穏やかな午後だった。
灯りのない室内はほんのり薄暗く、中央に置かれた布団は人が眠っていた跡を残している。
開け放たれた戸から見える庭の木々は朱色に色づき始め、数日前まで汗ばんでいた肌は、今は冷たい風に撫でられる。
縁側に腰掛けているのは一人の青年。
白い肌に白い髪、白い衣の男――鶴丸国永は、手持ち無沙汰に庭先を眺めていた。
「そんな薄着では冷えるでしょう」
そんな彼に掛けられた声は、室内からだった。
振り返った彼の視界には、手に持った荷物を布団の脇に置いた女性――この本丸の審神者の姿が映った。
「動けるようになったとは言え、まだ完治はしていないのだから。室内に戻ってはどうかしら?」
「そうだな。確かに、随分と涼しくなったものだ」
ゆっくりと腰を上げた青年は、緩慢な動作で室内へ戻る。
その姿に覇気は無く、一挙手一投足の度に僅かに眉を寄せた。
血の気の薄い唇、風に遊ばれる細い髪、伏し目がちの瞳は儚げに揺れた。
「ではお言葉に甘えて、君の隣に失礼しよう」
布団を逸れた彼の足取りは、そのまま審神者の隣へたどり着く。
細く骨ばった指がしなりと畳をなぞり、腰を落とした彼が、気だるげに首を傾けた。
瞳に掛かった前髪。長い睫毛の奥、金の瞳が審神者を見詰める。
薄く開いた唇から漏れた吐息が、審神者の鼓膜を震わせた。
「……」
じっと見詰められ、動きを止めた審神者。
じわじわと頬に熱が集まるのを感じながら、逸らす事が出来なかった。
そんな審神者を知ってか知らずか、青年は徐々に顔を近づける。
「なあ、君――」
「ちょっくら失礼するぜー!!!」
その部屋に満ちかけた空気を文字通り割って、二人の間に手刀が差し込まれた。
思わず仰け反った審神者、広がった隙間にずどんと足が降ろされる。
「つ、鶴丸!」
見上げた審神者が上げた声。
その足の持ち主は、白い肌に白い髪、白い衣の男――鶴丸国永だった。
「いやー主、近侍の俺に言伝もなく執務室からいなくなるとは驚いたぜ。しかし行先には驚きが足りないな、また同じ場所とはなぁ?」
腰を大きく曲げ、審神者の顔に自身の顔を近付けた鶴丸。
辛うじて口の端を吊り上げているが、その目は笑っていない。
「く、国永さんの具合を見に来ただけよ。丁度執務も一区切りついたのだし」
気まずそうに視線を逸らす審神者。
鶴丸の後ろ、"国永さん"と呼ばれた方の鶴丸国永が脇腹を押さえた。
「っ……すまん審神者殿、まだ傷口が塞がらないようだ」
「そう……血が滲んでいるわね。一度解きましょうか」
鶴丸の足を避けて腕を伸ばした審神者だったが、その手が国永の肩に触れる前にがしりと捕獲される。
「包帯を巻き直すなら俺がやってやろう。君はこっちだ、定期連絡が届いてるぜ」
「どうも……」
鶴丸のじっとりとした視線にすごすごと身を引いた審神者。
代わりに握らされた端末を手にしながら、同じ容姿の男二人を眺める。
国永の腹部にはじわりと赤が滲んだ包帯が巻かれており、鶴丸はそれをするすると解いていく。
「……」
最も赤が濃い箇所から布が取り払われ、国永は痛みを耐えるように瞳を閉じた。
「長い事手入れ部屋にいるけれど、まだ塞がらないわね」
「ああ……」
それは、槍に抉られた跡だった。
最初に見た頃に比べ浅くなったとはいえ、未だに残り続けている。
審神者の持つ刀剣男士達は、刀種や練度に応じて手入れに相応の時間が掛かるが、同じ鶴丸国永が重傷を帯びてもここまでの時間は要しない。
「すまん、君の手を煩わせて」
「いいのよ、怪我人がそんな顔しないで。困ってるのなら頼りなさい」
「……優しいな、君は」
ありがとう、と国永が淡く微笑む。
その儚げな姿に再び審神者の熱が上昇した。
「さあて包帯を巻くぞ、動くなよもう一人の俺!!」
そんな主の様子を見て、鶴丸は大声で国永を向き直らせる。
あからさまな態度に、審神者も気まずそうに端末に視線を落とした。
浮き上がった画面に幾つもの文字が走り、審神者の目がそれを追う。
「うーん、敵方に動く気配は相変わらずなし……鍛刀キャンペーン……失踪者……?」
独り言を零す審神者を、国永は興味深げに見詰める。
「そら、真っすぐ前を向け!」
そんな彼の肩をぐいぐい引き戻す鶴丸だった。
***
国永がこの本丸にやってきたのは、夏の終わり頃だった。
遠征に出ていた第二部隊から、重傷の刀剣男士を発見したとの報を受け、審神者は本丸に連れ帰るように指示をした。
時間遡行軍が顕現していない状態の刀を所持していることはあるが、顕現して肉体を得た刀剣男士が野良でいる事は前例のない出来事だった。
慌ただしい様子で帰還した第二部隊、隊長の和泉守が担ぐ刀剣男士の姿を見た時の衝撃を、審神者はよく覚えていた。
赤く染まった白い衣、無残に千切れた装飾、全身の傷跡、土気色した顔で項垂れる青年――もう一振りの鶴丸国永。
破壊寸前だった彼をすぐさま手入れ部屋に運び治療を施したが、中々回復しなかった。
動けるようになったのはごく最近の事だ。
審神者は甲斐甲斐しく国永の世話を焼いたが、元々本丸に所属している鶴丸はそれが気に食わないらしい。
手入れ部屋にいれば回復するシステムなのだから、主がわざわざ出向く必要はない――鶴丸の主張はその通りではあるが、重傷の怪我人を放っておける筈がないと審神者も言い返す。
驚きと称し日々何かと騒ぎを起こす鶴丸と、大概その標的となる審神者は、日頃から口論が絶えない。
互いの信頼の上なので誰も止めようとしないが、今回の件はいつもとは様子が違った。
審神者が拾ってきた国永に妙に入れ込んでいて、鶴丸も焦っている。
結果、やたらと国永を威嚇する鶴丸と、余計に国永から離れない審神者が誕生していた。
「あーるーじー……」
「げ、鶴丸」
「また手入れ部屋に行っていたのか」
廊下を歩く審神者に、角から現れた鶴丸が非難がましい目を向ける。
鶴丸の不機嫌は日に日に増しているようで、近侍としての執務中も言葉数が減っていた。
「少々あの俺に構いすぎじゃないか?」
「怪我人を構うのは当然でしょ?最近は出陣命令もないし、手入れする刀もいなかったのだし」
じっとりした視線を躱すように、審神者はつんとそっぽを向く。
「あんな見るからに怪しい刀、手入れしたってろくなことないぞ」
そんな彼女に掛けられた言葉に、審神者は一瞬動きを止めた。
怪しい――少なくとも何か事情があるというのは審神者も感じていた。
運ばれた当初は口も聞けない程弱っていたとは言え、動けるようになってからも国永は一向に自身の事を語ろうとしない。
何故ぼろぼろだったのか、何が起こったのか、彼の本来の主は何故捜索願を出さないのか?
諸々の疑問を含め政府に報告しようとしたら、必死の形相で止められた。
全身を震わせて止めてくれと懇願する国永に、審神者も無理強いは出来なかった。
だが、その態度は疑念を深くする。
国永がああなった事に政府が関与しているのか、或いは――
……と考えはしているものの、鶴丸の言葉に引っかかったのはそこだけではない。
「"見るからに"、ねぇ……」
含みのある言い方で、審神者は鶴丸を上から下まで眺める。
その視線に応じるように、鶴丸は大きく両腕を広げた。
「そうだぜ、奴さんは"鶴丸国永"だ、どんな驚きを隠し持ってるか計り知れんだろ?」
そう言って胸を張る鶴丸に、審神者の目が細くなる。
「ふぅん……例えば、庭のツツジの前に仕掛けた落とし穴とか?」
「む」
ぴくりと肩が跳ねた鶴丸に、審神者は容赦なく追撃する。
「西の渡り廊下に仕掛けた吃驚箱とか?」
「ぐ」
「それとも厠の廊下の狸の置物の裏の……」
「そこまでバレてるのか!?」
目を丸くして身を乗り出した鶴丸に、今度は審神者がふんと鼻を鳴らした。
「当然でしょう、私は"鶴丸国永"の主なんだから」
「ぐぬぬ……分かった、俺の負けだ!」
両手を上げた鶴丸は、最後に一つだけ付け加える。
「けどな主、俺はあいつを信用しない、絶対にだ!あれに会う時は必ず俺を付けてくれ」
「はいはい」
いずれにせよ、国永から事情を語るまで、無理に聞き出すつもりはなかった。
からからと笑って、審神者は執務室に戻る。
その後ろを、鶴丸は頭を掻きながら追いかけた。
***
それから暫く後、審神者と鶴丸は並んで廊下を歩いていた。
向かう先は手入れ部屋、未だ国永のいる部屋だ。
庭の紅葉はすっかり色付き、秋の空の元で短刀達がはしゃいでいる。
その声を遠くに聞きながら、ふと鶴丸が口を開いた。
「あれの傷はまだ塞がらないのか?」
「ええ、彼を顕現した審神者の力なら馴染みも良いのでしょうけど、私の霊力だとどうにも治りが遅いみたい」
国永は自身の事を語ろうとしない。
政府を介さずに彼の本丸に送り届けることも不可能ではないが、自身の主や本丸の事も語らない――覚えていないと言う。
「いったい何があったってんだ」
「分からない……けれど、あれに関係しているのかもしれない」
最近の定期連絡で頻繁に送られてくる情報。
各地の本丸で起こっている失踪事件――以前から発生していたらしいが、発見がかなり遅かった。
争った痕跡が殆どなく、本丸の建物や刀剣男士の依代も殆ど無傷だが、そこを拠点としていた審神者達がすっかり消えたという。
事件の発覚は、刀剣男士から入った政府への通信によるものだ。
何が起きたのか伝える前に通信は切れ、その後本丸へ急行した政府職員が目にしたのは、もぬけの殻の本丸のみ。
その本丸の刀剣男士による神隠しの線も疑われたが、残された神気の濃度や刀剣の数からしてその説は薄い。
また時間遡行軍が本丸の位置を特定できるという話はなく、そも争った痕跡はないのであれば襲撃を受けたとは考えづらい。
審神者達の政府への信用度は高くなく、彼等の陰謀説を訴える声も上がる始末だ。
結局のところ原因不明の事件だが、審神者は、国永がそれに関わっているのではないかと考えていた。
「彼の主はもしかしたら、もう……」
審神者が言い掛けた時、廊下の角からふらりと現れた人影。
「審神者殿」
それは、白い顔をより一層白くした国永だった。
「国永さん?どうしたんですか、こんな所まで……」
「君を探していたんだ……どうにも傷が痛む、診てくれないか?」
国永が庇う脇腹、手の下からじわりと広がる赤に審神者は目を見開く。
「傷がまた……直ぐに手当てしましょう」
国永に駆け寄った審神者が、その肩を支える。
「ありがとう、審神者殿……君が触れてくれると、痛みが和らぐよ」
ふっと柔らかくなる国永の表情を間近で見て、審神者は無言で頬を染めた。
「おぉい、さっさと手入れ部屋に戻ったらどうだ!包帯なら俺が巻いてやろう!」
逆側から国永の脇に滑り込んだ鶴丸が、審神者から国永を引き剥がす。
「そろそろ演練の時間だろう、主は準備しておいてくれ!」
「そ、そうね……国永さんをお願いね、鶴丸」
噛みつかんばかりの勢いだが、鶴丸は主命をきっちりと果たす刀だ。
ぷりぷりと怒りながらも手入れ部屋へ向かうのを見届けた審神者は、ばつが悪そうに頭を振ってから、気を取り直して自身の仕事に取り掛かるのだった。
***
それから幾ばくの月日が経った。
手入れ部屋の薄く開いた戸の隙間から、国永は庭を眺めていた。
地面を染め上げた紅葉もすっかり落ち、裸の幹が寒空の下佇んでいる。
雲の垂れこめた空は光が薄く、室内は暗闇に沈んでいる。
――そこへ、空からひらりと落ちるもの。
ふわりふわりと漂うように、しかし確かに地面に近付いたそれは、触れた瞬間掻き消えた。
再び空から零れた小さな粒、一つ二つと続いたそれが、やがて無数に降り落ちる。
「雪、か」
国永が呟いた声は、静寂に吸い込まれる。
「雪を見るのは珍しい?」
そんな彼の背後から投げ掛けられた言葉。
手入れ部屋にやってきた審神者が、灯りを灯しながら発したものだった。
振り返った国永は、淡く揺れる光に目を細める。
「此処の俺はどうしたんだ?」
「馬の様子を見に行ってる。もう少ししたら飛んでくるわ」
悪戯っぽく笑う審神者に、国永も釣られて頬を緩める。
それからもう一度外に視線を向けた。
「……雪が降るんだな、此処は」
「ええ。所詮は人工物だけど、せめて季節くらいは現実に合わせたくて」
「そうか……」
本丸の建造された亜空間には本来時間の概念が存在しないが、其処に転移して活動する審神者や生命には時間が流れている。
長く活動する上での健康面の配慮として、亜空間に日本の四季を疑似的に再現することが可能になっていた。
僅かに積もり始めた地面から室内へ視線を戻した国永は、その顔を膝に埋める。
「雪は嫌いだ、何もかも包み込んで置き去りにする」
隙間から漏れ出たのは、弱々しい声だった。
元から本丸の鶴丸に比べ儚げな国永だが、その丸まった背中は殊更小さく見えた。
ともすれば、淡雪と共に掻き消えてしまいそうだ。
正面にしゃがんだ審神者は、震える肩にそっと手を置いた。
「国永さん……何があったか話してくれない?」
優しい声色で尋ねたが、国永は顔を上げないまま横に振る。
「……分かった」
追及することなく、審神者は腰を上げる。
中央に敷かれた布団を整ええて、声を掛けた。
「そこは冷えるわ。体に障るから、早めに布団に戻りなさい」
「……」
無言で頷くも、立ち上がる気配のない国永。
審神者は小さく息をついて、襖を滑らせる。
部屋の外に出て扉をぴたりと合わせ、廊下の先へ顔を向けた審神者。
その眼前に、鶴丸がいた。
無言で見下ろしてくる彼に、審神者も無言で返す。
痺れを切らした鶴丸が、口を開いた。
「まだあそこに置いておくつもりか」
国永が絡むときの拗ねた顔ではなく真顔、言葉にも抑揚がない。
「君も分かっているだろう。出陣が再開されれば手入れ部屋を開ける必要がある」
「……そうね」
本丸失踪事件の調査に手を取られてか、未だ政府から出陣命令はない。
とは言え、時間遡行軍が再び動き出せば否応なしに出陣は再開される。
その時手入れ部屋に埋まったままの枠があれば、業務に支障をきたすのは自明の理だ。
「いい加減政府に教えたらどうだ。もしあいつが――」
「それは駄目!」
鶴丸の言葉を遮って、審神者はぴしゃりと言い放った。
国永の傷は塞がりつつあったが、本調子には至っていない。
原因は不明だが、はっきりとした理由は一つ。
彼の依代である刀に入ったひびが、どうやっても治らないのだ。
「治らない刀剣男士なんて、政府に引き渡せば刀解処分でしょう。彼の事を何も知らないままなのに、ただ壊されるなんて納得できない」
「主!」
鶴丸が声を荒げても、審神者の表情は変わらない。
「彼には何か事情が――いえ、ここでは止めましょう、中まで聞こえてしまう」
言葉を切り、さっと廊下を歩き出す審神者。
通り過ぎる背中に向けて、鶴丸は厳しく問うた。
「……分かっているのか。このまま行けば本丸は崩壊する」
今でさえ時間と素材を消費し続けている国永の存在は、負債にしかなっていない。
出陣もなく変化の無い日常、鬱屈した刀達の間で徐々に不満の声が広がりつつあった。
「分かってるわ」
「本当か」
「ええ」
振り返りもせずに返答する審神者に対し、鶴丸の目は細くなる。
不意に立ち止まった鶴丸。
審神者は構わず歩き続ける。
どんどん広がる二人の間に、冷たい冬の空気が流れていた。
2020.03.05→2020.03.14