10 years 3
一人ぼっちのリビングで、司会者とゲストの声が鼓膜の奥で反響する。
"彼はいつも一人で――"
"このまま引退という線も――"
同じ言葉が何度も何度も繰り返されて、降り注ぐ雨音のよう。
うるさい、違う。違う、違う!
ヒーロー名は、未来の私はヒーローだ。
ヒーローとして事務所だってあるし、活動だってしているはずだ。
それなのに。
「……ッ」
整理の行き届いていない事務所、ちらりと見えた履歴書、轟くんの表情。
今の私は、全てを悪い方へ捉えてしまう。
もしも、あれらが私の力不足のせいだったとしたら。
いいや、いいや、そんなことは!
ネガティブなイメージを振り払いたくて、耳を塞いで目を閉じた。
渦巻く思考がそのまま暗闇に沈んでいく。
息もできないくらいに苦しくて、暗い、暗い、水底に。
堕ちる。堕ちる。
堕ちて。
堕ちた先に。
……誰かがいる。
光も届かない深海、他の生き物も寄り付かない暗黒。
とすれば、そこにいるのは私に他ならない。
未来の私がいる。
白いワンピースをゆらゆらと流しながら、背中で手を組んで立っていた。
「……どうして」
呼吸も出来ない深海で、喉を震えさせると不思議と声は絞り出せた。
「どうして笑っているの。どうしてヒーローを辞めると言われるの。どうして、どうして、どうして……」
堰を切ったように溢れる言葉。それは疑問ではない。
懐疑、追求、非難。
自分で自分を責めていた。
未来の私に何があったのかなんて知らない。
でも、私はただ一つだけを見て、ずっとずっと走ってきた。今だって。
それが実りのないことだなんて、認めたくなかった。
呪詛の言葉が渦巻く中、未来の私が振り返る。
水中で、ワンピースの裾が膨らむ。
大人になった私は、ただ幸せそうに微笑むだけだった。
その笑顔の意味は、私には分からない。
未来の私が、水底を歩き始める。
ふわりふわりと踊るワンピース。
追いかけようとしても、足が鉛のように重たい。
動かない、追いつけない。
遠ざかっていく、白いワンピース。
届かない、未来には――
***
鼓膜が震える。
何かが聞こえる。
「……」
誰かの、声?
「ゆめ」
肩を揺すられて、重い目蓋を持ち上げた。
光で滲む視界に、大きな影がぼんやり映り込む。
「……轟くん?」
意識がはっきりしてくると、それがこちらを見下ろす轟くんだと分かった。
その後ろには天井、灯りのついたライト。
ここはリビングの、ソファの上?
「こんなとこで寝るな。風邪引くぞ」
……あ、私、眠ってたのか。
テレビを消してからずっと考え事をして、でも何も考え付かなくて、疲れてそのまま寝ちゃったらしい。
というか、轟くん帰ってきてるってことはもうそんな時間!?
慌てて起き上がって時計を見ると、夕飯時はとっくに過ぎていた。
「ごめんなさい、ご飯準備してない!」
「いい。昨日のカレーがあるし、飯も炊いてる」
おわぁ、轟くんにご飯の用意をしていただいてしまった。
何もやることがないのに眠っていただけなんて、唯でさえ落ち込んでいたところに更に罪悪感がのしかかる。
大きな溜め息をつくと、轟くんがこちらを向いた。
「……なんかあったか?」
じっとこちらを見詰める顔は、少し眉が下がっていて、心配されていると直ぐに気付いた。
轟くん、十年経って表情が分かりやすくなってる気がする。
私が来たときテレビの傍に置いてあったリモコンは、今はソファ近くのテーブルの上。
テレビを観ていた、というのは予想できるだろう。
「お昼のワイドショーで、ヒーローのこと取り上げてて」
「……ああ」
それだけで轟くんは何かを察したらしい。
なら、たまたまあの番組がそうだったという訳ではない。
テレビ放送全体において、ショートとヒーロー名の扱いに顕著な差がある。
轟くんと未来の私がテレビを観ない理由は、これだった。
本人たちがどうであれ、あからさまな差を見せられては、食卓が気まずくなるというものだ。
未来の二人なら、見なければそれで済むことなのかもしれない。
けれど今の私にとっては、無視できるようなことじゃなかった。
言葉が上手くまとまらないけれど、聞かなければ。
知ってしまうことよりも、不安を抱えて過ごすことが怖い。
考えても考えても、私の中に答えはない。
螺旋のように渦巻く迷宮から抜け出したかった。
「それで、あの」
言葉を続ける。
この疑問を口にした後、轟くんはどんな答えを返すのか。
胸の前で拳を握りしめて、無意識に肩に力が入る。
喉が渇く、視界が揺れる。
それでも、轟くんを縋るように見上げた。
「未来の私って、ヒーローとして、活躍できてたのかな……?」
轟くんが動きを止めた。
すぐに言葉が返ってこなくて、どくどくと不安が募る。
イエスかノーか、答えは二つのシンプルな質問。
だけれど、轟くんは無言のまま何かを考えているようだった。
その時間が、長く長く続くように思えた。
――やがて、一度目を伏せた轟くんが、短く息を吐く。
再び瞳をこちらに向けて、口を開いた。
「明日、外出るぞ」
「……へ?」
予想外の返答、というよりも提案に、思考が遅れる。
「ずっと篭ってるのも詰まるだろ。外出て、色々見て回って……それから答える」
「それは――」
ピー。
どうして、と続けようとしたところで鳴り響く電子音。
硬くなっていた体がビクリと跳ねて、喉が引きつった声を出す。
「炊けたみたいだな」
炊飯器の合図だった。
保温マークが点灯したそれを一瞥した轟くんが、私に向き直って「いいか?」と問う。
「は、はい」
緊張が解けて、なんだか脱力してしまった。
再び姿勢を正す気にもなれず、そのまま頷いた。
「ん。なら飯にするか」
緩んだ空気の中、轟くんはキッチンへ向かう。
私も拳をほどいて、ぐったりと背もたれに体重を預けた。
明日。今ではなくて明日答える。
轟くんは、はぐらかすわけでもなく、いたって真面目に言った。
先延ばしというわけではなくて、轟くんなりの考えがあるのだろうか。
思考の迷宮から抜け出せないもやもやはあるものの、少しほっとしている。
未来の人から、轟くんから答えを聞けば、それが正解になってしまう。
焦って思考が鈍くなっている今は、聞くべきではないのかもしれない。
はあと息を吐き出して、ソファに深く沈む。
「夕飯食えるか?」
「あ、いただきます。というかごめん、手伝います!」
轟くんから投げかけられた言葉で、これから夕飯だと思い出した。
すぐさまキッチンへ飛んでいく。
温め直したカレーをよそってテーブルへ運ぶ。
――明日、外の世界を見て回る。
そこで私は、何を知って、何を思うのか。
***
翌日。
「うわぁ……平日なのにこの人並み」
パールホワイトのスポーツカーを駐車場へ預けて、轟くんに連れられて街へと繰り出した。
都心は私の時代よりも更に活気づいて、あちらこちらを人が行き交っている。
大人の私の服を借りてみたけれど、服装もなんだか私の頃とは違うみたいだ。
「空飛んでる人がいる!」
「"個性"使用の改正法案が施行されたからな。簡単に言や空にも道が出来た。まだ一部だが」
「わ、あの車、ヒーローの?」
「パトロール中みてぇだな。日本のも最近は結構高機能になってる」
「ブーツからジェットが……?!」
「法案が改正されたから、一般向けの"個性"サポートグッズも結構出てる。その分注意も必要になるけどな」
目に入る場所のあちこちで知らないことが起きている。
ひっきりなしに尋ねる私に、轟くんは一つ一つ答えてくれた。
今日の轟くんはキャップにサングラス、無地のVネックシャツにジーンズと完全なオフスタイルだ。
轟くんは売れっ子プロヒーローで外見も目立つし、私も過去の人間とはいえ知り合いに出くわせばややこしい。
目立たないよう隠しているけれど、誰かが気付けばすぐに囲まれたりしそうだ。
注意していこう。
……と思ってみても、興奮気味の私は止まらない。
通行人の腕時計のようなものから浮き上がる映像、横断歩道を監視する小さなマシン。
ヒーローだけではなく、人々が日常で使う機械もとても進化している。
「わっ」
ちょうど私の目の前をマシンが横切った。
すごい、こんなに滑らかな動作で……カメラとか付いてるのかな、センサーは何を搭載してるんだろう。
スムーズに横移動するその様を熱心に眺めていると、隣から吹き出す音が聞こえた。
「はしゃぎすぎだ」
くつくつと笑う轟くんに、頬が熱くなって縮こまる。
「う、ごめんなさい」
「いや、楽しいならいい」
サングラス越しに柔く細められた瞳に、違う意味でまた熱が上がる。
ううむ、未来の轟くんのこういう大人びた感じ、調子が狂う。
「あそこ、寄ってくか」
「?」
轟くんが指さしたのは、道路に面した店。
店の前にいた若い男女が手渡されたのは、クレープのようなもの。
生地の色が赤やオレンジのマーブルで、ふんだんに盛り付けられたフルーツと、白いクリームの上に降り注ぐチョコスプレーのような、でも違うような?
カップルはカラフルな見た目を喜んで写真を撮り回っている。
「最近ああいうのが人気らしい。食べてみるか?」
「いいの?」
未来のスイーツ、とても気になるけれど轟くんはいいのだろうか。
甘いものとか別段興味なさそうだけど。
と思っていたら、未来の私が興味を示していたらしい。
な、なるほど。情報源はそこだったか。
奢ってくれる轟くんに感謝して、プレーンなものを頼んだ。
ふわふわのクリームが乗っかった素地は、予想以上に柔らかい。
中のアイスを潰さないよう両手で支えながら、一口かじってみる。
「あまっ……パチパチする!?」
舌の上で蕩ける濃厚なクリーム、その上にトッピングされたスプレーが弾ける。
瑞々しいフルーツのさわやかな酸味と仄かに香りづいたクレープ、様々な味や食感を一気に楽しめる代物だった。
未来のスイーツ、すごい。
「おいしい!すごいおいしいよこれ!」
思わず顔がにやけてしまうほどのおいしさだ。
誰かと共有したくて、定番のソフトクリームをかじっていた轟くんに感想を伝える。
私の顔がそんなに緩んでいたのか、サングラス越しにまじまじと見つめる轟くん。
「一口いいか?」
と言ったかと思えば、クレープを持っていた手首を掴まれそのまま轟くんの顔が、ええええ!?
近っ、近い!
伏せられた睫毛とか、高い鼻とか、クレープを挟む唇が私の視界を奪った。
「ん……甘ぇ」
口の端についたクリームをペロリと舐めとり、ぽつりと一言。
時間にして僅か数秒、しかし私のキャパはその一瞬でオーバーした。
口をはくはくとさせながら固まる私に、轟くんは再びソフトクリームを食べながらなんでもないようにのたまった。
「溶けるぞ」
かじった。
私の持ってたクレープにそのままかぶりついたぞ轟くん。
そ……そういうことする!
***
手がどろどろになる前になんとかクレープを詰め込んだ後、スクランブル交差点の人混みをくぐり抜けてショッピングモールへ。
ずらりと並ぶ様々なショップ、その一つ一つを覗いてみる。
「スマートグラス最新機種!」
眼鏡型携帯電話?!指輪型なんてのもある。
さっき見かけた画面が浮き上がる携帯も当たり前のように並んでいた。
「ますます多様化する"個性"に合わせた納得の品揃え!」
色んな形、素材の服、あらゆる所に空いた穴。
そんな所にチャック付けてどう使うんだろう。
「ヒーローグッズ専門店!ルーキーから古株まで様々なグッズ取り揃え!」
オールマイト、エンデヴァー!
この時代でもグッズが作られてるんだ。
むむむ、私の持ってるフィギュアより更に精巧な造りになってる。
うわあ、このぬいぐるみ緑谷くんじゃ?!
こっちは爆豪くん、飯田くんに梅雨ちゃんもいる!
「あっ」
轟くんの……ウィッグ?!
そんなものまでグッズにしちゃうんだ……
ウィッグだけじゃない、流石というか、プロヒーローショートのグッズは沢山作られていて、平日の昼間でもちびっ子や女子が集まっている。
黄色い声が飛んでくるのを聞いて、改めて実感する轟くんのイケメンボーイっぷり。
その山の前で呆然としていると、隣ではしゃいでいた女の子二人組が急に静かになった。
「ねえ、あの人……」
「やっぱり?髪の色とか……」
……ハッ、ヒーローグッズに釣られすぎた。
店の手前で待っている轟くんの方を振り向くと、モールの中を歩く人達が、ちらちらと視線を彼に送っている。
私の視線に気付いた轟くんが、小さく手招きした。
心の中で謝りつつ、すぐにそちらへ向かう。
「ごめんなさい、つい夢中に」
「知ってる。そういうとこ昔からだったな」
「うっ」
サングラス越しの生暖かい眼差しにもにゃもにゃする。
大人の轟くんは、未来の私が大人になっても部屋にヒーローポスターを貼ってるのも周知の事実というわけだ。
私が近寄ったことでヒソヒソ声は更に増えた。
轟くんが無言でこの場を離れるジェスチャーを送り、同じく無言で頷いて、同時にさっと歩き出す。
集まる視線を避けるように人並みに紛れたけれど、賑わう屋内は抜けるのも一苦労だ。
「わっぷ」
轟くんから離れないようその後頭部を必死に見詰めていたら、目の前を横切った人にぶつかってしまった。
「すみませんっ」
大柄な"個性"の人に頭を下げる。
再び頭を上げた時、紅白の頭はいなくなっていた。
「あれ?」
きょろきょろと見回すと、少し離れたところでひょこりと頭一つ分抜けた轟くんが見えた。
良かった、はぐれた訳じゃない。
けれど人混みがますますきつくなってるような。
というか、轟くんの周りに集まってるような。
「あのぉ、プロヒーローさんですよね」
「ショート、ショートだ!ヤバいヤバい」
「本物?!マジ本物?!」
ああ……
轟くんは女子に囲まれていた。そしてバレていた。
瞳をキラキラさせながら食いつく女子達に、相変わらずのポーカーフェイスで対応している。
「えーっ私服じゃんヤバい!」
「いっつも応援してます!サイン、書くもの持ってる!?」
「ウソーないって!」
「今オフなんで」とやんわり断る轟くんだけれど、興奮している彼女らには届かないみたいだ。
だんだん大きくなる女の子の声を聞きつけた周囲の人達が、再び轟くんに注目し始めた。
どうにか轟くんと合流したいけれど、女子達の囲みを突破するのは至難の業だ。
こういう時はやや強引な手を使ってでも……
その時、女子を相手にしながら周囲を伺っていた轟くんと目がパチリと合った。
「お、オニーサン!」
咄嗟に声を出していた。
私の声に、轟くんへ向けられていた視線が一斉にこちらに向く。
その量に心臓が飛び跳ねたけれど、ぐっと拳を握りしめて堪えた。
そのまま強引に人垣を割って入って、轟くんの手を掴む。
「は、早く行こう!姉さんのお見舞い品探さなきゃ!」
「……ああ、そうだな」
私の意図を察した轟くんが、その場の人達に小さく会釈して足を踏み出す。
人垣は突然の闖入者に対応できず、固まったままの裂け目を抜けてその場を脱した。
「誰?」
「お兄さんって言ってたし……妹?」
「あ、ホラ奥さんの?」
「あー、何て言ったっけ。休業中の」
後ろから聞こえる声を気にしつつ、早足で離れる。
ば、バレてないよね?
大丈夫だと思いつつ、キャスケットを深く被り直す。
勢いに任せて歩いているものの、私はどこへ向かってるんだろうか。
ここが全く土地勘のない未来だと思い出したところで、轟くんが私の腕を引いた。
「こっちだ」
そのままモールを出て、別のビルへ移動する。
ビルの一階に入っていたカフェでドリンクをテイクアウトして、そのまま屋上へ。
屋上庭園に人影はまばらで、空いたベンチに腰掛けて、漸く一息ついた。
隣に腰掛けた轟くんが、コーヒーを一口飲んだところで一言。
「助かった。ありがとな」
「いえいえ……」
思ったより疲弊した。
女の子達、すさまじい勢いだったもの。
これが現役プロヒーローの人気か。
カフェオレに口を付けて、先程の騒ぎを思い返す。
「……」
女の子たちは未来の私のことも知っているようだったけれど、名前もあまり覚えてない程度の認知だった。
改めて突きつけられる現実に、街へ繰り出した時の高揚感が失われていく。
「ゆめ」
しょげていると、隣から轟くんの声が落ちてきた。
「巻き込んで悪かった。つまらなかったか?」
そう尋ねる轟くんの声のトーンがいつもより落ちていたので、即座に否定する。
「ううん、ううん!!すごい新鮮で、楽しかった!」
未来の自分のことで落ち込んだけれど、楽しかったのは本当だ。
人にも店にも街にも、自分の知らない未来の技術、未来の出来事、未来の常識が沢山詰まっていた。
ベンチから立ち上がって屋上のフェンスへ近付く。
そこから見下ろす景色は、傾き始めた太陽に照らされてきらきらと輝いていた。
この未来は、きっといいところだ。
そう思ったのは嘘じゃない。
茜色に染まる街に目を細めると、轟くんもフェンスの傍にやってきた。
私と同じ景色を眺めて暫く、一点を指さす。
あそこは……さっき入ったショッピングモール?
「あそこのモール、以前ヴィランに占拠されたことがあんだ」
「え?」
「そん時あの場に居合わせたのが、俺とおまえと、あと緑谷だった」
轟くんが語り始めたのは、かつての事件の顛末。
唐突に始まった物語、黙って耳を傾ける。
ヴィラン集団による狡猾な複合施設占拠事件。
人質はそこに居合わせた一般人、店内のセキュリティを掌握し、店の商品も売り上げも全てを奪った挙句、懲役中の仲間の釈放を要求してきた。
ヴィラン達個人の"個性"は強力なものではなく、セキュリティシステムの掌握によって全てのフロアを制圧するという狡猾な手口。
うーん、その場合、轟くんの"個性"なら広範囲を制圧できるし、緑谷くんのパワーがあればヴィランも圧倒できるだろう。
けれど、人質が問題になる。
どうやって攻略したのかと想像して首を捻る私に、轟くんはこう言った。
「その時一番活躍したのは、ゆめだったよ」
「え?」
私の"個性"でセキュリティを麻痺させ、モールへの侵入を果たしたらしい。
確かに道具を使えば広範囲に弱い"個性"を発動できるけれど……未来の私ってそんなことまで出来るの?
きょとんとした顔をしていたのか、轟くんがこちらを見てやんわりと口元を緩める。
「詳しい方法は秘密だ。今のおまえが知るのはズルだからな」
ズルですか。
未来の私が努力して編み出した方法には、自力で辿り着けということか。
麻痺した一瞬の隙で、各フロアにいたヴィランを轟くんと緑谷くんが無力化し、最上階にあるシステム管理室まで辿り着いた。
しかしその時には既にヴィランもセキュリティを放棄して、自力で人質を確保していたらしい。
拳銃をこめかみに突きつけられ、抵抗出来ない女性。
人質を取られては力を発揮できない。
止む無く動きを止めた二人。
その眼前で、それは起きた。
「人質の姿が揺らいだと思ったら、ゆめに変わった時は驚いた」
「そんなことしてたんですか!」
いつの間にか一般客に混ざっていた私が、人質として捕えられていたという。
両手を挙げた轟くんと緑谷くんに気が緩んだ隙を突いて、未来の私はヴィランを投げ飛ばした。
すぐさま轟くんがヴィランを拘束し、その事件は終幕した。
「おまえの活躍のお蔭で、あそこは今日も繁盛してた」
「……それは」
「ヴィランに占拠されたって情報を逸早く掴んだのはゆめだった。それに、モールの構造、導入されてるシステム、ヴィランチームの情報も、全部おまえが集めてくれた」
「……」
轟くんが、真剣な目をしている。
それで気付いた。
ああ、今が昨日の続きなんだ。
「ここだけじゃねえ。この街は何度かヴィランの被害に遭ってるが、おまえはその度に守ってきた」
屋上から見渡す景色。
夕日が街中を紅く染め上げている。
立ち並ぶ高いビルと、隙間を縫うように伸びる道路。
行き交う車と、大勢の人達。
中心を流れる川に反射する光。
この街で、私は戦っていた。
轟くんと、他の誰かと一緒に、守っていた。
「おまえはヒーローだ」
目に見える成果はなくとも、認めてくれる人はいる。
仲間が、大切な人が。隣を向けば、笑う人が。
「そっか。私……」
やっと分かった。
写真の中の私が、笑っていた意味が。
「……うん。話してくれてありがとう」
顔を上げて、轟くんを見た。
夕日に照らされた彼の姿を見て、未来の私に想いを馳せてみる。
「そうだね、きっと、この世界は、良いところなんだ」
未来の私には未来の私の出来事があって、意志があって、辿り着いた場所がある。
今の私にはないけれど、多分、それも一つの正解だ。
受け入れるのは時間が掛かるけど、納得は出来た。
寂しさと悔しさと、よく分からない感情が溢れそうになるけれど、それと同じくらい、幸福も満ちている。
「……もう夕方だしそろそろ帰ろうか。今日はちゃんと夕飯準備するよ!」
何故か涙が出そうになって、ごまかしながらフェンスから離れた。
夕日で長く伸びる影を追いかけていると、後ろから声が掛かる。
「なあ」
轟くんは立ち止まっていた。
逆光に照らされて、その顔は陰っている。
屋上を抜ける風が、短い髪を乱れさせ、紅白の色が混ざり合っている。
一瞬の間、風が前髪を持ち上げた。
「おまえには、今の俺はどう映る?」
隙間から覗いた瞳は、先程と変わらないくらい真剣で。
それでいて哀愁の色を宿していて。
「え――」
言葉に、詰まった。
はぐらかすべきではない。何か答えなくては。
けれど、突然の問いに対する回答は用意できていなかった。
話の流れから意図を考えようとして、上手く出来ずに言いよどむ。
今の私から見た、未来の轟くん?
それは、その、ええと。
「か、かっこいいです……?」
纏められなかったので苦し紛れに口にした素直な感想。
面食らった轟くんが静止すること数秒、後に吹き出した。
「ふはっ、そうか、ありがとな」
「忘れてくださいごめんなさい」
何言ってるんだ。何言っちゃってるんだ私!
完全に答えを間違えた。
めったに爆笑なんてしない轟くんが耐え切れずに肩を震わせている。
羞恥心がみるみる膨らんで、体中の血液が沸騰する勢いだ。
「急な問いかけだったな、悪ィ」
「うぐぐぐ」
一しきり笑った轟くんが、やっとフェンスから離れて出口へ歩き出す。
顔を直視できないまま、その半歩後ろを小さくなってついていった。
***
駐車場へ戻ってきて、そのまま車へ乗りこんだ。
助手席に座って今日の出来事を思い返す。
色んなところを回って沢山のものを見て、充足感と疲労感に満たされていた。
余韻に浸りながら、そっと目を閉じる。
「……さっきは言葉足らずだったが」
「?」
すると轟くんの声がした。
目蓋を開けて隣を見る。
運転席の轟くんはフロントを見据えたまま訥々と語り出す。
「俺達は、卒業して最初に親父の事務所に入った。あいつの事務所は体勢が整ってるし、ヒーロー活動には最適の環境だったからな」
「そうだったんだ」
やっぱり。
職場体験でもエンデヴァーさんの手腕はすごいと感じたし、それは轟くんも認めていた。
エンデヴァーさんの期待を一身に受けたであろう轟くんは、その才能もあってすぐに右腕的ポジションに抜擢されたらしい。
その光景は目に浮かぶなぁ。
私も私で、かつてエンデヴァーさんが期待してくれたように、後方支援のスペシャリストとして教育を受けていたとか。
ヒーローとしても活躍の場は多く、順調に思える環境ではあった。
けれど轟くんは、父親の、誰かの事務所のサイドキックで満足するつもりはなかった。
「独立しようって言ったのは俺だ。バディを提案したのも」
最初から決めていた。
エンデヴァー事務所でプロヒーローとしてのいろはを盗んだ後は、自分名義の事務所を立ち上げようと。
事務所の中でも同期に当たる私と轟くんは、二人で行動することも多かったらしい。
後方支援と前衛、組み合わせやすい二人だし。
「プロとして場数を重ねた頃、独立した。あの時親父は相当だったが……話す必要ねえか」
遠い目をした轟くん。
その日のエンデヴァーさんと何があったのか非常に気になるけれど、今はその話題ではないらしい。
「おまえと何度か組んで相性も良かったし、二人で事務所を始めりゃ上手くいくと思ってた。……だがまあ、現実はそう簡単じゃなかった」
「……」
壁に、ぶち当たってしまったのか。
事務所を経営する難しさは、今の私には計り知れない。
でも、散らかった社内を思い返すと、そこは疲弊した空気が満ちていたように思えた。
エンデヴァー事務所で成功を重ね、結婚もして、きっと幸福の頂点にいただろう。
そんな最中飛び立った事務所で、現実の風を受けて一気に落っこちてしまった。
「独立して数か月経っても成果が上げられなくて、役所からは叱られるし親父はうるせえし、あん時はかなりイラついてたな」
「ああ……」
エンデヴァーさんはかなり口煩そうだ。
それに政府も……国から給料を貰う以上、働いているという証明は必要だろうし。
「そんな折だった。おまえがこう提案したのは」
"私が君を支える"
未来の私はそう言った。
ヒーローとして働くとは。
パトロール、対ヴィラン、対災害支援、事務作業、情報収集、タレント活動……全てをこなそうとすればそれだけ仕事量が増える。
"個性"の特性によって、どうしても得意分野は分かれてしまうし。
対ヴィランにおいてより力を発揮できる轟くんを前面に押し出して、その他の雑務を私が行えば仕事が分担できる。
元々後方支援の私が、事務所経営に必要なあらゆる処理を担う。
それが私の提案だった。
轟くんは最初は渋ったものの、試しにその体制を始めたところ、徐々に業績が伸びるようになった。
ヒーロー事務所の顔としてショートの名前が売れ、メディアにも注目されるようになり、ヒーロー活動以外にも外へ出る日が多くなった。
未来の私は、ひっきりなしにかかってくる電話にひたすら対応しながら、ヒーローとしての活動を最優先に必要最低限のメディア露出のスケジュールを調整する。
活動に伴って発生する事務処理をこなす傍ら、日々移り変わるヴィランの情報を集める日々。
事務所の活動は日に日に充実し、その分未来の私はデスクワークに忙殺されていく。
それを傍らで見ていた轟くんの中で、一つの感情が巣食っていた。
「無理、させてたんじゃねえか」
「――それは」
轟くんは、知っていたんだ。
高校生の頃の私は、ヒーローとして輝くことが望みだったと。
でも、未来の私は自らその可能性を封じた。
かつての私が聞けば、まさにショックでふさぎ込んでしまうようなことだと知っていながら。
"今の俺はどう映る?"
その問いかけの意味を理解して、今度こそ答えられなかった。
つまり、それが答えだ。
押し黙った私の隣で、轟くんのハンドルを握る手に力が篭った。
***
気まずい車内から解放された後も、エレベーターの中二人きりで無言の時間が続いた。
辿り着いた玄関に入るのも、なんだか胸がジワジワと痛む。
「今日は俺がやる」
「えっと……はい」
夕飯の準備。
手伝うと言えずにすごすごと自室へ引き下がる。
「はあ……」
扉を閉めて、もたれかかった。
未来の私の立場、そうなった経緯を知って、そう選択した自分のことも分からないでもない。
でも、私にはその経験はなくて、高校生の苦労と努力しか知らない。
この先の未来、どんなに努力してもこの結末になるのか。
突きつけられた現実は、納得するのには難しい。
いや、納得できるのかも怪しい、ずっともやもやを抱えて生きるのかもしれない。
……未来の私もそうだったのかな。
轟くんは、それを聞きたかったんだろう。
過去の自分に、誇れる生き方をしているのかと。
「……む、む、むむう」
未来に来てからなんかこう悩んでばっかりだ。
大人になるってこういうことなんだろうか。
くよくよしたって仕方がない。なにか打開策が欲しい。
何を打開するのかもよく分からないけど、何かが欲しくて部屋の中をうろうろする。
机の上に積まれた本やコルクボードの写真はもう見たものだし、ベッドの上のスマホはなにコレどうやって電源つけるの。
そうだ、引き出しをまだ開けていない。
取っ手を握ってぐっと引くと、存外重量があった。
ずるずると引きずり出したその中には、無造作に放り込まれた紙束が詰め込まれていた。
ここも整理できてないのか……
「あ」
くちゃくちゃになった紙束の上に、小さく畳まれた紙が一つ乗っている。
もしやと思って手に取って、一つ一つ折り目を伸ばしていく。
最後の折り目を開くと、そこには小さな手書きの文字が書かれていた。
『過去の私へ』
簡潔に記されたタイトル。
それは、未来の私から過去の私へ向けた手紙だった。
未来の私なら何か残してるかと思っていたけれど、本当に残していたとは。
しかもこんな簡単なところに。どうしてすぐに見つけられなかったのか。
逸る気持ちをそのままに、すぐに文面を読み始めた。
『この世界に来てどれくらいが経ちましたか。
色々なものを見て、色々なものに触れたでしょうか。
私の今についても、きっと知っているのでしょう。』
ありふれた文章から始まるそれは、本当にただの手紙のようだ。
『記さなければならないことがあって、この手紙を書いています。
私はあなたと同じように、高校の頃、未来へとトリップしました。
けれどその時、"誰も私のことを知らなかった"。』
「……?!」
淡々と書かれた文面に、唐突に出てきた言葉。
"誰も私のことを知らなかった"
何も分からない未来の世界に、私は一人で放り出されたというのか。
そんなはずはない。だって、轟くんがいた。助けてくれた。
他でもない未来の私が、この出来事を轟くんに話していたから。
『誰も、私が過去からやってくることを知らなかったのです。
何も分からない未来で途方に暮れた私はとても苦労しましたが、今のあなたは違う。
なぜなら、私がその経験をあの人に話したから。
だからあなたはここに来て、この手紙を読んでいる。
それは、私の経験した時にはありえなかった。
私のかつて経験した事は、今あなたの身に起こっている出来事とは多かれ少なかれ異なる部分があるのです。』
それは、それはつまりどういうことだ。
未来の私と、この私にはズレが生じている。
私が今立っているこの時代、いや、この世界は、私の未来ではない?
『バタフライエフェクトという言葉を知っていますか。
蝶の羽ばたきのように小さな出来事でも、水面の波紋のように大きな影響を及ぼす。
あなたと私は異なる道を歩んでいる。
ならば、行き着く未来も異なったものになる。
実際、私がかつて見た未来と、私が経験した未来は、異なる部分がありました。』
それは――
ドクリと心臓が音を立てる。
『あなたと私は、別の存在。
あなたはあなたの信じる道を行けばいい。
それがあなたにとっての正解となるのだから。』
「……!!」
この世界の私も、かつて今の私と同じように未来の世界へ訪れた。
でもその時見た世界と、辿り着いた未来は別のものだった。
なら、私も同じように。
私の未来は、ここではない、まだ生まれてもいないんだ!
ドクドクと脈打つ鼓動が、手書きの文字を追うのを阻害する。
まだ手紙は終わっていない。
最後の段落。そこに記されていたものは。
『それから、もしも――』
「……轟くん!」
扉を開けて飛び出した。
廊下を滑るように駆けてキッチンへ一直線。
鍋を片手に持ったまま、大声で呼ばれてきょとんとしている轟くんがそこにいた。
「ゆめ?どうし……」
「さっ、さっきの、質問!」
轟くんの言葉を遮って、声を張り上げる。
早く、早く伝えなくては。
急ぐ心と裏腹に、言葉はまとまりを持たない。
「私はやっぱり答えられない。私は、この世界の私じゃないから!」
「……?」
轟くんの目が僅かに大きくなって、じわりと眉を寄せた。
突飛なことを言ったのは自覚している。
けれど、その通りなんだ。
この世界の私が過去に経験したことと、私が経験したことは異なっている。
同じ綾目ゆめでも、この世界の私とは異なる、所謂パラレルワールドの存在ということだ。
私の未来はまだ確定していない。
この世界と同じ道を辿るかもしれないし、全く別の道を切り開くかもしれない。
「だからつまり、私は轟くんの知る私とは別の存在で……」
なんと説明したらいいのか、幾つか言葉を並べてみても上手い説明が出来た気がしない。
必死にまくし立てる私を見詰めていた轟くんが、丸めていた目を静かに閉じた。
「……分かった」
「……!」
目を開いた轟くんが、確かめるように言葉を紡ぐ。
「おまえは俺の知ってる昔のゆめにそっくりだが、この世界に辿り着くゆめじゃねえ……ってことか」
通じた!
「そうなんだ、私は……!」
パッと喜びを浮かべた私に、轟くんは「そうか」と小さく笑った。
「今のおまえは可能性に満ちてる。望む未来に手を伸ばせば、きっと掴める」
「!」
そうだ。
私はこれからの努力次第で、望んだことも、望まないことも実現させることができる。
私の歩む先にはいくつもの未来が分岐していて、ここはそのうちの一つであり、私には到達できない場所でもある。
私の夢はまだ終わっていない。これからも走っていけるんだ。
「うん、うん!私はまだ――」
轟くんは、眩しそうに目を細めている。
懐かしむように、どこか寂しげに。
その顔を見た瞬間、高揚していた気分がすっと収まった。
「妙なこと聞いて悪かったな」
律儀に謝った後、再び目を伏せた。
少し俯いた表情は影に沈んでいる。
「……っ」
この数日間、たまに私を見詰めて立ち止まる轟くんの姿があった。
私に未来の私の姿を重ねたのか、あるいは過去の私を見て何か思っていたのか。
……ずっと抱えていたんだろう、パートナーへの後ろめたさを。
大人になった私に問うても、きっと平気だと笑う。
だからこそ、高校生の私に答えを求めた。
けれど私が何を言ったところで、この世界の真実にはならない。
結局、轟くんは答えを得られなかったことになる。
「……でも」
でも、私は知った。
息を吸って、言葉を吐き出す。
「この世界の私は、後悔してないよ」
轟くんの目が開いた。
俯いていた顔を持ち上げて、私を見る。
私は目を逸らさずに、はっきりとした口調で続ける。
「私は、私の考えで選んだ」
手紙には続きがあった。
未来の轟くんが悩んでいることに気付いていること。
語ろうとしないのは自分に関係することだからと思っていること。
過去の私になら話してくれるかもしれない、そしてその時はこう答えてほしいと。
『ヒーローになったのも、彼と生涯を共にすると決めたのも、独立してバディを組んだのも、全部自分の意思で決めたこと。
その中で選び取ったものも、手放したものもあった。
そうして私はなりたいものになった。』
「この世界の私が一番なりたかった姿は、貴方の隣にいることだった」
未来の私は、轟くんの隣を歩むことを選んだ。
ヒーローとして、家族として。
そのために沢山のことを勉強して。
それだけ大事な人になっていた。
『私は幸せです。
私は私の世界で、希望に満ちて生きています。
私とあなたの選択を、信じてください。』
写真の中で微笑んでいる。
大人になった私の最上の笑顔は、轟くんの隣で生まれたもの。
きっとその場所でしか生まれなかったものだ。
「私は、私のなりたいものになったよ。だから――」
大丈夫。
その言葉が声になる前に、体に衝撃が来る。
轟くんが鍋を放り出して、私の体を抱きしめていた。
「……!」
力強い腕と、大きな体に包まれている。
コンマ遅れて状況を飲み込んだ私は、轟くんの胸に顔をうずめたまま身じろぎ出来ずにいた。
「と、とどろろろろ」
一気に熱を帯びる体。
不意打ちすぎて心の準備が出来てない。
轟くんは、あわあわと焦る私を腕の中に納めたまま緩める気配はない。
全身が爆発寸前の時、轟くんが大きく息を吸い込んだ。
「……ありがとう」
それは、掠れる程小さな声で。
……その言葉を、私が受け取っていいのかは分からない。
私はただ、この世界の私の言葉を伝えただけだから。
けれど――私の背中に回された腕が僅かに震えているのを感じる。
今はただ、そのまま受け取っておこうと思った。
***
夕飯を二人で準備して、食事と風呂を済ませて、それぞれの部屋へ引っ込んだ。
まどろむ夜の静けさの中、ベッドの上に座り込んで物思いにふけっている。
轟くんはもう休んでいるだろうか。
妙に冴える頭。
なんとなく確信がある。今夜私は……
コンコン。
「はいっ」
考え事をしていたので反射的に返事をしてしまったけれど、さっきの音は扉をノックした音だ。
ノックする人物なんてここには一人しかいない。
え、この時間に!?
整える暇もなく、静かに開いた扉から轟くんが姿を現す。
私はといえば、咄嗟にベッドの真ん中で正座していた。
「寝るとこだったか」
「いえお構いなく!」
背筋がピンと伸びる。
大人の私のパジャマを借りてるんだけど変になってないかな。
シャツにスウェットとラフな格好の轟くんは、部屋の入り口で立ち止まっている。
何か用事があるのだろうか。
車の中で見た堅い横顔はもう無くて、表情は乏しいけれど穏やかだ。
「ゆめ」
「は、はい」
私の名前を呼んで、轟くんがベッドの脇までやってくる。
少し屈んで目線が合うと、その近さに一層背筋が伸びた。
轟くんは私の目を覗き込みながら、ゆっくりと口を開く。
「一緒に寝ていいか?」
「はぇ……」
とてもまぬけな声が出たと思う。
シンプルな単語で構成された短い台詞だったのに、理解するのに時間がかかる。
なんだかデジャヴを感じつつポクポクポクと数秒静止した後、思い出したように息を吸い込んで。
「へえええ!?」
裏返った叫び声。
深夜のマンションという状況をすんでのところで思い出して何とか音量は抑えたけれど。
間近で絶叫を受けた轟くんがやや目を細めて、しかし別段気にした風もなく言葉を重ねる。
「未来のおまえのこと聞いて、我慢できなくなった。……一緒にいてぇ」
恥ずかしげもなく言われた台詞と共に、視線で訴えられる。
う……だ、ダメだそんなの。
付き合ってもないからって言ったのは轟くんなのに。
でも轟くんからすれば、未来の私と同じベッドで寝るのは多分日常的なことで、それが私がやってきたことでなくなって。
今日、ずっと抱えてた不安を吐露して、解消されて、それで……
……ああ。
甘えてる、のか、轟くん。
別の世界の私だって分かってるけど、ゆめに甘えたいんだ。
それに気付くと、胸の奥がギュッとした。
私が身を引くと、その分轟くんがベッドに乗り上げる。
大人になった彼の、ひたむきに向けられた視線が突き刺さって直視できない。
今まで私が我儘を言って引いてもらっていた分、こうも引き下がる様子がないと根負けしそうだ。
「……ゆめ、ダメか?」
とびきり優しい声で、そっと頭を撫でられる。
ぐ、ぐ、ぐぬぬ……そんなの、ずるい。
「だ、ダメじゃない、です……」
お、押し負けてしまった。
唇の隙間から絞り出した声は、羞恥と緊張で震えに震えていた。
轟くんの目尻が下がり、唇が弧を描く。
「ありがとな」
「あ――」
また。
轟くんが私の体をすっぽり包み込んだ。
そのまま緩やかに体が傾いて、大きなベッドに沈む。
「おやすみ、ゆめ」
部屋の明かりが消えて、静かな声が頭上から降ってきた。
抱きしめられたまま、轟くんが目蓋を閉じる。
呼吸に合わせて膨らむ胸、頭の下に伸びた腕。
その温もりに包まれる中、二人分の鼓動を感じる。
……これが、この世界の私の幸福か。
成る程これは幸せだと確信を持って言えるだろう。
わ、私にはまだ刺激が強すぎるけれども。
「……」
とくとくと脈打つ鼓動が鼓膜を刺激する。
熱を孕んだ頬は冷める気配がないけれど、不思議と心地よい。
「おやすみなさい」
小さな声は夜の空気に溶けて、そっと目蓋を閉じた。
***
鼓膜が震える。
何かが聞こえる。
「……」
誰かの、声?
「おい、綾目」
肩を揺すられて、重い目蓋を持ち上げた。
光で滲む視界に、大きな影がぼんやり映り込む。
「……轟くん?」
意識がはっきりしてくると、それがこちらを見下ろす轟くんだと分かった。
その後ろには天井、灯りのついたライト。
「…………はっ、朝!?」
「まだ夜だ」
驚く私に返されたのは、抑揚のない声。
紅白の髪、左右で色の違う瞳、火傷の痕は間違いなく轟くんその人の特徴だ。
て……轟くんの顔が幼い!!
丸く整った髪も、高校生の頃の見慣れた髪型だ。
私が眠っていたのは大きなベッドではなくて、雄英の寮の談話室のソファ。
時計が示すのは夜九時を回った頃。
「……今日って何年何月何日?」
「?」
小首を傾げながらも轟くんが答えた日付は、私が未来へトリップした日と同じだった。
「戻ってきた……?」
元の世界、元の時代へ帰ってきたのだろうか。
でも私、トリップする前は確か自分の部屋で勉強してたような……
「放課後どっか行ってたのか?風呂上がってからここで眠ってたみてえだぞ」
出先から戻ってきたのかと解釈した轟くん。
トリップなんて知る筈もない。
「いや、ええと……」
そういえばトリップする直前変なものが飛んできた気がするけど、よく考えればそれもおかしい。
窓から庭を眺めてみても、それらしいものは一切なかった。
もしかして……夢?
そ、そうだよね。
未来、それもパラレルワールドへトリップなんて、普通に考えてありえないことだし。
「うーん……寝ぼけてたみたい。起こしてくれてありがとう」
全くおかしなものを見たもんだと思いつつ、へらりと笑って轟くんを振り返る。
「疲れてんなら布団で寝ろよ」
と、思ったより距離が近かった。
すぐ後ろに立っていた轟くんがこちらを覗き込むように少し身を屈めると、その顔が一瞬ぶれて大人の姿と重なる。
「ッ!!」
瞬間フラッシュバックする未来での記憶。
最早現実にあったかも怪しいのに、大人になった轟くんの声も姿も腕の感触も、鼓動も匂いも全てが思い起こされた。
脈が上がって、急激に熱を帯びる。
みるみる顔を赤らめる私を、不思議がる轟くん。
「大丈夫か、なんか顔赤ぇぞ」
轟くんの顔がずいと更に近付くと、暴れ出す心臓。
もう自分の妄想のせいなのか、距離の近い轟くんのせいなのかも分からない。
「アッ、ははは風邪かな?ソファじゃなくてちゃんとベッドで寝ないとね!」
「おやすみ!!」と台詞を残して、エレベーターへ猛ダッシュした。
「お」
背後で轟くんが口を開けていたけれど、上手く取り繕う余裕はない。
"おやすみ"
大人の轟くんの、落ち着いた声が頭の中に響く。
う、うわああああ。自分の言葉にさえこうも動揺するなんて。
あれは現実だったのか。はたまた幻?妄想?も、もう分からない!
エレベーターが上がるまで、ずっと頭を抱えていた。
***
カーテンの隙間から、陽の光が差し込む。
夏から秋へと移ろう柔らかな日差し。
目蓋越しに感じる明かりに、轟は僅かに眉を動かした。
「ん……」
身じろぎして、自身が寝転がるそこの柔らかさを感じる。
ここ最近眠っていた畳の上の布団とは異なる、馴染んだ弾力。
二人用のベッド。
そこまで思い至って目蓋を持ち上げる。
横を向いた轟の視界に、腕を枕にして眠る少女の姿はない。
代わりに、上体をベッドから起こした腰が映っている。
その体に沿うように頭を傾けて、上を向いた。
天井に取り付けられた、明かりの落ちた照明。
その手前に、見慣れた人の顔。
緩やかな微笑みを湛えた、大人の女性。
「――ゆめ」
名前を呼ばれた彼女は、慈しむように目を細めた。
「おはよう、焦凍くん」
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後書き。
記念の未来の話、もとい本編とは異なるifの世界の未来の話でした。
本編の夢主の未来がこうなるとは限らないしこうなるかもしれない。
未来の夢主と轟くんがその後どんな会話をするのかは流れ的に入れなかったのですが、未来の轟くんのスマホの検索画面はファミリー用の大きな車になっているのでした。
2018.08.17