肝試し(後編)
いつからだろうか、姉から口を酸っぱくして言われ続けてきた言葉。 "女の子には優しくしなさい" その前後にも色々と言葉は並べられていた気もするが、ほとんど忘れてしまった。 覚えている限り一番古い記憶は幼稚園の頃、それから歳を取るにつれ、女子に泣かれる回数が増えていくばかりだった轟を見兼ねて掛けられた言葉だ。 今までその言葉の意味はあまり理解していなかった。 かつての轟にとって他人は関心の対象ではなかったからだ。 周りが開けた今も、"女の子"が何を指しているのか分からない。 自分の周囲の男子も女子も、同じヒーローを目指す者たちだ。そこに違いはない。 それは今隣にいるゆめも例外ではなく。 共にヒーローを目指す同士だからこそ、轟は彼女に興味を持った。 けれどゆめは突然態度を急変させてしまった。 それはかつて何度か経験したことに近い。 知らず知らずのうちに、女子にとってきついことをしてしまったか。 轟には原因が分からない。 分からないが、自分のせいで涙を見せることになるのなら、抱いた興味は捨て去るべきだろう。 そう思いながらも、轟はゆめに問うていた。 元来疑問に思ったことはすっぱり口にしてしまう性格だ。 しかしそれ以上に、自分にとって初めてまっすぐぶつかって、共に歩けた人間を失いたくなかった。 今までの人間は、元々良く知りもしなかったし、あっという間に離れていった。 もしゆめもまた離れていくとしたら、少し、胸の奥がざわつく。 しかし、ゆめは轟のせいではないと言った。 結局理由は分からないままエンデヴァーの話でうやむやになってしまったが、ゆめの調子がすっかり元に戻ったので追求しないことにした。 きっかけが父親だと言うのは釈然としないが、仲間を失うよりはずっといい。 ゆめのふにゃっとした笑顔に、仄かに安堵していた。 ゆめが轟の差し出した手に自身のそれを重ねる。 その手を見て気付いた。 自分より小さな柔らかい手。 細い腕が華奢な肩に繋がり、Tシャツから覗く首も自分のものよりずっと細い。 隣に並んだとき、自分の肩ほどの位置にある頭。 ――綾目って、小せえんだな。 上手く言えないが、"女の子"とは、多分こういうことだ。 隣の少女は、共にヒーローを目指す友であり、ライバルであることには変わりない。 けれどたった今、轟の中に新たなカテゴライズが生まれた。 そこに含まれたのは、ゆめが初めてとなる。 そのことに、顔に出さずひっそりと驚いた。 その変化は不思議と悪い心地ではない。 体育祭の時も、職場体験の時も、ゆめは轟には無かった思考を教えてくれる。 狭かった視界が、日に日に広がっていく。 抱いていた興味が更に大きく育つ。 彼女のことをもっと知りたい。 どうやってヒーロー科に入ろうとしているのか。 将来どんな夢を見るのか。 価値観。なんでもない日常の話。 家族のこと、母親のこと、祖母のこと、そして父親のこと。 *** 「なあ」 「……ん。あ、なにかな?」 轟くんが声を掛けたのに、考え事をして反応が遅れてしまった。 さっきまで震えあがってたくせに、この状況で考え事って自分で自分にびっくりだ。 それもこれも、轟くんと繋がっている右手のせいか。 控えめに握る大きな掌は、私の恐怖も包み隠してくれた。 ちょっぴり照れくささを感じながら、ゆるりと顔を隣に向ける。 轟くんは相変わらず表情に乏しい顔をして、さも当たり前のように手を繋いでいる。 本当に人助けの一環だと思ってそうだ。素直に尊敬する。 「おまえん家って、父親はどうしてんだ?」 「え――」 思わず言葉が切れてしまった。 「悪ィ。言いたくないなら別にいい」 「あ、ううん大丈夫。ちょっとびっくりしただけ」 それは、私にとっては突然の質問だったから。 でも、考えれば分かる。 轟くんの父親……エンデヴァーさんのことをよく話題にするわけだし、さっきもエンデヴァーさんのことかと反応してしまったし、こちらの父親が気になるのも当然だろう。 しかし、父親……父親かぁ。 「うーん、私のお父さん、は……物心ついた時には行方不明で……」 いや、言い方を間違えた。 こんな言い方をすれば、たいていの人は申し訳なく思うだろう。 「……悪ィ」 案の定、轟くんの声色がますます下がってしまった。 「いやいやえーと、むしろごめんね!」 お母さんの事と言い、私は自分の身の上を話すのがへたくそだ。 轟くんには気を遣わせてばかりで申し訳ない。 滅多に話題にしないから、上手い言い方が分からない。 というか、自分の事を話したのは轟くんくらいかも。 まあそれは置いておこう。 とにかく、私にお父さんはいない。 でもそれは、私にとって別に悲しいことじゃない。 良くも悪くも父親の記憶がないのだ。 寂しさや悲しさを感じることもないほどに、自分にとって父親というのは未知の存在だった。 同じ年頃の子供が父親に連れられているのを見て、自分にはああいう人がいないと不思議に思ったことはあったけれど、母から注がれた愛情は紛れもないものだったから、寂しいと感じたことはなかった。 「"お父さん"って、どういうものか分からないんだ。写真の中で、お母さんの隣に立ってる姿しか知らない。いないのを寂しいと思ったことはないけど、同級生がお父さんに買ってもらったものを持って来てたり、喧嘩したって聞くと……羨ましいなって思うことはあるかな」 私には、経験出来ないことだから。 お母さんも病院にいる今、おばあちゃんは沢山の子供たちの面倒を見ているし、一緒に買い物に行く機会は少ない。 喧嘩できるほど自分のことを見てくれる人、正面からぶつかってくれる人もそうはいない。 父親との思い出は、私にはどうやったって作れないものだ。 「だからね、こんなことを言うのもなんだけど、実は、轟くんが羨ましい……いや、ごめん、身勝手なこと言った」 ぽろりとこぼした感想だったけど、いい言葉ではなかった。 轟くんの場合、思い出なんて言葉で済ませられるものでもない。 彼にとってみれば父親なんて怨敵だろう。 でも、轟くんは怒らなかった。 「いいよ、綾目の本音なんだろ。俺はアイツを絶対許さねぇけど、おまえがどう思うかは自由だ」 声色は若干不機嫌そうだったけど、私の感情を否定しなかった。 本当、柔らかくなったなぁ轟くん。 私の中の父親像と、轟くんの父親像。 それはずっと異なるもので、どちらも間違いではない。 それを認めてくれたんだ。 「でもあいつはやめとけ」 「う、うん」 そこは念を押された。 それにしても、エンデヴァーさんが父親ってどういうものだろう。 職場体験での轟父子の記憶は新しいけれど、やっぱりエンデヴァーさんはヒーローとしての印象の方が強い。 お父さんがどういうものかもよく分からないし。 エンデヴァーさんがお父さん……うーん。 そういえば、昨日の女子会でもそんな話題があったような。 「あ」 昨日の話は、エンデヴァーさんが義理の父親になるって話だった。 つまり、その息子と。 いかん、またしても顔が赤くなってる。 爆発的な鼓動はなくなったとはいえ、本人を前にそういう考えになるのは恥ずかしい。 「どうかしたか?」 「い、いやぁ、なんだか今日は一日暑かったね!」 空いた方の手をうちわみたいに扇ぎつつ、繋いだ方の手汗が気になる。 「そうか?ああ、それで体調が悪かったのか」 「あはは、そんな感じかなー……でっ」 ごん。 笑ってごまかしていると突然何かにぶつかった。 こめかみにクリーンヒットしたので結構辛い。 前方不注意はこちらのせいだけど、唐突に現れる障害物というのも大概じゃないか。 「いたた……」 ぶつかったものの正体を確かめるべく、片手を突き出すと、平べったい何かに触れた。 いや……何かって、なんだ? だってそこには何もない。 ただ暗い道が続いているだけ……なのに、確かに壁が存在している。 瞬時に廻った頭は、ある回答を導き出した。 姿は見えず、人の前に立ちふさがる壁のような……妖怪。 「なななぬぬ塗り壁ェ!?」 「……"個性"じゃねえか?B組にいただろ」 慌てふためく私にかけられた、轟くんの冷静なコメント。 「……」 「……」 バキィ!! 羞恥と怒りから無言でパンチを放つと、それはあっさり割れる。 「グーでぶち抜いた!?」 同時に茂みから飛び出したのは、B組の円場くんだった。 見えないけれど円形に固定された空気、体育祭でも覚えのある円場くんの"個性"だ。 油断していたところに仕掛けられたせいで、またしても変な声が出てしまった。 恥ずかしいなもう! というか円場くんがいるじゃないか。 轟くんの手を強く握り締めていたのに気付いて、慌てて離す。 しかし時すでに遅し。円場くんがそのつぶらな瞳をこちらに向けて唇を噛み締めていた。 「クッソー轟、イケメンだからって女子とくっつきやがって……許せん!」 「? 怖がってる奴を気に掛けるのは普通だろ」 向けられた感情がまるっきり理解できないらしい轟くんに、ますます食って掛かる勢いの円場くん。 円場くんが何事か叫んでも、轟くんは淡々と言葉を返す。 当事者に含まれる私はかなり恥ずかしいので、男子二人で盛り上がらないでほしい。 というか別に轟くんがイケメンだからくっついてたわけではなく、いや確かに轟くんの顔立ちはとても整っているけれど、いやそうではなく。 人助け的な、そう。そのはず。 だからもうそれ以上追及しないでほしい。 「あの円場くん、本当に私が怖がってただけでそういうのは一切無いから……」 「止めるな綾目、これは男にとって――」 ヒートアップする円場くんが熱く語り出そうとした瞬間。 「……」 言葉は途切れ、開かれた口から空気だけが漏れた。 「……円場くん?」 その体が、私達の前でぐらりと傾く。 「!」 咄嗟に腕を伸ばした轟くんが、地面に倒れ込む前に支えた。 「おい、どうした円場!」 揺さぶっても反応がない。 円場くんは意識を失ってぐったりとしていた。 「っ!」 異臭がする。 気が付けば、周囲には煙が立ち込めていた。 円場くんがいた茂みは濃い煙に覆われ、白く染まっている。 「この煙……毒!?」 立ち込める煙を避けるように、轟くんが円場くんの体を引く。 「これも肝試しの仕掛けってわけじゃなさそうだな……まさか」 ヴィランか? そう続いた言葉に、耳を疑った。 この林間合宿は、終業式前の事件を受けて急きょ行先を変更したはずだ。 情報は秘匿されていたし、なおかつここはプロヒーローの庭。 そんなところにヴィランが? 「でも、どうして?」 ここがばれたのか。 何の為に現れたのか。 目的はいったいなんなのか。 「わからねぇ、だが……」 『皆!!』 「!!」 轟くんが気を失った円場くんを背負いかけた時、頭の中に声が響いた。 マンダレイさんの"個性"、"テレパス"だ。 その声は緊迫している。 『ヴィラン二名襲来!!他にも複数いる可能性アリ!動ける者は直ちに施設へ!!会敵しても決して交戦せず撤退を!!』 「……!」 はっきりと聞こえた、ヴィランという単語。 少なくとも二名、異端者の乱入が確定した。 マンダレイさんの交信ということは、スタート地点に二名現れたんだろう。 けれど周囲に漂うこの煙は、背中から追ってくるように流れている。 ということは、この森の中に煙の使い手――他のヴィランが潜んでいる可能性が高い。 見上げれば、空が赤黒く染まっている。 ざわざわと揺れる木々の向こうで、黒煙が揺らめいていた。 四方の空気がざわめき立ち、どこで何が起こっているのか分からない。 ……完全に油断していた。 肝試しに参加するだけなら必要ないだろうと、誰ともパスを繋いでなかった。 せめてスタート地点の状況が分かれば、何か打つ手はあったかもしれないのに。 くそ、どうしてこんな時に役に立たない! どうやって施設まで辿り着く? 免許のない私達は、例え相手が悪人でも"個性"で人を傷つけてはいけない。 そのことは職場体験で痛いほど身に染みた。 なら、今ヴィランに遭遇したら何ができる? 交戦せずに回避する方法……そんなのあるのか!? 円場くんを抱えている轟くんは、動きが大きく制限されている。 氷結の"個性"で牽制できるかもしれないけれど、細かな細工は難しいだろう。 私の"個性"なら、相手を傷つけずに足止めすることが出来る。 でも、発動には相手の体に触れなくちゃいけない。 そんな隙を作り出すには……ああもう、全然いい案が思いつかない! 「敵がどんな"個性"かもわからねえ以上、下手に手を出すわけにはいかねえな。他の奴らが心配だが仕方ねえ、ゴール地点を避けて施設に向かうぞ。ここは中間地点にいたラグドールに任せよう」 「あ……うん」 こんな時でも、轟くんは至って冷静に状況を判断していた。 材料が少なすぎる以上、ぐだぐだと思考を続けるのは無駄だ。 経験値の差を感じて心の中で唇を噛み締める。でも、反省は後だ。 駆け出した轟くんを追うように走り出す。 空を流れる黒煙は、ガスの"個性"とは別物らしい。 マンダレイさんのところに現れたであろう二人と、黒煙と毒ガスはおそらく別物だ。 一体何人のヴィランがここにいるのか。 何処からか流れてくる焼ける匂い。 空に木霊する喧騒。 こんなにも胸がざわつくのは、ヴィランのせいか、あるいはもっと別の予感がするからか。 「――ッ、止まれ綾目!」 「っ!」 前方を走っていた轟くんが急ブレーキをかける。 ゴール地点を避けると言ったけれど、まだ距離は少しあるはずだ。 それでも足を止めたのは、前方に人影が見えたから。 ――それは、一人の男だった。 細身の男。 その肌は不健康な青白さで、髪は白く無造作に跳ね回っている。 着ている衣服もしわが目立ち、脱力した佇まいはまるで病人だ。 顔はガスマスクに隠されている。 その姿は、生徒でも先生でも、ましてやヒーローでもない。 「……ヴィラン!」 鋭い声を挙げて、轟くんが右足を出す。 私も重心を下げ警戒態勢を取った。 けれど、数メートル先の男は変わらず無気力そうに棒立ちしている。 こちらに気付いていないはずがない。 だというのに、襲ってくるでもなく、フラフラと周囲を見回している。 「っかしぃなァ、この辺り、あいつの担当だったのにまァだ来てないのかァ?」 覇気のない声は存外若く、二十代……ともすれば十代くらいの青年を思わせた。 面倒くさそうに後頭部を掻き、ゆらゆらと所在無げに揺らしていた体を止める。 「まァいいやァ……俺の目的は別だし」 「……!」 男の気配が、一瞬で変わった。 緊張が走る。 鎌首をもたげる蛇のように、男の顔がゆっくりとこちらに向いた。 佇まいは変わらず無気力に見えるが、仄暗い炎が宿ったその目に射抜かれただけで、全身が委縮する。 「やァっと会えたなァ、ゆめチャン」 「なっ!?」 ねっとりと絡みつくような声。 あろうことかこのヴィラン、私を名指ししてきた。 いや、こうして襲われている今、こちらの情報が向こうに漏れている可能性は大いにある。 けれど轟くんでも他の誰でもなく、私だけを呼んだ。 「綾目を狙ってんのか……?」 狙われる。 その響きは嫌な記憶をよみがえらせる。 脳裏を掠めたのは病院の白、大事な人の眠る姿。 「なんで私を……いったい何者?」 警戒を強めて、問いかける。 男は言葉を返されて嬉しいとばかりに、表情は見えないが声に喜色をにじませた。 「さァて……俺は誰でしょう?」 その言葉と同時に、道の脇から溢れてきたガスの煙。 名乗ることのない男の体を飲み込んでなお勢いは止まらない。 「こっちだ!」 雪崩のように迫るガスを避けて、轟くんが森へと足を踏み入れる。 コースを外れるのは心配だけど、戦闘を避けるには仕方が―― 「待てよォ、せっかく会えたんだ。ゆっくりお話ししよォぜ」 「!!」 その声は、すぐ側から聞こえた。 ガスの中で揺らめく影。 この男、ガスに紛れて距離を詰めてきたのか! 飛び退きながら、攻略方法を巡らす。 「この毒ガスがあいつの"個性"!?」 「いや、それならわざわざマスクを付けて姿を現すのは不自然だ。自分にもダメージがあるって言ってるようなもんだろ!」 「なら、あいつの個性は……ッ!?」 突如煙の中から飛び出した。 それは、何の特徴もない紐状のもの。 しかし、反応の遅れた私に巻きつくと、強い力でぎちぎちと締め上げる。 これがあの男の"個性"……!! 弾力に溢れるようで、もがけばもがくほど強く食い込む。 そして、ゴムのように伸びれば当然引き戻ろうとする。 咄嗟に踏ん張った足も簡単に浮いた。 「綾目!!」 轟くんの声が、風を切る音に掻き消される。 「――!」 眼前に迫る白い靄。 抗う間もなくその中へ。 咄嗟に息を止め目蓋を閉じる。 肌に感じるガスの感触と、衝撃。 飛び込んで来た私の首を、男の手が乱暴に掴み上げた。 「……ッ」 「くはは、はじめましてェゆめチャン」 ガスマスク越しのくぐもった声。 表情は見えずとも、吐き気を催す下卑た笑いだけで嫌悪感を抱くには十分だ。 「センセェは元気……なワケないよなァ。イヒハハ!」 センセェ……? 相澤先生、ではない。オールマイト……を先生などとは呼ばないだろう。何の事だ? 睨む私を物ともせず、愉快そうに男は続ける。 「センセェだよセンセェ、ゆめチャンの大好きな人だろォ?」 大好きな人……? !! こいつ、お母さんのことを言ってるのか!? お母さんは病院で勤務しているとき、患者から"先生"と呼ばれることもあった。 この男はお母さんを知ってる?患者だったのか? でも、お母さんが勤務していたのは10年前だ。この男もまだ子供だったはず。 「あァ……センセェに会いたいなァ……」 男は恍惚として吐息混じりの言葉を吐き出す。 それは在りし日の情景を思い浮かべているようにも見えるけれど、その心理は測れない。 何故お母さんに執着する? 何故お母さんを知った人間が、私を狙う? 胸のざわめきが、じわりと広がる。 「はな、せ」 息を止めるのも限界が近づいてきた。 どれだけもがいても、男の手は緩まない。 私のあがきなど気にも留めず、男は独り言のように語り続ける。 「可哀想になァゆめチャン、センセェの事なんて殆んど覚えてないだろォ?だってセンセェは……クヒヒ!」 なにがおかしい。 どうして笑っている。 ……何を言おうとしている。 「センセェは、俺が壊したもんなァ!!」 「――!!」 何を、言っている。 何を馬鹿な、だってお母さんの事件は10年も前のことだ。 この男だってまだ子供だったはずだ、それなのに! 「あぁァ、最高だったなァ……センセェをぐちゃぐちゃにして、泣いても叫んでも謝っても絶対に止めてやらなかった。センセェの"個性"も最高のショーになったし、全部全部俺のものだったのになァ」 嘘だ。バカな。そんなことあるものか。 だって犯人は全員逮捕された。主犯格は死んでしまったはずだ。 この男が、当事者である筈がない。 それなのに、どうしてこいつは、さも目にしてきたかのように語る? 何故その穢らわしい口で、母のことを語る? 分からない、分からない、分からない。 こいつがなんなのか、訳が分からない! 頭が痛い。酸素が足りない。 怒りとショックで思考が混濁する。 「あァ……どうすればセンセェに会える?どうすればセンセェはまた俺を見てくれる?」 「ぐ、う」 言葉を重ねるごとに、男の手に力が入る。 その腕を掴んで引きはがそうとしても、その細い体のどこから力が湧いてくるのか、男はまったく動じない。 呼吸を止めているとはいえ、じわじわと気管が圧迫される感覚は苦しい。 「なあ、アンタセンセェの娘なんだろォ?センセェの大事なモノ壊せば……起きてくれるかなァ?」 「な、にを」 向けられた視線が、ガスマスク越しにもどろりと濁っているのが分かる。 壊す、私を? 自分の快楽のためだけに、この男は他人を傷つけようとしている。 お母さんの時もそうだったというのか。 狂ってる……! 「は、なせ」 か細い声で抗うと、男はゆるゆると頭を振った。 「カハハ、ここでは壊さねえよォ、後からのお楽しみだ。ゆめチャンの"個性"も……センセェと同じなんだろォ?」 「……!」 にちゃり、と嗤う音がした。 それが意味することは。 私も、お母さんみたいに――!! 「ま、とりあえず……寝とけや」 冷たい言葉と共に、掴み上げていた喉が解放される。 と同時に、腹部を強打する拳。 「カハッ……」 溜めていた空気が全て押し出され、反射的に吸い込んだガスがあっという間に空の肺を満たす。 「しまっ、く、あ……」 途端に歪む視界、朦朧とする意識。 力を失った足が崩れ、体がぐらりと傾く。 辛うじて映ったのは、マスクの下の男の笑み。 この男が、お母さんを……? 私も、同じように? 分からない、分からない。 けど、ああ、ダメだ。 轟くん……逃げ…… ………… …… --- 後書き。 宿敵キャラ登場です。 2017.11.17
DADA