七
湿気漂う暗い廊下、歩くたびに軋む床板。
広い屋敷の入り組んだ廊下はいくつか中庭に面しており、今歩いている廊下もその内の一つだ。
元は畑だったのか、中庭の土は僅かに畝の後が残っている。
けれど伸び放題の雑草が、長い間放置されていることを物語っていた。
廊下には窓も柵もついていないが、この中庭は構造的に屋敷の外には通じていない。
延々と続く雨雲から、しとしとと雨が落ちる。
雨音は相変わらず止む気配はなく、永遠に続く気さえする。
一体誰がこんなに空を泣かせているのだろう。
この屋敷の主……だろうか。
「いたっ」
ずっと外を見ながら歩いていたのでつま先を何かにぶつけてしまった。
足元に転がっていたのは、何かの破片。
見ればあちこちに同様のものが散らばっていた。
緩やかなカーブを描く面から元々は球体だったことが分かる。
どれもこれも薄汚れてくすんでいるが、昔は金銀銅の煌めきを持っていたのだろう。
「青江の持っていたものと同じやつみたいだな」
欠片の一つを拾い上げて、白さんが呟いた。
そのまま白さんが視線をずらすと、その先には閉ざされた扉が見えた。
あれが刀装の間、そしてその隣が顕現の間だろう。
「さて、何か有益な情報が転がっているといいんだがなぁ」
「そうですね……屋敷のことも、貴方の記憶も」
「……ああ」
白さんがかすかな声で答えた。
「……?」
その声が落ち込んでいるように聞こえて、白さんの顔を見上げる。
その顔は、笑っているのに、少し辛そうに見えた。
***
「――こいつはまた、骨が折れそうだな」
それは扉を開けた白さんの一言。
その後ろから続いて室内に入ると、中の有様に絶句した。
元々物が多い部屋だったのだろう、床中を埋め尽くす瓦礫、瓦礫、瓦礫。
派手に倒された祭壇のようなもの、張り紙が破れた壁の跡、そして当然のように刻まれた刀傷。
廊下に散らばっていたものと同じ玉の破片が好き勝手に転がり、足の踏み場もない。
これには青江さんも手出しできなかったのが分かる。
こんな状態で敵を気にしながら探索なんてとても行えないだろう。
「よし、一先ずこいつらをどうにか退けてみるとしよう。迷子、床の片付けは任せていいかい?」
「うう……任されます」
倒れた祭壇は白さんが対処するので、私はおとなしく床掃除を始める。
粉々になった破片を寄せ集めてみても、その用途は分からない。
"刀装の間"に大量にあったのだから、これが"刀装"と見て良いと思うけれど、そも刀装とはなんなのか。
刀に取り付けるのだろうか?
サイズは皆一様で、手の平に乗るくらいの大きさだ。
しかしどの破片を見ても元は見事な球体で、どこかに取り付けるための凸も凹もない。
刀に取り付けるのではなく、戦士達が球体をはめるような装備をしていたとも考えられるだろうか。
それにしても、装備したところで何の恩恵があるのかさっぱり分からない。
頭に疑問符を浮かべたまま、ひたすら屈んで謎めいた破片を集める。
探せば探すほど謎が増えていく感覚に眩暈を覚えた。
少し息を抜きたい。
黙々と破片を摘み上げていた手を止めて、腰を伸ばした。
畳ばかり見詰めていた視界が持ち上がり、祭壇を前に奮闘する白さんの姿が目に入る。
大きな祭壇は、ほかの瓦礫が折り重なって、引っ掛かっているらしい。
あっちこっちと瓦礫を弄る姿を眺める。
……彼だって必死に探している。
なら、私も探索を止めるわけにはいかない。
軽く息を吐いて、作業を再開した。
再び屈んで掃除しながら、ぼんやりと考える。
――もしこの屋敷の謎が解けて出口が見つかったとき、白さんはどうするのだろうか。
未だ記憶が戻らない彼は、引き続き屋敷に残るかもしれない。
その時は私も付き合おう。
けれど、白さんの記憶が戻ったなら。
この探索は終了し、私は私の帰るところへ戻るだろう。
そして白さんは、私の知らない彼の名前を呼ばれるところへ。
白さんが記憶を求めるのは、足のつかないような不安もあるけれど、心の底で戻るべき居場所があるのを覚えているからだと思う。
私は、"白さん"としての彼しか知らない。
白さんが全てを思い出したとき、彼は元の、"白さん"ではない人に戻る。
そうなったら、きっと私は不要だ。
今の関係も、終わり。
……破片を摘まんだ手が、止まってしまった。
終わり、なんだ。
この訳の分からない現状から解放されれば、白さんとの関わりも同時に失う。
それは、少し……いや、当然のことだ。
私には私の、彼には彼の帰るべき場所があるのだから。
でも、少しだけ、名残惜しい。
「よ……っと! ふう、案外重かったな」
床が軽く揺れて、意識が現実に引き戻される。
振り向くと、白さんが祭壇を起こしていた。
高さが天井近くまであり、倒れていたときよりもずっと大きく感じた。
それを、白さんは一人で起こしてしまったのだ。
「すごいですね白さん……」
「なあに、これくらい軽いもんだ」
白さんが自慢げに腕を叩く。
その細い腕のどこにそんな力があるのか。
白さんを褒めるのはそこそこに、祭壇の調査に入る。
中央に扉がついたそれは、神棚のようにも見える。
棚に置かれていた道具も全て滑り落ちていたので丁寧に戻してやると、"刀装"を乗せるのにちょうど良さそうなサイズだった。
この祭壇に"刀装"を供えて、何か儀式を行っていたのだろうか?
いや、逆か。
ここで何か儀式を行って、"刀装"を生み出していたと考えると、特別な力を備えているのなら装備する意味もある。
だが、この屋敷からの脱出の手がかりかと言われるとそうでもない。
見たところ刀装は全て砕けたものばかりで、私や白さんが装備して意味を成すかも確認できない。
新たな刀装を作成する方法も分からない。
残念だけれど、他の手がかりを探した方が良さそうだ。
「そうだなあ……なら、隣の部屋も見てみるとしよう」
白さんもこれと言って閃いたこともないらしく、多少足場の出来た部屋を横断して襖へ辿り着いた。
隣の部屋は顕現の間だ。
顕現という言葉は耳慣れないけれど、何かを呼び出す部屋だろうか。
これと同じような祭壇がおかれている内装を想像していると、白さんが難なく襖をスライドさせた。
「ん……? こっちはまた随分がらんとしているな」
その言葉の通り、顕現の間は予想とは裏腹に小ざっぱりとした部屋だった。
部屋は狭く、窓はない。
一面が障子になっているので薄明かりが届くが、部屋の空気そのものがしんと静まっている。
この部屋は不思議と荒れた形跡は少なく、しかし木端微塵に砕けた何かの欠片が中央に転がっていた。
その他には、大きな鏡が立てかけてあるくらいだ。
これが青江さんの言っていた鏡だろう。
細かな装飾で彩られた縁が厳かな雰囲気を作り出していた。
大きな鏡面は綺麗なままで、私の姿がはっきりと映り込んでいる。
背後まで歪むことなく映るので、思わず目を逸らした。
こんな薄暗いところで鏡越しに背後なんて確認したくない。
用途は不明だが、特に変哲のない鏡のようだ。
改めて、破片に視線を移す。
元は木のパーツを組み合わせたものだったようだ。
これも儀式か何かに使っていたのだろうか?
破片を弄繰り回して元の姿を連想してみる。
細長いものだ。何かを置く台座のようにも見える。
「刀掛けか?」
横から覗き込んだ白さんの一言。
刀を置くための家具。なるほど、この屋敷ならあってもおかしくはないだろう。
でも、それがどうしてこの部屋にちょこんと置かれていたのか。
刀の置かれた顕現の間。
刀に何か施していたのだろうか?
審神者は恐らく武器の管理を行っていた人物だ。
刀装といった不思議な道具もあったし、作り出した刀にも何か特殊なことをしていたのかもしれない。
この屋敷を閉じているのが審神者なら、刀に仕掛けていたことを知るのも脱出の糸口になる、のか?
「白さん……何か分かりますか?」
自分で考えても答えは出ないので、白さんの意見を仰ぐ。
と、またしても白さんは何か考え込んでいた。
その表情は見覚えがある。先ほど、刀装の間に入る直前と同じ目だ。
白さんは多分、なにか思い当っているのだろう。
それがなんなのか私には分からないが、白さんが口にしないのには理由がある。
それを口にしたとき、今の状況と何かが決定的に変わってしまうから。
それを、恐れているからだ。
変わってしまう。
今だけの関係は、やがて他人へと移ろいで行くだろう。
その横顔が、隣にいるのに遠く感じる。
所詮は他人だ。
繋いだ手も、今だけなんだ。
ふと、白さんが顔を上げた。
その表情は晴れやかとは言えず、まるで一つ覚悟を決めたようだった。
息を吸って、その唇が動く。
「迷子、君に――」
しかし、その声は掻き消えた。
――轟音。
津波だと思った。
空気が震撼し、音が響く。
背中から圧力が押し寄せ、前につんのめった。
「……!!」
声を上げる余裕も無い。
何が起こったのか分からないが、大きな存在が背面に現れた。
それだけは本能で察知し、転がるように部屋の奥へ逃げ込む。
白さんの背後に回ったところでようやく振り返った。
私たちが入った襖の右手側、廊下に連なる障子が吹き飛ばされ、そこに巨大な塊が居座っていた。
存在だけで内臓が潰されるような重圧感。
山のような巨体は非現実的だが、呼吸に合わせて上下する肩が確かに存在していることを示唆している。
そして、丸太のような腕で肩に担いでいるもの……あれも、刀なのか。
刃渡りは優に一メートルを超える大物。
その姿には見覚えがある。
出陣の間で見た、屋敷の住人達が戦っていた者共の絵。
絵で見ただけではその大きさを実感できなかった。
"大太刀"。
その名の通り、今までのどの異形よりも一際大きい。
その巨体から繰り出される一太刀を受ければ、この体は粉々に吹き飛ぶだろう。
"大太刀"はゆっくりと室内を見渡す。
そして――
「ッ!!」
私に目を付けた。
瞬間、フラッシュバックする恐怖。
"槍"と対峙した時に感じた死の吐息。
あの鬼は、私を殺せる力があると本能で感じ取る。
怖い、怖い、怖い。
――でも。
「迷子」
白さんが"大太刀"から目を逸らさないまま呼びかける。
その声は静かで、張り詰めていた。
「俺から離れるなよ」
「は……、ア」
返事をしようとしても、喉がひきつって呼吸もままならない。
でも、それでも、白さんがここにいる。
私と"大太刀"の間にすっと背筋を伸ばして立っている。
腰に差した木刀をすらりと抜き取るその所作に一片の隙もない。
今までの何処か戦闘を楽しんでいるような振る舞いは失せ、目の前の脅威に全神経を集中させていた。
大太刀の紅い視線が白さんへ移る。
「ア……アアァ……」
その大きな口から洩れるのは呻き声。
我々の理解は及ばない。
会話は期待できない。
ならば、出来ることは一つだけ。
刃を合わせるのみ。
「――行くぜ」
白い閃光が走った。
***
初撃は白さん。
光と見紛う速度で"大太刀"へ迫った。
だが、"大太刀"の懐は遠い。
白さんの剣先が届くより早く、巨躯に似合わぬ俊敏な動きでその凶刃が繰り出された。
「ッ!!」
脳天に振り落とされた刃を、白さんは両手で支えた木刀で受けた。
木刀と激しくぶつかり流れた力が、衝撃波となってこちらまで飛んでくる。
びりびりと全身を揺さぶる振動に身を竦めた。
「ぐっ……」
骨の髄まで軋む重さに、受け止めた白さんの体が沈む。
白さんが歯を食いしばるとその腕の筋が膨らみ、力任せに"大太刀"の刃を弾いた。
腕を弾かれても、"大太刀"の巨体は怯まない。
正面から受けるのはまずい――そう思ったのだろう白さんが後方に飛び退る。
「なら、こいつはどうだ?」
刀を構え直した白さんが、再び地を蹴る。
軽やかに飛んだその体は、"大太刀"の正面から大きく逸れて着地した。
それを追って振り向いた"大太刀"だが、その体が向く頃には、再び白さんは跳躍していた。
右へ左へ飛ぶ白さんに狙いを定められない。
"大太刀"が刀を振るっても、それが届く前に白さんの姿は消える。
巨躯に似合わぬとはいえ、"大太刀"の一挙はやはり白さんに比べれば鈍足だ。
大きく振り乱せば、付け入る隙は出来るかもしれない。
しかし――
「ガアァ!!」
痺れを切らした"大太刀"が、横に大きく薙いだ。
その一撃で、部屋中に突風が巻き起こる。
がたがたと危うい音を立て、柱や床が軋んだ。
「う……」
強風に煽られた体が傾いて、思わず声が漏れた。
私でさえこの威力、間近で受けたら……
嵐でけぶる視界の中、白さんが大きくバランスを崩したのが見えた。
そして、その向こうで刀を掲げた"大太刀"。
白さん、危ない――
「がっ」
くぐもった音。
鈍器で抉る、鈍い音。
それも一瞬、直後にけたたましい音と共に、軽々と吹き飛んだ白さんの体が襖へと沈んだ。
「――白さん!!」
2018.01.30