昨夜の単独任務で軽い怪我を負った私は、藤の花の家紋の屋敷で治療を受けさせて貰った。そのまま休息を取っていると、ちょうど任務帰りの煉獄さんも同じ屋敷にやって来た。久方ぶりに会えた喜びもそこそこに、ぼちぼち休憩を切り上げ次の任務の準備に取り掛かる。
「名前!」
「はい、どうしましたか煉獄さ……ん?!」
そんな中、名前を呼ばれて振り向いたら、予想以上に近いところに煉獄さんが立っていたので声が裏返った。
目の高さには黒い隊服の壁があって、目線を少し上に上げるとカッと開かれたグルグルの目がこちらを見下ろしている。煉獄さんに日光が遮られ、私は局所的な影の中に収まっていた。その距離感にやや物怖じしていると、黙っている時はキュッと閉じている煉獄さんの形の良い唇がぱかりと開く。
「くちづけをしよう」
そして告げられたのは簡潔な言葉。思わず固まる私。
「………………はい?」
「くちづけをしよう!!!」
「ぶー!!! 聞こえなかった訳では無いので大声で言わないでください!」
庭に響き渡る声。慌てて煉獄さんの大きな口を塞ぎながら、周りに誰もいないことを確認する。……人影なし、気配なし、ヨシ!! ……いや良くないが!? く、く、くちモニョラ……って言ったなこの人!
「んん゙っ……ま、まだ日も高いですし夜まで待ちませんか?」
「夜になれば見回りだ! 君も任務に行くだろう! 二人揃って時間が取れるのは今しかない!」
「それはおっしゃる通り!」
誤魔化すつもりが論破されてしまった。くっ流石炎柱、状況把握力が伊達じゃない。
だがしかし待ってほしい。私と煉獄さんは将来を誓った仲ではあるが、そういう事は殆ど経験がないのである。互いに多忙な身というのもあるけれど、先日の休暇にやっと手を繋いだところなのである。く、くち、ナントカなんて以ての外で、それも日の高い、こんなのほほんとした良き日に、初めての接吻を行ってしまうのは些か、なんというか、なんだ、困る。心の準備が出来てない。
「俺達も想い合って早数ヶ月だ。互いの都合があるし、君も柱としての俺の立場を慮ってくれているのを知っている。だからと言って、肌のひとつも触れることが出来ないのは寂しいだろう」
「は、ひぇ、ソウデスネ」
煉獄さんがこちらを見詰めたまま、そっと私の指に触れるので、私は一気に茹でダコ状態だ。我が道を進んでいるかに見せかけて、こういう気遣いも出来る男、煉獄杏寿郎。恐ろしい人……
――煉獄さんは高潔な人だ。使命の為に命を賭して毎夜戦っている。私も隊員として勿論頑張っているけれど、煉獄さんは並の人間と覚悟が違う。柱という立場もあって、色恋沙汰にうつつを抜かす余裕は殆どない。
私自身も鬼殺隊の一員として、また煉獄さんに憧れる隊士として、彼のように気高く在りたいと思って、毎夜毎夜鬼狩りに出る日々を送っているので、ついつい私事は二の次にしがちだ。
忙しい日々ではあるけれど、任務に区切りがついた時なんか、煉獄さんは生家に戻っている。他の隊士は藤の花の家紋の家や蝶屋敷にお世話になってたりするけれど、煉獄さんは違う。煉獄家は代々炎柱の家系なので、そういう施設が揃ってるというのもあるけれど、やっぱり煉獄さんの心情として、家族と過ごす時間というのを大切にしているのだろう。
そんな煉獄さんが、今はこうして私の傍にいるということは、私のことも大事にしてくれているということで。それだけでも嬉しいけれど、互いの持つ使命感や不慣れも考慮して、ゆっくり進めてくれている優しさに、どうしようもなく幸福を覚える。
そんな煉獄さんからの次の一歩の提案なのだ。無碍にはしたくない。というかむしろ私だって次の段階に進みたい気持ちはすごくある。
だがしかし、だがしかしである。私は非常にいっぱいいっぱいなのだ。
なんか色々ごちゃごちゃ並べたけれど、結局のところ私は煉獄さんが好きすぎて逆に限界なのだ。
もう煉獄さんが声を掛けてくれるだけで喜びが溢れて溺れそうになるし私の名前を呼んで微笑んでくれた時には人体発火現象を起こしそうになる。
互いに多忙で会えるのも稀なので今まで持ち堪えていた節はある。毎日会えるような環境だと、今頃私は灰と化していただろう。
でも、中々会えないからこそ、もっといちゃいちゃしたいという気持ちも更に膨らむもの。任務終わりのヘロヘロになってる時なんて、無性に煉獄さんに会いたくて仕方がない。で、実際に会うと、生の煉獄さんの尊さにやられる。
煉獄さんが好きすぎてそういう展開を直視できない。尊みが過ぎて逆に怖い。幸せの負荷で死んでしまいかねない。
どうする、どうするのだ名前。
焦る間にも煉獄さんの視線が私の肌をチリチリと焦がしている。体温は上昇する一方で、このままでは痣が発現してしまいそうだ。いいのかこんな所で、こんな状況でそれはいいのか!? いやよくない!!
――思考時間にしておよそ5秒。決意した私は勢いのまま声を張り上げた。
「お、お手柔らかにお願いします!!」
「分かった!!」
何言ってるんだ私。即答で分かられちゃったよ私。
頭の中が纏まらない内に、煉獄さんの手ががしりと私の肩を掴む。真正面、煉獄さんの目が真っ直ぐこちらを向いている。
「名前」
「は、はひ」
尻込みしかけた私だが、名前を呼ばれて何とか耐える。これはいよいよというやつか。煉獄さんがゆっくり顔を近付ける。ぱっちり開いた目に見詰められるとどうにも緊張する。
距離が縮まるにつれ肌の温度とか息遣いとか伝わってくるし妙にそわそわして落ち着かないし心臓の音が鼓膜を破きそうなんですがなんか汗が沢山出てきたどうしようどうすればいいんだ助けて煉獄さんいや煉獄さんに殺されそうなんだが今。
「…………」
「!?」
唇が触れようかというその時、おもむろに煉獄さんが目を細めた。
いつも痛いくらいにぶつかってくる視線――その割に目が合ってるんだか合ってないんだか分からないことがままある――が、急に細くなって、影の落ちた顔の奥に光が閉じ込められる。
する、す、すると煉獄さんの表情に、じ、じじじじ尋常じゃない色気がががががが――
「あ゙ーーーー!!! 待って!! 待ってください心臓がまろびでちゃう!!!」
耐えきれなかった私は爆発した。いや爆発はしてないがものすごい勢いで後ずさってしまった。まな板の上の海老が如き跳躍だった。顔から蒸気が吹き出るんじゃないかというくらい熱い。心臓が狂ったように鼓動を打ち鳴らしている。ここが祭の会場か。
下手したら昨晩の戦闘後以上に息を乱す私を見て、煉獄さんは快活に笑った。
「それは大変だな!! うむ、今回は止めておこう」
その笑顔に私の心臓は止めを刺されかけたが、逆に救われた。
「は、ひゃ、す、すみません――」
「だが――」
胸を撫で下ろした私だったが、煉獄さんの言葉がまだ続いた事に耳を疑う。
「俺はせっかちな性分だ! いつまでも待つことは出来ない!」
だから、と続けながら、煉獄さんが私の手を掴んだ。ぐんと引っ張られ、私が飛び退った距離は一瞬で無かったことにされる。
「次会う時は、覚悟を決めてくれ」
軽く触れた肩、耳元で囁かれた言葉。
「!?」
ばっと離れた私の視界に、煉獄さんの顔が映る。またしても細まった目が、ねっとりとした視線を私に向けた。壮絶な……色気……普段の優しげな微笑みとの大きすぎる差に、ついに私の心臓は爆散するのであった。完。
2020.12.25