「やくざやさんとは仲良くなっちゃだめよ」
 「はい。仲良くなりません」
 今は亡き母がよく話していた。幼い頃の私はそれに従順に聞いていた。けれど、今の私は。



 「今夜空いているか。飲みにでもどうだ」

 終業前、少し眠気を誘う時間帯に彼からの連絡がきた。私はその連絡に少し心をときめかせながら、残りの業務を進めていく。
 連絡を送ってきた人は桐生さん、という方だった。バーで知り合った彼、お互い話下手なのに、妙にウマが合う彼。こうやって度々会っていて最近ちょっといい感じになっている。
 
 「お先に失礼します」
 
 定時きっかりに会社を出た。
 神室町からほど近い繁華街で待ち合わす。彼は「…神室町でし、仕事をしている」と言っていた。どんな仕事をしているか、分からないけれど。
 そう、どんな職業をしているのか私には分からない。それだけが不安の種だった。彼の服装はどう見ても堅気の人間のそれではない。一緒に時間を過ごすとき、周りの目線が彼に向かっているのが分かってしまう。
 神室町で水商売かなにかをしているのなら、それでも良い。けれど彼がもしヤクザだったりしたら――
 でも、彼は本当に優しい。不器用だけれどもいつも私のことを考えてくれて、飲み過ぎたときには「女が夜道を歩くと危ない」と、私を家まで送ってくれるのだ。当然その先のことはなく、送るだけ。
 自惚れかもしれない。でも、彼も私のことが好きなのかもしれない、そう思うときがある。

 「待たせたな。すまない」
 「ううん今きたところ」
 
 約束の時間を5分程過ぎた頃彼は私の許へやってきた。軽くディナーをとってから、私たちは落ち着いたバーでグラスを傾けあう。
 私の仕事の話とかを嫌な顔せず聴いてくれる彼、「佐々木さんが楽しそうに話しているのを見るだけでこっちまで楽しいさ」なんて嬉しいことを言ってくれる。
 
 「そろそろ帰らなきゃ」
 「送っていくぜ」
 
 結局終電間際まで話しこんで、私は彼に送ってもらう。彼の優しさに甘えている私がいる。
 帰り道、私たちはこれまでとは打って変わって言葉少なに帰路を辿る。私の家は新宿にあるものの、少し離れたところにある。徒歩だとおよそ20分。夜特有の少しひんやりした空気が私たちを纏って、並んで歩く私たち、拳一個分の距離がそこにあった。

 私の家まであと半分を差し掛かったときだった。
 
 「佐々木さ…萌子」
 
 急に名前を呼ばれた。いつもは呼ばないその名前に、鼓動が早くなるのがわかった。立ち止まり視線をゆっくり彼に向けると真剣な顔をして私の方を向いていた。彼の手が私の手に触れる。手をゆるく握ると彼は口を開いた。
 
 「もう気付いているかもしれねぇが…だけどお前に言いたい。俺は萌子のことが好きだ」
 
 どこかで覚悟していたことだった。いつか、どちらからか想いを伝えると。だけれど、分かっていても、それでも更に早くなる鼓動に胸が苦しくなった。頭がぐるぐると回って正常な判断というものを奪っていく。
 
 「萌子が良ければ付き合ってくれねぇか」
 
 彼は真剣だった。けれど。だけれど。
 
 「…時間を、ください」
 
 ――あなたのことを知る時間を。やっぱりあのことが胸に引っかかる。昔母が言った言葉がフラッシュバックする。それを消化する時間が欲しい。
 
 「そうか、いつまでもまつぜ」
 
 寂しそうな顔をして彼はそう言った。やっぱりあなたは優しかった。
 


 それから数日たったある日、私は神室町に来ていた。転職の面談、「フランクにまずはお互いの条件を確認しましょう」、指定されたのが神室町の喫茶店だった。
 
 面談自体はスムーズに終わった。「次回は面接に来てください。また日時は連絡します」どうやら「次回」はあるらしい。
 
 神室町…普段くる街ではなかった。桐生さんと会うときはいつも神室町外のどこかだったし、私用でこんなところにくることなど指折り数えるほどだった。もしかしたら桐生さんのことが何かわかるかもしれない。私は神室町を徘徊することに決める。
 神室町は思ったより複雑だった。時折みえる細い通路は入ってはいけないということを本能で感じ取った。
 歩きまわって、公園で一息ついたときのことだった。
 
 「お姉ちゃんかわいいね」
 「やめてください」
 
 みるからに「その筋」の人が数人、絡んできた。それらに不快に思いながらも私は毅然とした態度をとる。隙を見せてはならない。たとえ相手がヤクザであっても。
 
 「ちょっとホテルで休憩しようよ。疲れてんでしょ?」
 「いい加減にしてください」
 
 いくら抵抗できたとしても、多勢に無勢だ。絶望を感じながら、できうる限りの抵抗をする。
 
 「おい、お前らそいつを捉えろ」
 
 何人かで私を捉えようとしていたときのことだった。
 
 「…!」
 
 目の前の男が急にいなくなった。否、地に伏せっていた。顔をあげると、桐生さん、その人がいた。
 
 「大丈夫か?」
 
 彼は私に手を差し出す。私その手をとる。
 
 「ど、堂島組の桐生だ…」
 
 地面に伸びている男が口を開いたのを私ははっきりと耳にした。



 「なにも無くてよかった。ここは危ない街だからな…だからあまりこさせたくなかったんだ」
 「今日、転職の面談がたまたまここで…桐生さんがいてくれないと大変な目に遭っていたかも。ありがとう」

 桐生さんはやっぱり私に優しかった。一番にわたしのことを労ってくれた。彼の声を聞くと、とても落ち着く。私はやっぱり彼のことは好きなんだと思う。それでも。
 堂島組の桐生。男はそう言っていた。私は彼に訊かなくてはならない。彼自身のことについて。

 「返事、しようと思う」
 「返事?」
 「そう、この間の返事」

 ああ、と納得したような顔をした。彼の顔が再び締まったものとなる。そういう彼の顔はとても格好いいな、場違いなことを考えながら。私は彼に質問をする。

 「一つ、ききたいことがあって。」
 「なんだ?」
 「さっきの人、『堂島組の桐生』っていってた」 
 「…そうか」
 「あなたは普段なにをしているの?本当のことが知りたい」

 辺りに沈黙が流れる。桐生さんはややあって口を開いた。

 「そうだ。俺は極道をやっている。」

 やっぱり。最悪のケースの答え合わせに心が沈む。母の言葉を脳内で反芻する。

 「でも、俺は、俺には信念があってやっている。そして、萌子を愛しているのも偽りがない」 
 「信念…」
 「そうだ。俺にとって大事なモンだ。…でも俺は極道者だ。萌子とは釣り合いが取れてないのも分かっている。だからやっぱり返事はいらねぇ」

 告白できてよかったよ。彼はまた寂しそうに笑って踵を返そうとする。そんな、勝手に言いたいこといって。私は、私の伝えたいことが。

 「待って」

 彼には彼なりの信念があると言った。あんなに優しい彼が持つ信念とは、きっと

 「ヤクザって聞いて…びっくりしたのは本当。そして、心が沈んだのも、本当」
 「そうか」
 「でも、あなたにはあなたのやるべきことがあって、それに向けて頑張ってて…そうやってできることは尊敬する…」

 だから、私も。

 「桐生さ…一馬は私への想いに偽りがないと言った。わたし、私もあなたが好き。こうやって守ってくれたのもすごく嬉しかった」

 ――お付き合いしてくれませんか?彼に問うと、微かに彼は笑って、「俺からも言わせてくれ。俺と付き合ってほしい」
 

 母よ。私は母の約束は守れそうにありません。