「茶をとってきてくれるか」
 「それくらい自分で――しょうがないなあ」
  2人分のグラスを用意して麦茶を注ぐ。氷が外気の熱を受けてゆっくりと溶けていく。4畳半の狭い室内、私と彼――桐生一馬の二人だけが酸素を吸って二酸化炭素を吐き出していた。

 バブルが崩壊した頃、私と彼とは慎ましやかに、それでも確実に仲を深めていった。出会ったのはいつだったか。場末のバーで不器用に口説く彼がいた。彼は反社会的なものに属しているのは、彼の振る舞いから分かった。でもこの人は実直で真摯な人だった。恋に落ちないわけがなかった。
 それでも、いくら恋や愛を重ねても、彼は遠くの方を見る。彼の私への愛は嘘ではない。そんな器用な人ではない。でも彼の遠く、視線の先には彼の幼馴染がいた。
 きっと敵うことはないのだろう。そう断言できた。彼の幼馴染はきれいな人だった。私はそれを知りながら、今日も彼への愛を紡ぐ。
 
 「また、怪我した?」
 「ああ、ちょっとな…」

 ある時、私達が付き合うようになって数年たった、ちょうど外が土砂降りだった日、彼は傷だらけで帰ってきた。

 「気をつけてね。救急箱もってきたから。ほら、腕見せて」
 「悪い。でも、こうして好きな奴が心配してくれるから、嬉しいもんだぜ。」

 彼は無意識にだろうけれど、嬉しい言葉をくれる。「もう…馬鹿なこと言わないで」嬉しさを隠しつつ、私彼の手当をする。

 「今夜は家にいる?」
 「いや…仕事が夜に入っている。悪いな」
 「いいよ。仕事だもん。帰ったら甘えさせてね」
 「もちろんだ。好きなだけ甘えさせてやるぜ」
 
 彼は私にキスをした。唇を触れるだけの淡いキス。

 でも、それが彼との最後のキスだった。

 桐生一馬が捕まった。暴力団幹部を殺したと。そう、ニュースの報道があった。彼はあのまま帰ってこなかった。頭が殴られたような感覚を覚えた。
 四畳半の部屋に1人、私は孤独な日々を過ごした。警官が家に来た。家のものを漁るだけ漁って帰っていく。いくつか警官に質問をされた。「知りません。わかりません」これだけ答えた。だって本当になにも知らなかったから。更に精神がすり減っていった。

 一馬が人殺しだなんて、そんなことができる人ではなかった。喧嘩が強いと聞いていたから、気絶させたりとかは今までもあったかもしれない。でも人殺しは。きっとこの件には裏がある。

 懲役10年。私はそれをニュースで知った。極道の裁判なんて、堅気の人間が入れるところではなかった。私はただ震えて一人で息をする。

 「萌子。いるか」

 一人での暮らしに漸く慣れてきたころ、私に一人の来訪者がいた。柏木さんだった。錦山くんを除いて唯一知っている人だった。一馬が尊敬している人。極道の人だから、本当は怖いのかもしれないけれど、少なくとも私には優しくしてくれる人。

 「元気か」
 「ええ…なんとか」
 「そうか。それなら何よりだ」
 「一馬は…捕まっちゃったんですね」
 「…」
 「仕方ない…ですよね。でも、私は一馬がそんなことをするような人ではない…そう思ってます」
 「…そうか」

 話がある、柏木さんはそう言った。耳を疑いたくなる内容だった。
 「桐生にはもう関わらないほうが良い」
 え、なんでどうして。私の一番大好きな人。ずっと、一緒だと思ってた人。関わらないほうが良いって、脳の処理が追いつかなくて、涙を流した。柏木さんは気の毒そうに私を見ていた。

 「極道のいざこざはこれからもある。君だって警察の取り調べに遭ったりしたはずだ。…桐生もそれを望んでいる」
 「一馬も…?」
 「『萌子には幸せであってほしい。だから別れて欲しい。お前を巻き込みたくねぇ』…あいつの言葉だ」

 積み重ねていたものがガラガラと音を立てて崩れていった。だって、私は。
 「私だって、覚悟、してますよぉ」
 泣きじゃくる私に柏木さんが私の肩に手を置く。
 「桐生のことを想うなら分かってくれ。あいつも断腸の思いだろう」

 もう来ることはないだろう。達者でいてくれ。そう言って柏木さんは去っていった。私は自分の感情を制御できずに職場も休んで泣き続けた。柏木さん、一馬の言うことも理解できた。けれど、私は彼を待ちたかった。でも。
 10年間の時間はあまりにも長過ぎた。私は少しずつ一人で生きていくことを覚えていった。彼のことは忘れられず、何度も夢にみるけれど、私は前を向いて歩いている。最後のキス以来、私は今まで彼に会っていなかった。
 
 あれからちょうど10年ほど経った、新宿に用事があった晴れた日。私は神室町に足を運んだ。隣には主人となる男性が。私が一馬を忘れられないことを知ってもなお求婚してくれた人。今はこの人のことを愛している。お腹にはもう一つの生命が宿っている。

 懐かしいなと思いながら劇場前広場を歩いていたときのことだった。知ってる面影が正面を歩いてくるのを見た。小さい子を連れて。小さい子は、彼が遠くを見ていたその人によく似ていた。
 彼も私のことを気付いた様子で、しばし目が合う。彼はなにか言いたげだった。けれど何も言わなかった。私は会釈をして、彼の隣を通り過ぎていく。

 「あの人は、誰なんだい?」
 怖そうな人だけど。主人が不思議そうに私に訊く。
 「知らない人。目が合っちゃったから。会釈しといた。怖そうだったからね」

 彼はきっと辛い10年を過ごしたのだろう。そう思うとやるせない気持ちになった。私はあのまま待てばよかったのだろうか。彼の望み、私の願い、それらが綯い交ぜになってゆっくりと脳を冒していく。私は待たないことを選んだ。
 彼は今幸せなのだろうか?答えのない問いを心の中に投げかける。きっとあのこは子供で、多分奥さんがいるのだ、家族みんなで幸せだと良いと思った。私はそれを祈るしかできない。

 「麦茶飲む?」
 主人が私に問いかける。
 「――それくらい自分でやるよ」
 私は笑いながら、2人分のグラスを用意して麦茶を注ぐ。