修道院内、お気に入りの場所があった。普段は聖歌隊の練習でしか使われない教室、そこで私は今日もピアノを弾く。
 士官学校に入学するまで、私は帝国内での酒場を転々とピアノを弾いていた。家族は物心ついた時からいなかった。若い小娘がそういう場所に出入りすると、聴きたくない言葉を聞く。思い出したくもない振る舞いをされる。それでも、辞めなかったのは、私がこの楽器を愛していたからに他ならなかった。
 奇特な貴族がいた。たまたまお忍びで酒場に来ていた貴族だった。私の演奏をいたく気に入った男は、私を拾う。何も知らなかった私に教育を。そんな貴族の気まぐれで、私は士官学校に入った。
 聖歌隊の練習なんて毎日あるわけでもないから、私は隙を見つけてはその教室に足を運ぶ。勉強がつまらないわけではない。しかし、このときだけは何にも代え難い至福の時であったのだ。

 「こんなところにいましたか」

 誰かに話しかけられるとは思わなく、私は思わず声のする方へ振り向く。

 「主があなたをお呼びでしたので。来てもらえますね」

 エーデルガルトの従者であるこの男は事もなげに言う。

 「よく、この場所が、わかりましたね」
 「ククク…クラスメイトの居場所は把握しておくものですよ」

 ――主のために。

 「すぐ、行きます」私は短く答えるとピアノの蓋を静かに閉める。

 「聴き慣れない曲ですな」
 「大衆はああいうものを好んでいるのですよ。貴族様には耳馴染みないかもしれませんが」
 「いえ、好ましいと思いましたよ。さすがは貴殿のこと。この身一つでのし上がっただけのことはある」

 ほんの少し込めた嫌味も流されてしまった。 きっと全てお見通しなのだろう。私の身の上も何もかも。



 それからというもの、演奏を聴きに私の許へ訪れる。 尤もこの男が暇なときなんて僅かしかなかったが。

 「今日も素晴らしい音色ですな」
 「お褒め頂きありがとう。せっかくだから差し入れとかしてくれてもいいのよ。焼き菓子とか」
 「言葉だけでは足りませんでしたか。…クク、考えておくとしましょう」

 私と彼との二人だけの時間、おそらくは彼の主も知らない時間。私達は僅かに、しかし確かに細やかな関係を積み重ねていった。あの時までは。




 5年ぶりにこの教室に訪れた。先の大修道院の襲撃のせいか、教室は半壊していた。ピアノも壊れてしまって、弾けなくなっていた。 壊れた教室をみて、私はあの日々を思い出す。
 ふらっと現れては帰る彼を、いつからか楽しみにしている自分がいた。交わした言葉は多くはないが、そこにたしかに安らぎを感じていた。彼も同じであっただろうか。そうであれば良いと思った。
 けれどもうきっと交わることは無い。私は帝国と戦う道を選んだ。彼も、彼の主の道を歩んだだろう。 次に会う時はどちらかが倒れるとき、そう考えると少し寂しい気持ちになった。

 私は静かにこの部屋を後にした。聞こえるはずのないピアノの音色が、遠くに聴こえる。