予感
雄英高校職員室の一画、無機質なデスクに腕を乗せ、仏頂面で手の内の紙束を見下ろす男がいた。 相澤消太、1-Aの担任だ。 彼が手にしているのは生徒名簿……A組に入学した生徒達の来歴が細かに載っているものである。 開かれた頁には女子生徒の証明写真。氏名欄に印字された文字は綾目ゆめ……夏季休暇後A組に編入した生徒だ。 真面目で努力家、突出した"個性"ではないが工夫と研鑽で編入を勝ち取った生徒。 色物揃いの1-Aの中に放り込んで耐え切れるかと懸念はあったが、編入後初の実技訓練でも予想以上に食らいついてきた。 事前準備や日々の研鑽を怠らず登ってきた綾目は、しかしながら実技では一歩届かず敗北した。 敗北が決定した直後の表情は、普段の綾目からは想像もつかない程ひしゃげていた。 つい先日普通科での仮免許取得という快挙を成し遂げただけに、そのショックは大きかったのだろう。 若いが故に伸びしろはあるが、メンタル面での揺れは大きい。 ここで折れればそれまで、だが立ち上がる事が出来れば大きく前進できる。 ヒーロー科の生徒として、甘やかすことなく見守っていくだけだ。 ――だが。 相澤は、印字された文字を指でなぞる。 綾目ゆめ……この名を見たのは雄英高校が初めてではない。 思い返すのは古い記憶、両の指で数え切れるかという程前の年、同じく紙面でその名を見た。 関東の一都市で起こった大規模なテロ。 発生期間は僅かだったが、その被害は甚大で、ひとつの街の人間が丸ごと病院へ搬送されたという。 被害者の名前は公表されなかったが、ヒーロー達や警察には一部が通達された。 特に被害が大きかった者、首謀者に直接暴行を加えられた者……そのリストの上位に、綾目ゆめの名があった。 年端もいかぬ子供だった綾目は、この事件で両親の元から引き離されている。 母親は重症、父親は……。 両親が世界の全ての子供にとって、その事実は大きすぎた。 今の綾目は影を感じさせぬ生徒だが、幼少期の出来事は確かに何かの影響を与えているはずだ。 それを確かめて、綾目という人間を見定める。 それが教師たる己の役目だと、相澤は考えていた。 相澤は名簿をデスクに置き、乾いた目蓋を閉じる。 自然と漏れた溜息は、誰にも届くことなく掻き消え―― 「Heyイレイザー!!電話が来てるぜぇ!?」 掻き消えるどころか騒音によって吹き飛ばされた。 プレゼント・マイクの地球の裏側にも届かんばかりのコールに、渋々閉じていた目蓋を持ち上げる。 「五月蝿い……」 睨み付けながら、近場の受話器に手を伸ばした。 それを見ながらプレゼント・マイクが言葉を付け足す。 「綾目ゆめの担任へ、ってよ」 「……?」 *** 編入後何日目かの夜。 「はああ〜……」 お風呂上がりの火照った体を共有スペースの大きなソファに沈める。 ヒーロー科は毎日何かと慌ただしかった。 インターンで早速活躍したお茶子ちゃん達が記事に取り上げられたり、仮免講習に行った轟くんが顔面絆創膏塗れになってたり。 実技の授業も座学の授業もレベルが高くてついて行くのに必死だし、授業の予習復習と、量を増やしたトレーニングも毎日続けてはいるものの、二週間程でかなりきつい。 お風呂の中で倒れなかった自分を褒めたいところだけれど、急激な眠気に襲われて船を漕ぎ始める。 「ゆめちゃん?」 「ん……葉隠さん?」 後ろからの呼び掛けに辛うじて開いた目蓋。 のったりと首を回すと見えてきたのは宙に浮かぶTシャツだった。 「こんなとこで眠っちゃダメだよー、髪も乾かさなきゃ!」 「うぁ、ごめん……寝そうになってた」 見えない手が頭に乗せたタオルに触れる。 「ヒーロー科の訓練って慣れるまで大変だよね。そだ、私がやったげるよ!」 「えっ! 悪いよ、これくらい自分で」 「いいからいいから!」 葉隠さんの押しに流され、あれよあれよと言う間にドライヤーが準備された。 軽いスイッチ音と共に吹き付ける温風に肩がぴくりと跳ねる。 「ゆめちゃん髪さらさら〜」 「あ、ありがとう」 頭に触れる指の感触がこそばゆくて身動ぎする。 そのうち温まった頭がぼうっとしてきて、再び微睡み始める。 ……こういう感覚、久しぶりだ。 孤児院にいた頃は私がお姉さんだったから、ちびっ子達の世話を焼くことはしても、世話を焼いてもらうことは殆どなかった。 やって来たばかりの頃は、跳ねっ返りでおばあちゃんの手を焼いていたかもしれないけれど、お世話を焼いてもらった記憶はあまり残っていない。 それでも、誰かに髪を乾かしてもらった思い出はあった。 それは孤児院よりも前の、もっと遠い記憶。 優しい手つきと、暖かい風。 ……お母さんだ。 朧気に覚えている暖かなリビングのソファ、後ろから伸びた手が私の頭をタオルで包み込む。 ちょっと強い風を当てられて瞑った目蓋に、笑う気配を背中で感じていた。 「ねね、ゆめちゃん最近轟とはどう? 編入してから何かあった?」 ドライヤーの音に紛れるように、葉隠さんが耳打ちする。 期待半分、からかい半分といった声のトーン。 けれど記憶の底に落ちていた私は、それを言葉として理解していなかった。 どろどろに溶けた意識が、海馬の海を彷徨う。 母の手、母の声。 幸せな時だった。 平凡で穏やかな時間だった。 当たり前に続くのだと、疑う事すらしなかった。 それが、どうして―― どうして、あんな事をした。 「え――」 刹那の間、葉隠さんの声が途切れた。 「――……あ……れ……?」 不意に戻ってきた意識。 気付けばドライヤーは止まっていて、髪はすっかり渇いていた。 「あ、わ。ちょっと寝ちゃってた……ごめん葉隠さん、ありがとう」 慌てて振り返ると、ドライヤーを手にしたまま固まった葉隠さんがそこにいた。 「え、あ……んーん、全然!」 ぱっと手を上げたと思われる葉隠さんは、いそいそとドライヤーを片付け始める。 見えないので表情は分からないけれど、なんだか動きがぎこちない。 「片付けは私が」 「いいよいいよ、ゆめちゃん疲れてるでしょ? 早く寝ちゃおっ」 引き受けようと立ち上がったものの、ぐいぐいと背中を押されエレベーターへ促される。 確かに寝落ち寸前なので、ここはお言葉に甘えることにした。 「何から何までありがとう」 「ううん、おやすみ!」 元気な声におやすみを返して、エレベーターに乗り込んだ。 ボタンを押しながら、先程の葉隠さんを振り返る。 髪を乾かす間何かを喋っていたようだけれど、急に黙ってしまった。 怯えにも似たような固まり方で。 ……もしや私、寝ぼけながらとんでもないことを口走ってしまったんだろうか。 それがあらぬ誤解も招いたとか? か、確認しておけばよかった! 頭を抱えた私の頭上で、五階に着いた知らせが鳴る。 仕方がない、今日のところは自室に戻って、明日それとなく聞いてみよう。 明日は休日、八百万さんが予習会を開いてくれる。 それに間に合うようしっかり起きて、でも眠る前に授業の復習をして…… 眠気はかなりきついけど、まだまだ頑張らなくちゃ。 「ヒーローになるために」 ――と意気込んだものの、翌日、テーブルに突っ伏している状態で目を覚ました私は、予習会開催五分前の時計を見て絶叫するのであった。 *** ――ところ変わって、とある高架下。 日も落ちた暗がりの中、佇む男が一人。 気だるげに持ち上げた頭の動きに従って、ばらばらに切られた白髪が揺れる。 暗がりに浮き上がる青白い肌、痩けた頬が動き、乾いた唇がぽかりと開いた。 「死穢八斎會、ねェ……」 その言葉は、誰に届くことも無く宙に溶け消えた。 その姿、その声は、かつてゆめに相対し自らを"メタ"と名乗った男のものだ。 落窪んだ瞳をキョロリと動かして、メタは言葉を続ける。 「ヤクザなんざどーでもいいが、あの妙なクスリ、気になるなァ。あると楽しそうだよなァ」 くつくつと喉を鳴らすメタ。 「そんでもって雄英は一年もインターンを開始……ゆめチャンもヒーロー科に編入……あァ、楽しくなりそうだなァ」 踊っているのか酔っているのか、フラフラと危なげに数歩進んだメタは、然してピタリと足を止めた。 「……ヨシ、会いに行くかァ、ゆめチャンに」 唇の端を釣り上げて、心底愉快そうな顔で。 「お祝いしなきゃなァ、破滅への一歩前進、オメデトウってなァ」 引き攣った笑い声が高架下に響く。 不気味な笑みを浮かべたまま、メタは再び歩み出す。 そうして男は、夜の闇に沈んだ。 2020.02.02
DADA