夏休み最終日・その1
真っ白な壁、真っ白な天井。
すれ違った看護師さんに会釈しつつ、病院の廊下を歩く。
辿り着いた扉の前で一度深呼吸。
それから取っ手に手を掛けて、横にスライドした。
窓から入るそよ風がカーテンを揺らす。
レースを透かした朝日が、室内を淡く照らしていた。
そこはいつだって真っ白で、静かで。
小さな部屋の中だけ、まるで世界から切り取られたみたい。
「……お母さん」
ベッドの上で眠る人に、小さく声を掛けた。
返事はない。
ただ規則正しく上下する胸。
ベッドの脇に置かれた丸椅子に腰掛ける。
目蓋を閉じた白い顔に向けて、そっと口を開いた。
「私ね、仮免受かったんだ」
肩にかけた鞄から、小さなカードを取り出す。
真新しいツルツルした表面に指を滑らせながら、言葉を続ける。
「ヒーローへの一歩、やっと踏み出せた。ヒーロー科にも編入になって、明日から授業が始まる」
小さな病室に、私の声がこだまする。
ベッドから伸びる管、それが繋がった機械が規則的な音を立てる。
「ヒーロー、か」
この病室を訪れたのは久しぶりだ。
あれから色んなことがあって、未だに分からないこともあるけれど、少しは進めたかな。
前に来た時よりは、良い報告が出来たと思う。
入学して一番初めに落ち込んで、ここにきて思い出した。
私の目標。憧れた人。
「お母さんみたいな人に、なれるかな」
その場所は未だ遠く。
***
「あれ、どうしたの緑谷くん?」
「綾目さん!!」
学校に戻って私が向かったのは、A組の寮だった。
玄関を潜って出くわしたのは、大きなゴミ袋を抱えた緑谷くん。
「これはその……昨日ちょっと色々ありまして」
もにゃもにゃと言いにくそうにしている緑谷くんの後ろから、瀬呂くんが顔を出す。
「謹慎だよキンシン、昨日の夜爆豪と喧嘩したらしいぜ」
「喧嘩!」
バツが悪そうにしている緑谷くんの向こう、共有スペースの奥で爆豪くんがものすごい勢いでゴミをまとめていた。
二人とも体のあちこちに絆創膏を貼り付けている。
仮免試験から昨日の今日で元気なことだ。
「あっゆめちゃん!いらっしゃーい」
「さっき引っ越し業者の人達が荷物を運んで行ったわ」
お茶子ちゃんと梅雨ちゃんがひょこりと現れ、エレベーターを指差した。
二人はちょうど出掛けるタイミングだったらしい。
「そっか、ありがとう」
D組の寮からA組の寮へ、荷物の移動は学校側が対応してくれた。
私はこれから荷物を広げて生活スペースを確保する必要がある。
靴を脱いで室内に上がりつつ、寮内をぐるりと見渡した。
寮の構造はD組と一緒だ。
共同スペースは思った程人影がない。
まずテーブルに齧り付いているのは切島くんと上鳴くん、その二人を指導している八百万さん。
爆豪くんにゴミを回収してもらった常闇くんは、何やらむつかしい顔をしながら、障子くんや瀬呂くんの座るソファに腰掛けた。
ざっと見渡してそれくらいで、他の皆は自室だろうか。
全員揃ってるなら改めて挨拶でもと思ったけれど、今は軽く声を掛ける程度にしておこう。
「今日からよろしくお願いします」
「ああ」
「よろしくな!」
各方面から返事が返ってきたところで、部屋へ向かうとしよう。
と、ちょうどエレベーターが降りてきたと思ったら、小さなゴミ袋を抱えた轟くんが登場した。
夏休み最後は訓練もないので、轟くんはシャツとパンツのシンプルな私服姿だ。
「来てたのか」
「こんにちは轟くん。今日からよろしくね」
「ああ」
ぺこりと小さく頭を下げると、轟くんも僅かに頭を下げる。
それにしても、轟くんもゴミ出しか。
生活してれば毎日出るものだけれど、最終日だから纏めてるのかな?
と考えてる内にも、先程のゴミを捨ててきたらしい緑谷くんが、爆豪くんの纏めた袋を回収して再び玄関に消える。
その様子を見送っていると、爆豪くんの怒号が飛んできた。
「てめぇもさっさと部屋片付けてこい!いつまで経ってもゴミが出てくるだろうが!!」
謹慎処分がよっぽど気に食わないのか、いつにも増してイライラ気味だ。
「そ、そうだね。急いで片付けてきます」
勢いに押されるようにエレベーターへ向かう最中、切島くんが机から顔を上げてこちらを向いた。
「片付け終わったら降りてこいよ!」
「つか俺らもさっさと片付けねーと」
「それ以前に、新学期前日に宿題が終わっていない方が問題ですわ。切島さん、上鳴さん、集中!」
「「うっす」」
顔を合わせて頷きあっていた切島くんと上鳴くんは、八百万さんの叱咤に背筋を伸ばした。
……実は私も宿題が残っている。
物理でどうしても分からない問題があって、あわよくば八百万さんに解き方を教えてもらいたかったりする。
部屋を片付けて、まだ八百万先生の勉強会が続いているようなら混ぜてもらおう。
そう思って急いで部屋へ向かった。
エレベーターで五階まで上がって、自室の前にやってきたタイミングで、隣の部屋がガチャリと開いた。
「やっほーゆめちゃん!」
扉から廊下へ出たのは芦戸さんだ。
「あれ、ここは芦戸さんの部屋?」
「んーん、ヤオモモの部屋。ちょっと参考書借りに来た!」
言いながら分厚い本を片手で持ち上げる芦戸さん。
どうやら芦戸さんも勉強会に参加するらしい。
「勉強会って何時までしてるかな」
「んと、切島達の宿題が終わるまではやってるよ。ゆめちゃんは片付け終わったら降りて来てね!」
「うん」
後でねーと手を振る芦戸さんを見送って、自室のドアを開けた。
部屋の中に無造作に押し込まれた家具、積み上げられたダンボール。
さて、ちゃっちゃと片付けよう!
***
「……行ったな」
複製腕から目を生やした障子がエレベーターを確認する。
五階まで上がったエレベーターが、ややあって一階へと戻ってきた。
そこから飛び出した芦戸が、パタパタと皆の集まるソファへ駆け寄る。
「ゆめちゃん部屋入ってったよ!」
握り拳を元気に振り回す芦戸の言葉を聞いて、ソファで寛いでいた瀬呂が腰を上げる。
「さーて、んじゃいっちょやりますか」
未だに不服そうな顔をしている常闇が重々しく口を開いた。
「……どうしてもするのか」
「えー、嫌なの?常闇、ゆめちゃんのこと嫌い?」
ソファ越しに覗き込む芦戸に、常闇は首を振った。
「そうではない!新たな同胞は歓迎する……だが」
「諦めろ、もう決まったことだ」
瀬呂がそっと肩を叩くと、諦めたようにがっくりと肩を落とす。
「では、俺は砂藤の様子を見に行こう」
立ち上がった障子はエレベーターへと向かい、残りの面々もそれぞれ動き出した。
轟は、物陰に隠すように置いてあった段ボールから中身を取り出して、それをじっと見つめる。
そこへ、ゴミ出しから戻ってきた緑谷が声を掛けた。
「轟くん、僕も手伝うよ」
「おお」
「……?」
返事はしたものの、轟の動きは鈍い。
どうしたのか尋ねる緑谷に、手元に視線を落としたまま、轟はぽつりと漏らした。
「なんか、新鮮だと思ってな」
「新鮮?」
「あんまこういうことはしたことねえ」
轟の手に持ったものと、彼の表情を交互に見比べてハッとする緑谷。
「そういえば僕も……」
「そうか……」
しんみりした空気を放つ二人。
「いいから手ぇ動かしてくれー……」
外野の瀬呂はそっと声を掛けることしかできなかった。
一方机に噛り付く二人の男子は、わいわいと沸き立つ声をBGMに未だ戦っていた。
「う、ウェ……文字が頭に入ってこねぇ」
「数字が踊ってやがる……」
顔の筋肉が弛緩しかけている上鳴の隣で、切島の手が静止する。
課題の問題文を何度も読み返していると、ふと頁に影が差した。
「んなもんこの公式当て嵌めれば一発だろうが」
次いで叩きつけられた教科書、そこに記された数式を指で示しているのは爆豪。
言われたままに公式を使うと、切島のペンはするすると進んだ。
「お、おお……?すげぇ、解けた!サンキュー爆豪!」
「ケッ」
上鳴の側に立った八百万は、辞書の頁をパラパラと捲る。
「この単語の意味は"同意する"ですわ。こちらの男性は、相手の女性の意見に賛同しています。ですから……」
八百万の流れるような解説を聞き、震えるペン先で一番下の課題を埋めた上鳴。
そうして開いた頁の全ての問いが埋まったのを見て、ふるふると拳を震わせる。
「終わっ……てねーあと一ページあった!!」
「もう少しですわ!」
突き上げた拳を敢え無く引っ込めた上鳴を、八百万が力強く励ました。
そのタイミングで、男子寮のエレベーターが一階へ到着した。
そこから現れたのは尾白。彼もまたゴミ袋を抱えている。
「部屋の片付け終わったからこっち手伝うよ」
「おー頼む」
各々が行動する中、準備は着実に進んでいく。
***
「……よし」
畳んだ段ボールを重ねて、紐で結ぶ。
荷物を開けた部屋の中は、D組の時と同じインテリアになっていた。
時計の針はまだ夕刻前。
これなら課題も間に合いそうだ。
机の上に広げていた小物を棚に並べ、仕上げに写真立てを端に立てた。
写真の中に写っているのは三人。
若い頃のお母さんと、赤ん坊の私。そして、その隣で穏やかな笑みを浮かべる男性。
ーー私のお父さん、写真でしか知らない人。
昨日おばあちゃんに報告して、今日お母さんに会いに行ったのを思い返して、ふとよぎる。
もしもお父さんが、今の私のことを知ったらどう思うのだろう。
娘の成長を喜んでくれるかな、無茶をするなと心配してくれるかな、それとも自分の跡を継がせたがって反対したりするのかな。
父親というものは、どういうものだろう。
私のお父さんは、どこで何をしているんだろう。
「……」
軽く頭を振る。そんな事、考えたって分からない。
とりとめもないことを考えるのは終わりにして、軽く伸びをした。
片付け終わったことだし、一度下に降りよう。
まとめたダンボールを持ってドアノブに手を掛けた。
すると。
「ゆめちゃん!片付け終わった?」
「わぁ!?……葉隠さん!」
眼前に宙に浮くTシャツが現れた。
否、葉隠さんがドアの前に立っていた。
「わー、中は見ないよ!終わったのかな!?」
自分の目を両手で覆うポーズをしているらしい葉隠さん。
それって意味あるのか?と思いつつ返事する。
「うん、終わったよ」
「じゃあ行こっか!あ、ゴミ貸して」
大丈夫と言う間もなく私からダンボールを奪った葉隠さんが、うきうきとエレベーターへ誘導する。
なんだかテンションが高い葉隠さんを不思議に思いつつ、一緒にエレベーターに乗り込んだ。
あっという間に一階に降りたエレベーターが静かな音を立てて到着を知らせる。
自動ドアが横にスライドして――
「「編入おめでとー!!」」
瞬間、破裂音と共に紙ふぶきが舞った。
「……へ?」
ぽかんとする私の背中を、葉隠さんがぐいぐい押す。
「ほらほら、ソファの方に行って行って!」
にこにこしたお茶子ちゃんと梅雨ちゃんも、私の腕を引っ張った。
「ゆめちゃん、ビックリした?!」
「ケロケロ、大成功ね」
訳が分からないまま向かったソファには、A組の皆が集合していた。
テーブルの上には大きなケーキと沢山のお菓子、オードブル、カラフルな装飾。
窓には折り紙で作った輪っかが飾られているし、これはどう見ても祝いの場だ。
ソファに座った私を見届け、飯田くんがコホンと咳をした。
「改めて、綾目くん、ヒーロー科への編入おめでとう。これから共に研鑚する仲間として、A組一同歓迎しよう!」
その言葉を皮切りに、皆が口々に祝福の言葉をかけてくれた。
呆気にとられていた私も、沢山の「おめでとう」に包まれて、ようやく状況を飲み込んだ。
……これは、サプライズパーティというやつだ。
誕生日とか記念日とか、祝う側も祝われる側も、パーティは孤児院で経験がある。
でも、サプライズの当事者になるのは初めてだ。
「昨日の今日で大した準備はできなかったけど、飾り付けとかみんなで準備したんだ」
「材料も買ってきてね☆」
頬を掻く尾白くんと、その尻尾で優雅に遊ぶ青山くん。
「このケーキね、砂藤の手作り。すっごく美味しいんだよ!」
「お、おう。口田も手伝ってくれたんだけどよ。良かったら食ってくれ」
芦戸さんが掲げるのは見事なホールケーキ。
その後ろで照れくさそうにする砂藤くんと口田くん。
「私の紅茶も飲んでくださいな」
「お菓子も沢山買ってきたからね!」
八百万さんとお茶子ちゃんがティーカップやお菓子を持ち上げた。
入れ替わり立ち代わり声を掛けてくれる面々。
ケーキを切ったり飲み物を注いだり、A組の皆がわちゃわちゃと動き回る。
そうこうしている内に目の前に置かれたのは、切り分けられたケーキと淹れたての紅茶。
さあさあと勧められるままに口に運ぶ。
一口、ほわりと広がるクリーム、柔らかなスポンジ。
生地の甘さと間に挟まった果実の酸味が程よいバランスだ。
紅茶も香り高く、お互いを引き立てあう。
「……おいしい」
ぽろりと零した言葉に、皆の空気が盛り上がった。
「だろぉ!?」
「なんでアンタが偉そうなの」
上鳴くんがどうだと胸を張ると、耳郎さんがツッコミを入れる。
「よっし、俺達も食おーぜ!」
切島くんの言葉てで、皆ソファに腰掛けたりテーブルを囲んだりして、それぞれに騒ぎ始めた。
和やかな喧騒の中心に、私は座っている。
あたたかい。
心に灯った温もりが、じわりと全身に広がった。
「ありがとう、皆……本当にありがとう、すごく嬉しい」
「綾目さん……」
緑谷くんが優しく笑う。
他の皆も笑顔で応えてくれた。
……私ももう、A組だ。
ここにいる皆と、仲間として、ライバルとして、これから学んでいくんだ。
こんなに素敵な皆となら、きっとどこまでだって頑張れる。
このクラスに受け入れてもらえて、これ以上ない喜びだ。
「これから、よろしくお願いします」
そうして深々と頭を下げた。
照れくさそうにしたり、嬉しそうにしたり、皆一様の反応を返す。
顔を上げた時に目が合ったのは轟くんだった。
「よろしくな」
その口元がふっと綻ぶ。
お祭り騒ぎの雰囲気も相まってか、その表情が普段よりもずっと柔らかく見えた。
***
パーティは大いに盛り上がった。
私とおしゃべりに興じる人、主役もそっちのけで盛り上がる人、くだらねーと腐る人、それぞれが思い思いに過ごす中、改まった声が響く。
「えー、宴もたけなわでございますが……」
その声の主は峰田くん。
エアマイクを片手にかしこまった顔をしている。
何事かと思った次の瞬間、その目がぎらりと光った。
「次のフェーズへと行こうじゃねえか」
その言葉を聞いた面々が、おもむろに姿勢を正す。
次のフェーズ?
なんだろう、パーティ以外にまだ何か準備してくれていたり……?
不思議がる私に、お茶子ちゃんが神妙な面持ちで向き直った。
「ゆめちゃん、A組にはしきたりがあるの」
「しきたり?」
「そう……この寮に新たな入居者が現れた時に行われるもの」
そこで区切ったお茶子ちゃんがたっぷりと間を置くものだから、果たして何があるのかとごくりと喉を鳴らした。
「それは――」
お茶子ちゃんの唇がゆっくりと動いた。
「――部屋王決定戦」
2018.10.23