続きます

 


 東京都心の、綺羅びやかな繁華街の裏通りにある寂れた純喫茶、そこに私の世界があった。
 そこは、料理も珈琲も絶品で行列ができてもおかしくないほどなのに、場所が場所だからか客もまばら、常連だけがここの店を支えている。私はそこで給仕のアルバイトをしていた。
 常連の中には所謂、な人もそれなりにいたけれど、そんな人もこの場所は受け入れてくれる。海原に揺蕩う海月のように。そんな自由さがここにはあった。

 「萌子ちゃん」
 「はい?」

 年老いた店主が私のことを呼ぶ。深夜十時、閉店して、明日を送るための準備作業をいくつか。これらが漸く終わってこれから帰路につこう、そう思って帰る支度をしていたときのことだった。

 「これ、いつものジュース代」
 「あ…それは」

 店主が私に硬貨を手渡す。かっきり二百円。たまに、あるお客さんが来たときに私にチップを渡してくるのだった。

 「本人にやればいいって言ってるんだがな」

 そう、その人は私には直接これを渡さない。私が知らないところでそれが行われる。なんで、どうして。頭に疑問符が浮かび上がっては霧消していく。

 「毎度のことだがお礼いっとけよ」
 「はい」
 「…お前、そいつのこと好きだろ」
 「それは…」
 「見りゃわかるさ。まあでも『あちらの方』だろうからな…」

 歯切れ悪く店主は言う。
 店主の言う通り、私はその人のことが気になっていた。チップをもらうようになる前から。好きと呼ぶには淡すぎる思いだ、それに、結ばれてはいけない。私と彼とは立場が違いすぎる。
 「彼」は時折店に訪れる。サンドイッチと珈琲のセット。これだけ頼んで特に何をするわけでもなく、しばらく時間を過ごしていく。
 次、店にくるときにお礼をしよう。そう思っていたのだけれど。
 「次」は意外と早く訪れた。

 あれから数日たった、気温は36度、蝉が最期の時を叫び、汗がつぅと伝う、そんな昼間。私は店へ向かっていた。後少しで店に着く。そこで、
 
 「お客さん…」

 いつもの、チップをくれる、私の気になっている、その人。私の声に気付いたようでその人はゆっくりと私のほうへ振り返る。

 「…」

 喋らないお客さんは纏う雰囲気や格好も相俟って普段の数段は凄みがあった。お店の中ならそんな雰囲気はないのに。何か話さなきゃ。私は回らない頭で紡ぐ言葉を考える。
 
 「えっと、その…お客さん。こんにちは。いつも、チップありがとうございます。店主から聞きました」
 「桐生だ」
 「え?」
 「俺の名前だ」
 「桐生さん…、あ、私は佐々木萌子です。」
 
 私が名前をいうと桐生さんは少し唇を笑みの形に歪めた。
 
 「佐々木さん、『それ』は店主から聞いているだろうがジュース代だ、いつも…頑張ってるからな」
 
 桐生さんが私のことを見てくれていた。名前を読んでくれた。それが嬉しくてニヤけを抑えるのに精一杯だった。

 「本当はこんなもの受け取れない…というのが正しいのだと思いますが」
 「それは許さないぜ」
 「そうです、よね。ご厚意に甘えることにします。ありがとうございます」
 
 ぺこり。頭を下げると頭に掌の感触があった。これは、まさか。顔が熱い。気温だけのせいじゃない。顔を上げると私の頭に手を載せ、撫でている桐生さんが見えた。目があって、漸く手が離れた。彼はバツの悪そうな顔をしていた。
 
 「すまない。つい、やっちまった」
 「いえ、気にしないでください」

 もう少し話していたいが、私には仕事があって、きっと彼にもやることがあるだろう。
 
 「そろそろ時間が」
 「あぁ」

 「店まで送ってやる」私はその言葉に甘え、店まで二人で歩く。途中、言葉はなかった。私は先程の出来事を反芻していた。
 
 私は、もう、恋に落ちていた。