とある会社の社員食堂。
飲食スペースの二人掛けテーブルに向かい合って腰掛ける二人の男がいた。
片や鶯色の髪をした男。
同じ色のシャツに黒のネクタイをきっちり締め、ランチの定食をつついている。
片や深緋色の髪を立てた男。
灰色のシャツに黒のネクタイ、その襟元を緩めて、豚カツを目前にしながら箸を動かそうとしない。
どこか遠くを眺めながら、おもむろにため息をついた。
その様子を見ていた正面の男は、咀嚼していた焼魚を嚥下してから口を開く。
「今日は随分と溜息が多いじゃないか、大包平」
大包平と呼ばれた男は、指摘されてその事に初めて気付いたと言わんばかりに目を見開いた。
僅かに身じろぎして、止まっていた手を動かす。
「何を言う鶯丸、俺は溜息などつかん」
たった今ついていたものはなんだったのか、鶯丸と呼ばれた男は、相方の横柄な物言いにも涼しい顔で動じない。
彼にとってこの男がこういう態度を取ることは重々承知の事だった。
大包平という男は、自信とプライドの高い男だ。
それを裏付けるだけの実力を持っているが、同時に他人にも相応の評価を期待している。
たった一年入社時期に差があっただけで自身と鶯丸のポジションに差がある事実に釈然としていなかったり、同年代で早々に出世コースに乗った男をライバル視していたりする。
いち早く出世するために数多の仕事を抱え込み、結果として処理しきれなかったこともあった。
横柄な態度から部下に嫌われやすく、上司の評価も微妙な感触に落ち着いてしまっている。
だが、本当は悪い奴ではない。
真面目な努力家で、地味な仕事も抜かりなくこなし、部下にも相応の評価を下している。
他人を意識し過ぎて自滅しがちだが、焦りさえなければ、大包平もあっという間に自分を超えていくだろうと鶯丸は考えていた。
しかし今、もそもそとカツ丼を口に運ぶ大包平は、普段の自信に満ち溢れた様と違って覇気がない。
暫く食事を続けたかと思うと、またしても視線を彼方へ向けて息を吐き出す。
「大包平、やっぱり溜息をついてるぞ。悩みでもあるのか?」
「……何?」
疑問形ではあったが、大包平の視線は鶯丸に向けられた。
心当たりがあるらしい。
「珍しいな、お前が悩み事なんて」
「俺が悩みだと?そんなものはない!ただ……いや気のせいだ、何もない」
言いかけて口を噤んだ大包平は、やはりいつもの調子からかけ離れている。
再び大きな溜息をついてから食事を進める大包平を眺めながら思案していた鶯丸が、やがて思い当ったように一つ頷いた。
「分かったぞ大包平、恋の悩みというやつだろう」
「ブーッ!!」
大包平がちょうど茶を口に含んだタイミングでの一言だった。
喉を潤すことなく吐き出された茶は、大包平が辛うじて人のいない方向を向いたため最小限の被害に抑えられた。
激しく咽る大包平と、やはりそうかと深く頷く鶯丸。
その表情は涼しげだが、どこか満足げに見える。
「き、貴様、いきなり何を言う!言っただろう、俺に悩みなどないと。ましてや恋など軟弱者のすることだ!」
「そうか?恋をするということは、自分以外の大事なものを持つということだ。そういう男は強いだろう。営業の鶴丸なんて、最近結婚したらしいが目に見えて仕事に熱が入ってる」
「俺はそんなものを持たずとも、俺自身の手で成果を挙げている!」
「それより拭くものはもってないのか大包平。おまえの吹いた茶で誰かが足を滑らせる」
「誰のせいで……っ!!」
マイペースに茶を啜る鶯丸に憤慨する大包平。
顔を真っ赤にしてわなわなと震える彼が大きく息を吸い込む。
「貴様――」
「こちらをどうぞ」
大包平渾身の大声は、横から差し出された雑巾に遮られた。
黒と白の長い艶髪を束ねた、線の細い男。
皺のない白シャツと黒ネクタイ、すらりと伸びた紺色のスラックスに身を包み、社員証を胸ポケットに差し込んでいる。
ぴしりと背筋を伸ばして佇むだけで、場が清廉な空気に包み込まれる。
「雑巾ですよ、よければお使いください。それと、こちらは布巾になります」
「あ、これはどうも」
荒げていた声を落として頭を下げる大包平。
別部署の数珠丸にだけは態度ががらりと変わる男である。
雑巾を受け取り、汚した床を黙って拭く大包平。
鶯丸は優雅に椅子に腰掛けたまま、再び茶を啜った。
椅子に掛け直した大包平は、感情の行き場を失い眉をしかめて頭を振った。
眼前の鶯丸は変わらぬ微笑でこちらを見ている。
付き合いは長いが、この男のどうにもマイペースなところだけは好きではない。
最近になって、からかわれているのではと疑い始めているところだ。
しかめっ面で睨む男を物ともせず、仕切り直しだと再び問いかける鶯丸。
「それで、相手は誰だ?」
「き、さま……」
まだ続けるつもりかと顔をひくつかせる大包平。
もうその話は止めろと言っても追及してくるだろう。
否定することを諦めた大包平は、改めて相手の姿を思い返した。
――それは、今朝のことだった。
通勤ラッシュの電車で潰されかけながら、不意に見つけてしまったのだ。
自分のスペースを確保するのに精いっぱいなこの車内で、呆れた行いをする輩を。
いたいけな少女が恐怖で身を震わす姿に怒りが湧いた。
自身の中で爆発する正義心のままに割り込み、不埒な手を捻り上げた。
輩を駅員へ引き渡した後、何度も頭を下げる少女に礼など不要だと告げようと振り返った時。
その姿を見て、固まってしまった。
涙で潤んだ瞳を、安堵したように細める可憐な姿。
近隣の高校の制服ですら、その魅力を引き立てる。
少女だった。
年端もいかないうら若き乙女だったのだ。
「……認めるられるか!!」
自身の回想に対して勢いよく机に突っ伏す大包平。
強かに額を打ちつけた音とともにろくに食べていない豚カツが皿から飛び跳ねたが、鶯丸は自身の盆を持ち上げて事なきを得ていた。
向かいの男の奇行も意に介さず、鶯丸は感心したように頷く。
「じぇーけーというやつか。それも窮地を助けるとは随分好印象な出会いだな。ははは、やるじゃないか大包平」
「意図してやったわけではない。不埒な行いを放っておけるものか」
「いくつになっても真っ直ぐな男だ。貴重なことだぞ」
「知ったような口を聞くな、貴様も俺と変わらん歳だろうが!」
昔から変わらず正義感と責任感の強い男だ。
大包平の長所の一つだが、それで苦労することも多いだろうと鶯丸は思っていた。
だが、そんな男が見初めるのなら、その少女はきっと良い人なのだろう。
「俺は応援するぞ。どんな人だ」
「やめろ、三十近い男が一回り年下の娘に惚れたなど……!」
「恋に年齢は関係ないさ。一目ぼれなら、まさに運命だったんだろう」
「くっ……」
頭を抱えて赤くなったり青くなったりしている大包平に、鶯丸は小さく笑う。
しかして友を見詰めるその瞳は、優しいものだった。
***
定時を過ぎ、大包平と鶯丸は揃って退社した。
結局昼休みの間に根掘り葉掘り聞き出された結果、鶯丸は大包平に妙に穏やかな眼差しを向けるようになった。
鶯丸にとって大包平は兄弟のような存在で、そんな彼が女性に心を砕くというのはなんとも微笑ましい事だった。
本人にとってはこれ以上かき回されたくないことだとしてもだ。
「しかし、その人の名前も知らないんだろう?どうやって仲を深める」
「そんなことはしない。それに今は新しいプロジェクトが始まる時期だ。色恋に現を抜かす場合か」
「仕事を言い訳にぷらいべーとを疎かにするとは、お前らしくもない」
「ぐぬ……」
完璧主義のきらいがある大包平にその言葉は鋭く刺さった。
仕事も私事もぬかるつもりなど毛頭ない。
だがそれにしたって、年下相手は社会的、倫理的にどうかと問われる。
一時的な気の迷いだそうに決まっていると心で念じながら、大包平は早足に改札へ向かった。
――その時。
「あ、あの……」
鈴を転がしたような声。
控えめに掛けられた言葉は、大包平の足をその場に縫い留めた。
「あの……大包平さん、ですよね……?」
聞き間違いではなく、確かにそれは大包平の耳に届いた。
今朝方聞いた震える声と同じ声。
何故名前を知っているのか、この帰宅ラッシュの混雑でよくも見付けられたものだと幾つかの疑問も浮かんだが、再会出来た喜びの前には声にならなかった。
呼びかけられたからには応えなければならないと思いつつも、がちがちに固まった体は錆びた機械よりも鈍い。
ぎちぎちと軋ませながらやっとの思いで振り返ると、大包平の目に見紛うことなき姿が飛び込んだ。
朝の時と同じ制服、同じ鞄、緊張した表情でほんのりと頬を赤らめている。
瞳に映った少女は、行きかう人々の中でも陰ることはなく輝いて見えた。
それを理解した瞬間――大包平は赤面した。
達磨もかくやという程真っ赤になって、熱を持った顔面が汗をにじませる。
一瞬で干上がった喉。
それでも、上目づかいで見つめてくる少女に言葉を返すため、なんとか声を振り絞る。
「お、まえは、今朝の……」
「は、はい。あの、ありがとうございました!それで、その……改めてお礼がしたくて」
緊張して上ずった声で、頭を下げる少女。
動きに合わせて、絹のように美しい髪が揺れる。
ほんのりと色づいた耳。
胸の前で重ねられた両手がひどくいじらしく見えた。
「ほう、これはこれは……」
「ッ!?」
隣の男が発した声に、大包平の肩が跳ね上がる。
ここが駅で、同僚と共に岐路に付いていたという事すら忘れていた。
涼しいまま、しかしどこかほくそ笑んでいるように見える鶯丸の表情に、大包平は汗を浮かべた。
対する鶯丸といえば、幼馴染の初心な反応は大いに楽しんだが、さりとて二人を冷やかすつもりもない。
大包平の肩を叩き、スマートに言葉を述べる。
「礼がしたいというのなら、二人で茶でも行ってはどうだ?また明日だな大包平、良い話を聞かせてくれ」
それだけ残して鶯丸はするりと改札を潜る。
「な、おい待て!」
焦った大包平が声を掛けるが、その背中はあっという間に人混みに紛れて見えなくなった。
「あ……すみません。私が引き止めてしまったから……」
申し訳なさそうに眉を下げる少女に、大包平はすぐさま否定した。
「違う、お前が迷惑なのではない!あの男がいらん世話を……いや、そうではなく!」
まくし立てかけた大包平は、ゴホンと咳払いを一つして、これ以上の醜態を晒すまいと姿勢を正す。
「……まだ名前を聞いていなかったな」
「あ、私、苗字名前と言います。〇〇高校の二年生です」
名前は見せるように制服のリボンを直した。
高校二年生、つまり十六か十七程の少女だ。
改めて突きつけられた事実が大包平の精神にダメージを与える。
だが――
「ご迷惑、だったでしょうか」
申し訳なさそうに眉を下げる名前を見て、先程とは異なる種類の痛みを覚えた。
少女の悲しそうな表情は見たくはない。
何より、名前の真摯な好意を、己の体裁を気にして無下にする事は、大包平にとって一番愚かな行為だった。
「迷惑だなど誰が言った。あいつの言う通りにするのは癪だが……この辺りにいい店がある。少し歩くが構わんか?」
「は、はい!」
大包平の言葉に、緊張していた名前が少しはにかんだ。
それを見た大包平の胸の内に、春風のような暖かなものが吹き込む。
この微笑を前にして、最早否定する気は失せた。
「……では行くぞ」
「はい、よろしくお願いします!」
改札手前で繰り広げられた会話の末、二人は駅を後にするのだった。
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後書き。
長いのでここまで。需要があったら続きます。
2019.04.06