呑気に蛙が鳴いていた。朝の天気予報は一日中晴れ、降水確率0%。だから蛇口をひねった様に降ってきた雨を防ぐ術を、職場から帰る萌子は持っていなかった。
 下着からジャケットからすべてをぐっしょり濡らした萌子をあざ笑うかのように雨足は強くなるばかり、空気は湿度と熱気でむせかえっているのに、手も足も体も冷え切ったまま駅へと足を進める。
 職場のある神室町から家の最寄り駅までは電車で30分、そこから10分。そこまでぬれねずみで帰るのは心に雨が降る。
 今日は少し特別な日であった。恋人である真島と付き合って一年丁度の日である。良い歳をした男女であるから、とりわけ祝いあうということはしないにしろ、その日を特別と思うことを許されはするであろう。帰宅して、ささやかにメール、次の会う予定を決め、暇が合えば電話をする、そんな期待はこの雨と共に流されてしまった。
 神室町近辺に住む真島に雨宿りさせてもらうことも少しは萌子の頭に過ぎった。しかし、その考えは直ぐに打ち消すに至った。ここまで体が濡れてしまってはそれも申し訳ない気持ちになる。加えて真島に突然会うというのは避けるようにしていた。これは、彼が堅気の人間ではないことからの萌子なりの配慮であった。
 雨脚は強くなるばかり、風も吹いてきていて萌子の体温を緩やかに奪っていく。
 駅にあと少しで着く頃であった。あまりにも突然雨が止んだ。気持ちに比例して視線も下を向いてしまっていたから、一瞬なにが起きたか分からずに目を白黒させる。

「そないに濡れとったら風邪引くで」

 真島が傘をさして目の前に立っていた。少し呆れた顔をしていた。
 この陰鬱な天気の中で傘を持つ真島は宗教でいう救いの主にみえたし、いつもの派手な柄のジャケットではなく、黒スーツに赤のシャツ、珍しいけれども萌子の好きな格好をしていたので、一瞬、萌子は真島に見惚れてしまう。
 何も言わない萌子に真島は

「どないしたんや、寒うて何も言えんくなったか?」

 と冗談なのか本当なのか分からない声で、けれども心配そうに呟く。 萌子はやっとの思いで呟く。

「真島さん、来てくれてありがとう」
「萌子のことだから傘持ってきとらんと思って、探したんや。やっぱり持ってきとらんかった」

 心配して探してくれたことに萌子は一気に心が満たされた気分になった。こういう優しいところが、萌子が真島のことが好きなところの一つであった。ゆるゆると締まりのない顔になっていく。

「なんやその顔は」
「真島さんが来てくれたから、こんな顔になっちゃいました。傘借りてもいいですか?今度あったときに返します」
「帰るんか?俺の家寄って雨宿りしや」

 ――家に、寄る、
 その意味を咀嚼してから萌子は顔に熱が集まる。
 真島が萌子の家に来ることは頻繁にあったが萌子が真島の家に行くことは数える程しかない。それも、予め会うと決めた日で今日みたいな唐突なことはなかった。違う世界の住人だから不用意に線の内に入るのはやめようと萌子の中で決めていたことだった。
 でも、今回は恋人である真島から提案されたことである。 もともと平日に恋人の家で過ごすというのは憧れていたことであった。断る理由はなかった。

「お邪魔しても、いいんですか」
「ええに決まっとる。なんならもっと来てくれたってええくらいや」



「お邪魔します」
「とりあえずシャワー浴びてき。ホンマに風邪引くで」
「お借り、します」

 家に入ると真島の匂いがした。それだけで萌子はくらくらした。
 手早くシャワーを済ませると、真島が置いたものらしい部屋着が置かれていた。それをみて萌子は少し微笑む。 着替えてダイニングルームに向かうとソファに腰掛けながら煙草を吸っている真島がいた。萌子はその隣に腰掛ける。

「少しは暖かくなったか」
「はい。ありがとうございます」
「『住む世界がー』とかいってこれまでも遠慮しとったやろ」

 図星だった。視線を逸らす。

「もっと頼ってええんやで。萌子の職場からウチならそんな遠ない。…傘も用意したるで。いつでも、連絡しや」
「はい。もう、たくさん真島さんには頼ってます。けどもっと頼ります。迷惑だと思ったら言ってください」
「そんな日がくるかはわからんが、その時はちゃんと言うから安心しや」

「そういえば」

 煙草は吸い殻入れにくしゃりとなっていた。 萌子の肩をゆっくりと抱き寄せる。手袋の無い手でうなじから肩をゆるりと撫でた。

「今日で俺らが付き合って丁度一年になるんや」
「いい大人がと思うかもしれんが、萌子に出会えてよかったと思てる」
「これからもよろしく頼むで」

 「――はい。こちらこそよろしくおねがいします。私も、好きです。とても… 」

 萌子は顔を赤くしながら、真島に軽い口づけをした。思慕、感謝…そうでもしないと上手く気持ちが伝えられかったから。
 真島は嬉しそうに満足気だった。 それからしばらくの間お互いを貪るように唇を合わせた。 しかし、不意に真島がソファから立ち上がる。

「このまま萌子を食ってしまいたいところやが、」

 キッチンの方に向かう。 しばらくして出てきたのはシャンパーニュの瓶だった。

「キャバクラのお姉ちゃんが飲むようなモンとは違うが」
「これも結構美味いで。お祝い、しよか」

 真島が萌子との時間を気にしてくれることがなにより萌子にとって嬉しかった。 冷たさはもう癒えた。 恋人の暖かさとささやかなパーティーに身を委ねて今は幸せにとけてしまおうと思った。