二
「別れ際に言うのもなんだけど、僕の名前は青江。また合流するときは、そう呼んでくれるかい」
そう残して、長髪のお兄さん――青江さんは去っていった。
残された白いお兄さんと私。
広くて薄暗い玄関にぽつんと佇むと、じわじわと不安が募る。
が、そろそろ覚悟を決めなければ。
屋敷を徘徊する無数の鬼、想像しただけで震え上がる。
それでもここにいても何も起こらないし、鬼の方からやってくるかもしれない。
この屋敷を探索して何が分かるかも不明だけれど、何もしないよりはマシだ。
拳に力を入れて、胸の高さまで持ち上げる。
やってやろうではないか……!
「ところで、君の名はなんというんだ?」
気合を入れたところで、隣から声が掛かった。
入れた途端抜けていく気合。
「へ?」
「これから行動を共にするんだ、呼び名がなければ不便だろう。俺のことは……まあ好きに呼んでくれ」
「は、はぁ……」
先ほどから心の中で白いお兄さんと呼んでいたが、発音するにはいささか長い。
「じゃあ、白さんで」
「なるほど、確かに言い得て妙だ」
自分の衣装を見回して、ははと笑う白いお兄さん、もとい白さん。
突然こんな所に連れてこられて、さらに自分の記憶がないというのにもう立ち直っている。
不思議な人だ。
「私は迷子です。よろしくお願いします、白さん」
「ああ、よろしく頼む。ところで迷子、気付いてるかい?」
「え?」
「先程の鬼がいたところ、塵に混じって何か落ちてるだろ」
白さんがちょいと指さしたところ、黒い塵の山の中心に、確かに塵とは違うものが埋もれている。
屋敷の中は荒れているとは言え、これほどあからさまに埋まっていれば、あの鬼が落としたものと考えるのが妥当だろう。
衣も刀も消えたのに、これだけは残っていた。あの鬼に関する重要なものかもしれない。
とはいえモノがモノなので、拾い上げて大丈夫なものか。
「手掛かりになるのなら、確かめて損はないんじゃないか?何にせよここから出られないことには何も出来んしな」
「それもそうか……」
「ああ、だが……待ちな」
塵の前で屈もうとした私に掛かる静止の声。
白さんは木刀を腰にさして、息を殺して気を張っている。
まさか……
あの鬼が出てから、なんとなく空気が澱んでいる。
お兄さんのように気配がどうとかは分からないけれど、"何かがいる"のは感じられた。
また、あの廊下から?
身を潜めて、廊下の先をじっと見詰める。
暗がりの向こうで何かが揺らめいているような気がして、けれど気のせいにも思えて、呼吸をするのもやっとの思いでじっと待つ。
カラ。
「……!」
音が聞こえた。
小さな音、乾いた何かがぶつかるような音。
先程の足音とは異なる音。
あの鬼とは別のもの……?
カラ。
カラ。
カラ。カラ。カラ。
音が聞こえてくるのは、廊下の先ではない。
白さんの視線がゆっくりと右から左へ流れて、辺りをぐるりと見回している。
カラ。カラ。
カラカラカラカラカラ。
こちらに気付いたのか、音が激しさを増した。
動いている。
こちらに近付いている。
いったい何処から……
その時、白さんの視線がピタリと止まった。
視線の先には、私。
「……?!」
私?!
白さんの気配が研ぎ澄まされ、木刀を構えた。
慌てて手を突き出して制止する。
「ちょ、待っ」
いや、待つのは私だ。
よく見れば白さんは私を狙っていない。
私の……
後ろ!!
「伏せろ!」
白さんの声が掻き消える衝撃。
廊下に並んだ襖が破られ、何かが飛び出した。
白さんが突撃して何者かに突きを浴びせ、すかさず私を後ろに引く。
その力強さに半ば倒れるように後ろに回った。
背中越しに見えたのは、全身骨の……蛇?
大きな牙と、角のような出っ張りが付いた頭蓋骨。
そこから延びる脊髄のような骨がうねり、カラカラと音を立てる。
宙を泳ぐような様で、眼球のない空洞の奥で奇妙な光を揺らめかせている。
そして、その顎にはやはり刃。
短い刀をしっかりと咥えていた。
「どうやら奴さん方にゃ種類があるらしい、な!」
白さんが木刀を振るう。
が、宙を這う蛇はその独特の動きで避けた。
鬼よりも小さな体は、動きも素早い。
けれど、白さんはその動きを予測していた。
空振りだった刀をそのまま振り抜き、体を捻って回るように下から切り上げる。
逃げた先目掛けて走った切っ先が、蛇の頭を叩き割った。
断末魔を上げる間もなく、空中で塵と化す蛇。
またもあっさりと、異形は地へ沈んだ。
「す、すごい……」
見ていることしか出来なかった。
立ち向かえるとも思わないが。
宙で舞った塵は散らばり、後には何も残らなかった。
個体によって、何かが残るものと残らないものがあるのだろうか。
白さんは一仕事終えたと息をついて、木刀を腰に差す。
納刀前に払う動作は癖だろうか。
……嵐は去った。
後の問題は、鬼の落し物。
「行くかい?」
白さんの言葉に、ゆっくりと頷く。
いよいよ拾う時が来た。
まじまじと見詰める。
黒い塵にまみれて分かりにくいけれど、どうやら紙らしい。
二つ折りにされた紙がくしゃりと丸まっている。
そっとつついてみても、何も起こらない。
本当にただの紙のようだ。
思い切って摘み、軽く塵を払って持ち上げた。
「見た限りじゃ、ただの古い紙切れだな」
白さんが横から覗き込んで漏らした感想に同意する。
丸まった状態を引き伸ばして、中を開いてみた。
特に何も起こらない。
紙は破れた跡があり、何かの切れ端のようだった。
中には黒い墨で文字のようなものが書かれている。辛うじて日本語、さらに言えば現代語らしいことは分かるけれど、紙が痛み、掠れて上手く読めない。
これはヒントにはならなさそう……
「う……ぐ」
と、突然呻き声が聞こえた。
隣を見れば、白さんが苦悶の表情で頭を押さえている。
「どうしたんですか、大丈夫ですか?」
「何だこれは……頭が……ッ」
頭が痛いのだろうか。
私の声に答える余裕もないらしい。
この紙を開いた途端白さんに起こった異変。
やはりこの紙、呪いの類だったのか。
けれど、どうして開けた本人ではなく白さんだけに?
見る見る顔を青くする白さんを見て、どうしたものかと手を伸ばす。
気休めだけれど、背中をさすろうとした。
私の手が白さんに伸びて、触れる。
「!」
その瞬間、視界が白く塗り潰される。
世界が変化した。
***
扉を開けると飛び込んでくる美しい紅色。
庭の木々が色付き、はらりはらりとその葉を落とす。
庭掃除が大変だと誰かがぼやいていたのを思い出しながら、紅の絨毯の敷かれた庭を見渡した。
これだけ一面に散らばった落ち葉をかき集めるのは、成程手間がかかりそうだ。
が、玄関が切り出したこの景色は、彼の心をすっかり奪っていた。
「見事なものだな……」
「ちょっとXXX。そんな寒そうな格好で出て行かないで」
彼の背後から声が掛かる。
振り返った先には、玄関の段を上がったところに立つ人物。
不自然な靄がかかってその姿は捉えられない。
「ああすまん。あまりにも綺麗なもので、気が逸った」
冬には早いとはいえ、すっかり涼しくなった風が、薄着の彼の肌を撫でる。
「……紅葉は初めてだったっけ?」
彼がその人に近寄ると、その人は手に持っていたものを広げる。
紅色のマフラーだった。
じっとして首に巻かれるのを待った彼は、その暖かさに目を細める。
「こりゃあいいな、暖かい」
「よろしい。じゃあ、行っておいで。XXX達が焚火をするそうだから混ざるといい」
「ああ、そいつは楽しみだ。どんな驚きが待ち構えていることか……」
楽しげに浮かれる彼を見て、その人が微笑んだ、ような気がした。
***
「――!!」
我に返った、と形容すべきか。
脳を支配していた五感が戻ってきたような感覚。
思い出したように息を吐き出した。
「今のは、いったい……」
まだ頭を押さえていた白さんが、乱れた息の合間に零した言葉。
「まるで誰かの視界のような……」
「君も見えたのか?」
白さんの質問にこくりと頷く。
突然全ての感覚を奪われ、浮かび上がった映像を見ていた。
はっきりと思い出せないけれど、誰かの目を通してみていたような視界だった。
原因はこの紙切れか。
紙切れが作用して見えるなんて少々気味悪いが、さっきまであんなことやこんなことがあったので、今更驚くことでもなかった。
映像の中、玄関の向こうに広がる秋の空。振り返った先にいた誰か。
会話をしていたはずなのに、声色が思い出せない。
「でも、あの玄関は……この場所な気がする」
ボロボロに崩れた土の壁や、辺りに転がった木屑の破片は、先ほどの映像の中に出てきた綺麗な壁や装飾と一致するように思えた。
「この屋敷に住んでいた誰かの記憶、ということか?」
幾分か顔色の戻った白さんが頭を持ち上げて辺りを見回す。
「記憶……白さんの?」
「ん、そうなのか……?いや、俺の、という気はしないな」
眉間に皺を寄せて心当たりを探っていたが、白さんは頭を振る。
白さんの頭が痛んだのだから、彼の記憶に関係するのかと思ったけれど、どうにも思い出したといった感覚はないらしい。
まあ、こんな古びた屋敷がまだ綺麗だった頃の記憶なんて、生きている人間が持ち合わせているとは思えない。
「よく分からないけど、この屋敷に関することではありそう。手がかりになるかも」
映像の中では、玄関扉が開け放たれていた。
誰の記憶か、何故見えたのかも分からないけれど、ヒントになる可能性はゼロじゃない。
屋敷を探索する中で、この紙を集めるというのも手だろうか?
「ま、闇雲に探すよりは無難だな。その案に乗ろう」
気を取り直した白さんは、すっかり元の調子に戻ったようだ。
「大丈夫ですか?」
「ああ、もう治まった。手間を取らせたな」
見上げる私に片目を瞑って応えてみせる。
この人、自分の見た目の良さを自覚してるな。
「……さて、そいつを集めるとなると、奴さん方は君が狙いだからな、嫌な言い方をすりゃあ君を囮に寄って来る奴らを片っ端から叩いていくことになるだろう」
「隠密行動もできないぜ?」とこちらを試すような白さんの言葉に、改めて今後の行動を想像した。
そうか、鬼や蛇、さらにはもっと別の物の怪も現れるかもしれない。
それをいちいち相手取って、この紙切れを落とすか確認しないといけない訳で。
遭遇する度に向けられる視線を思い出して身震いした。
人ではない、獣でもない未知の恐怖。
それでも、白さんが守ってくれると言った。その言葉と彼の強さは信頼に足る。
守ってもらう分働かなければ。囮でもなんでもやってやろうではないか。
「臨むところです」
「はは、勇ましいな。じゃあ俺も存分に腕を振るうとするか!」
我々の方針も固まった。
長く手間取ったけれど、いよいよ探索の一歩を踏み出した。
***
白さんが物音を聞いて駆けつけたルートでは、鬼に遭遇しなかったらしい。
屋敷内を徘徊しているのであれば出会う可能性はゼロには出来ないけれど、この先どんなものが潜んでいるか分からないし、最初は遭遇しづらいルートを取るべきだろう。
ということで、白さんが目を覚ました部屋までの道のりを遡ることにした。
が。
「妙だな、ここを通ってきた筈だが」
とぼやく白さんの眼前には、固く閉ざされた木の扉。
外へ通じる扉同様、押しても引いてもびくともしない。
「扉が閉まってる……?」
「見た通りだ。まさか奴らの仕業か?」
「ええ……」
白さんの言う奴らとは、先程の鬼や蛇のことだろう。
あれ等の行動は不明瞭な点が多く、目的もよく分からない。
目的……というか目標は私のようだけれど、何故私なのか、私を捕らえてどうしようとしているのかは不明だ。
あれ等にはこの扉を閉める意思や知能があるというのだろうか。
黒く濁った立ち姿で、異様に赤くぎらついた眼。
あの眼で何を思っているのか、想像するのも恐ろしい……
「やあ」
「ヒッ」
吃驚した。
吃驚し過ぎて喉から変な音が漏れた。
「青江?」
背後からかけられた声。振り返れば先程別れたばかりの青江さんが立っていた。
暗がりで薄ら笑いを浮かべる青江さんが鬼共と違う方向で怖い。
「こういったものを見付けたんだけれど、君達も見るかと思ってね」
彼が片手で弄んでいるのは、丁寧に巻かれた紙。
その端には、『間取り図』と題が振ってある。
「屋敷の間取り図か、そいつはいいな」
食いついた白さんに頷く私。
それを見た青江さんがにっかりと笑う。
「ここは狭いし暗いからねぇ。一度玄関まで戻ろうか」
***
玄関から見て左手の渡り廊下。
ここは多少外からの明かりが入る。
廊下に散らばった屑を退かし、古くなった紙を広げて三人で囲む。
現れた屋敷の全体図に、思わず唸った。
「こりゃ、随分と広い屋敷だな」
「ああ、大人数が暮らせる規模だね」
「これ全部探すとなると……」
骨が折れそうだ。
右下に書かれた玄関から、左と上にそれぞれ廊下が伸びている。
左、つまり今いる廊下はほぼ直進で、庭の反対側には大広間と書かれた部屋があるようだ。
ここから蛇が飛び出したことになる。
上に伸びる廊下から屋敷は一気に広がり、厨や寝所などの生活空間と、よく分からない名前のついた部屋がいくつか備わっている。
中庭には池があり、そこがちょうど屋敷の中心となっているようだ。
渡り廊下で繋がった離れには、執務室と、一人分の生活スペースが設けられている。
おそらくは屋敷の主人のものだろう。
組織的な集団が生活するための屋敷だったのだろうか。
「顕現の間、刀装の間……何の部屋だろ」
「気になるところだが、ここから先へ行けないだろ?こいつをどうにかしないとな」
白さんが指差したのは、先程自分達がいたところだ。
玄関から上に伸びた廊下。
不思議な名前の付けられた部屋の多くは、その先にある。
「開かない扉……そこも誰かが封じたのかもね。でも君が来るときは平気だったのなら、外へ出るより簡単な術じゃないかな。何か鍵があるはずだよ」
「随分詳しいな……」
「まあね」
ニヤリと笑う青江さん。
青江さんがとても知った風なのが気になるけれど、脱出の邪魔をしようというわけではないのでなんとも言えない。
どのみち何も分からない状況なのだ、彼の言葉を信用してみるのもいいだろう。
「鍵、か」
「ああ。僕はこの広間でこれを見付けたけれど、他に目ぼしいものはなかったね」
大広間を指差す青江さん。
「となると、その先を探すのが吉か?」
白さんが大広間へと指を落とし、その先をなぞる。
大広間の奥に位置する部屋は。
「出陣の間……」
名前からして、この屋敷がかつて武装集団に使われていたのかと思案する。
まさかあの鬼は落ち武者の幽霊?刀持ってるし。
「物騒な名だが、行ってみるしかないな。なぁに、鬼が出てくるなら願ったりだろう?」
白さんがこちらに視線を投げかける。
「う、うん」
そんなやりとりを見て、青江さんがぱちくりと瞬きした。
「なんだい君達、随分と好戦的だね」
「ああ、というのも最初の鬼から拾い物をしたんだが……君は何か分かるかい?」
白さんの言葉に合わせて取り出した紙切れを見て、青江さんの切れ長の目が少し開かれた。
「それは……日記、のようだね」
「日記?」
そんなのん気なものだったのか。
鬼の体から出てきたものだから、もっと呪いとかまじないのお札の類かと思ったが。
ということは、白さんと共に見たあの光景は、この日記の内容だろうか。
この日記を書いた人の記憶、ということか。
「覗き見るのは趣味じゃないんだ。読みたいなら二人で楽しむといい」
「楽しむて……」
軽く頭を振った青江さんは、日記には興味をなくしたように話題を戻した。
「じゃあ、僕はもう一度広間を探してみるとしよう。見落としがあるかもしれないし、新しいところは丸腰じゃ危ないからね」
「ああ、任せたぜ」
「この図面は君に渡しておくよ。君等の方があちこち行きたいだろう?」
「あ、ありがとう」
青江さんから図面を受け取り、再び解散の流れになった。
「じゃあ、気をつけてね」
「君もな」
するりと襖の向こうへ消えていった青江さん。
なんというか、あっさりした人だ。怖くないのだろうか。
「……」
「さて、俺達も行こう」
「そうですね……」
白さんの声で、しゃがんでいた体勢から立ち上がる。
目指すは、出陣の間。
2017.08.27