昔、高校生だった頃、仲良くしてもらっていた男の人がいた。隻眼でバットをよく持ち歩いていた、きっと堅気ではない人。
 偶然が重なって知り合うようになり、たまにお話をしたりバッティングセンターに連れて行ってもらっていた。
 私の初恋はこの人だった。この人のことばかり考えていた青春だった。
けれど立場も年齢も違う相手に気持ちを伝えられることもなく、大事にしまったまま、もう易々とは会えない場所へと進学した。
 それから2,3回文通をしてそれきり、私はその人のいない生活に慣れていく。


 あれから10年。無知だった私は社会という荒波に揉まれるようになる。積み上げられた残業と、上司からのギリギリのハラスメントが私の心を蝕んでいく。
 そんな厳しい社会に晒されているなかでも、たまに、恋人ができたりする。でも、当時抱いていた大切な思いがときたま顔をだし、このせいで一定の線を超えられず関係が終わってしまっていた。私は過去に囚われてしまっていた。


 久々の神室町だった。職場の送別会。お世話になった上司のものでなければ欠席していた。
 就職して東京に帰ってきてからも敢えて神室町に足を運ぶことは避けていた。もしかしたら彼に出会うかもしれないから。出会ったらきっと平静ではいられなくなる。
 酔い潰れた部下と上司を帰し、私も帰ろうとしたところで終電が過ぎていることを知る。久々にこの街を散策してみようか、年に数回しか吸わない煙草、あの人と同じハイライトの煙を吸い込みながら危険な街をひとり、歩く。
 神室町はずれの公園。よく私たちが話しあっていた公園。そこにその人がいた。まさか出会うとは思わなかった。特徴的な髪型と服装に眼帯。見間違えるはずがない。彼は私の通路を隔てた斜向かいで煙草を吸っていた 。
 ずっと焦がれていた人なのだ、躊躇う脳に反して足が勝手に動いてしまう。

 「真島さん…でいらっしゃいますか?」
 鼓動が早くなる。声が上ずる。男は振り向いた。やっぱり彼だった。

 「お久しぶりです。佐々木です」
 「佐々木ちゃんやんか。一瞬誰か分からんかったわ」

 彼は目を細めて私のことを見る。

 「もう前にお会いしたのは10年も前ですから。真島さんは変わってませんね」
 「吾朗ちゃんは、いつまでもピチピチやでぇ!…そうやなくてこないなところで何しとんの」
  
 煙草だったものを灰皿に捨てると私のほうに向き直った。

 「たまとま職場の送別会を神室町でやっていて、介抱してたら終電を逃したのでぶらついてたんです」
 「女の子がこんな時間に一人でおったら危ないで、どっか落ち着けるところ…飲みなおしにでもいくか?」

 飲み直し?真島さんと?突然の展開に心臓の音がうるさい。どうすべきか?回らない頭で必死に考える。でも、
 
「…はい。真島さんさえよければ」
 
私は彼の誘いを断ることなんてできなかった。だってずっと頭の片隅に引っかかっている人だったから 。

 「ほな決まりやな」

 訪れた場所は真島さんがよく行く居酒屋らしい。朝まで営業しているらしいこの店は、私と同じように終電を逃した人がまばらにいた。

 「飲み会やったんやろ、酒じゃないほうがええんか」
 「いえ、ほとんど送別会では飲んでません。まだいけますよ」
 「ほんなら、ビールでええな」

 店員を呼んで注文をする、私はそろりと真島さんを覗き見る。確かに10年という歳月を経てはいるが変わらず格好よくて、パイソン柄からのぞく刺青と肉体は当時のままだった。少しどきどきした。

 「前おうた時には学生やったけど‥ずいぶんと大人っぽくなったんやな」
 「ふふ、これでも一応大人になりましたから」

 お互いの10年を埋めるように話をした。 学生時代はサークル三昧だったこと、就職した先がずいぶんひどいこと、しばらく恋人はいないこと。

 「佐々木ちゃんくらいべっぴんやったら男なんてほっとかんと思うけどな」
 「付き合っても長く続かないんです。忘れられない人がいて」
 「忘れられない人って元彼かなんかか?」
 「えっと、は、初恋の人…ですかね」
 
 うまく表情を作ることができただろうか。

 「真島さんはどうなんですか?」
 「おらんのう。佐々木ちゃんと同じ、女と付き合うてもふとした時に思い出す女がおんねん、せやから長くは付き合えん」
 「そ、そうなんですね、真島さんがそれくらい入れ込むなんてきっと素敵な人なんでしょうね」

 私よりずっと長い人生を歩んでいる真島さんのことだ、こういう展開になるのはわかっていた。でも、
 10年。10年間心に巣食っていた人なのだ。言葉にされると心がずっしりと沈む。泣きそうになって目を瞬かせた。その様子を彼は見ていたのか、私にはわからない。
 それから私達はどうでもいいような話をした。ほんとうにどうでもいい話だった。真島さんはよく聞いてくれた。恋愛に関する話は意図的に避けた。
 結局私達は閉店、朝まで話し込んだ。白んだ空を見ながら鼻が少しつんとする。別れが少し、寂しい。

 「あの公園いかんか」
 「あの?」
 「さっき会うたときの公園や」 

 ベンチに座りながら私達は朝日を眺める。

 「この公園で朝日をみたのは初めてです」
 「学生は夜にこんなとこ来たらあかんでからな」

 ヒヒッ、彼の独特な笑い声のあと、しばらくしんとした空気があたりを覆う。

 「なあ」

 いくらかの静寂のあと彼がぽつりと呟いた。 私の手に彼の手が重なる。 突然の出来事にすこし手が震えてしまう。彼の喉がこくり、と鳴っているのがわかった。

 「10年前、あのままでいたら」

 あのままだったら。あのままだったらなにが起きるの。
 
「萌子が18になった時に告白しようと思ったんや」

 ーー真島さんが、私を。

 「今でも思い出すんや、萌子のこと」

 私のことを。なんで、どうして。

 「もう10年っちゅー長い時間や、この話は忘れてもええ」
 「嫌です、忘れません」
 「あなたは私の初恋でした。これだけたっても私、ずっと忘れられなかったんです。」
 「なんやと?…そうか…そうなんやな」

 言葉少なに視線を合わせる、真島さんの目は丸くなっていたが、次第に私が好きな優しい目になった。重ねられた手がするりと離れ私を抱き寄せる。
 自然と唇がふれあった。触れるだけのキスは遠くなるような時間、そうしていた。

 「真島さん」

 息を整えながら呟く、彼は私の目を見る。

 「私真島さんのことが好き」

 ずっと内に秘めていた、長年の思いのそれは好きという感情を疾うに越えていた。「好き」という安直な言葉で済ます自分が愚かしく、でもその言葉以外では言い表せない。

 「俺もや」
 「俺も萌子が好きやで」