白さんの細く白い体が、容易く吹き飛ばされた。 "大太刀"の刀は、切るというより殴りつけるような一撃で、眼前の障害を振り払った。 「白さん!!」 悲鳴に近い声を上げて、傾いた体を無理矢理持ち上げた。 しかし、"大太刀"が引きずった爪先をこちらに向けた瞬間、硬直する体。 "大太刀"の巨体が、私と向き合っている。 紅い目が、私を見下ろしている。 白さんが、やられた。 あれの狙いは私だ。 逃げなくては。 私ではろくな抵抗も出来ず殺される。 だのに、体が動かない。 頭が真っ白になって、呼吸すらままならない。 全身を巡る悪寒に、歯がかちかちと音を立てた。 「迷子……逃げろ……」 白さんのかすかな声が届いた。 「白、さ……っ」 立ち込めた埃の中、破壊された襖に埋もれて垣間見える白さんの姿。 真っ白だった服が赤く汚れている。 額から垂れた血が伝う左目蓋を閉ざし、力なくうなだれていた。 白鴉のように羽ばたいていた姿が嘘のよう。 じゃり、と砂を擦る音。 "大太刀"が一歩、歩を進めた。 「……っ」 一目で酷い怪我だと分かる白さん。 それでも、その目は死んでいない。 「逃げろ!!」 吠えるように声を張った白さんの右目に貫かれ、反射的に立ち上がった。 「ッ!」 ああ、そうだ。 逃げなくては、逃げなくてはいけない。 だって私は、守られた。 怖い。死にたくない。 何より、彼の労力を無駄にはできない。 もつれる足を必死に動かす。 なんとか部屋の端へと行こうとするが、僅か数歩で躓き転んだ。 「あうっ」 恐怖で足が動かない。感覚が覚束無い。 痙攣していることすら認識できないほど動転していた。 「……」 "大太刀"が踏み出した一歩で床が揺れる。 ゆっくりとした単調な歩みは、着実にこちらへ近づいている。 逃げなく、ては。 巨体に預けた大きな刀が、錆の隙間で鈍く光を揺らめかせている。 せめて、襖一枚でも壁を、塞がなくては。 けれど、届かない。 その時は悠久のようにも思えて、その実あっさりと訪れた。 一際大きな揺れが体の芯に響く。 振り返れば、眼前に迫った大鬼。 膨れ上がった巨大な胴体の上から、紅い目が見下ろしている。 不気味な光が、ゆらゆらとこちらを見ている。 「ひうっ」 ひきつった喉から漏れたか細い音。 最早ろくに動かない思考では、自分が何をしているかも分からない。 ただあの紅い光から逃れようと、両手をばたつかせていた。 鬼が、腕を伸ばす。 私の体に触れようと。 大きな手、鋭い爪、濁った皮。 その距離はみるみる縮まり―― その時、右手の甲に何かがぶつかった。 硬く、広いもの。 それが何なのか理解する暇もなく、無我夢中で引き寄せる。 何でもいい、とにかく壁になるのならば。 鬼との隙間に滑り込ませ、めいいっぱい体を縮こまらせて、盾の奥に身を隠した。 それはあまりにも薄く、防壁というには心許ない。 悪足掻きにもならないような盾だった。 しかし、不意に止まった鬼。 「……ッ、……?」 予期していた衝撃が一向に訪れる気配がなく、恐る恐る盾から顔を出す。 見上げた"大太刀"は、腕を伸ばした姿勢のまま、僅かにも動かなかった。 その視線は、突如割り込んできた盾……私が引き寄せた大きな鏡に落ちている。 この部屋に入る時にも目にした、両手で抱える程の大きさの、滑らかな鏡面。 "大太刀"が一心不乱に見つめるそこに何が映っているのか、私からは見えない。 「ア……ア」 ようやく硬直を解いた"大太刀"が、緩慢な動作で半歩下がる。 そして、私へ伸ばしていた腕を自身の顔に運んだ。 その頬、その目、その鼻、その口。 形を確かめるようにぺたぺたと触れる歪な手が、僅かに震えているように見えた。 「な、ん」 予期せぬ行動に、ただ呆然と見上げる。 一体どうしたというのか。 先程までの不条理な暴力も恐ろしいが、今の"大太刀"の行動も意図が見えない。 「オオォ……」 その声は、およそ言葉としては成立していない。 けれど、まるで何か感情が……困惑が滲んでいるように思えた。 己の顔に片手を添えたまま呻く"大太刀"は、刀を持った側の手を力なくぶら下げている。 「いったい、何が……」 理解不能だと、意思疎通は測れないと思っていた異形の鬼共。 しかし、時折見せる感情、意志。 その機微は、あれらに自我があるかのように錯覚させる。 あれらは、否、彼等は果たして―― ざり、と床を踏む音。 微かな雑音に、形になろうとしていた言の葉は掻き消えた。 代わりに脳を埋めたのは、瞳に映し出された情報。 "大太刀"の後ろに現れた、白い影。 「……白さん!!」 白い衣の青年が、額に血の跡を付けたまま、幽鬼のように立っている。 これまでの堂々たる闘志は身をひそめ、白い肌は更に青白い。 しかしてその右目だけは、鋭い眼光で鬼を見据えている。 「……!」 その気配に気付いた"大太刀"が、弾けるように振り向いた。 だが、遅い。 次の瞬間には間合いを詰めた白さんがそこにいた。 「隙だらけだぜ」 白さんの刃が、腐り柔くなった肉に深々と食い込む。 「ゴ……オ、アァ!」 引き抜こうともがく両腕をものともせず、白さんが木刀を最奥まで押し込む。 歯を食いしばってただただ力を込める様は、彼が闘いを楽しむ余裕を捨てた事を悟らせた。 そのまま脇腹を真一文字に引き裂くと、黒く濁った液体が飛散する。 一切の躊躇もなく、一切の容赦もなく、冷徹な一太刀。 「ガ、ア、ア……ア」 苦悶の叫びを上げる"大太刀"。 胴体を裂かれれば、流石の"大太刀"も堪えられない。 その肉体から、みるみる生気が失われていく。 ……嗚呼、終わった、のか。 空間を支配していた巨大な怪物の気配が薄くなるにつれ、恐怖で冷え切った全身がゆるゆると熱を取り戻す。 息の上がった自分の体に、今まで呼吸を忘れていたことに気付いた。 「は、あ……」 大きく息を吸って、改めて顔を上げる。 膝をついた"大太刀"の巨躯が、末端から綻び始めていた。 それでもまだ"大太刀"は動いている。 傷口を左腕で押さえながら、残った右腕を持ち上げた。 「ア……アァ……」 震える腕は、未だ私へ伸ばされる。 鬼の目が紅く明滅している。 その瞳が、私を見ている。 ――何故、私を見る? その命が消えようという刹那でさえ、私を求めるのか。 なぜ、どうして。 恐ろしいのに、紅い光から目を逸らせない。 彼は、一体何を言わんとしているのか。 「……」 "大太刀"の後ろで、白さんが刀を払って腰に納めた。 血濡れた顔で、細い呼吸を繰り返している。 彼もひどい怪我を負っているはずだ。 それでも、"大太刀"の躰が完全に崩れ去るまで倒れまいとしている。 "大太刀"を厳しく捕らえていた視線が、不意に私の方へ向く。 私に怪我がないことを一通り確認して少し緩んだ目元が、次に私の腕の中……鏡へと向いた。 「――」 その瞬間、金色の目が大きく見開かれた。 鏡の中の何かを捉えた白さんが、体を反転させて廊下へ飛び出そうとする。 「待てッ――!」 瞬間、はじけ飛ぶ"大太刀"の体。 巨大な体躯に見合う以上の塵が霧散し、天井を覆う。 「な……!」 見上げた視界を染め上げた、圧倒的な質量の黒。 避ける暇もないまま、津波のように雪崩落ちる。 駆け出そうとした白さん、座り込む私も巻き込んで、黒い雨が降り注いだ。 *** 暗くなった視界、水底のようにおぼつかない感覚。 不鮮明に篭った音の中、薄目を開けて視覚を求めた。 ……否、目を開けたのは私ではない。 目を開けたのは、この記憶の持ち主だ。 靄のかかった視界の中で、誰かが眼前に立っているのが見える。 着物姿の女性……恐らく、以前の記憶で見た人物と同じだ。 「初めまして、私がこの屋敷の主……つまり、貴方の主となる者」 凛とした声……だと、記憶の持ち主は受け取ったらしい。 彼の記憶を通して見ている私には、その声もはっきりとは聞き取れない。 その立ち姿を上から下へ眺めた彼は、関心したように言葉を漏らす。 「へえ、今度の主が女人とは」 「……女じゃ不服?」 彼女の少し低くなった声に、彼は頭を振る。 「いいや、俺の生涯の中じゃ珍しいってだけだ。いい驚きをもらったぜ」 すると彼女は先ほどとは別の意味で首を捻った。 「驚き?」 「ああ、人生には驚きが必要なのさ。これまで長く人間の傍で生きてきた俺の持論ってやつだ」 「……ふふ」 その言葉を聞いて笑みを漏らした彼女に、今度は彼の方が不思議そうにする。 「なんだ?何がそんなにおかしいんだ」 「だって、私からすれば、貴方はまだ赤ん坊だもの。刀としてどれほど長い時を経たとしても、人間としては生まれたばかりでしょう?」 「……へえ、そりゃつまり、刀としての経験は役に立たないってことかい?」 「ううん、そんなことはない」と彼女は頭を振った。 「貴方は刀剣男士だ。刀ではなく、人間でもなく、神様なのかもしれないし、妖の類かもしれない。でも、刀としての経験は貴方の魂を形作るのに一番大事なもの。そして、その肉体は人間と限りなく近いもの。だから……私が貴方を導くよ」 一呼吸置いて、彼女が微笑む。 「主として、人間の先輩として、驚きを求める貴方に、最高のプレゼントを贈るよ」 その微笑みを、彼はまじまじと見つめる。 それから、つられたように微笑んだ。 「そうか、そいつは楽しみだ」 「うん、これからよろしく、XXX」 「ああ、よろしく頼む」 互いに差し出した手が、二人の中心で固く交わされる。 開け放たれた障子戸の向こうで、青々と茂る葉が風に揺れている。 どこからか薫る花の匂い。 池で跳ねる水音。 初夏の日差しが小さな部屋に届いていた。 *** 「……!!」 泥の底から一気に浮上するように、急激に意識が覚醒した。 一気に視界がクリアになって、ここが古びた屋敷の一室、今まで自分の居た顕現の間だと気付く。 辺りに散った黒い塵と、埋もれかけた古紙。 降りかかった塵を払いながら摘み上げると、やはりそれは日記の破片だった。 また誰かの……恐らく日記の持ち主の記憶を見ていたらしい。 ぼんやりと心許ない映像を必死に掘り起こす。 自ら屋敷の主と言った着物の女性、人生、刀、人間、刀剣男士……? 幾つかの単語を思い浮かべても、話の内容が理解できない。 そもそもあの会話は、どういう状況で行われていた? いや、それよりも、白さんはどうしてる。 先程の戦闘で酷い怪我を負った。 それに塵を被る直前、何かを追いかけようとしていたような。 「白さん!」 顔を上げて、白さんの姿を探す。 先程とほぼ変わらないところで、廊下の方を向いたまま膝をついていた。 近くにいたことに安堵しながら、彼に声を掛ける。 「白さん、怪我は……白さん?」 呼びかけても反応のない彼に近づきながら、背中が小さく震えているのに気付いた。 怪我の痛みにうずくまっているのだろうか。 あれほど派手に吹き飛ばされたのだし、動けない程大怪我で無理をしていたのかもしれない。 心配して、そっと顔を覗き込んだ。 「しろ、さ……」 ――すると。 彼は、泣いていた。 悲しいのでも、痛いのでもないような、呆然とした表情。 その頬を静かに涙が伝っていた。 突然の出来事に、伸ばしかけた手がはたと止まる。 傍にいる私にも気付いていないのか、はらはらと涙を零す白さん。 痛みに嘆いているわけではない。 丸みを帯びた目は、僅かに郷愁の色を滲ませている。 戸惑いながらも、その美しさに目を奪われてしまった。 涙を流し続ける彼を、ただ見守ることしか出来ない。 そして、長いような短いような時が経った後。 その口が僅かに開かれ、小さな吐息が漏れる。 「主……」 そう一言だけ、白さんは漏らした。 2018.02.27
DADA