終令のチャイムが鳴る。私は教材を片付け、教室を後にする。今日は一週間のうちの特別な日。

 「今日暇?飲みに行かない?」
 「あーごめん今日は彼氏が」
 「あら、金曜日だもんね。それならしょうがないか」

 そう、「彼氏」との時間が私には待っている。「また飲みに行こ」私は友人に声をかけて、足早に帰路に着く。
 ツワブキダイゴさん。誰もが知るデボンコーポレーションの御曹司。私は彼と「お付き合い」をしていた。お付き合い、そうはいっても惚れた腫れたの恋愛模様を辿るのではなかった。金曜日の夜。その限られた時間だけ私たちは恋人同士になる。
 その他の時間私たちは私たちがなにをしているのか、これを知ることはない。他に女性がいるのかどうか、これも私には知り得ない。
 彼が私のことを本当はどう思っているのか分からない。けれども、彼は「キミのことが一番好きだよ」そう囁く。時折意地が悪い振る舞いもするが、「好きな子はいじめたくなっちゃうんだ」彼はそう宣う。
 私のほうは、彼のことが好きだと断言できた。彼の強いところ、そうでないところ、ポケモンと石が大好きでその話題になると夢中になるところ。私は彼のすべてが好きだ。あまり石の話題自体は興味を持てないのだけれど。
 それでもこれ以上の関係を望むことはない。忙しい彼の一番忙しいであろう金曜の夜を分けてもらえるだけでも良かった。もっと素直になれたならば私だけ見て、そう願って迫ることもできたのかもしれない。しかし私は、彼によって張り巡らされた糸の中で、彼から与えられる甘い蜜だけ吸って生きている小心者だった。
 
 相手がたとえ私のことをどう思っていたとしても、それでも金曜の夜だけは私たちのもので、その時だけはお互いを想い合ってると思っていた。だから、アンバランスながらもなんとか均衡を保ってこの関係が続いていくのだとそう確信していた。



 カナズミシティのはずれにあるバル、そこが私と彼とのいつもの待ち合わせ場所だった。カウンターでいつものジン・トニックを流し込みながら彼の到着を待つ。控えめに店内に流れるジャズ・スタンダードが心地よくて、私はこの場所が好きだった。

 「おまたせ」

 時計の針が9を指した頃彼はバルにやってきた。「テーブル席に移らないかい?」いつもはカウンターの隣に座るのに、今日に限っては妙な提案をしてきた。

 「いいけど。何かあったの」
 「紹介したい人がいるんだ」

 彼を見ると視線が交わった。彼は意味深な笑みで私を見る。
 彼は時折、私の愛を試す行為をする。例えば、普段は連絡をとらないのに「何しているの」ふらりと連絡を寄越す。その返信が遅れると「ボクのこと好きじゃない?」彼は不機嫌そうにして、会った日にはいつもより乱暴に抱く。
 だから、今回もその類かと思っていた。否、後から思い返せば結局今回もそうであったのだけれど、その時の私は正常な判断ができなくなっていた。

 「ダイゴ、待たせた?」

 私とダイゴさんがテーブル席に移ってすぐ、その女性はやってきた。胸まで伸ばした控えめながらきちんと染められた茶色の髪、ワンピースの上にジャケットを羽織ってフェミニンさもありながらフォーマルさも忘れていない。そんなきれいな女の人。

 「いや、今きたところだよ。この子がボクの親戚の女の子」

 親戚?彼は私のことをそう説明した。何がなんだか分からなくなって、言葉を失ってしまう。

 「ほら、ボクの彼女に挨拶して?」

 試すような視線で私に「親戚の子」として振る舞うことを要求する。「私が彼女です」そう言えないのをわかりながら。女の人、その人がダイゴさんの彼女だと彼は言った。
 彼女?この人が?なぜ?私は?今日という日に何をするの?そんな疑問が一瞬で駆け巡って、あたまが真っ白になる。それでもダイゴさんに勝てなくて、「は、はじめまして。ダイゴさんの親戚…です」俯きながら挨拶をした。やっぱり言えなかった。私と彼は本当の意味では付き合っていなかったから。

 「まあ、可愛らしい子じゃない」女の人は私に微笑んだ。とてもきれいな笑みで。少し、敵わないな、そう思った。

 そこからが地獄だった。私とダイゴさんと女の人、三人で食事をとることになる。ダイゴさんと女の人は本当に仲睦まじかった。会話を挟む隙をみせないくらいに。

 「彼女は大事な親戚の子なんだ。だからキミに紹介したくて」

 ダイゴさんはそう笑顔で女の人に話す。そんな笑顔で私以外の人をみないで。親戚の子じゃないんです、私は。今まで持ち得なかった嫉妬心がむくむくと顔をだす。けれど、私は臆病だった。「親戚の子」を演じ続けた。

 「楽しかったね。またあなたにも会いたいな」
 「じゃあ、ボクは彼女と帰るから。気をつけて帰るんだよ」

 「親戚のお兄さん」として投げかけられた言葉に惨めな思いをする。今週の金曜の夜はやってこなかった。
 帰りながら涙をこらえた。泣いてしまったら負けだと思った。けれど、家についた途端涙を流してしまう。狭いワンルーム、そこで私は堰を切ったように涙を流した。他に女性がいるかもしれないことは可能性としてあった。認識していた。なのに、私は知らない間に彼の全てが欲しくなってしまっていた。私は彼の全てが欲しいです。



 『今日はどうだった?』

 日付が変わってしばらくした頃彼は私に連絡を寄越した。涙で殆ど文字が潰れて読めなかったけれど。とてもじゃないけど返信できる状態じゃなかった。私は初めて彼の連絡を無視した。

 「目腫れてるよ」
 「うーん。やっぱりわかる?」
 「わかるよーなんか悩み?彼氏との?」

 大学の授業をサボりながら友人とそんな会話をする。「どんな悩み?話してごらんよ」友人は興味津々だったけど、「まーいろいろあった」これだけ返した。ツワブキダイゴと変な関係になってる、そんなことはとても他人には言えなかった。

 『メッセージ返信してくれないの?明日、空いてるよね。いつものところで。今度は二人だから』

 木曜の夜そんなメッセージが届く。懲りない連絡に若干の怒りさえ覚えながらもそのメッセージを無視した。

 「今日暇?飲みに行かない?」
 「うーん」
 「大丈夫?本当に悩みならきくし」

 金曜日、友人はいつものように私を誘った。誘いに乗っても良かった。けれど。

 「ごめん、やっぱ彼氏と話しないと」

 私は彼の張った糸に雁字搦めにされていた。


 
 「おまたせ」
 「…」

 午後九時、いつもの時間、いつもの場所に彼は訪れた。「ウィスキーをロックで」カウンターの隣に座った。

 「連絡くれなかったね。寂しかったよ」

 彼は残念そうにそう言った。本意はどこにあるかわからなかったけれど。言いたいことはたくさんあった。けれども、話せる力をもっていなかった。それを紛らわすようにグラスを傾ける。アルコールが少しずつ脳を冒していく。沈黙の中、控えめに流れるジャズ・スタンダードとアルコールを溶かす氷の音だけがこの場を支配していた。

 「好きじゃなくなった?あんなことをしたボクを」

 好きな子はいじめたくなっちゃうんだ。唐突に彼は呟いた。殆ど残っていないグラスを置く音がした。その指先から肩、顔に目線を滑らせると彼と視線が交わる。薄青の瞳が私を捉えて離さない。

 「ボクはああは言ったけど。キミのことが一番好きなんだ。彼女は確かに関係があるけど…一番じゃない」

 歯が浮くような台詞だった。あんな、あんなことを私にしておいて、そんなのはあんまりだ。

 「あんなボクでもボクのこと好きだよね?」

 トドメを刺すような言葉に私は目眩がした。心臓を掴まれた心地がした。私の手に控えめに彼の手が重ねられる。もう答えはきっと知られている。私はもう、敗北している。でも。

 「わ、私は、私は…好きじゃなくなりました」
 「嘘だね。キミはボクのことが欲しそうにしている」
 「す、好きじゃ」
 「素直じゃないね…本当に素直じゃない」

 彼は笑った。今まで見た中で一番意地の悪い笑みだった。

 「ここではなんだし、場所を変えようか。ホテル、来るよね」

 耳元で誘われる。それは甘い誘いだった。きっと手を取ればすごく可愛がってくれるだろう。欲しい言葉もくれるに違いない。私は、この手を。

 「ダイゴさんの全部ください。言葉だけじゃなくて全部」

 ――そしたら行きます。彼は愉快そうに笑った。そして、私の手を取った。