強襲
「綾目!!」
一瞬の出来事。
コマ送りのように過ぎていく光景。
伸ばした腕も空しく、轟の目の前でゆめは毒ガスの向こうに飲み込まれていった。
「……ッ!」
煙中から僅かに届く男の声。
先程の男がゆめに向かって何かを語っているようだ。
しかしガスは濃く渦巻き、二人がどの辺りにいるのか把握できない。
氷結の個性を闇雲に打っても効果は薄いだろう。
それに、無免許では相手を傷付ける"個性"は使用できない。
防衛手段としての使用は看過されるとはいえ、過剰な攻撃は禁止されている。
例え仲間を守るためでも、相手が犯罪者でも……そして、仲間を奪われた状態でも変わらない。
毒ガスがどれだけの影響があるのか分からないが、背負った円場は一向に目覚める気配がないのを見るに、あの中に居続ければ危険なことは確かだ。
轟は思考を続ける。
打開策を迅速に、この状況で打てる手は――
「ゲホッゴホッ!くっそ……」
「!」
背後からの声。
悪態をつきながら姿を現したのは、見知った顔の少年……爆豪だった。
口元に手を当てむせ込んでいるところから、ガスを軽く吸ってしまったようだ。
「爆豪!」
「あ……?てめぇこんなとこで何チンタラしてやがる」
轟の姿を認めた爆豪はあからさまに眉を寄せ、次いでその背後にある不自然なガスの塊を見てますますしわを濃くした。
爆豪の背後にも同様のガスが広がっているが、前方のガス溜まりも同様の"個性"と考えるならそこだけ妙に突出している。
「綾目が捕まった」
「あの眼鏡か……何しとんだてめぇ」
舌打ちをして前方のガス溜まりを睨む爆豪。
ヒーローの卵としては同級生の窮地を見過ごせないのだろう。あるいは施設への道中の障害と判断したのかもしれないが。
守れなかったことを指摘された轟は歯噛みする。
失態だ。けれど、まだ奪還の余地はあるはずだ。
「おまえのペアはどうした?」
「知るか。最初に走ってどっか行ったわ」
爆豪のペアは確か青山だったはずだ。
この場にいないことが吉か凶かは分からないが、とにかく無事でいることを願うしかない。
今はこの状況をどうやって二人で対処するかが問題だ。
「奴の"個性"は伸縮自在の紐みたいなもんだ。ガスの中にいちゃどこから飛んでくるかも分からねえ。爆豪、何か手はあるか?」
「んなもん全部ぶっとばしゃいいだろ」
「おまえな……」
そんなやりとりをしていると、気だるげな声と共にガスが揺らめいた。
「『爆豪』……あァ、何やってんだアイツ。追い付いちまったじゃん」
「!」
突如煙が晴れ、男が姿を現す。
まるで男の声に呼応するように晴れたガス。だが、轟達の背後には変わらず同じ煙が漂っている。
男の無気力な出で立ちは変わらないが、その腕にはゆめが捕えられていた。
目蓋を閉じて、青白い顔で脱力している。
「綾目!」
すかさず右足から氷を延ばす轟。
しかし男は容易に躱した。
貧弱そうな外見とは裏腹に、俊敏な動きだ。
「おぉっと危ない。クハ、ゆめチャンが凍ったらどうしてくれるんだよォ」
「くそっ」
唇を噛む轟と反対に、男がマスクの裏で愉快そうに嗤う。
不意に、その顔に影が落ちた。
「ア?」
「すっとろいんだよ!」
氷塊に隠れ、爆豪が迫っていた。
"爆破"で勢い良く宙を飛び、ゆめ目掛けて右腕を伸ばす。
男は声から弾みを消して、退屈そうに息を吐いた。
「爆豪……お前みたいなのは嫌いだけど、最低限の仕事はしないとなァ」
ゆめを背後に隠し、掠めた爆豪の腕を男が掴む。
「!」
そのまま投げ飛ばされる――直前、左手で"爆破"した爆豪が強引に反転する。
引っ張れてバランスを崩した男がその腕を離し、爆豪は距離を取って着地した。
「逃げんなよォ。おまえ逃がしたら怒られるの俺なんだから」
依然としてゆめを捕らえたまま悠々と構える男。
体術の類ではないが、その身のこなしは素人ではない。
こちらは二人だというのに対処できるかどうか、もしかすればあちらの方が優位と思える程に。
男の不気味な佇まいは、何を考えているのか分からない。
だが、ガスから姿を現してなおこの場を離れないということは、目的がまだあるのだろう。
「爆豪も狙ってんのか……?」
「ッんでそうなる!捕まってんのは眼鏡だろうが!」
「目的が一人とは限らねえだろ。不用意に突っ込むな」
「るっせぇ!」
イラついた爆豪が怒鳴る。
その時。
「……んお」
呑気な声を挙げた男。
その背後で何かが蠢いた。
「!」
一瞬。
音も無く伸びた無数の刃。
「ッ!」
轟が咄嗟に氷壁を生み出すと、鋭い音を立ててそれらが食い込んだ。
連撃に氷が軋み、隙間から刃が覗く。
「あァ、やっと来たか」
刃は森の奥、男が見上げた先から延びていた。
その根本には、黒衣をまとい、その上から拘束具でがんじがらめにされた男。
両腕も視界も塞がれ、無理やりこじ開けられた唇はめくれあがり歯茎がむき出しになっている。
その歯が文字通り無数の刃となり、地面に突き刺して器用に自重を支えていた。
「見とれてたきれいな肉面に。ああでも仕事しなくちゃ……耐えなくちゃ……愛でるのはその後だ」
「新手だと……?!」
不気味な言動を繰り返す男。
一人でも対処しきれなかったヴィランがもう一人。
「はァ……相変わらず訳わかんないヤツだなァ。まあいいや、ここはお前に任せる。俺はこの子を持って帰るよォ」
白髪の男がゆめを軽々と担ぎ上げた。
「っ待て、綾目を返せ!」
轟が声を張り上げると、鬱陶しそうに首を傾ける男。
「あァ?返さねェよ。この子は俺のだ、俺のために使う」
「あァでも」と付け加え、男は片腕でゆめを吊り上げる。
変わらず意識を失ったままのゆめの顔をじろじろと眺めている。
「ゆめチャンはセンセェにそっくりだなァ……使う前に、味わっておこうか?」
そうして男は心底愉快そうな声色で語った。
「おまえ……!」
声を震わせた轟が、氷の山を男目掛けて放った。
が、男に届くよりも速く刃の雨が降る。
「くっ!」
敢え無く防御に回るしかなかった。
拘束具の男の個性は動作が速く、轟では防ぐのが手一杯だった。
木々の中では炎熱の"個性"も爆豪の"爆破"も大規模なものは使えない。
手が出せない爆豪も苛立っている。
「逸るなよ。ゆめチャンはお前のじゃない」
氷が震える程の衝撃の向こうで、男が背を向ける。
その足が森の奥へと進んでいく。
「待て!!」
「待たねェよ。じゃあな轟焦凍」
男の声が遠ざかる。
ゆめの姿が、闇の中へと沈んでいく。
"個性"も腕も、届かない彼方へ――
「――待て」
***
『雄英生総員――戦闘を許可する!』
『ヴィランの狙いの一つ判明――生徒の「かっちゃん」!「かっちゃん」はなるべく戦闘を避けて!単独では動かないこと!わかった!?「かっちゃん」!!』
それはマンダレイの"テレパス"。戦闘許可の知らせだった。
だが、二人目のヴィランの攻撃に反撃の余地も封じられている。
ガスを吸ったのか意識を失った様子のゆめが、白髪の男に担がれ消えていく。
為す術なく、見逃す事しかできないのか。
唇を噛む轟の耳に、それは届いた。
マンダレイの"テレパス"ではない。
爆豪の声でもない。
勿論ヴィラン達でもない。
「待て」
はっきりと聞こえたその声は。
「……ア?」
気だるげだった白髪の男が訝しむ。
「待てって言ってんだよこの変態」
少女の声。
この場にいる少女は、綾目ゆめただ一人。
力無く四肢をだらりと垂らしていただけの彼女の声に他ならなかった。
一瞬止まった空気。その場にいた誰もが固まった。
そして、異変は静かに起こった。
「なに……」
無意識に言葉を漏らした男。
男の脇にぶら下がっていたゆめの体が、音もなく崩れたのだ。
あっという間に極小の粒となり、濃霧となってその場の人間全ての視界を覆う。
抱えていた感覚すら失った男が、空の腕を呆然と見下ろした。
「んだよあれ……」
「綾目の"個性"か……?」
奇妙なものを見たと眉をひそめる爆豪の隣で、漂う霧を目で追いながら轟が呟く。
自分で言っておきながらその言葉に確信はなく、疑問が占めていた。
ゆめの"個性"を発動するには、個人個人にそれぞれパスを繋げる必要があったはずだ。
轟とは接触する機会があったが、爆豪も同じものを見ているらしいことを踏まえると、パスとは無関係に発動しているらしい。
ゆめの新たな能力か。
だが、職場体験の時に散々悩んでいた事が、突如解決するものだろうか?
それに、何かが変だ。明確な形には出来ないが、違和感がある。
異様な光景に、白髪の男もまた疑問を口にしていた。
「ヘンだよなァ……あのガスを吸って目覚めるはずがない」
これをゆめの"個性"と判断しても、昏倒していた彼女が突然覚醒したのは奇妙だった。
状況の読めない彼らを置いて、霧はますます濃度を増す。
「おい、エセ眼鏡のやつ何しようってんだ」
爆豪が投げた疑問。
エセ眼鏡という単語がピンと来なかったが、ゆめのことを指していることに気付いた轟は首を横に振った。
「分からねえ。あいつが"個性"をこんな使い方すんのを見るのは初めてだ」
敵味方を巻き込んでの大がかりな幻覚。
轟の氷結で冷えた空気も相まって、リアリティの高い霧が辺りを包み込む。
白髪の男は警戒している。轟と爆豪も動かない。
だが、拘束具の男だけは違った。
「肉……肉面を見せてよこんなものはいらない」
「!」
轟目掛けて伸びる刃。
反応の遅れた轟が回避しようとしたが、間に合わず――
ドズ。
鈍い音がして、凶刃が突き刺さる。
「……あ?」
だが、それは轟ではなかった。
霧が蠢き視界が揺れる。
僅かに薄くなった霧の向こう、刃が突き刺さったのは木の幹だった。
「あっはは、どこ狙ってるんだか」
その場に似つかわしくない笑い声。
少女の声が軽快な足取りと共に拘束具の男の背後から聞こえた。
「肉」
男は敏感に音を拾い、振り返りもせず正確に刃を伸ばす。
だが、それは獲物に掠りもせず地面に突き刺さった。
「ほらほらこっちだって」
「いやこっちかな?」
「あーこっちかもなぁ、あはは」
霧の中、少女の声が四方から響く。
拘束具の男が何度刃を向けても、それは空しく宙を掠めるばかり。
「これは……センセェと同じ」
白髪の男が呆けた声を漏らした。
驚いているのか、喜んでいるのか、マスクに隠れた表情は分からない。
「なんだこれ……」
轟は、まるでこの霧全てがゆめとなったかのような錯覚さえした。
いや、これは幻覚だ。間違いなくゆめの。
だがこれほどまでに大がかりな幻覚を、ゆめは今まで行っていただろうか?
キャパなど軽く超えてしまうのではないか。
疑問と"個性"に圧倒されて動けない轟だったが、ふと傍に何かの気配を感じ取った。
「何ぼーっとしてるの轟くん」
背後から聞こえた声。
ばっと振り返った轟の視界に入ったのは、先程まで白い顔でぐったりしていたはずの少女――ゆめの姿だった。
顔色は通常に戻り、しっかりと両足で土を踏みしめている。
「ッ、綾目!?」
「シッ、大声出さないで」
驚いた轟をたしなめるように、ゆめが自身の唇の前で人差し指を立てた。
その登場に気付いた爆豪が渋い顔でにじり寄る。
「てめ、どういう状況だ説明しろ」
「あはは、見て分かってよ。これは私の"個性"だ」
「あぁ……?」
ケラケラと笑うゆめに、爆豪がピキリと青筋を立てた。
まるで人をおちょくるような態度に戸惑う轟。
轟が今までゆめに抱いていたイメージと雰囲気が違った。
誠実さと優しさを醸し出す柔らかな微笑みは形を潜め、今の笑い方はまるで正反対だ。
軽薄で、酔狂で、頬は釣り上がっているのに冷酷な目をしている。
例えるならそれは――
「この霧は目くらましにはなるけど、このまま黙って隠れてるわけにはいかないだろ。だからちょっと協力してくれないかな」
人差し指をくるくる回しながら、つらつらと言葉を並べるゆめ。
一呼吸置いて、その笑みを深めた。
「……反撃といこうや」
攻勢に出る。
相手はヴィランとはいえ、他者を傷付ける行為。
それを嬉々として語るゆめの表情。ぎらついた貌。
そう、例えるならそれは――
"野心顔"だった。
***
濃霧の中佇む二人のヴィラン。
白髪の男は真っ直ぐ立ち、けぶる視界を睨んでいた。
「ゆめチャンの"個性"、ここまで使えるなんて情報はなかったけど……まァいいやァ、手間が省ける」
ガスマスクの裏で口角を上げた男の頭上で拘束具の男――ムーンフィッシュが刃をちらつかせている。
「どこ、どこだよ僕の獲物……綺麗な肉を見せてくれよ」
「落ち着けよ。所詮これは幻覚だ。体がばらけたのは驚いたが、霧の感触はないだろォ」
白髪の男が前方に突き出した腕を上下に振る。
無数の霧のつぶてが腕に触れるが、その感触はなかった。
「所詮は視覚情報だけだ。本物と見分けるのは簡単カンタン」
そうして男は全身の力を抜く。
気だるげに見えて、その実隙の無い構え。
そして。
「――!」
男の右手。
霧の中から放たれた氷塊。
冷気を帯びたそれは甲高い音を立てて迫り来る。
「これは本物ッ!」
白髪の男が飛び退き、氷塊の上からムーンフィッシュが刃を飛ばす。
「!」
鈍い感触。確かに当たった。
「残念」
だが、またしてもそれは幹。
霧を割るように突っ込んできた影が嘲った。
「肉」
刃がその額を貫く。
だが、貫かれた筈のゆめの影は霧となって霧散した。
「バッカ、幻術しか出来ない奴が突っ込んでくるわけないだろォ!」
声を張り上げた白髪の男の後方から、今度は炎が飛び出す。
唸りを挙げて迫る熱と光。
「本物……ッ!?」
だが、男が飛び退った直後それは消えた。
「偽物だアホ!」
飛んだ方向には更に人影。
霧の中から突き出された爆豪の拳が、男の目前で開かれる。
「!!」
爆音。
顔面で"爆破"を喰らった男は、あえなくよろめいた。
その一瞬をムーンフィッシュが目ざとく捉え、刃を爆豪へ向ける。
「ッ」
刃が届く直前、爆豪との間に氷の壁が築かれた。
「てことは……二人ともそこかァ!」
走る男。
氷壁にぶつかる勢いで突っ込みながら、その左腕を振り上げる。
「こっちだ!」
「なにッ!?」
氷壁と炎熱が、疾駆する男の両脇から同時に現れた。
両方とも轟の"個性"ならば、どちらか片方は幻覚でなければおかしい。
だが、熱と冷気、その両方がリアリティも確かに肌に伝わって来る。
「……ッソがァ!」
声を荒げた男が左腕を振るった。
そこから放たれたのは大規模な暴風。
炎熱は揺らぎ霧に紛れ、氷塊にはひびが生じた。
「そっちか!」
氷塊の向こうに轟の姿を見た。
体を反転し、男が迫る。
「は、こっちこっち」
だが、その横から覆いかぶさるように飛び出した影一つ。
巨大な手。
男を捕えんと拳を広げる。
「んな明らかな幻覚、バレるに決まってるだろォ!」
それを無視して男が跳躍し、轟が身構えるが――
「ガッ!?」
男のこめかみに氷のつぶてが直撃した。
幻覚に紛れて放たれたものだった。
バランスを崩した男が墜落する。
「ぐ……ク、ソがァ」
強かに体を打ち付け身悶えている。
「こういう使い道もあるって知ってた?」
その言葉と共に、霧の中からゆめが姿を現した。
無様に地面に這いつくばる男を、嘲笑の目で見下ろす。
その顔には嘲笑がありありと見て取れるが、じりじりと開いた足は慎重に様子を探っていた。
その顔を見上げて一度苦々しげに息を吐いた男は、一度視線を後方にやった。
霧の中で伺っていたムーンフィッシュを無言で制した後、すぐに負けじと笑みを貼り付けてゆめを見上げた。
「あァ……驚いたよ。ゆめチャンがこんな小細工出来たなんてなァ」
「気安く呼ぶな」
冷たく吐き捨てたゆめが、大仰に腕を広げる。
呼応して彼女の背後に現れる氷塊、炎熱、爆破。
様々な色と温度、そして音を響かせて、霧の中で猛り狂っている。
それらはゆめが操る幻覚に違いない。だが、それらが五感を侵す感覚は本物と相違なかった。
「なんせ"手本"はここに居るんでね。視覚、触覚、聴覚、嗅覚……全部視せてやるよ」
幻覚の炎に照らされ浮かび上がる顔。
ゆめは、嗤っていた。
ヴィランを追い詰めたこの状況を楽しむように。
木の幹から顔を出す爆豪も、氷壁の奥で備える轟も、呆気に取られていた。
ゆめの"個性"の強さにも驚いたが、それ以上に覚える違和感。
肝試しが始まる直前のゆめとはまるで別人の表情は、ある種のおぞましさも、いっそ清々しいまでの美しさすら感じる。
地面に伏したまま、男も嗤う。
「カ、ハハ……いいねェ気に入ったよ。所詮センセェの代わりにもならないガキだと思ってたけど……ゆめチャンは、センセェにも迫る良品だァ」
納得したのか呆れたのか、男が大きく息を吐き出す。
改めて口を開いた男は、一つの提案を明示した。
「なァ、ゆめチャン……こっち来ないか? 本当はそのまま持ってくつもりだったけど、仲間にするのも悪くないってなァ」
「なっ」
その言葉を聞いた轟は、思わず飛び出しそうになった。
成り行きを見守っていた爆豪も眉を顰める。
だが、ゆめは至って冷静だった。
「はぁ? 寝言も大概にしろ。私はヒーロー志望だ、どんな手を使ってでもヒーローになる。お前等はヴィランだ、悪だ、敵だ。どう転んだって有り得ないだろ」
眉を寄せ呆れ返るゆめが、「それに」と付け加える。
すっと消えた表情。
冷たい色をした瞳が男を見下す。
「お前は母の事を侮辱した……それだけで十分だ」
――殺してやるよ。
演者のように愉しげに語っていたゆめが、打って変わって素っ気なく吐き捨てた言葉。
地を這うような声の一言には、かつてない怒気と殺意が凝縮されていた。
それは、本気の証だ。
ゆめは本気で殺そうとしている。
だが彼女は、轟と共に復讐に駆られた者の姿を見てきたはずだ。
私怨で霞んだ眼では大義を仰ぐことは出来ないと、嫌という程理解しているはずなのに。
様子のおかしい同級生を案じて、轟が動く。
「綾目……」
「――は、は、ハハハハハハ!!!」
だがそれよりも早く、突如大声で笑いだした男。
自分の置かれている状況も忘れ、狂ったように笑い続ける男の声が空気を震わせ、周囲を混沌へと引きずり込んでいく。
「な……」
その異常な振る舞いに戸惑ったゆめは感情を乱され、半歩足を下げてしまった。
その隙を突いて男が飛び起きる。
先の戦闘で"爆破"を浴びて綻びたマスクが、反動でずるりと傾いた。
「カハハハ、いいねェ最高だ!殺す、殺すってかこの俺をォ!」
開かれた目蓋の奥で、眼球がぎょろりとゆめを捉えた。
唇は裂けん勢いで吊り上がり、鼻も膨らんでいる。
青白くこけた頬は唇の赤らみを異様に目立たせ、落ちくぼんだ両目は血走っていた。
不健康極まりないが、確かに若い男だ。
初めて目にするその顔、その表情。
嗤っている。
心底愉しいと、嗤っている。
「やってみせろよゆめチャン……俺を殺してみろ」
張り付いた笑みはそのままに、男はゆるゆると声量を落とした。
瞬間。
「――ッ!?」
ゆめの全身を悪寒が襲った。
距離のある轟と爆豪も、男の発した圧を前に怯む。
「……ッ!!」
轟には近い経験があった。
ゆめも体験したであろう、"ヒーロー殺し"の気配。
プロヒーローですら気圧される程の気迫。
だが、眼前の男のそれは、"ヒーロー殺し"の何にも折れぬ妄執とは異なる。
快楽、欲望、愉悦……自身の利己心を煮詰めて凝縮したような禍々しいものだった。
「こっからはちと本気を出すぜェ……」
じわりと腰を落とす男。
幻覚の霧も消える程の濃度で膨れ上がる気配が、場を満たす。
眼前の男から目を離せない。
呼吸をするのも忘れる程、男に意識が集中する。
気配が満ちて、満ちて、満ちて、はじけ飛ぶ――
直前。
「……あァ?」
遠く離れていた喧騒が、にわかに近づいてきた。
何かがこちらに向かっているらしい。
破裂寸前の気配は一気に萎み、顔を上げた男は怠惰に目蓋を落として溜息をついた。
「いいところで邪魔が入ったか……あー、やる気無くした」
男が頭を掻きながら、後方で待機していたムーンフィッシュに手を振る。
「ここは元々お前の担当だし、俺もう外れるわ」
「あ……あ、肉、肉を見ないと」
ギチギチと歯を鳴らして動き出したムーンフィッシュ。
その刃の裏に身を引いて、白髪の男はゆめに振り返った。
「今回は手を引いてやるよ……でもまた迎えに来るからな。折角だから名乗っとくよォ。俺の名は"メタ"。モチロン本名じゃないけどなァ……ヨロシク」
「じゃァなゆめチャン」と言葉を残し、白髪の男の姿が闇に溶ける。
「ま……待て、来るな死ね!!」
思い出したように声を張ったゆめが、消えた姿を追おうと片足を持ち上げる。
「止まれ綾目!」
「!?」
それが地に着く前に轟の静止がかかり、足が着地するはずだった地面を刃が貫いた。
再び攻撃を始めたムーンフィッシュ。
迫る無数の刃の雨を、轟の氷壁が凌ぐ。
「オイ眼鏡、ぼさっとしてないで"個性"使え!」
連撃の音に掻き消されないよう大声を出す爆豪。
場所が割れては近付けない、先程のように場を攪乱しなければ。
派手に動けない爆豪は、低い沸点にあっという間に到達していた。
しかしゆめは首を横に振る。
「いや……その必要はないね」
そう言って近付く騒音の方を指さすゆめ。
その声には覇気がない。
男の気に当てられたか、その体を重たそうに引きずっている。
「ああ?」
先程の喧騒が更に近付いていた。
地面すら揺るがすような騒動に、轟もムーンフィッシュも顔を向ける。
「いた!氷が見える、交戦中だ!」
「あ……?」
騒音は轟音に変わり、雪崩のように崩れる木々が迫っている。
その中心には、暴れ狂う巨大な"影"と、逃れんと必死に掛ける少年。
「爆豪!轟!どちらか頼む――光を!!」
「障子、緑谷……と、常闇!?」
巨大な影を引き連れているのはA組の障子。
そして背後の影は、常闇の"個性"だった。
予想外の人物達の登場に驚く轟。
その視界の端で、ゆめがふらりとよろめいた。
「あー……ゴメン、時間、切れ」
「――……綾目?」
小さな声が届いたのは轟だけだった。
振り返った轟が、片腕を突き出す。
ゆめの体が倒れるのと、"ダークシャドウ"がムーンフィッシュを圧し潰すのはほぼ同時だった。
2017.12.03