ、終わらせろ。
あれは醜い欲望の化身だ。
自分の罪さえ忘れ、光を求めた愚か者。
――だってそうだろう。"俺"は、"俺"が、此処を地獄にしてしまったのだから。
"山姥切"の腹を貫いた"鶴丸国永"の剣。
力を失う"手足"を感じながら、"山姥切"の唇は緩やかに動く。
漆黒とは真逆の真白な魂に、憎悪を吐き出す。
「オマエノ、セイダ」
***
――夢を見る。
繰り返し、夢を見る。
耳を塞いでも聞こえてくる悲鳴。目蓋を閉じても流れてくる映像。
幸せだった時が破壊される悪夢。何度も繰り返し、擦り切れた記憶。
何度も、何度も、何度も何度も何度も何度も何度も繰り返し、その果てに――求めてしまった。
願って、しまった。
此処から外へ出たいと、あの光に届く場所へ行きたいと。
それが、最悪の夢となった。
何も知らない魂となって、光と共に抜け出そう等と、愚かな希望を求めてしまった。
赦し難い行いだ。この場所を地獄にしたのは、他でもない己だというのに。
アレは、己の弱さを露呈した恥ずべき存在だ。
罪人には罰を。愚者には断罪を。
ひと時の悪夢は終わりにしよう。
散った紙束を見て、遥か遠くの記憶が思い起こされた気がした。
もう、そんなものはどうでもいい。
もうじき君は此処へやってくる。
"約束"が、果たされる。
最後の楔、それが失われた時、己はやっと終わる。
――君が"約束"を果たしてくれるなら、それだけで。
――だから、どうか。
――来てくれ。
2019.07.13