四
扉に向かう前に、青江さんにも鍵らしきものを発見したことを伝えるとしよう。
出陣の間を後にして、廊下を引き返し、大広間の手前にやってきた。
青江さんはここにいるはずだ。
「青江、いるかい?」
白さんが声を掛けたけれど、返事はない。
見取り図を見ても屋敷で一番の広さを持つ部屋だ、探索に集中して声が届かなかったのかもしれない。
「おーい、開けるぜ」
白さんが襖を滑らせる。
開いた隙間から顔を出すと、だだっ広い空間が広がった。
先ほどこの部屋から蛇……"短刀"が飛び出してきたので、中はあまり見ないようにしていたけれど、元々物が少なかったのかあまり散らかっていない。
部屋の隅に並んだ家具は、埃をかぶっているものの存外綺麗な状態だ。
"短刀"も"打刀"も、私達異端者を見ると襲ってくるようだけれど、この館の中を荒らしたりはしていないのだろうか。
玄関や廊下の荒れ具合は自然現象というには不自然けれど……
そのうちの一つ、戸棚の前に青江さんがいた。
膝をついてどこか遠くを見ているらしく、作業に集中しているようには見えない。
「青江さん……?」
近くによって声を掛けると、その頭が僅かに揺れて長い髪がさらりと流れた。
「……君達か」
青江さんがゆっくりとこちらに振り返り、無言で見上げている。
どうしたのだろうか。
短い間の印象だけれど、青江さんは意味深な薄ら笑いを浮かべているイメージだったので、その無表情にギクリとする。
冷や汗を流す私を知ってか知らずか、白さんが一歩進み出て口を開いた。
「君の言っていた"鍵"らしきものを見付けたんだ。そちらは何かあったかい?」
白さんの指につままれひらひらと揺れる写真を、青江さんの目が追う。
「ああ……そうだね」
思い出したようにちらりと棚に視線を送り、首を振る。
「僕の方はからきしさ。一度隅々までじっくり眺めた後だからね、そうそう秘密は暴けないみたいだ」
「は、はぁ」
青江さんは独特の言い回しで何も成果が無かったことを告げると、写真に視線を戻した。
「……恐らくそれが"鍵"で合っていると思うよ」
その言葉にほっとする。
青江さんが言い出したことだし、青江さんが言うならこれでいいんだろう。
そう何度もあんな物の怪と戦いたくはない。
「そうか。なら、俺達は扉の先へ行くとしよう」
「そ……うですね」
がくりと肩を落とした。
扉の先へ行くということは、あれらと遭遇することになるだろう。
探索を続ける以上避けては通れないことだけれど、休む間もなしとは。
しかし今のところたいして役に立っていないので文句は言えない。
「せっかちだねぇ。まあ、僕も扉までついていくよ」
そう言った青江さんはいつもの笑みを浮かべていた。すっかり元の青江さんだ。
青江さんだって突然こんなところに閉じ込められた被害者だし、疲弊していたのかもしれない。
「なら、道すがら情報共有と行こうじゃないか。俺達の方は出陣の間に行ったんだが……」
白さんは別段疲れた様子もなく、てきぱきと物事を進めていく。
あれだけ色んなものと戦って疲れた様子一つ見せないとは、強靭な精神力の持ち主だ。
***
薄暗い廊下を進み、閉ざされた扉の前に戻ってきた。
外から届くのは雨音だけ。
木が組み合わさった扉は、素材の割に重たい印象を受ける。
ぴったりと閉ざされた扉に手を掛けた白さんが、ゆっくりと押した。
ぎい、と軋む音。
――開いた。
「……ッ」
隙間から、ひやりとした空気が漏れる。
鼻を突くのはカビの匂い。
「こいつは……」
扉を開け放ち、白さんが言葉を詰まらせる。
私も息を飲んだ。
開かれた扉の先は、あまりにも――
たった一枚隔てた向こう側の空間は、酷く荒んでいる。
玄関でも辺りに物が散乱して荒れていると感じたけれど、この先はそれとは異なる。
一見して、喧騒の跡が見て取れた。
狭い廊下の柱も壁も床も、びっしりと刀傷や飛沫で染められている。
倒された障子や、突き破られた襖、ところどころに落ちているのは欠けた刃か。
濁った空気。カビの匂いに混じって届く、鉄錆の匂い。
敵の情報、布陣図、軍隊の編成……これまで見てきた情報と照らし合わせれば、何が起こったかは想像に容易い。
たまらず顔を手で覆った。
「酷い有様だな……俺がいた時もこんな状態だったのか?」
眉を寄せて唸る白さん。
最初に目覚めた時は、周囲を見る余裕も無かったのだろうか?
青江さんはその顔から笑みを消し、視線を巡らせている。
「……瘴気が濃くなったようだね」
瘴気、とは聞き慣れない単語だけれど、なんとなく分かる。
呼吸をするのが苦しい。
重く沈んだ空気がちりちりと肌を撫で、まるであの物の怪の気配がそこら中で蠢いているようだ。
急激に気温が下がったようで、ぶるりと震えた。
「それにしてもおかしなところだね、ここは」
「なんだ今更?妙な連中が闊歩してる時点で、おかしいのは周知の事実だろう」
「それはそうかもしれないね。でも、ほら……この跡を見てみなよ」
跡、と言って青江さんが指さしたのは、床から数センチの壁についた線。
良く見てみると、黒い泥のようだった。
その線から下の壁と床は黒く変色している。
「水に浸かった跡……?」
例えるならば、浸水跡。
雨水がここまで溜まったとは考えにくい。湿気は十分に感じるが、屋敷内に雨漏りの気配はない。
こんな山奥に、津波でも押し寄せたというのだろうか。
「一体この屋敷で一体何があったんだろうね。ますます謎が深まったと思わないかい?」
口の端を釣り上げる青江さんはいったい何が楽しいのか。オカルトな話が好きなのだろうか。
こちらは不可解な事柄がますます増えて、頭を抱えたい気分だ。
「……さて迷子、とりあえず俺のいた部屋へ向かってみるとしよう。青江、君はどうする?」
「そうだねぇ、やっぱり僕は別行動にするよ。手分けした方が早いだろう?」
「分かった。何かあったらここで落ち合おう」
「ああ」
***
短いやり取りの後、青江さんその場を後にした。
私と白さんも、とりあえず周囲の捜索に取り掛かった。
内装がどれだけ荒れ果てていても、外に通じる小さな窓の一つも頑なに閉ざされている。
そう簡単には行かないか。
仕方がないので、探索を再開する。
廊下の床板はこっ酷く汚れ、歩くたびにぎしぎしと軋んだ。
うっかり穴が開かないかとハラハラしながらも、一歩一歩足を進める。
鬼が飛び出す気配はない。
幾何か歩いて、何度目かの曲がり角に遭遇した。
白さんが目覚めたという部屋は、この角を曲がった向こうらしいけれど……
「――待ちな」
先を進んでいた白さんが、柱に身を隠すように立ち止まった。
濃い瘴気の中でも、わずかに空気の揺れを感じる。
より濃い気配が、角の向こう側から流れていた。
恐らくこの先に、鬼がいる。
息を殺して、白さんの背中から先を覗く。
「……ッ!」
悲鳴を上げそうになって、手で口を覆った。
なんだあれは。
蠢いている。
ひしめき合っている。
十……いやそれ以上の鬼共が、廊下を所狭しと立ち塞いでいた。
その奥には、確かに小部屋へ通じる扉が垣間見える。
けれどこの数を押し切るのは、流石の白さんでも苦しいだろう。私がいてはなおさらに。
「……ここは後回しにした方がいいな。奴らがどういう習性なのかは分からんが、時間を置けば散っているかもしれん」
白さんの言葉に頷く。
あれらの行動は未だ不明瞭だ。
私を狙っているのかと思えば、ふらふらと歩くだけのものもいる。
もしかしたら意図を持ってここに集まっている可能性もあるけれど、強行突破は最終手段にしたい。
屋敷は広い。先に回れるところは沢山ある。
廊下を引き返しながら、間取り図を取り出した。
***
「ふ、ぬ!」
白さんが体重を掛けて扉を押す。
白い顔を赤く染めても、動く気配はない。
「はあ……ここもか!」
青江さんが言っていた、簡易的な封というやつ。
恐らくそれと同様のものが、あちこちの扉に掛かっていた。
入り組んだ屋敷を歩き回っても、ほとんどの扉が閉ざされている。
道中、物の怪に遭遇することもあったけれど、倒したどれも"鍵"らしいものは持ち合わせていなかった。
最初の勢いはどこへやら、捜索は難航していた。
手詰まり感が出てくると、恐怖も麻痺して疲労感が蓄積されていく。
隣の白さんが、大きく肩を落として重い息を吐き出した。
「ああ……くそっ」
かと思えば、頭をがしがしと掻き毟る。
焦っているのが見て取れた。
疲れて思考が鈍る私は、やや投げ出したい気分だった。
ここから抜け出したくないわけではないけれど、面倒くささや疲れが溜まり、ついつい休みたくなってしまう。
自分では何もしていないくせに、いや、していないからこそか。
けれど、白さんは逆だ。
戦闘を重ねても、長く動き続けても、泣き言を漏らさずひたすら出口を探している。
それ程に外へ出たいと……いや、白さんが焦る理由はそこじゃない。
白さんは――
は、?
喉がヒュウと音を鳴らす。
感じたのは、空気の変化。
今までのじっとりとした気配が、急激に重さを増した。
それがどういうことなのか、理解するよりも早く。
ぞるん。
音は無かった。
だが、強烈な悪寒。
「迷子!」
血相を変えた白さんが腕を伸ばす。
上半身を捻るのと、後ろの気配が動くのは同時。
瞳に映った黒い塊。
武器を持つ手を後ろに引き、空いた腕が顔面に迫っていた。
――捕まる。
鬼の指が触れる直前、逆側に引かれた。
倒れ込む私と、踏み込む白。
振り上げた木刀が、腕を弾いた。
無防備となった胴目掛けて、白さんが刀を振るう。
「ッ!」
白さんの脇から影が走った。
腕を回して、なんとか防御する白さん。
強くしなった影が、その体を吹き飛ばす。
「白さん!」
障子に突っ込み、派手な音を立てて倒れる。
もうもうと舞う埃と木屑。
折れた障子に埋まる白さんが、敵を睨む。
「尻尾とは、驚かせてくれるな……」
白さんを打ったものは、骨の蛇に酷似していた。
骨で構成されたその先端は蛇の頭のようになっており、カチカチと歯を鳴らしている。
それが伸びる先は、鬼の背中に消えている。
大柄な鬼だった。
柳のように乱れた長髪、屈強な上半身、肩から突き出る鋭い角。
そして、その手が握っているのは。
「……"槍"か」
柄が長く、刀身は両刃の武器。今までの刀とは異なる形状。
立ち上がった白さんが、顔についた埃を拭う。
"槍"は沈黙を保ったまま、こちらの様子を見ていた。
その双眸には、他の鬼と同じく紅い光が灯っている。
だが、今までの刀のような荒々しさはない。
仁王のように両足で立ちふさがる様は覇気に溢れ、理性があるようにも見える。
こちらが体勢を立て直すのを待っていた……?
「迷子、下がってくれるか」
「は、はい」
柱に背中を預け、背後を守れるところまで下がる。
低く唸った"槍"が、その武器を構えた。
「どういう手品だ?何もないところから急に現れるとは驚かせてくれるじゃないか」
その問いかけに応えはなく。
ただじっと構える"槍"に、軽く息をついた白さん。
白さんもまた、木刀を握り直す。
雨の音。湿った空気。カビの匂い。
長く息を吐いた白さんが、短く息を吸う。
「はっ!」
飛ぶように距離を詰めた。
「!」
"槍"が刃を防ぐ。
腕の筋肉が膨らみ、白さんを弾いた。
「チッ」
離れた白さんに迫る追撃。
跳躍して躱す。
鬼が踏み出し、連続して突きを繰り出す。
体を捻り、刀で流す白さん。
しかし、反撃が出来ない。
リーチの差だ。
槍の猛撃で詰める隙の無い空間が、白さんの刃を遠ざけていた。
長い獲物をものともしない力強い攻撃が絶え間なく押し寄せ、じりじりと後退する。
「白、さん」
弱弱しい声は、不安をあらわにしただけだった。
「なぁに、大丈夫だ」
振り向かないまま、白さんが話す。
「出会って間もない人間を信用するのは難しいだろうさ。だが……俺は負けないぜ」
その声は極めて冷静だった。
白さんの背中は細く、しかし"槍"の攻撃を受けてもよろけない。
大きく開いた足が床を捉え、後退していた体が止まった。
槍の穂先が白さんの体を掠める。
白さんは退かなかった。
距離が、迫る。
「!」
"槍"が身を引こうとした。
それよりも速く。
地を這うように、ぐんと距離を詰める。
攻撃の隙を掻い潜り、白さんが間合いに入った。
「がら空きだぜ!」
押し込む。
木刀が"槍"の胴体に沈む。
両の手で握った刃が、深く深く。
「グ、オオア!」
悶える鬼。
その肉が膨張し、槍を高く掲げる。
しかし、その穂先が降りる前に白さんが刃を薙いだ。
その感触は脆い。
容易く胴が裂け、濁った液体が溢れる。
腐っているのだ。血も肉も、黒く濁るほどに。
「……っ」
槍の目が明滅し、その体がぐらりと傾く。
白さんが下がったその地面に、重力に従って落ちた。
ズンと地が揺れ、土が舞う。
その屈強な肉体は力を失っていた。
……終わった。
結局、私の不安も杞憂だった。
白さんが振り向く。
その表情は笑っているのか顰めているのか曖昧で、胸をチクリと突き刺す。
あちらは体を張って私を守ってくれている。
だのに私は怯えるばかりで、白さんを信頼することもできていない。
それは、彼の実力をないがしろにする行為だ。
でも、怯えてしまうのは仕方がない。
だって私には力もなく、彼のことをよく知っているわけでもない。
もしも白さんが倒れてしまったら、私は何の手立てもなく鬼に蹂躙されるのだ。
その不安は簡単に取り去れるものじゃない。
そんな身勝手な思考に罪悪感を感じて俯くと、胸の前で握りしめた拳が白くなっているのが見えた。
白さんが困ったように息を吐いたのを感じる。
それから、こちらに一歩踏み出した。
「なあ、迷子」
「は、はい」
「君は、自分のことをなにも出来ないなんて考えちゃいないか?」
「え、と」
それは、その通りだけど。
見上げた白さんは、微笑んでいた。
私を責めるわけでもなく、穏やかに口元を緩めている。
どうして笑っているんだ。
ゆっくりとその口が動く。
そして――
「アアァァア!!」
「!?」
突如"槍"が咆哮した。
胴体から零れる黒もそのままに、片足を立て体を起こしている。
その瞳に再び宿った紅は、ギラギラと燃え盛って、先ほどまでのものとは打って変わっていた。
荒々しい気が膨れ上がり、崩れかけた体も構わず槍を持ち上げる。
上半身を反り、強く引かれた槍。
「くっ、おまえまだ……!」
その切っ先は、こちらを向いて――
「――」
どう、と。
大砲のような音が、耳元を駆け抜けた。
「……あ」
暴風に煽られ、体が傾く。
膝が力を失い、地面に崩れる。
「迷子!」
私の体は、動かなかった。
2017.11.04