それは、謂わば"欲"だった。 瞬間的に膨らんだ感情、何よりも優先すべき欲望。 無意識に全神経、全細胞が望んだ。 ――生きたい、と。 凶刃が眼前に迫ったとき、かつてないほど生を渇望した。 同時に、死を、悟った。 世界から音が消え、すべてがスローモーションに見える。 起き上がった"槍"の瞳に燃える紅は、先の"打刀"や"短刀"にも酷似したそれで、そこに理性は残されていなかった。 強い感情、憎悪、妄執、あるいは―― 強烈な投擲を放った肉体は、今度こそ完全に砕け、黒い塵と果てた。 放たれた凶弾は、私の頬を掠めた。 触れたのは僅か数ミリ。 摩擦と傷で熱を持ったそこから、赤い液体が零れる。 「迷子!おい迷子、しっかりしろ!」 「あ……」 白さんの呼びかけに、口から情けない声が漏れる。 全身が強張っていた。 すぐ傍に、死が横たわっていた。 白さんの陰に隠れていたはずが、一瞬で命が脅かされた。 もしあと数ミリずれていたら、私の頭蓋は粉々に砕けていただろう。 思わず自身を抱きしめて、四肢が動くことを自覚する。 生きて、いる。 思考を埋め尽くしていた生への執着が治まったとき、抑えていた恐怖が膨れ上がる。 熱を持った頬とは裏腹に、身体は冷水をかぶったように冷たくなっていた。 荒くなった呼吸は上手く酸素を取り込めず、全身に広がった震えが歯をかちかちと鳴らす。 死にかけた。 たった一撃で、私の全てが消えてしまう。 そんな状況だった。 今まで平凡な生を送っていたはずが、突然こんな場所に放り出され訳の分からないまま殺されかけて、どうして平気でいられようか。 分かっていた筈だったのに。 私は無力で、白さんに守ってもらうしかない現状に辟易していたはずなのに。 本当は、白さんの力に頼りきって弛緩していたのだ。 よく分からないけれど、きっと彼がいれば大丈夫だなんて安堵しつつ、そのくせ白さんがいなくなってしまったらなんて不安がって、最悪だ。 現状把握も満足にできていない愚か者。 私は、どこまでも弱い人間だった。 「迷子……」 白さんは屈んで私の肩に手を置いている。 なんとか頭を持ち上げた私の目に、彼の貌が映り込んだ。 美しい眉は下がり、金の瞳がこちらを心配そうに見詰めている。 この人は、こんなにも私を慮ってくれていたのに。 「ごめんなさい、わた、私……」 体が持ち上がらない。 力の入れ方を忘れてしまった。 立ち上がりたくない。また、あんな目にあうのは嫌だ。 怖い。 心がぽっきりと折れてしまった。 青くなって震える私を、白さんはじっと見つめている。 それから小さく唇を開き、短い息を漏らした。 「……そうか。君はこんなにも怯えていたのに、それを押し殺していたんだな」 「……」 白さんが、すっと目を伏せる。 「すまなかった、君の想いを無視して。それに、守ると言っておきながら恐ろしい目に合わせてしまった」 心底からの謝罪だった。 下げられた頭を見て瞬きをする。 「え……」 どうしてこの人は、そんなことが言えるのだろう。 「少し休憩しよう。焦ってばかりでは何も生まれないからな」 何故、私をかばってくれるんだ。 私は、最低な人間なのに。 のうのうと他人の力で生き延びることしかできないのに。 それなのに、白さんは私を見捨てないでいる。 「その後君はどこかに隠れていてくれ。なに、俺は君の近くを探索する。何かあっても君の元へすぐ駆けつけるさ」 彼はにかりと笑ってみせる。 白さんは、私を優先しようとしている。 私が弱いから、白さんが強いから。確かに、二人の能力は決定的に異なる。 でも、だからといって、私だけ逃げるのは。 「そんなの、ダメ、だ」 絞り出した声が震えていた。 恐怖と不甲斐なさと、色んな感情が混ざり混ざって頭の中はぐちゃぐちゃだ。 ぐちゃぐちゃのまま口をついて出た言葉。 「なっ!?」 同時に零れた涙を見て、白さんがぎょっとした。 「す、すまん!君を置いていくわけじゃなくてだな、その、なんだ!」 見るからに焦っている。 別に白さんのせいで泣いているわけではない。 というか自分でも何故涙が出たのか分からない。 とにかく、違うんだ。言葉を吐き出さねば。 「違うん、です。ダメなんだ。だって、白さんは戦ってるのに」 「それは……俺にその力があっただけだ。弱きを守るは力ある者の務めだろ?」 涙ぐんで上手く喋れず、無言で首をぶんぶん振る。 まるで子供のわがままだ。 全くもってみっともないけれど、これだけは言わせてほしい。 「わ、私だけ安全なところで、息をひそめているわけにはいかない」 刀を振るうのが白さんの務めだというのなら、私の務めは探索だ。 彼が身を挺してくれている分、最低限の探索は行わなければ。 それに私が隠れるとなると、白さんは私を守るため、隠れている場所から距離を空けることができない。 この広い屋敷を全て探索するために、私が隠れる場所を探して、私をそこへ置いて、警戒しながら周辺の捜索をと手順を踏まなければならない。 そんな手間を掛けている余裕はない。 だって白さんは、本当は。 「本当は、白さんの方がずっと怖い想いをしてるのに。私のせいで立ち止まるなんて、ダメだ!」 わめくような、涙混じりの声。 白さんの瞳が、大きく見開かれた。 「俺が……怖い?」 零れ落ちた疑問符に、しっかり頷く。 私は、鬼が怖い。この屋敷が怖い。死が怖い。 今までの人生で遭遇することの無かった、正体の分からない現象が。 混沌渦巻く空間が。 理由も分からないまま向けられた刃が。 分からないということは、恐ろしい。 知らないものは、恐怖や嫌悪の対象となる。 ならば、白さんは? 記憶を失い、自分のことでさえ不明瞭な白さんは、誰よりも恐怖を感じているのではないか。 周りの全てが分からないということは、暗闇の中を手探りで進むような感覚だろう。 一歩間違えれば、どこまでも沈んでいくような心地で。 恐怖の感じ方は人それぞれとはいえ、それはきっと今の私よりずっとずっと恐ろしいことだ。 それでも強い精神でそれらの恐怖を押し殺して、私を守ってくれていた。 なら、私は立ち止まるわけにはいかない。 白さんの与えてくれた恩を、彼の恐怖を無下にしてはいけない。 一刻も早く彼の記憶の手がかりを探して、この屋敷から出なければ! そうだ。 恐ろしい目に合った。けれどそれも過ぎたことだ。 安穏に浸っていた自分を思い知った。ならば立ち上がれ。 私は何一つ壊れてなどいない。だから動かせ。 だって私はまだ、白さんのために何も出来ていない! 「私は……貴方の役に立ちたい!」 拳を握り締めた。 床に当て、ぐっと力を込める。 縫いついてしまったかのように重い腰。 それでも懸命に食いしばって持ち上げる。 大丈夫だ、立てる。 私はまだ、歩いていける。 「白さん、行こう。この屋敷から出るために」 立ち上がった私を、白さんが見上げていた。 小さく開かれた口と、僅かに大きくなった目が、驚嘆していることを物語っている。 やがて長い息を吐き出した白さんは、軽く頭を振って立ち上がった。 「……そうか、見破られるとは驚いた。その通り、俺も怖いのさ。この現状も……俺自身も」 俯きがちで流れる前髪。 眉は下がり、伏せられた瞳は色濃い不安に揺れている。 それは白さんが私と出会ってから初めて見せる、弱々しい表情だった。 「自分のことを何も覚えちゃいないのに、刀を持てば腕が動く。奴らと対峙すれば躊躇なく仕留めてしまえる。刃を交えれば、昂りさえする」 ぽつりぽつりと紡がれる言葉を聞いて思い返すのは、刃の応酬から垣間見た好戦的な笑み。 物の怪と相対する白さんは、美しくも猛っていた。 「だが君の世では、刀を振るうのはきっと珍しいことなんだろう? 化け物を前に動けない君は、戦とは無縁な平和な世の中で生きてきたんだろう。それは喜ばしいことであり、君にとっては当然のことだ。……そんな君を見て、自分の感性が不安になった」 白さんが木刀を持つ手を持ち上げる。 激しい戦闘を繰り返した刀は、所々綻んでいる。 「俺は、こいつの扱いを心得てる。命を奪うことを平然と行える」 その目は木刀を通して、本物の刀を見詰めていた。 私の人生では、目にすることも手にすることも殆んどない代物。 物の怪共が振るっていたものと、同じ。 白さんの握る手に力が籠められ、澄んだ瞳が悲哀に歪む。 「俺はもしかしたら、奴らと同じ化け物なのかもしれない、なんて――」 「違う!!」 自分でも驚くほど、声を張り上げていた。 白さんも当然、先程よりも更に目を大きくしている。 でも、止まらなかった。 「貴方は私を守ってくれた。その刀は、誰かを傷つけるためじゃない、守るために振るわれたものだ!それは壊そうとするあいつらとは絶対に違う。白さんは、化け物なんかじゃない!!」 言い切った。 音の波が廊下に広がり、澱んでいた空気が吹き飛んだ気さえする。 この屋敷に来てから初めての大音量。 いや、それ以前にもこれほど声を張り上げたことがあっただろうか。 狭い廊下に声が残響する。 やがてそれが雨の音に溶ける頃、白さんが吐息混じりの声を吐く。 「――そうか」 その声は低く、柔らかい。 「君には、驚かされてばかりだなぁ」 眼前の真っ白な青年が、弱く笑んだ。 「実は、独りで居るのが恐ろしかった。独りでいると、自分がどんどん化け物のような気がして……」 白さんが顔を伏せる。 細く長い吐息は、今まで溜め込んでいた不安も一緒に吐き出しているようだった。 顔を上げた白さんは、少し晴れた顔をして「君がいてくれてよかった」と言った。 「誰かと共に居たかった。君が傍にいると、自分の在処が見付かったような気がしてな。守るなんて言っておきながら、縋っていたのは俺の方さ」 そう、だったのか。 私は、自分の恐怖に必死で、周りが見えていなかった。 白さんの恐怖に気付かず、彼の強さに甘えていた。 そして、それを緩和していたものも知らなかった。 「君が言うなら、俺は化け物ではないんだろう。……ありがとう、迷子」 そうして白さんがはにかむ。 ありがとう、なんて。 言わなきゃいけないのはこちらの方だ。 けれど、そうか。 私は、白さんの役に立っていたんだ。 強い人だと思っていた。実際、私より技量も精神もずっと頑強だ。 それでも、恐怖を持たないわけではない。彼だって生きているのなら。 そんな白さんの支えになれていたのか、私は。 戦う力はないけれど、私には私の出来ることがあったんだ。 「なあ、手を繋いでもいいかい?その方が、お互い安堵できるだろう」 「……うん」 それが、私にできることなら。 腕を伸ばして、彼の白い肌に触れる。 ほっそりと美しい指が、遠慮がちに私の手を包む。 大きな手。冷たい手。 「ああ……君の手は温かいな」 その手は、確かに私を守ってくれた手だ。 ぎゅっと握ると、一瞬驚いた白さんが、くすぐったそうに微笑んだ。 その笑みは、透き通るように美しく、無垢で気高い色をしている。 ああ、この人は、なんて純粋な人なんだろう。 力のない者を守ろうとして、自分を傷つけることも厭わない。 自身のことが分からない暗雲の中、それでもなお立ち止まらない。 優しく、強く、美しく、孤独な人。 この人はどこへ行くのだろう。 記憶を取り戻したとき、何が変わるのだろうか。 2017.11.23
DADA