八
白さんの細く白い体が、容易く吹き飛ばされた。
"大太刀"の刀は、切るというより殴りつけるような一撃で、眼前の障害を振り払った。
「白さん!!」
悲鳴に近い声を上げて、傾いた体を無理矢理持ち上げた。
しかし、"大太刀"が引きずった爪先をこちらに向けた瞬間、硬直する体。
"大太刀"の巨体が、私と向き合っている。
紅い目が、私を見下ろしている。
白さんが、やられた。
あれの狙いは私だ。
逃げなくては。
私ではろくな抵抗も出来ず殺される。
だのに、体が動かない。
頭が真っ白になって、呼吸すらままならない。
全身を巡る悪寒に、歯がかちかちと音を立てた。
「迷子……逃げろ……」
白さんのかすかな声が届いた。
「白、さ……っ」
立ち込めた埃の中、破壊された襖に埋もれて垣間見える白さんの姿。
真っ白だった服が赤く汚れている。
額から垂れた血が伝う左目蓋を閉ざし、力なくうなだれていた。
白鴉のように羽ばたいていた姿が嘘のよう。
じゃり、と砂を擦る音。
"大太刀"が一歩、歩を進めた。
「……っ」
一目で酷い怪我だと分かる白さん。
それでも、その目は死んでいない。
「逃げろ!!」
吠えるように声を張った白さんの右目に貫かれ、反射的に立ち上がった。
「ッ!」
ああ、そうだ。
逃げなくては、逃げなくてはいけない。
だって私は、守られた。
怖い。死にたくない。
何より、彼の労力を無駄にはできない。
もつれる足を必死に動かす。
なんとか部屋の端へと行こうとするが、僅か数歩で躓き転んだ。
「あうっ」
恐怖で足が動かない。感覚が覚束無い。
痙攣していることすら認識できないほど動転していた。
「……」
"大太刀"が踏み出した一歩で床が揺れる。
ゆっくりとした単調な歩みは、着実にこちらへ近づいている。
逃げなく、ては。
巨体に預けた大きな刀が、錆の隙間で鈍く光を揺らめかせている。
せめて、襖一枚でも壁を、塞がなくては。
けれど、届かない。
その時は悠久のようにも思えて、その実あっさりと訪れた。
一際大きな揺れが体の芯に響く。
振り返れば、眼前に迫った大鬼。
膨れ上がった巨大な胴体の上から、紅い目が見下ろしている。
不気味な光が、ゆらゆらとこちらを見ている。
「ひうっ」
ひきつった喉から漏れたか細い音。
最早ろくに動かない思考では、自分が何をしているかも分からない。
ただあの紅い光から逃れようと、両手をばたつかせていた。
鬼が、腕を伸ばす。
私の体に触れようと。
大きな手、鋭い爪、濁った皮。
その距離はみるみる縮まり――
その時、右手の甲に何かがぶつかった。
硬く、広いもの。
それが何なのか理解する暇もなく、無我夢中で引き寄せる。
何でもいい、とにかく壁になるのならば。
鬼との隙間に滑り込ませ、めいいっぱい体を縮こまらせて、盾の奥に身を隠した。
それはあまりにも薄く、防壁というには心許ない。
悪足掻きにもならないような盾だった。
しかし、不意に止まった鬼。
「……ッ、……?」
予期していた衝撃が一向に訪れる気配がなく、恐る恐る盾から顔を出す。
見上げた"大太刀"は、腕を伸ばした姿勢のまま、僅かにも動かなかった。
その視線は、突如割り込んできた盾……私が引き寄せた大きな鏡に落ちている。
この部屋に入る時にも目にした、両手で抱える程の大きさの、滑らかな鏡面。
"大太刀"が一心不乱に見つめるそこに何が映っているのか、私からは見えない。
「ア……ア」
ようやく硬直を解いた"大太刀"が、緩慢な動作で半歩下がる。
そして、私へ伸ばしていた腕を自身の顔に運んだ。
その頬、その目、その鼻、その口。
形を確かめるようにぺたぺたと触れる歪な手が、僅かに震えているように見えた。
「な、ん」
予期せぬ行動に、ただ呆然と見上げる。
一体どうしたというのか。
先程までの不条理な暴力も恐ろしいが、今の"大太刀"の行動も意図が見えない。
「オオォ……」
その声は、およそ言葉としては成立していない。
けれど、まるで何か感情が……困惑が滲んでいるように思えた。
己の顔に片手を添えたまま呻く"大太刀"は、刀を持った側の手を力なくぶら下げている。
「いったい、何が……」
理解不能だと、意思疎通は測れないと思っていた異形の鬼共。
しかし、時折見せる感情、意志。
その機微は、あれらに自我があるかのように錯覚させる。
あれらは、否、彼等は果たして――
ざり、と床を踏む音。
微かな雑音に、形になろうとしていた言の葉は掻き消えた。
代わりに脳を埋めたのは、瞳に映し出された情報。
"大太刀"の後ろに現れた、白い影。
「……白さん!!」
白い衣の青年が、額に血の跡を付けたまま、幽鬼のように立っている。
これまでの堂々たる闘志は身をひそめ、白い肌は更に青白い。
しかしてその右目だけは、鋭い眼光で鬼を見据えている。
「……!」
その気配に気付いた"大太刀"が、弾けるように振り向いた。
だが、遅い。
次の瞬間には間合いを詰めた白さんがそこにいた。
「隙だらけだぜ」
白さんの刃が、腐り柔くなった肉に深々と食い込む。
「ゴ……オ、アァ!」
引き抜こうともがく両腕をものともせず、白さんが木刀を最奥まで押し込む。
歯を食いしばってただただ力を込める様は、彼が闘いを楽しむ余裕を捨てた事を悟らせた。
そのまま脇腹を真一文字に引き裂くと、黒く濁った液体が飛散する。
一切の躊躇もなく、一切の容赦もなく、冷徹な一太刀。
「ガ、ア、ア……ア」
苦悶の叫びを上げる"大太刀"。
胴体を裂かれれば、流石の"大太刀"も堪えられない。
その肉体から、みるみる生気が失われていく。
……嗚呼、終わった、のか。
空間を支配していた巨大な怪物の気配が薄くなるにつれ、恐怖で冷え切った全身がゆるゆると熱を取り戻す。
息の上がった自分の体に、今まで呼吸を忘れていたことに気付いた。
「は、あ……」
大きく息を吸って、改めて顔を上げる。
膝をついた"大太刀"の巨躯が、末端から綻び始めていた。
それでもまだ"大太刀"は動いている。
傷口を左腕で押さえながら、残った右腕を持ち上げた。
「ア……アァ……」
震える腕は、未だ私へ伸ばされる。
鬼の目が紅く明滅している。
その瞳が、私を見ている。
――何故、私を見る?
その命が消えようという刹那でさえ、私を求めるのか。
なぜ、どうして。
恐ろしいのに、紅い光から目を逸らせない。
彼は、一体何を言わんとしているのか。
「……」
"大太刀"の後ろで、白さんが刀を払って腰に納めた。
血濡れた顔で、細い呼吸を繰り返している。
彼もひどい怪我を負っているはずだ。
それでも、"大太刀"の躰が完全に崩れ去るまで倒れまいとしている。
"大太刀"を厳しく捕らえていた視線が、不意に私の方へ向く。
私に怪我がないことを一通り確認して少し緩んだ目元が、次に私の腕の中……鏡へと向いた。
「――」
その瞬間、金色の目が大きく見開かれた。
鏡の中の何かを捉えた白さんが、体を反転させて廊下へ飛び出そうとする。
「待てッ――!」
瞬間、はじけ飛ぶ"大太刀"の体。
巨大な体躯に見合う以上の塵が霧散し、天井を覆う。
「な……!」
見上げた視界を染め上げた、圧倒的な質量の黒。
避ける暇もないまま、津波のように雪崩落ちる。
駆け出そうとした白さん、座り込む私も巻き込んで、黒い雨が降り注いだ。
***
暗くなった視界、水底のようにおぼつかない感覚。
不鮮明に篭った音の中、薄目を開けて視覚を求めた。
……否、目を開けたのは私ではない。
目を開けたのは、この記憶の持ち主だ。
靄のかかった視界の中で、誰かが眼前に立っているのが見える。
着物姿の女性……恐らく、以前の記憶で見た人物と同じだ。
「初めまして、私がこの屋敷の主……つまり、貴方の主となる者」
凛とした声……だと、記憶の持ち主は受け取ったらしい。
彼の記憶を通して見ている私には、その声もはっきりとは聞き取れない。
その立ち姿を上から下へ眺めた彼は、関心したように言葉を漏らす。
「へえ、今度の主が女人とは」
「……女じゃ不服?」
彼女の少し低くなった声に、彼は頭を振る。
「いいや、俺の生涯の中じゃ珍しいってだけだ。いい驚きをもらったぜ」
すると彼女は先ほどとは別の意味で首を捻った。
「驚き?」
「ああ、人生には驚きが必要なのさ。これまで長く人間の傍で生きてきた俺の持論ってやつだ」
「……ふふ」
その言葉を聞いて笑みを漏らした彼女に、今度は彼の方が不思議そうにする。
「なんだ?何がそんなにおかしいんだ」
「だって、私からすれば、貴方はまだ赤ん坊だもの。刀としてどれほど長い時を経たとしても、人間としては生まれたばかりでしょう?」
「……へえ、そりゃつまり、刀としての経験は役に立たないってことかい?」
「ううん、そんなことはない」と彼女は頭を振った。
「貴方は刀剣男士だ。刀ではなく、人間でもなく、神様なのかもしれないし、妖の類かもしれない。でも、刀としての経験は貴方の魂を形作るのに一番大事なもの。そして、その肉体は人間と限りなく近いもの。だから……私が貴方を導くよ」
一呼吸置いて、彼女が微笑む。
「主として、人間の先輩として、驚きを求める貴方に、最高のプレゼントを贈るよ」
その微笑みを、彼はまじまじと見つめる。
それから、つられたように微笑んだ。
「そうか、そいつは楽しみだ」
「うん、これからよろしく、XXX」
「ああ、よろしく頼む」
互いに差し出した手が、二人の中心で固く交わされる。
開け放たれた障子戸の向こうで、青々と茂る葉が風に揺れている。
どこからか薫る花の匂い。
池で跳ねる水音。
初夏の日差しが小さな部屋に届いていた。
***
「……!!」
泥の底から一気に浮上するように、急激に意識が覚醒した。
一気に視界がクリアになって、ここが古びた屋敷の一室、今まで自分の居た顕現の間だと気付く。
辺りに散った黒い塵と、埋もれかけた古紙。
降りかかった塵を払いながら摘み上げると、やはりそれは日記の破片だった。
また誰かの……恐らく日記の持ち主の記憶を見ていたらしい。
ぼんやりと心許ない映像を必死に掘り起こす。
自ら屋敷の主と言った着物の女性、人生、刀、人間、刀剣男士……?
幾つかの単語を思い浮かべても、話の内容が理解できない。
そもそもあの会話は、どういう状況で行われていた?
いや、それよりも、白さんはどうしてる。
先程の戦闘で酷い怪我を負った。
それに塵を被る直前、何かを追いかけようとしていたような。
「白さん!」
顔を上げて、白さんの姿を探す。
先程とほぼ変わらないところで、廊下の方を向いたまま膝をついていた。
近くにいたことに安堵しながら、彼に声を掛ける。
「白さん、怪我は……白さん?」
呼びかけても反応のない彼に近づきながら、背中が小さく震えているのに気付いた。
怪我の痛みにうずくまっているのだろうか。
あれほど派手に吹き飛ばされたのだし、動けない程大怪我で無理をしていたのかもしれない。
心配して、そっと顔を覗き込んだ。
「しろ、さ……」
――すると。
彼は、泣いていた。
悲しいのでも、痛いのでもないような、呆然とした表情。
その頬を静かに涙が伝っていた。
突然の出来事に、伸ばしかけた手がはたと止まる。
傍にいる私にも気付いていないのか、はらはらと涙を零す白さん。
痛みに嘆いているわけではない。
丸みを帯びた目は、僅かに郷愁の色を滲ませている。
戸惑いながらも、その美しさに目を奪われてしまった。
涙を流し続ける彼を、ただ見守ることしか出来ない。
そして、長いような短いような時が経った後。
その口が僅かに開かれ、小さな吐息が漏れる。
「主……」
そう一言だけ、白さんは漏らした。
2018.02.27