来訪者
教室内に響くチャイムの音、教壇に立っていたセメントスが荷物をまとめて教室から立ち去る。 その直後、轟の後方で硬い物同士がぶつかる鈍い音がした。 振り返った先にはゆめの机――その上に突っ伏したゆめの姿があった。 「終わった……」 うわ言のように漏れた声は、誰に向けたものでもない。 額をこすり付けたまま動かない彼女の背に、前の席の八百万の手が伸びる。 「綾目さん、大丈夫ですの?」 「十分だけ……十分だけ寝かせて……」 唸るゆめに声を掛けるのがもう一人。 「ゆめちゃん、最近寝不足?」 眉を下げて寄ってきたのは麗日だ。 近頃はインターン組も公欠が無く、放課後を共にすることが多い。 「過度なトレーニングは逆効果です。適度な休息をきちんととること、これが大事ですわ」 「おっしゃる通りです……」 八百万の叱責に、覇気のない声で返事するゆめ。 最近トレーニングの量を増やしたらしい彼女の姿を見て、轟は考える。 ゆめは、元から努力家の印象があった。 身一つで入った雄英高校で、普通科からヒーロー科へと昇ってきた女子。 彼女の"個性"は母親譲りだと言っていたが、その母親も幼少期に引き離されている。 自分の"個性"は――不本意ながら――父親の指導を受けて強くなった部分はある。 炎熱については未だ扱い切れていない点はあれど、手本は――不本意ながら――すぐ傍にある。 それに比べて、ゆめは一人で自分の"個性"を伸ばしてきたのだ。 自分にはなかった方向での努力は、尊敬すべきところだ。 だが同時に、最近のゆめは方向性を見失っているように感じる。 以前言葉を交わした中で、彼女は理想のヒーロー像が無いと語っていた。 今のゆめも、目標を見付けたという様子ではなく、ただがむしゃらに鍛えているようだ。 何か理由があるのかもしれない。 その考えに至った轟は、ゆめに声を掛けた。 「なんかあったのか」 シンプルな問いかけに、ゆめは頭の角度を変えて轟を見上げる。 一瞬、天井のライトが眩しいのか目を窄めた……というよりも、何か複雑な表情をしたゆめだが、その面は瞬きの間に微笑の奥に消えた。 「……ううん、ただ、頑張らなくちゃって」 「――……」 誤魔化されたと直感的に感じた轟だが、それを口に出すことはしなかった。 本人が言いたがらないのなら、無理に聞き出すこともない。 今まで何度か相談事に乗ったこともある、本当に詰まった時は語ってくれるだろう。 そう判断した轟は、「そうか」と短い言葉だけを返した。 「あんま無茶するなよ」 ただ、釘だけは刺しておく。 真面目な人間は一人で抱え込む質だと、経験則が語っていた。 じっと注がれる轟の視線に、ゆめは苦笑する。 「綾目いるか」 そこへ、教室の前方から飛んできた声。 入口の扉から、相澤が顔を出していた。 「はぁーい……」 重たげに頭を上げたゆめはゆるりと席を立ち、覚束ない足取りでそちらへ向かっていく。 時々足を机にぶつける後ろ姿を見送りながら、八百万が頬に手を当てた。 「大丈夫かしら……」 「うーん……よし、今晩ゆめちゃんの部屋行って寝かしつけよ! 今日は絶対夜更かし禁止!」 その隣で眉を寄せた麗日が、弾かれたように飛び跳ね、両の拳を持ち上げる。 「頼む」 そんな二人に依頼する轟。 そのまま流れ解散となった――が、轟はふと小首を傾げた。 自分が口にした言葉が、はっきりとは分からないが不思議に感じたのだった。 ――"頼む"って、なんだ? *** 相澤先生の後ろを歩きながら思い返す。 さっきの教室で轟くんに声を掛けられた時、素直に返せなかった。 なにせ、ヒーロー科に編入して早々力の差をありありと見せつけられたご本人なんだ。 少しでも差を縮めるために頑張ってます、とは言うに言えない。 轟くんの炎は、未だ遠いところで輝いている。 轟くんがそれをどう思ったのか――今の私をどう思っているのかは分からないけれど、一緒に頑張ろうと、進んでいこうと約束した身だ。置いて行かれたくはなかった。 頭をぶんぶん振って気を取り直して、ついでに眠気覚ましに口を開く。 「先生、用事はなんですか?」 相澤先生はちらりと視線を寄越した後、ぼそりと答えた。 「客人だ。おまえのな」 「客人……?」 お客さんということは、外部の人がやってきたのだろうか。 思い当たる節は全くない。 体育祭とか職場体験とか、雄英高校は外部露出も多いので、噂を聞きつけてやってくる人もいそう。 けれど、目立った活躍をした人じゃなくて私にピンポイントなんて、どういう要件なんだろう。 「ここだ」 そうこうしている間に辿り着いた応接室。 薄い扉を開けると、小ぢんまりした部屋が登場する。 縦長のテーブルを挟むように並べられたソファ、その一つに人影。 「こんにちは、綾目ゆめさんだね」 立ち上がった人影が、落ち着いた声で挨拶をする。 白髪交じりの整った髪、背筋の伸びた佇まい、がっしりとした体格の背広姿の男性。 軽く下げた頭を上げた男性。 にこやかな笑みは、礼儀正しさと清潔感を感じさせる。 「私のことを覚えているかな?」 ――その顔を見た瞬間、全身が固まった。 「あ……なた、は」 眼前の姿が、私の脳裏を刺激する。 覚えている、この人の顔を。忘れられるはずがない。 「あの時の、ヒーロー……!」 指先が、腕が、肩が、全身が震えた。 十年前の事件の時、私を助けたヒーロー。 それが、目の前にいる。 所々破けたヒーロースーツは背広に、煤に塗れた顔は十年分老けているけれど、確かに面影があった。 目蓋の裏がちかちかと瞬き、騒めきと共に訪れた記憶が渦を描き出す。 ――一人ぼっちの部屋、つけっぱなしのテレビ、ヒーローインタビュー、吐き出された言葉、浮き上がるテロップ、焚かれるフラッシュ、浴びせられる言葉、ニュース、一面の見出し、繰り返される放送、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も何度も何度も何度も何度も何度も―― 「綾目」 「――ッ!」 入口で立ち尽くしていた私に、相澤先生が声を掛けた。 フラッシュバックで動けなくなっていた体を、ゆっくりと動かす。 「……すみません」 促されて、向かいのソファに腰を下ろす。 正面に腰掛ける人を改めて見据えた。 姿勢を正し腰掛ける、身綺麗な男性。 年齢の割にピシリとした佇まいは、自身の正義感の現れだろうか。 ……正直、私はこの人の事は好きではない。 命を賭して私のところにやってきたヒーロー、それは分かっている。 彼の行いは誰が見たって正しいことで、それを彼も自覚してる。 でも、私は……それまでの全てを失った私は、感謝なんてできなかった。 十年経った今も、それは変えられない。 私が落ち着いたタイミングを見計らって、彼は静かに口を開いた。 「改めて自己紹介をしよう。私はヒーロー、コモンマン」 「綾目ゆめです」 軽い挨拶を交わすと、コモンマンはにこりと微笑んだ。 良識のある大人の対応、かつての被害者を勇気づけるような笑顔。 そんな表情を向けられた私は、胸の奥に違和感を覚えた。 どくりと心臓が強く脈打って、耳鳴りと目眩に襲われる。 これは寝不足だからじゃない。 明らかに、この人を前にしてからだ。 「雄英体育祭の時、テレビに君の姿が映って驚いたよ。随分と立派なお嬢さんになったね」 「……そう、ですか」 ただ一言を返すだけでも息苦しい。 この人を視界に入れる度、胸の奥の違和感が大きくなっていく。 「ヒーロー科でヒーローを目指しているそうだね。それを聞いたとき、安心した」 「……っ」 安心? 安心と言ったのか、この人は。 どうして十年前に関わっただけの人が、私のことを気にするんだ。 「君を助けた時、酷く悲しい顔をしていたのを覚えているんだ。あんな痛ましい事件で、君が恐怖に囚われてもおかしくはないと……」 ――私を、助けた? 一層大きく鳴った鼓動と共に、違和感が肥大する。 湧き上がる感情に比例して、世界が遠のいていく。 違和感の正体は、怒りだった。 助けられた? 私は、本当に? 嘘だ、だって私はあんなにも惨めで。 誰も彼もが私を憐れむ。同情する。侮辱する。 だから私は―― 違う、それは止めたはずだ。体育祭の後反省して、再スタートを誓ったはずだ。 ……否――否、否、否! そう簡単に捨てられるものか。だって、これは私の――!! 「しかし今の君は、目標に向かって立派に走っているのだね。良かった、私のしたことは君の助けに――」 目を細めるコモンマンの顔を見た瞬間、留めようとした怒りが溢れ出した。 「違う!!!」 強くテーブルを叩いて立ち上がる。 その拍子に、コモンマンの前に置かれたカップのコーヒーが大きく揺れた。 いきなり声を荒げた私に、向かいの男はぽかんと口を開ける。 「貴方は助けてなんてくれなかった! 私は、あの頃からずっと惨めなままだ! だから私は……!!」 内側から炙られたように、体が熱を帯びる。 止まらない、留まらない。 捲し立てる私の肩を、背後から叩く人が一人。 「綾目」 相澤先生の冷静な声が、諭すように私を呼んだ。 「……!……、…………ごめん、なさい」 乱れた息を整える。 自分でも驚くほどの怒りだった。 逆恨みにも近いそれが、どうしようもない程渦巻いている。 再びソファに座った後、顔を上げられなかった。 私はまだ、この人と向き合えない。 「……すまない、無神経な事を言った」 コモンマンは静かに告げた。 視界の端で立ち上がった彼は、そのまま荷物をまとめる。 「今日の所は帰るよ、また改めて時間をいただこう」 「……そうですね。その時は連絡をください」 彼が相澤先生と言葉を交わした後、扉の開く音がした。 「綾目、おまえも今日はもう帰れ。明日の放課後話をする」 「……はい」 扉の閉まる音がして、人の気配が消える。 それでも私は暫くの間、俯いたまま動けなかった。 体の熱が、まだ治まらない。怒りが胸を焦がしている。 その治し方も分からないまま、虚ろな目で自分の膝を見詰め続けていた。 --- コモンマンさんはオリジナルヒーローおじさんです。 思いつかなかったので適当なお名前ですがよろしくです。 2020.02.16
DADA