私は、ひとりだった。ずっと。特に何に不自由したということはない。進路は高校、大学、就職と恙無くレールの上を歩んでいるし、それ自体は順調そのものだ。
 けれども。私の心の内を開かせるような、そんな関係の人に、生まれてからこの方出会ったことがなかった。愛想笑いを作るのは上手だったから、生活する上で困ることはない。でも、この心の空虚を誰も、そう誰も埋めることができなかった。逆に埋めてあげることも。

 誰かにとっての「何か」になりたい。たとえ些細なものであっても。承認欲求といってしまえば、それまでなのかもしれない。でも、そんな「エゴ」が薄く積み重なって真綿のようにわたしを、わたしのこころを締め付けていくのだった。

 「――もうこんな時間」

 深夜3時、雨だれの音だけが聞こえる昏い室内。私は布団に包まりながらそんなことを考える。もう何回もしたことで、その度に遣る瀬無い感情になるのだった。
 明日も朝早い。仕事は私のことを待ってはくれない。目覚ましのアラームをつけるために携帯電話を点ける。

 「またきてる…」

 端末は一件のメッセージが届いていたことを教えてくれた。送り主は、真島吾朗。以前、警察官のコスプレをしていた彼に、つい本物だと間違えて道案内を依頼したその人。「連絡先、教えてくれんか?」去り際に強引に連絡先をきかれて、それ以来こうやってしばしば連絡が来る。

 内容はそこまで大したものではない。テレビのこれこれが面白いとか、こんなことがあった、とかそんな雑談。警察官のコスプレだったのも彼からきいた。
 連絡など、無視してもよかった。けれど、流石にこれは難しかった。何故なら、この人はちょっと怖そうだ。道案内してくれたとき、優しさの中に凄み、狂気…そんなものを感じた。隻眼だったし。下手を打ったら殺されそうな、そんな狂気。
 だから、私は「作られた私」で彼に返信をする。当然この怪しい大人とのやりとり心など開けるわけがない。

 「ケンカしたい人がおんねん。どうしたらええ?」

 届いた内容はちょっと物騒なのも含めていつもと変わらず、どうでも良い内容だった。こんな深夜に、と思わなくもない。けれど私は平常運転。
 
 「真島さん前、ゾンビ映画好きっていってたじゃないですか。それの真似すれば相手も苛ついてケンカしたくなりますよ」

 これだけ送信して私は眠りに落ちる。
 夢を見た。真島さんが私に手を差し伸べる夢、夢の中の彼は警察官の格好ではなかった。知らない見た目。どうして。どうして彼が。
 そこで目が覚めた。不思議な夢だった。起き上がり冷たい水を飲む。ゆっくりと携帯電話を弄り始めると返信が来ていた。

 「萌子ちゃんさすがやな。おおきに」

 たったこれだけ。一体誰とどんなケンカをするのか、私には見当もつかない。
 
 それから何回も日が登り陰る、その中で普通すぎる日常を送っていく。彼からの連絡といえば、「うまくいったで」これだけだった。本当にうまくいったのだろうか?まあ、でもアドバイスになったら、良かった。少しこのやりとりを楽しいと思えてくる私がいた。

 たまたま神室町に足を運ぶ用事ができた。――本当は用事なんて無い方が良かったのだけれど。私は此処で付き合っている男と別れ話をする。
 原因はいつものことだった。「萌子は心を開かない」別れた男は口々にいう。
 そう言われても仕方のないことだと思う。けれど、だけれど、あなただって心を開いてくれないじゃない。これは私の言い訳だ。形だけの恋人関係、セックス。もう恋人関係なんて結ばないほうが良いのかもしれない。でも「もしかすると」を何度も続けて同じ数だけ傷つくのだった。 
 別れ話はスムーズにことが運んだ。もう何回も行ってきたことだ、波風立てず、さようなら。私は台本を読むように元恋人と最後の会話をする。

 外は雨が振っていた。傘を差そうとしたそのとき、私の頭上の雨粒は消え失せていた。恐る恐る傘を持っている人間のほうを覗こうとしたとき、

「萌子ちゃんやんな」

 見知った声が鼓膜を震わせた。

 二回目に会った真島さんは一言では形容できない格好をしていた。胸元が開いたジャケットからは刺青が覗いていた。コスプレのときは帽子をつけていたからわからなかったけれど、異様とも呼べる髪型をしていた。ああ、やっぱり。これは。これは、そういうことなのだ。所謂「堅気ではない」人。

 「あ、えっと、こんばんは」
 「こんなところで何しとるん?…泣いとる?大丈夫か?どっか雨宿れる場所に移動しよか」

 私は知らない間に涙をこぼしていたようだ。

 だからといって。こんなところだなんて。部屋のパネルを嬉々として選ぶ男を心の中で睨みつけた。「なんもせんって」男は笑うが、万が一を考える。心が凍りつく。
 真島さんが「雨宿れる場所」として指定したのはラブホテルだった。場末感漂う、狭い、部屋。あの長いメッセージのやり取りの中で安心しきっていた私がいた。けれども、やっぱり人間は、そういう、そういうものなのだ。心を預けてはいけないのだ。

 「…セックスしたいならどうぞ。抵抗しませんよ」
 「萌子ちゃん何言うとんねん」
 「真島さんがこんな、こんなところ選ぶからでしょう」

 部屋のソファに座り込むと適当にテレビのチャンネルを回した。画面の向こうの女は耳障りな声をあげては男のされるがままになっていた。

 「涙を流した女に付け入って、こんなこと、したいんじゃないんですか」

 驚くほど強い言葉がでた。こんな身なりの男のことだ。明日には殺されてるかもしれない。それでも、言葉をやめることができなかった。期待していたのだ。心のどこかで。それが崩れて私はこんがらがって、
 
 「萌子ちゃん」

 私の思考がぴたりと止まる。グローブ越しの手が私の頭をゆるく撫でる。

 「なんで泣いとったんや」

 声の方を見上げると真面目な顔した声の主が私を見下ろしていた。テレビから流れる嬌声はもう聞こえなかった。

 「なんで泣いたのかは本当はわかりません」こう前置きして今日あったことをぽつりぽつり、と話し始めた。男と別れたこと。「萌子は心を開かない」いつもどおり言われたこと。「私は、ずっと一人なんです。心の中では、ずっと一人、」心の中の空虚な感情。こんなこと、言うつもりなかったのに、言葉が溢れては紡ぐことを強制される。とりとめのない話を、真島さんは黙って聞いていた。
 「私は誰かの何者かになりたいんです。――エゴだってわかってますけど」
 私はそう締めて真島さんに向き直った。

 「よう話したな」
 「すみません。こんな話して」
 「ええねんて。――誰かの何者かになりたい言うたやろ、」
 「はい」
 「もう、なっとるとおもうで。萌子ちゃんの友達とか元彼…もそうや。大なり小なり萌子ちゃんは影響を与えてるはずや。友達からも影響受け取るやろ?そんな大層なものでなくてええねん。そういうのに気づけて積み重なっていくのが重要なんちゃうん?少なくとも…俺のケンカのネタ出しには萌子ちゃんおらんとあかん存在やで」
 
 ヒヒッ特徴的な笑い声をあげた後真島さんは煙草に火をつける。
 今まで耳を塞いでいた言葉達。真島さんが話すと不思議と理解ができた。私は、何者かになれているのだろうか。一人では、ないのだろうか。
 
 「わ、わたしは、もう…」
 「萌子ちゃんは一人やない。もうわかるやろ。少なくともゴロちゃんは萌子ちゃんの味方やで」
 
 朗らかにいう彼に、私は、はい…肯定することしかできない。私は、この連絡しかとらない男性に救われてしまった。奇妙な縁だと思う。けれど、きっと人のつながりなのだろう。

 「いろいろ話を聞いてくれて…ありがとうございます」
 「かわいい女の子が困っとったら、助けるのが当然ってもんや。…真面目な話しとったら腹減ったわー」
 「え、わ、私を食べますか…」
 「なにアホなこというてんねん。ここ出てラーメン!ラーメン食うで。ゴロちゃんのおごりや。萌子ちゃん付き合い」

 ホテルを出ると雨が上がっていた。私と真島さんは並んでラーメン屋へ向かう。

 「どうして、ホテル行こうとしたんですか?」
 「もし大泣きされたら響くやろ?カラオケでもええけど落ち着かんしな。ここらへんで一番落ち着ける場所っていうたらあそこしかない思うて」
 「すみません。最初疑って」
 「ええねんて。疑われてもしゃーないしな」
 
 すべて私の杞憂で、真島さんはあらゆる可能性を考えてホテルを考えてくれていたようだった。それでも、やっぱりびっくりしたけど。

 「ついたで」

 客もまばらな店内、真島さんと二人、ラーメンを啜る。

 「これ、美味しいですね…」
 「せやろ?ゴロちゃんイチオシやねん」
 「今度…私がおすすめのラーメン屋にいきませんか?ここに負けず劣らず美味しいですよ!」
 「ええのう!行こか行こか!」

 殆ど連絡しか取ってなかった人、真島さんの一言で今日は助けられてしまった。私の人生の中でも救いともいえる瞬間だった。ずっと抱えて生きてきたことだったから。真島さんにも恩返しすることができるだろうか。きっと「ケンカの口実を考えて」そう尋ねられるのだろうけど。