10 years 2
目の前に、白壁の小さな建造物。 そこに取り付けられた両開きの扉の前に立ち、ゆっくりと息を吐く。 私の身を包むのは純白のドレス、左手にはブーケ、右手は隣に立つ母の腕。 やがて、閉ざされた扉がゆっくりと開かれる。 太陽の輝きに慣れた瞳は明度の差にすぐに馴染まず、中の様子は窺えない。 足が踏み出せずに瞬きをしていると、母の目が優しくこちらを見詰めた。 それに応えるように目蓋を伏せて、それから真っ直ぐ前を向く。 一歩屋内へ踏み出すと、すぐに視界は馴染んだ。 足元に引かれた屋外から続く赤い絨毯は、部屋の奥まで真っ直ぐ伸びている。 道の傍らに並ぶ長椅子の傍で、見知った姿の面々からの拍手が送られる。 教会の奥、大きな窓に散りばめられたステンドグラス、そこから透かされた光が鮮やかな影を落としていた。 両脇には聖歌隊、正面には神父、そしてその手前。 光の中に―― 一歩一歩近づくたびに、その姿が大きくなる。 こちらを振り返る彼。 右半分の紅の髪が、純白の装いに燃えるような色を落とす。 水晶色の透き通った瞳が、私を映して柔く笑んだ。 彼が、轟くんが、いる。 目の前に辿り着いた私は、導かれるように彼の元へ。 母の手から離れ、轟くんに手を取られる。 穏やかな微笑みを湛える彼を見詰めて、両の手を取り合って、神父様の言葉のままに。 「ゆめ」 私の名を呼ぶ声が、鼓膜を震わせる。 私の顔を覆っていたヴェールがそっと持ち上がる。 降り注ぐ幾つもの光が、私たちを照らし出す。 「轟くん……」 吐息を漏らすようにその名を呼べば、微笑む彼の顔が近付いて―― バーン!! 「待てぃ、俺は認めんぞ!!」 けたたましい音とともに閉じた扉が開かれて、大柄な男性が姿を現した。 ヒーロースーツからメラメラと業火を燃やすその人は、紛れもなくエンデヴァーさんである。 「お義父様!?」 「ハネムーンに本場アメリカでヒーロー学なぞ俺は認めん!息子は俺のもとで最強のヒーローとなる!!」 「そっち!?」 「チッ、禿げ散れクソ親父!」 「禿げッ!?」 ヴァージンロードもずかずかと踏み荒らして大股でやってきたエンデヴァーさんが轟くんの腕を鷲掴み、対する轟くんはびっくりする程悪態をついてその場に踏み留まった。 「負けんな轟ぃ!」 「親子対決やったれや!!」 長椅子に乗り上げる勢いでA組達がやんややんやとはやし立て、轟くんとエンデヴァーさんの炎と氷の"個性"もヒートアップする。 何これ、何この展開。 わ、私はどうすれば! 「えーっ、と、とりあえずサインください!!」 マジックペンと色紙を突き出してエンデヴァーさんに頭を下げていた。 *** 「なんじゃそりゃあ?!」 突然の大声に、体がビクリと飛び跳ねた。 「……?!……あ」 その勢いのまま飛び起きて、呆然としていた。 漸くそこがベッドの上だと気付いて、乱れた呼吸を整える。 どうやら先程まで眠っていて、自分の寝言で目覚めたらしい。 「……はあ」 脱力した半身が、再び後ろに倒れ込む。 ぼすんと音を立てて、弾力に体が少し浮いた。 寝転がって見上げたのは、見慣れない白い天井。 私が体を預けるこれは、一人用にしては大きなベッド。 青と白でまとめられた落ち着いた印象のインテリアも知らないもの。 寝て起きたら元の寮の部屋……なんて期待はしたけれど、どうにもここが現実世界らしい。 しかしさっきまでのあれは……なんてものを見てるんだ私。轟くんとの、けっ結婚式とか。 結婚式にしては色々とおかしすぎたけれども。登場人物皆高校生だったし。 でも、それ程衝撃だったんだ。昨日の出来事は―― *** 「えええええええ!!?」 未来の私が結婚しているって事実だけでも衝撃だったのに、その相手が、今隣で運転している人だった。 あろうことか指輪までしっかり見せつけてくれている。 「未来のことを知るなって言っても、これは隠し通せるもんでもないだろ」 信号が青に変わり、指輪を戻した轟くんがアクセルを踏んだ。 走り出した車内はエンジン音に包まれ、轟くんは再び口を閉ざす。 驚いたまま固まる私は、事実として受け止めるには大きすぎるそれにあっぷあっぷしていた。 結婚、轟くんと、未来の私が。 マリー?夫婦?轟夫人? 声にならない声が開いた口から漏れ出ていく。 なんて、なんて、ことだ。 トンデモ案件なのに、轟くんったらそんなあっさりと言ってのけちゃうとは。 いや、この時代の轟くんにとっては当然のことだし…… 多分この先、轟くんが帰る先、つまり二人で住んでると思われる家に着けばどのみち判明することで…… 空回りする脳みそ、カラカラに渇く喉。 事態を必死に飲み込もうしているうちに、道路から逸れた車がスムーズに駐車場で停車する。 「着いたぞ」 ハンドルから手を離した轟くんに声を掛けられて、反射的に顔を上げた。 ガラス越しに見上げた先には大きなマンション。 何も纏まらないまま、着いてしまった。 促されるままに車から降りて、エントランスに入り、そのままエレベーターで上階へ。 チンと音を立てて開いたドアから先に出た轟くんが、慣れた足取りで廊下を歩く。 ぽかんとして上階からの街並みを見下ろしているうちに、鍵の開く音がした。 振り向けば轟くんの姿はなく、代わりに開いたままの扉が一枚。 ……あそこが、未来の轟くんと私の家。 今更だけど、私もあそこに入るんだよね。 轟くんと、同じ家に。 それはちょっと、いやかなり大変なことではないでしょうか。 だってそんな、轟くんとはそういう関係じゃないし、しかも今の轟くんは大人の人だし! 無理無理無理、緊張する!! 「遠慮しないで上がれよ。おまえの家なんだし」 もたもたしていると、扉の陰からひょっこり顔だけ覗かせた轟くん。 「へうっ!?」 熱が昇るのを感じて、バッと顔を覆った。 「どうした?」 「な、なんでも、なくはないけどなんでもないです!」 意識するとどんどん顔が熱くなってくる。 わたわたと背を向けて誤魔化したけど逆効果じゃないかなこれ、焦ってるのバレバレだよ! 背中越しに轟くんが動く気配を感じて、それだけで私の肩が大きく跳ねる。 そんな私に、静かな声が届いた。 「……おまえ、今何年だ?」 「へ!?」 何年、何年ってあれか、学年?! 「雄英高校一年D……じゃなくてA組になりました、綾目ゆめです!」 「……そか」 成る程、と轟くんが小さく零した後、落ち着いた声が耳に届く。 「いきなり色々伝えすぎて悪かった。けど、10も年下の、付き合ってもない相手にどうこうしようって気はねえから安心してくれ」 そろりと振り返ると、小さく頭を傾ける轟くんがいた。 謝らせてしまった。轟くんはなにも悪くないのに。 気を遣わせてしまった! 「わ、私こそ変に緊張して、ごめんなさいっ」 体を反転させて、焦ったまま頭を下げ返す。 轟くんがそういう人でないと分かっている。 分かっているけれど、状況に私の心が追い付いていないのである。 勢いよく謝罪した私に、轟くんの苦笑が降ってくる。 「……とりあえず、中に入ってくれるか」 「はい……」 轟くんはあくまでも大人の対応をしてくれている。 こうも気を使わせてしまっては、うだうだと外にいるわけにもいかない。 ええいままよ! 轟くんが支えっぱなしの扉から、速やかに身を滑り込ませた。 「お邪魔しますっ」 「ああ、未来のおまえの家だけどな」 「うぐ」 脱いだ靴を端の方に寄せて上がった。 傘立てに並んだ二本の傘、靴箱に置かれた造花、玄関マットの一枚さえ、視線が移ってしまう。 この家の中にあるものは、未来の二人が選んだものだ。 廊下を進むだけでこんなにドキドキしてる。 やがて辿り着いたのは、大きなリビング。 ダイニングと一体になった形で、キッチンから見渡せるような間取りになっている。 大きなテレビ、丸いカーペット、長いソファ、それからキッチンテーブルと、ちょっとした観葉植物。 大きな家具が並んでもゆったりとスペースのある広さだ。 更に奥にもう一部屋あるらしく、片側の壁に扉が付いている。 廊下にも扉が四つ五つほど並んでいたし、更には襖もあるから和室も付いているんだろう。 二人で暮らすには結構余裕があるような。 壁掛け時計のデザインとか、カーテンの色とか、リビングをきょろきょろと見渡していると、後から上がった轟くんがやってきた。 「面白いもんでもあったか?」 「うんと……なんだか広いところだね」 「まあな」 感想をそのまま口にすると、轟くんは小さく笑った。 それから荷物を簡単に片づけて、間取りの案内をしてくれた。 「ここが俺、隣がおまえの部屋。風呂がこっち、トイレはその横。和室は俺がたまに使ってる。この部屋は物置だ」 やっぱり空き部屋がいくつかあるらしい。 物置といっても中はすっきりしているし、全体的に物が少ない家だ。 それにしても都心からそう遠くない場所でこの広さとは、おいくらするんだろうか。 「当面はここで生活してくれ。好きにしてくれていい」 一通り案内が終わったところで轟くんがそう締めくくったので、「はい」と返事した。 「色々とありがとう、助けてくれて」 こちらに来てからというものの動転しっぱなしで、轟くんに沢山迷惑を掛けてしまった。 未来の私がいきなり過去の人間になってしまったんだし、轟くんにとっても大変な一日だったと思う。 申し訳なさと感謝が入り混じった言葉だった。 「気にすんな、当然だろ」 そう言って私を見詰める目が、私の知ってる轟くんよりずっと優しいものに感じた。 未来の轟くんにとってみれば、私は家族の昔の姿ってことになる。 気に掛けるのは当然なのかもしれないけど……やっぱりちょっとそわそわする。 「とりあえず夕飯にするか。っても、今日は冷凍くらいしかねえけど」 「あ、お手伝いします」 お皿を出したりレンジを回したりして、すぐに食事は準備出来た。 冷凍パスタとインスタントスープを口に運びながら、ぽつりぽつりと会話をする。 「明日も仕事だから、ここにいてくれるか」 仕事……そうか、私にとっては非日常のこの世界も、轟くんにとっては日常だ。 一人で外を出歩くのもちょっと危ないので、家で留守番ということになる。 日用品や食料品は好きにしていいということなので、冷蔵庫の中を確認させてもらおう。 話すうちにお皿の中身が空になったところで、冷えたお茶を入れた。 冷たい液体が喉を落ちる感覚に、息を漏らす。 「はあ……」 お腹が満たされると、ようやく一息つけた気分だ。 どっと疲れが出てきた。 今日一日の出来事がなんとなく脳裏を掠めるけれど、疲れた頭では上手く回らない。 瞬きを繰り返していると、コップを机に置いた轟くんがそっと声を掛けてきた。 「今日はもう休むか。シャワーでいいか?」 「はい……お構いなく」 「ん」 タオルを手渡され、重たい体をやっとこ持ち上げる。 パジャマとかは未来の私の部屋だろうか。 私の足取りがおぼつかないのを見兼ねてか、大丈夫かと轟くんが付いてきて、私の部屋まで導いてくれた。 未来の私の部屋ってどんなだろうとぼんやり思いながら、何気なくノブを捻る。 電気の点いてない部屋の中は暗くて、廊下からの光でぼんやりとシルエットが浮かび上がっていた。 廊下に付いている電気のスイッチを轟くんが点けると、パッと室内が明るくなる。 そこにはPCテーブルやクローゼット、タンスや本棚が詰められて、そこそこの広さの部屋が一回り狭い印象だ。 今の私が使っているものとは異なる家具で彩られた室内をしげしげと眺めていると、あることに気付いた。 「……あれ」 高校の寮の私の部屋と比べて、違和感を感じる。 家具の数はこちらの部屋の方が多いのに、何かが足りないような…… 「あ、ベッド」 ぽろりと零した言葉を拾った轟くんが、思い出したように声を上げたのが聞こえた。 「案内してなかったな、悪ィ。寝室はこっちだ」 こっち、と彼が扉を開けた先はこれまた明かりのない部屋。 パチリとスイッチを入れると、ほんのりと暖かみのある光が天井の中央から部屋全体に広がった。 目に付くのはベッド。 およそ一人で眠るには大きすぎる。 まさに、夫婦二人用の。 「……ほあああ?!」 *** ここまで回想して思い出した、今私が転がってるベッド、普段夫婦で使ってるであろうやつだった。 多少しわになっている真っ白なシーツと二つ並んだ枕になんだかいたたまれなくなって、そそくさとベッドから降りる。 昨日、私がリビングのソファを使うだ自室で寝るだと一悶着あったものの、結局轟くんが和室の敷布団で眠るということで落ち着いた。 シャワーを浴びてベッドに潜ってみたものの、中々寝付けず何度も寝返りを打った覚えがある。 でも、結局疲れに負けて眠ったみたいだ。 壁に掛けられたデジタル時計が示すのは、午前八時を過ぎた頃。 普段の平日だと考えられない時間だけれど、この時代には通う学校もない。 衣服を着替えてリビングに向かうと、カーテンが閉まったままのそこに人の気配はなかった。 キッチンも昨日のままで、食器を使った形跡もない。 カーテンの隙間から漏れる光の筋が、テーブルの上に残されたメモ用紙に届いている。 そこにはボールペンで、出てくる、夜は遅くなる、食事や何やらは自由にしてくれといった旨が簡潔に記されて、最後に携帯番号が走り書きされていた。 轟くん、もう仕事に行っちゃったんだ。 朝食を食べる暇もなかったらしい。 忙しい身の轟くんに、昨日の夜も色々駄々をこねてしまって申し訳ない。 お付き合いしたこともない身ではすぐ慣れることはできないけれど、せめてもう少し迷惑にならないようにしたい。恥ずかしいし。 家の中で一日を過ごすのなら、空いた時間は充分ある。 せめて出来ることをしよう。 *** 日課のトレーニングを出来る範囲でこなして、部屋の掃除をしたり、洗面所や冷蔵庫を物色して足りないものをリストアップしているうちに正午を過ぎていた。 パスタを拝借して手早く昼食をすませて、一息つく。 「……」 一人で使うリビングはとても広くて、ため息も空へ溶けていく。 ふと立ち上がって、カーテンの隙間から向こう側を覗いた。 高く登った太陽が照らす景色は、住宅街のそれ。 マンションの高い場所に位置するこの部屋から見下ろすと、車も指で摘むほど小さくなる。 同じくらいの背丈のマンションがちらほらと立ち並び、ベランダに干された布団や絡んだ植物が見える。 見慣れない景色の中、ただゆっくりと流れる時間。 遠い場所から届く車の音。 元の時代で学校に通ってる時は、友達がいて、先生がいて、授業があって、目まぐるしく変わっていく日常に追われていたけれど。 この世界の日常は、こんなにも静かなものなのか。 ――未来の私は、この世界でどう過ごしていたんだろう。 ヒーロー活動をしている限り、こんなゆったりした時間はないだろうけれど。 今の私が目指してるような、華々しい世界で生きているんだろうか。 「……よし」 ぐっと拳を握って軽く気合いを入れる。 気になるものの避けていたところへ行ってみよう。 それすなわち、未来の私の部屋。 昨日の夜に少しだけ入ったけれど、わたわたしすぎてじっくり眺めてる場合じゃなかった。 夕飯までに時間もあるし、ちょっとした家宅捜索を決行する。 廊下に取り付けられた内の一つ、そっと開いた扉から中を覗き込むと、昨日と変わらないインテリア。 テーブルの上には閉じられたノートPCと、書類とメモ用紙と筆記具が転がっている。 傍らに積まれた本は経理の本だろうか? それと、最近発売されたヒーロー誌。 この表紙の人……雄英ビッグ3?! 見覚えのある人がヒーローとして大活躍してる世界、か。あらためてすごいや。 本棚に並ぶのは、ヒーロー学や仕事に関するスキル、武器のカタログ、昆虫図鑑、風景や人や動物様々な写真集、それとゲームの設定資料集や映画のDVDまで。 趣味と"個性"の勉強を兼ね備えたラインナップ、この辺は変わってない。 上の段に見覚えのある写真立てがあった。 過去の私は両親の写真を入れていたものだ。 未来の私は何を……ッ?! 「ふわっ!」 みみみ未来の私と轟くんのツーショット!! 思わず変な声が出てしまった。 見てはいけないものを見てしまった気分。 思わず払った手が写真立てにぶつかって、半回転したそれは棚から零れ落ちた。 「あわわっ……と」 反射的に腕を伸ばして、跳ねるそれをキャッチする。 「……」 手の中に収まってしまった写真を、改めて見詰めた。 未来の私。 すっかり大人の女性になった私だ。 どこかの街をバックに撮られたこれは、ヒーローとして働いている間のつかの間の休日だろうか。それとも、結婚前後の旅行先だろうか。 写真の中の私は屈託の無い笑顔で、隣の轟くんも写真でも良くわかるほど笑みを浮かべている。 幸せそう、というのはこういう表情を言うんだろう。 見ているこちらも穏やかな気持ちになる。 「はああ……」 考えたこともなかった。 誰かと一緒になって、その人の隣で微笑む未来。 ヒーローになることを目標にして、その為だけに突き進んでいたから。 ヒーローとして、誰かの不安を吹き飛ばすような笑顔を湛えるんだって。 でも、未来の私は、こんな風に笑うのか。 それはなんだか……嬉しいような、寂しいような、不思議な心地だった。 壁に掛けられたコルクボードにもいくつか写真が貼り付けてあった。 孤児院の写真、少し大きくなったちび達。 高校の写真、もしかして修学旅行かな。 ヒーロースーツを着た轟くんと、見知った顔の面々。 私のこれからが詰まったコルクボード、その一枚一枚をじっくり眺めて、ふと気付く。 私の時代に写真立てに入れていた両親の写真がない。 失ってしまったのか、捨ててしまったのか、その真相は今の私には知りえない。 「……」 私以外誰もいない部屋の中心で、ほうと溜息を吐く。 十年の歳月って、思ってた以上に長いんだ。 写真一枚とっても、そこに至るまでのドラマがある。 この部屋には、未来の私の過ごした年月が詰まっている。 その途方もない時間を想って、天井を見上げた。 ……うわ、天井にエンデヴァーのポスター貼ってある。 未来の私、ファンが過熱してない? *** 玄関扉が開く音がしたのでそちらに向かうと、靴を脱いでいる最中の轟くんが顔を上げた。 「お、お帰りなさい」 半日ぶりに対面した大人の姿の轟くんに、昨日の緊張を思い出してしまった。 対する轟くんは、一度ぱちくりと瞬きしてから、ゆっくりと腰を伸ばす。 「ああ、ただいま」 柔和な笑みを浮かべる轟くんに体温が上がる。 挨拶を交わして、何だか夫婦みたいだなんて思ってしまった。 実際。未来の二人は夫婦なんだけど。 「……メシ作ってくれたのか?」 キッチンから漂う香りと、私のエプロン姿で導き出せるもの。 「はい。食材適当に使っちゃったけど」 「いいよ、ありがとな」 洗面所へ向かう轟くんが、すれ違い様に軽く頭に手を乗せる。 「……!」 ごく自然な流れるようなスキンシップに、私の心臓が飛び跳ねる。 大人の轟くんにとって、私はお嫁さんの子供時代ってことになるんだし、それくらいはあるのかもしれない。 それでも私にとっては刺激が強いもので、非常に、参る。 火照った顔を仰ぎながら、火にかけたままの鍋の元へ戻った。 冷凍庫の中で冷凍焼けしかけていたお肉と野菜を適当に切って大鍋で煮込んだ、定番のカレーライス。 未来の私の部屋の本棚に置いてあった本を一冊手に取った後、いつの間にか夕方になっていたので、慌てて準備したものだった。 未来のゲームってすごく進化していて、グラフィックも最早現実に等しいクオリティでついつい読みふけってしまった。 リビングのテレビ台の中にそれらしいゲームも置いてあるし、とても気になる。 とはいえ、呑気にゲームにふけっている状況じゃないのは確かだ。 轟くんは優しくしてくれるけれど、いつまでもここに居るわけにはいかない。 今の状況は、轟くんと未来の私の生活に影響を及ぼしている。 私がここにいるということは、未来の私が過去の……私の時代に行ってしまった可能性もあるし、色々と大変だ。 帰る手段を知りたい。 未来の私がタイムスリップを経験しているということは、帰る方法とかも知っているんじゃないだろうか? 明日も引き続き、未来の私の部屋を捜索してみよう。 そう決意した直後、炊飯器が音を鳴らす。 広めのお皿二つに炊き立てご飯をよそったところで、轟くんが廊下からやってきた。 鞄はもう片付けたみたいだけれど、その手には封筒が幾つか握られていた。 ポストに入っていたものだろうか、宛名を見てひょいひょいと取り分ける轟くんに、カレーを掛けた皿を抱えて近付く。 「はぶっ」 なんとなく覗き込んだ手元には、『轟 ゆめ様』と書いてある封書。 それは、まぎれもなく未来の私へ宛てられた手紙。 そ、そりゃあ結婚してるなら姓だって変えてるかもだ。 分かってるんだけど、認識が追い付いてなかった。 轟くんの視線を感じて、咳払いしてごまかした。 カレーをテーブルに置いて席に着く。 二人で手を合わせてから、スプーンを口に運んだ。 「今日、一人で大丈夫だったか?」 「うん、特にこれといったことは何も」 「そか。悪いが明日も仕事だ。もう一日家ん中にいてくれ」 轟くんの話では、明後日は休暇を取っているらしい。 カレンダーによると今は週の半ば頃だから、平日に休暇を入れて、人が混雑する週末に仕事をするスケジュールみたいだ。 「はい。あ、もしよかったら、これ買ってきてくれるかな」 そう言って、午前中にリストアップした食材や日用品のメモを渡す。 ずらりと並んだ品目に轟くんは目を瞬かせた。 「こんなに調べてくれたのか」 「あー、残り少ないものとか、あった方が良さそうなものとかも混じってるから……余裕があればでお願いします」 「ああ」 なんてことない会話を挟みながら、食事は粛々と進んでいく。 轟くんは元々おしゃべりな人ではないし、食事中は口数も減るものだ。 この静かな食卓は、未来の私達にとっての日常なんだろうか。 ……そういえば。 リビングにあるテレビ、ずっと付けていないのか随分埃をかぶっていたけれど、食事中に付けたりはしないのかな。 そう思ってテレビに視線を向けると、それに気付いた轟くんが口を開いた。 「テレビ、気になるか?」 「あ、うん。あんまり観てないのかなって」 皿の中を空にした轟くんが、スプーンを置いて答える。 「そうだな。ヒーロー業が忙しいってのもあるが、元々観る方でもねえし」 そうなのか。……そうなの? 高校生の私は、毎日ニュースを収集して、エンデヴァー始めヒーローの活躍を仕入れたりしているけれど。 ヒーロー活動をするのなら、事件の情報収集だって必要だろうし…… 轟くんによると、仕事についてはヒーロー用の情報網があるらしい。 テレビを付けずとも、ネットでヴィランの動向を収集したり出来るとも言った。 成る程、未来のネットなら私の時代より更に発展してるだろうし、情報収集には最適なのかも――と思ったけれど、テレビを意図的に避けている節があるようにも思う。 理由とか、あるのかな。 私もカレーを平らげたところで、コップに注いだ冷たい水で喉を潤す。 今日未来の私の部屋で見た、十年後の私。 大人になった姿の、私の知らない年月を重ねた綾目ゆめ……いや、轟ゆめか。 テレビを観なくなったのも、ヒーロー業で生計を立てるのも、轟くんと結ばれたのも、今の私には知らない理由がある。 そう考えて、半ば無意識に声を出していた。 「……あの」 「ん?」 「未来の私が轟くんと結婚したのっていつかな?」 ぽろりと零れた疑問に、轟くんが固まったのが目に映った。 「……それ聞くのか」 少し顔を傾けた轟くんが、僅かに眉を寄せている。 その表情を見て、先程口にした内容を反芻した。 反芻して気付く。 「あ!?ちが、ええとなんていうか昼間にね、私の部屋に入ってたんだけど、写真が飾ってあって、あのそれがいつ頃のやつなのかなーって!!」 別に深い意味はなく! 馴れ初めとかそういう興味ではなく!! 慌てて手をぶんぶん振り回すと、轟くんが「ああ、あの写真か」と頷いた。 「あれは確かに結婚した直後のやつだな、三年前くらいだ。その後事務所を独立して――」 轟くんの言葉はそこで途切れた。 「……?」 次の言葉を待つ私に、轟くんは小さく頭を振る。 なんでもないとだけ告げた彼はコップの中身を飲み干して、そのまま食器を抱えて席を立った。 あからさまにはぐらかされたな。 気になるけれど、人の事をあんまり詮索するものじゃない。 いや、未来の自分のことだけど……ええいややこしい。 ともかく、あの写真は三年前のものだった。 今の私から七年後の未来。 紆余曲折を経て、好きな人と結ばれて、それは幸せの絶頂期なんだろう。 写真の中の私を思い浮かべる。 大人っぽいワンピースを纏った、大きな私。 誰かの隣で笑う私。 それはきっと―― *** 鳴り響く電子音に意識を引き戻されて、大きなベッドからむっくりと起き上がる。 薄暗い部屋の中、手探りで音の出どころを探ると、枕元に置かれたアナログ時計にぶつかった。 アラームを止めて、同じく枕元にある電気のリモコンを手に取る。 点灯ボタンを押して、照明に照らされて浮き上がる部屋。 「……まだ戻ってない」 未来にやってきて三日目、昨日と変わらない部屋の中にいた。 時計の示す時間は六時。 カーテンの向こうでは、薄らと朝焼けが広がっている。 そっとベッドから抜け出して、手元の衣服に着替える。 寝室の扉を開けると、明朝の静けさに包まれた薄暗い廊下が現れた。 洗面所で顔を洗ってからキッチンに向かう。 リビングの大きな窓に掛けられたカーテンからも、朝の日差しが透かされていた。 キッチンに取り付けられた小さな蛍光灯を点けて、コンロの上に置いてある鍋の蓋を持ち上げる。 昨日のうち作っておいた味噌汁が入っているを確認して、コンロを点けた。 冷蔵庫から卵を二つ取り出して、油を敷いてたフライパンの上に入れる。 タイマーを仕掛けていた炊飯器がピーと音を立てたとき、廊下の方から音がした。 和室の襖がスライドして、ゆっくりと人影が姿を現す。 「……ゆめ?」 掠れた声が届いて、首だけ振り返る。 「あ、おはよう」 起き抜けの轟くんはラフな格好をしていて、少し乱れた髪をそのままに、丸い目をしてこちらを見詰めていた。 「……」 「……」 あのう、そんなにじっと見詰められるとソワソワするのですが。 「ええっと……朝ごはんすぐにできるから、顔洗ってきて」 フライパンの中の目玉焼きに気を配りつつへらりと笑うと、思い出したように轟くんが動き出した。 「……ああ、そうする」 短い言葉を残して洗面所に消えた背中を見送って、目玉焼きをお皿に乗せる。 温まった味噌汁を器に、ご飯を茶碗によそい、野菜を切っただけのサラダを盛り付ければ、簡単な朝食の完成だ。 それらをテーブルに運んだところで、髪も整った轟くんが戻ってきた。 「悪いな、朝飯まで」 「ううん、お世話になってる身なので」 二人で席に着いたところで、両手を合わせる。 もそもそとご飯を口に運ぶ中、箸を止めた轟くんが私に尋ねる。 「早く戻りたいか?」 「それは――」 予想していなかった問いかけに、答えがすぐに返せず言葉が止まる。 その質問が、どういう意図でされたものなのか分からない。 けれど……この二日間と今朝で、時々轟くんがはたと立ち止まる瞬間があった。 轟くんにとって過去の私がここにいることで、彼に何か影響があるのだろう。 昨日も思ったことだけれど、この時代に私がいることはイレギュラーだ。 あまり迷惑を掛けたくない。 「うん。ずっとここにいるわけにはいかないし」 「そうか、そうだな」 私の言葉を聞いて、轟くんは小さく頷いた。 「力になってやりたいが、こういうことに関しちゃ全く分からねえ。ここのおまえは暫く未来にいたって言ってたが……どうやって戻ったかまでは聞いてねえ」 「そっか……」 その話題はそこで終わりになった。 *** 朝食を終えて轟くんが出かけた後、トレーニングと部屋の掃除を済ませてリビングのソファに座っていた。 学校がないだけで、非常に時間を持て余す。 勉強とか追いトレーニングとかをするにもその道具もないし。 早く過去へ戻る手掛かりを見付けるべきだけど、今朝の轟くんの様子が引っかかっていた。 私を見て固まった轟くん。あの顔、ビックリしてたんだよね、多分。 寝ぼけて私が過去からやってきたことを忘れてたとか? そ、そんなことあるのかなぁ、あの轟くんに。 マイペースなところはあるけれど、うっかりさんではなかったと思う。 それにこの時代の轟くんは大人だし。 それ以外のことで、私に何か驚くことがあったと考える方が妥当だ。 あの時の私は、朝ごはんを準備していた。 顔は洗ってたから変な髪型ではなかったはず。 エプロンを拝借してたけれど、何か問題があったんだろうか。昨日も借りたけれど。 そういえば昨日の夜、テレビを避けていることに気付いた。 それと今朝のことが関連するのかは微妙だけど、そっちも気になる。 なんでテレビを避けるのか……ちょっと点けてみようかな。 この時間帯と言えばワイドショーとかやってそうだな、とリモコンを取って電源を入れる。 スムーズに映し出されたクリアな液晶に未来の技術の発展を感じつつ、流れる映像を眺める。 『ということで、最近の活発な動きが見られますねー』 やっぱりワイドショーだった。 男性の司会者が真面目そうな顔をして、液晶パネルをつついている。 こういうのってアナログなボードとか使ってるイメージだったけれど、未来ではデジタルなんだ。 おや?このボードに載ってるの、ヒーローの写真じゃないか。 轟くんの写真と、その隣にあるのは……これ、緑谷くん!? 爆豪くんとか、上級生の先輩たちから士傑生の人達も。 ヒーローを話題にしてる放送だったか。 『昨今のヒーローはもっぱらチーム制ですからねぇ、個人で活躍してるヒーローは確かに目立ちますが、それでも全体を見ればごく少数なんです』 『え〜、そうだったんですか!?』 司会者の言葉に大げさな反応を示すゲスト。 『私の応援してるヒーローはショートなんですけど、彼はいつも一人で大活躍ですよね?』 ゲストの言葉に固まる。 いつも一人で? でも轟くんは、未来の私とバディを組んでるって、あれ? 『あーそうですね、ショートの事務所は二人体勢で彼のパートナーであるヒーロー名とのコンビなんですが、確かに前面に出てるのはショートの方ですねー』 司会者が軽く説明し、そのまま言葉を続ける。 『そのパートナーも怪我で休業ですし、このまま引退という線も考えられて、えー今まさに転換期が訪れていると思います』 え、待って。引退? 引退するって思われてるの? さらりと流された言葉は、引退しても別に困らないというようなもので。 私の扱い、そんなものなの? 『今やヒーロー繁忙期、数多のヒーローが溢れかえる現代社会でなお、彼らの更なる活躍を求められる時代です。昔の体系として、トップヒーローがただ一人で日本の平和を支えていた時代もありましたが、今の時代はそう、ヒーロー達の連携がより求められています』 チームを組んで、社会を守る。 今の日本では、ヒーロー個人の名前よりも、チーム名が知れ渡るらしい。 轟くんと私は、連名の事務所だ。 この解説図を見るに、緑谷くんや爆豪くんも個人事務所なんだろう。 司会者がその三人をぐるりと囲って、彼らがチームを組めばより強力になると熱弁した。 そこに私の写真はない。 『ショートがチーム活動ですか。なんだかすごそうですね』 ゲストのコメントを拾って、司会者はますます言葉を繰り出していく。 『まずショートから働きかけるのではないかと思います。彼の事務所も一人の状態ですから、学生時代の旧知の仲でもあるデクとの連携、それから――』 その先を聞くまいと電源を切った。 リモコンを持ったまま、真っ暗になった画面を見詰める。 心臓が妙にうるさい。 暑くもないのに汗が流れる。 司会者の、ゲストの言葉がぐるぐると頭の中を駆け巡る。 だって、あんなの、おかしいじゃないか。 一人?引退? まるで、ヒーローヒーロー名なんて、いないみたいに―― 2018.07.31
DADA