五
それは、謂わば"欲"だった。
瞬間的に膨らんだ感情、何よりも優先すべき欲望。
無意識に全神経、全細胞が望んだ。
――生きたい、と。
凶刃が眼前に迫ったとき、かつてないほど生を渇望した。
同時に、死を、悟った。
世界から音が消え、すべてがスローモーションに見える。
起き上がった"槍"の瞳に燃える紅は、先の"打刀"や"短刀"にも酷似したそれで、そこに理性は残されていなかった。
強い感情、憎悪、妄執、あるいは――
強烈な投擲を放った肉体は、今度こそ完全に砕け、黒い塵と果てた。
放たれた凶弾は、私の頬を掠めた。
触れたのは僅か数ミリ。
摩擦と傷で熱を持ったそこから、赤い液体が零れる。
「迷子!おい迷子、しっかりしろ!」
「あ……」
白さんの呼びかけに、口から情けない声が漏れる。
全身が強張っていた。
すぐ傍に、死が横たわっていた。
白さんの陰に隠れていたはずが、一瞬で命が脅かされた。
もしあと数ミリずれていたら、私の頭蓋は粉々に砕けていただろう。
思わず自身を抱きしめて、四肢が動くことを自覚する。
生きて、いる。
思考を埋め尽くしていた生への執着が治まったとき、抑えていた恐怖が膨れ上がる。
熱を持った頬とは裏腹に、身体は冷水をかぶったように冷たくなっていた。
荒くなった呼吸は上手く酸素を取り込めず、全身に広がった震えが歯をかちかちと鳴らす。
死にかけた。
たった一撃で、私の全てが消えてしまう。
そんな状況だった。
今まで平凡な生を送っていたはずが、突然こんな場所に放り出され訳の分からないまま殺されかけて、どうして平気でいられようか。
分かっていた筈だったのに。
私は無力で、白さんに守ってもらうしかない現状に辟易していたはずなのに。
本当は、白さんの力に頼りきって弛緩していたのだ。
よく分からないけれど、きっと彼がいれば大丈夫だなんて安堵しつつ、そのくせ白さんがいなくなってしまったらなんて不安がって、最悪だ。
現状把握も満足にできていない愚か者。
私は、どこまでも弱い人間だった。
「迷子……」
白さんは屈んで私の肩に手を置いている。
なんとか頭を持ち上げた私の目に、彼の貌が映り込んだ。
美しい眉は下がり、金の瞳がこちらを心配そうに見詰めている。
この人は、こんなにも私を慮ってくれていたのに。
「ごめんなさい、わた、私……」
体が持ち上がらない。
力の入れ方を忘れてしまった。
立ち上がりたくない。また、あんな目にあうのは嫌だ。
怖い。
心がぽっきりと折れてしまった。
青くなって震える私を、白さんはじっと見つめている。
それから小さく唇を開き、短い息を漏らした。
「……そうか。君はこんなにも怯えていたのに、それを押し殺していたんだな」
「……」
白さんが、すっと目を伏せる。
「すまなかった、君の想いを無視して。それに、守ると言っておきながら恐ろしい目に合わせてしまった」
心底からの謝罪だった。
下げられた頭を見て瞬きをする。
「え……」
どうしてこの人は、そんなことが言えるのだろう。
「少し休憩しよう。焦ってばかりでは何も生まれないからな」
何故、私をかばってくれるんだ。
私は、最低な人間なのに。
のうのうと他人の力で生き延びることしかできないのに。
それなのに、白さんは私を見捨てないでいる。
「その後君はどこかに隠れていてくれ。なに、俺は君の近くを探索する。何かあっても君の元へすぐ駆けつけるさ」
彼はにかりと笑ってみせる。
白さんは、私を優先しようとしている。
私が弱いから、白さんが強いから。確かに、二人の能力は決定的に異なる。
でも、だからといって、私だけ逃げるのは。
「そんなの、ダメ、だ」
絞り出した声が震えていた。
恐怖と不甲斐なさと、色んな感情が混ざり混ざって頭の中はぐちゃぐちゃだ。
ぐちゃぐちゃのまま口をついて出た言葉。
「なっ!?」
同時に零れた涙を見て、白さんがぎょっとした。
「す、すまん!君を置いていくわけじゃなくてだな、その、なんだ!」
見るからに焦っている。
別に白さんのせいで泣いているわけではない。
というか自分でも何故涙が出たのか分からない。
とにかく、違うんだ。言葉を吐き出さねば。
「違うん、です。ダメなんだ。だって、白さんは戦ってるのに」
「それは……俺にその力があっただけだ。弱きを守るは力ある者の務めだろ?」
涙ぐんで上手く喋れず、無言で首をぶんぶん振る。
まるで子供のわがままだ。
全くもってみっともないけれど、これだけは言わせてほしい。
「わ、私だけ安全なところで、息をひそめているわけにはいかない」
刀を振るうのが白さんの務めだというのなら、私の務めは探索だ。
彼が身を挺してくれている分、最低限の探索は行わなければ。
それに私が隠れるとなると、白さんは私を守るため、隠れている場所から距離を空けることができない。
この広い屋敷を全て探索するために、私が隠れる場所を探して、私をそこへ置いて、警戒しながら周辺の捜索をと手順を踏まなければならない。
そんな手間を掛けている余裕はない。
だって白さんは、本当は。
「本当は、白さんの方がずっと怖い想いをしてるのに。私のせいで立ち止まるなんて、ダメだ!」
わめくような、涙混じりの声。
白さんの瞳が、大きく見開かれた。
「俺が……怖い?」
零れ落ちた疑問符に、しっかり頷く。
私は、鬼が怖い。この屋敷が怖い。死が怖い。
今までの人生で遭遇することの無かった、正体の分からない現象が。
混沌渦巻く空間が。
理由も分からないまま向けられた刃が。
分からないということは、恐ろしい。
知らないものは、恐怖や嫌悪の対象となる。
ならば、白さんは?
記憶を失い、自分のことでさえ不明瞭な白さんは、誰よりも恐怖を感じているのではないか。
周りの全てが分からないということは、暗闇の中を手探りで進むような感覚だろう。
一歩間違えれば、どこまでも沈んでいくような心地で。
恐怖の感じ方は人それぞれとはいえ、それはきっと今の私よりずっとずっと恐ろしいことだ。
それでも強い精神でそれらの恐怖を押し殺して、私を守ってくれていた。
なら、私は立ち止まるわけにはいかない。
白さんの与えてくれた恩を、彼の恐怖を無下にしてはいけない。
一刻も早く彼の記憶の手がかりを探して、この屋敷から出なければ!
そうだ。
恐ろしい目に合った。けれどそれも過ぎたことだ。
安穏に浸っていた自分を思い知った。ならば立ち上がれ。
私は何一つ壊れてなどいない。だから動かせ。
だって私はまだ、白さんのために何も出来ていない!
「私は……貴方の役に立ちたい!」
拳を握り締めた。
床に当て、ぐっと力を込める。
縫いついてしまったかのように重い腰。
それでも懸命に食いしばって持ち上げる。
大丈夫だ、立てる。
私はまだ、歩いていける。
「白さん、行こう。この屋敷から出るために」
立ち上がった私を、白さんが見上げていた。
小さく開かれた口と、僅かに大きくなった目が、驚嘆していることを物語っている。
やがて長い息を吐き出した白さんは、軽く頭を振って立ち上がった。
「……そうか、見破られるとは驚いた。その通り、俺も怖いのさ。この現状も……俺自身も」
俯きがちで流れる前髪。
眉は下がり、伏せられた瞳は色濃い不安に揺れている。
それは白さんが私と出会ってから初めて見せる、弱々しい表情だった。
「自分のことを何も覚えちゃいないのに、刀を持てば腕が動く。奴らと対峙すれば躊躇なく仕留めてしまえる。刃を交えれば、昂りさえする」
ぽつりぽつりと紡がれる言葉を聞いて思い返すのは、刃の応酬から垣間見た好戦的な笑み。
物の怪と相対する白さんは、美しくも猛っていた。
「だが君の世では、刀を振るうのはきっと珍しいことなんだろう? 化け物を前に動けない君は、戦とは無縁な平和な世の中で生きてきたんだろう。それは喜ばしいことであり、君にとっては当然のことだ。……そんな君を見て、自分の感性が不安になった」
白さんが木刀を持つ手を持ち上げる。
激しい戦闘を繰り返した刀は、所々綻んでいる。
「俺は、こいつの扱いを心得てる。命を奪うことを平然と行える」
その目は木刀を通して、本物の刀を見詰めていた。
私の人生では、目にすることも手にすることも殆んどない代物。
物の怪共が振るっていたものと、同じ。
白さんの握る手に力が籠められ、澄んだ瞳が悲哀に歪む。
「俺はもしかしたら、奴らと同じ化け物なのかもしれない、なんて――」
「違う!!」
自分でも驚くほど、声を張り上げていた。
白さんも当然、先程よりも更に目を大きくしている。
でも、止まらなかった。
「貴方は私を守ってくれた。その刀は、誰かを傷つけるためじゃない、守るために振るわれたものだ!それは壊そうとするあいつらとは絶対に違う。白さんは、化け物なんかじゃない!!」
言い切った。
音の波が廊下に広がり、澱んでいた空気が吹き飛んだ気さえする。
この屋敷に来てから初めての大音量。
いや、それ以前にもこれほど声を張り上げたことがあっただろうか。
狭い廊下に声が残響する。
やがてそれが雨の音に溶ける頃、白さんが吐息混じりの声を吐く。
「――そうか」
その声は低く、柔らかい。
「君には、驚かされてばかりだなぁ」
眼前の真っ白な青年が、弱く笑んだ。
「実は、独りで居るのが恐ろしかった。独りでいると、自分がどんどん化け物のような気がして……」
白さんが顔を伏せる。
細く長い吐息は、今まで溜め込んでいた不安も一緒に吐き出しているようだった。
顔を上げた白さんは、少し晴れた顔をして「君がいてくれてよかった」と言った。
「誰かと共に居たかった。君が傍にいると、自分の在処が見付かったような気がしてな。守るなんて言っておきながら、縋っていたのは俺の方さ」
そう、だったのか。
私は、自分の恐怖に必死で、周りが見えていなかった。
白さんの恐怖に気付かず、彼の強さに甘えていた。
そして、それを緩和していたものも知らなかった。
「君が言うなら、俺は化け物ではないんだろう。……ありがとう、迷子」
そうして白さんがはにかむ。
ありがとう、なんて。
言わなきゃいけないのはこちらの方だ。
けれど、そうか。
私は、白さんの役に立っていたんだ。
強い人だと思っていた。実際、私より技量も精神もずっと頑強だ。
それでも、恐怖を持たないわけではない。彼だって生きているのなら。
そんな白さんの支えになれていたのか、私は。
戦う力はないけれど、私には私の出来ることがあったんだ。
「なあ、手を繋いでもいいかい?その方が、お互い安堵できるだろう」
「……うん」
それが、私にできることなら。
腕を伸ばして、彼の白い肌に触れる。
ほっそりと美しい指が、遠慮がちに私の手を包む。
大きな手。冷たい手。
「ああ……君の手は温かいな」
その手は、確かに私を守ってくれた手だ。
ぎゅっと握ると、一瞬驚いた白さんが、くすぐったそうに微笑んだ。
その笑みは、透き通るように美しく、無垢で気高い色をしている。
ああ、この人は、なんて純粋な人なんだろう。
力のない者を守ろうとして、自分を傷つけることも厭わない。
自身のことが分からない暗雲の中、それでもなお立ち止まらない。
優しく、強く、美しく、孤独な人。
この人はどこへ行くのだろう。
記憶を取り戻したとき、何が変わるのだろうか。
2017.11.23