父親
加減なしに殴った拳からぽたぽたと血が滴る。頭の後ろがガンガンと殴られるように痛む。
なんだっけ、私は何を考えたんだっけ。
分からない、世界がぐるりと回って、天と地が逆さまになったみたいで。悩みも、恐怖も、どこかに行ってしまって。代わりに全身を満たす高揚感と、どうしようもない怒り。視界に映る全てが憎くて、でもどうでもいいようにも思えて、滑稽で、不様で、頬がつり上がる。
笑ってるのに怒ってる。怒ってるのに――苦しい。
「なんで俺がゆめチャンを欲しがるか、わかるかァ?」
「ハァ?」
メタとかいう男が血まみれの顔を歪ませる。
知ったことか、お前のことなんかどうだっていい。答えを聞いたところで何の意味もない。
「一つはお前の"個性"……センセェと同じ"個性"持ちだからだ。そんでもう一つ……お前にはヴィランの才能があるからさ」
「そんなもんあるか!」
ふざけた事を抜かす口め。でもべらべらと喋り続けるなら好都合だ。
姿勢を低くして、臨戦体勢を取った。
「クハ、そうは言っても気になるだろォ? 俺はお前の母親の事も知ってる、十年前の事件の事もだ。お前の知らない事を教えてやれるぜ」
「…………」
メタの言葉に思わずピクリと反応してしまう。
「綾目くん、聞く耳を持つな! 相手はヴィラン――」
「うるさいってんだよ、わかってる!」
割り込んできたコモンマンを一蹴して、メタに向き直る。
こいつの発言なんて、初めから聞くつもりはない。
さっさと殺して、うるさいおじさんもぶっ飛ばしてしまいたい。
「うだうだうだうだ喚いてんじゃねぇ。ぶっ殺してやるから動くなよ!」
今度こそ飛び掛かろうと足を踏み込んだところで、メタはつまらなさそうに目を細めた。
「あーあ、そうやって吠えるところはソックリだなァ。これも血の繋がりってやつかねェ。センセェのことじゃないぜ? お前の父親だよ」
父親――?
予想外の言葉に、思考が止まってしまった。
何故今父親の話が、この男の口から出てくる。
「な、んでお前が、私の父親のことを知ってる」
口を付いて出た声が震えていて、選択を誤ったと思った。聞くつもりなんて無い、そのはずなのに。
動揺を悟られた私は、メタの口が弧を描くのを黙って眺めるしか出来なかった。
「知ってるよォ、なんせアイツはヴィラン……センセェを俺に売った張本人なんだからさァ!」
「――ッ!?」
衝撃。
何を、言っている。この男は、いったい何を口にしている。
言葉はシンプル、分からないはずがないのに、理解したくないと本能が拒む。
ぐらぐらと視界が踊り出して、呼吸の仕方が分からなくなって、指先が震え出す。暑いのか寒いのか、全身から汗が噴き出す。
「綾目くん――」
コモンマンの声も、もう聞こえない。
どくりどくりと異常に大きくなった心音と、メタの声だけが鼓膜を犯す。
「なんでお前の母親が攫われたと思う? よく思い出せよ、十年前の出来事を……幼稚園から返ってきて、お家でのんびりしてたはずだろォ? センセェは夕飯の準備をして、ああ、美味そうな匂いが漂ってたんだ」
あの日――いつものように幼稚園に迎えに来てくれたお母さんと、手を繋いで家に帰った。夕飯の準備をする音を聞きながら、遊び疲れた私はうたた寝をしていた。
突然、強い風が吹いた。記憶の中の私は突風に煽られ、カーペットの上を転がっていた。
そうだ、あの時私は家の中にいた。お母さんも一緒に、台所にいたんだ。お母さんの職場でも、幼稚園からの帰り道でもない。私達家族が住んでいた家。
強い風……本当にそんなものが吹いたのか。
小さな頃の記憶は、時に捻じ曲がる――
「家の中で油断しきった状態のセンセェを攫う……出来るのなんて気を許した人間くらいだろォ?」
メタの言葉が、古びた記憶を補強していく。
色褪せた記憶の中で、誰かが玄関扉を開けた。その音を聞いた小さな私は飛び起きて、元気に駆け出す。玄関に飛び出した私は、そこに立っていた人に向かって……
『お父さん!』
優しそうな微笑みを浮かべた男の人。
その姿が、ぐにゃりと歪んだ。
「う、そ」
荒くなった息で、吐き出せたのはたったそれだけ。
冷水を浴びせられたかのように全身が冷たくなって、だというのに目の奥は火が付いたように熱を帯びる。
頭が痛い、ガンガンする。止めろ、止めろ、止めろ!
「嘘だ……嘘だ! 私の父親は――なら、お父さんは今どこに!?」
「死んだよ」
否定したくて声を荒げる。けれど返ってきたのはたった一言の冷たい声だった。
死ん、だ?
目を見開いた私と対照的に、メタはすうっと目を細める。
「知ってるだろ、主犯格の男は死んだって。世間じゃお前の父親が主犯格って事になってんのさ。死因は単純、自殺だ。自分のやった事に耐えられなくて、自分で自分をぶっすりだよ。後の事は全部ほっぽり出してなァ。カハハ、最高のクズ野郎だァ!」
終いには笑い出すメタ。その高笑いをBGMに、聞かされた事実が私の中でぐるぐると回り出す。
私の父親は――記憶も乏しい、声も覚えていない人だけれど。写真の中の穏やかな笑みは、お母さんの隣で幸せそうに笑うあの人は、全部嘘だったのか。
それを確かめる術すら、もうない……
「嘘だ、そんなの……お前の言葉、なんて」
この男はヴィランだ。信じる理由なんてあるものか。
辛うじて食い下がった私に、けれどメタは残忍な笑みを浮かべた。
「嘘じゃねェよ、隣のオッサンも知ってるぜェ?」
「!?」
その言葉にバッと顔を振り向かせる。
コモンマンはハッとした顔をしてから、気まずそうに目を伏せた。
「……その通りだ。私はその事を伝えるために、君に会いに来たのだ」
「……っ!」
コモンマンの目的はこれだった。
彼が渋った理由が、こんな形で分かるなんて。
ああ、でも確かにこれは……今の私が受け止めるには、重すぎる。
「お前はあの男に裏切られたんだ……可哀想になァ、ショックだろ。悲しいか? 悔しいかァ?」
ケラケラと嘲笑をまき散らすメタ。
頽れそうになる体を必死に食いしばって持ち上げる。
今は駄目だ、敵前だ。あいつを、あの腐れ外道を殺すまでは――!
ギッと睨むと、メタは一層笑みを深くした。
「ヒャハハ……そう心配すんなよゆめチャン。お前も同じなんだよ。お前はヴィランの娘だ、お前の中には父親のどうしようもない悪性の血が流れてるのさァ」
「黙れ……黙れ黙れ黙れ! 何を喚こうが知ったことか! お前を殺す、殺してやる!」
「オイオイ……もうちょっと考えろよ」
わざとらしく肩を竦めるメタに、私は素早く距離を詰める。
「あぁぁ!!」
振り被った拳は、けれど今度はあっさりと避けられた。
無茶無茶に振り回しても当たらない。思考がまとまらなくて、ただこの男を視界から消したくて、言葉が耳の奥で反響して、訳が分からなくなる。
ああ、うるさい、うるさいんだ。全部全部、壊してしまいたい。
「なァゆめチャン、そもそもなんでヒーローに拘る?」
「うるさい!」
攻撃を避けながら、メタの口は回り続ける。
無視しようとしても、毒のように蝕んでくる。
単調な攻撃は容易く読まれて、ストレートが伸び切った隙に、メタの手が私の右手首を掴んだ。
「!」
動きを止められた――不味いと思った瞬間、背後からコモンマンが庇うように飛び出す。
「綾目くん!!」
「黙ってろよオッサン」
「ぐぅ!?」
けれど彼の攻撃もあっさりといなされた。
メタが面倒くさそうに空いた腕を振るうと、地面に倒れたコモンマンの体に白い縄が撒きつく。
邪魔者はいなくなったとばかりに向き直ったメタ。
真っ白なボサボサ髪の隙間から、蛇のように赤い目が見下ろす。
「お前が本当に望んでるのはそんなことじゃないだろォ?」
「……止めろ」
この男が何を言おうとしているのか――嫌な予感がして、咄嗟に止めた。
けれど男の口は構わず回り続ける。
「十年前、たまたま目に入ったのがそこのオッサンだっただけ。ヒーロー? それは手段に過ぎない。ずっと恨み続けてるんだろ、ずっと憎んでるんだろ、この世界そのものを!」
「……止めろ!」
「ゆめチャン、お前の本当の望みは――世界への復讐だァ!」
「止めろおおおお!!!」
全身で叫び、腕を振り払って距離を取る。
心臓が早鐘を打ち、熱を帯びた体が震える。
熱い……この熱は、ずっとずっと私の奥で燻り続けていたものだ。衝動、殺意、慟哭、破滅、願望。殺してやる、目障りな存在、邪魔なものは全部壊してしまおうと、抗って、願っていた――
――違う。
違う、違う、違う!
その感情はダメなものだ。決めたはずだ、もう止めようって。あの体育祭の後誓ったはずだ。
轟くんと、一緒に歩いていこうと、笑い合った、はずなのに。
「あ……」
チカと、目蓋の裏が煌めいて、目眩が襲う。
この輝きは、炎だ。
轟くんの"個性"、見惚れる程の猛火。
路地裏を照らし出すように、どこまでも高く燃える。なんて綺麗で、鮮やかな光なのか。
轟くんの周りに次々と蘇る、A組のみんなの姿。
緑谷くん、お茶子ちゃん、飯田くん……そうだ、私は皆と同じ道を歩くんだ。
手を伸ばそうとした瞬間、私の足元がガラガラと音を立てて崩壊する。
私の立っていたところ――お母さんへの憧れ、ヒーローという漠然とした目標、全てが崩れて、ぽっかりと開いた闇が私を飲み込んでいく。
――届かない。
遠ざかっていく。皆の姿が、暗闇に埋もれていく。
ちりちりと、遥か彼方で燃える灯火。
どんな暗闇でも消えない、けれど決して追いつけない。
私は、ヒーローになれない――
「綾目くん!」
コモンマンの鋭い声と共に現実に戻される。
動きを止めた私に、邪悪な一撃が放たれようとしていた。コモンマンを捕縛したのと同じ白い紐。ただ、こちらは先端に鋭利な針が付いている。
直感で、受けたらマズいとわかった。避けなければいけないのに、体が石のように動かない。スローモーションの視界の中、鋭い先端が私の額に一直線に迫る。あれを受けたらどうなる。私は、どう、すれば。
「……助ける……必ず!」
視界の端から飛び出す人影。両手も満足に動かせない状態で、私の前に躍り出たコモンマン。軌道を塞いだ背中が、眼前を覆った。
「オッサン……!」
くずおれたその背中を、ようやく動いた腕が受け止める。成人男性の体重がのしかかり、支えきれない私は諸共に尻もちを着いた。
「おい、退けよオッサン! 動け、しっかりしろ!」
コモンマンの肩をつかんで揺さぶる。ぐったりとして力の入らない体は嫌に重たかった。
震えるように目蓋を持ち上げたコモンマンは、微かに唇を動かす。
「私は……君を救うのを諦めない、決して――」
「……っ」
その言葉は最後まで紡がれることはなかった。項垂れたコモンマンは、ずるずると地面に滑り落ちる。
この人は、最後まで私のことを……
「チッ、老いぼれが邪魔しやがって」
"個性"をしゅるしゅると戻したメタが、苛立ちまじりに吐き捨てた。面倒くさそうに頭をかきながら、その足をこちらに向ける。
「再発動まで時間が掛かるってのに……まァいいかァ、今のゆめチャンなら簡単に――!」
だらだらと吐き出していた言葉が急に途切れ、メタは一瞬鋭い目付きをする。
瞬時に飛び退ったそこに、コンマの差で飛び込んできたのは――
「綾目さん!!」
電光のように駆ける緑谷くんだった。
2021.10.23