「おかえり、おっそいなあ」

 深夜、仕事を終えて帰宅する私の家には先客がいた。
 
 「また…家に来ていたの」
 「俺とお前の仲だろう?」

 先客――下品に笑うこの男――は、一応私の彼氏だった。彼氏と呼べるのかどうか、首を傾げるのだけれど。彼は愛だの恋だのという前に、私に寄生をしていたのだった。
 私の家に転がり込んでは金銭を要求し、穀を潰すその彼を最早好きかどうかなんてわからない。けれど、放って置くことなどできなかった。彼を放置したら死んでしまうのではないか、そんな被害妄想ともいえる感情を抱いていたから。

 「来る時は連絡してって――」
 「そんなカタいことを言うなよ」

 彼の目が私を射止める。
 
 「お前だって俺に抱かれたいだろ?」



 翌朝、否、ほとんど昼と呼べるような時間、言葉にできぬような倦怠感で目が覚める。昨夜は結局彼に抱かれた。いつも独りよがりで、乱暴なセックスだと思う。離れてしまえば良いのに、と心の声が木霊する。

 「なあ」
 「何」
 「くれよ」

 シャワーを浴びて、化粧をして。出勤の支度をしている時に彼が口を開いた。
 ――くれよ。これが何を意味するのか私には手に取るようにわかる。けれども、「何を?」私は抗議の意味もこめてそう返答する。
 
 「言うまでもないだろ?金だよ、か・ね!」
 
 案の定、といった答えだった。彼に何度となく要求された、それだった。渡さなければ良いのに、渡さないとこの人はきっとどうにかなってしまう。
 
 「いくら」
 「とりあえず、3万円かな」

 札束で叩きあっているこの時代だ、感覚が麻痺していて、その金額の多寡は判断できなかった。私はブランドものの財布から札を3枚抜き取ると彼の方に投げて寄越した。



 「こんばんは」
 
 キャバレーグランド。ここが私の職場だった。こんな、蒼天堀で著名とも言えるこの場所で働くことができてるだなんて、不思議で仕方ない。
 男性に媚びを売るような仕事が肌にあっているかというと、答えはNOだったけれど、ここは金払いが良すぎた。そして尊敬する上司がいるのだ。私がここで働く理由はそれで十分だった。
 
 「なまえちゃん」

 私に声をかけてきたのは、支配人――真島さん。私の「尊敬する上司」だ。突然支配人としてやってきたのには戸惑いを隠せなかった。けれど、彼の手腕は本物だった。傾きかけのグランドを蒼天堀一とも呼べる場所に持っていった。私たちキャストにも気さくに接してくれるその人は、私の密かな憧れでもある。
 
 「こんばんは」
 「なんや、元気ないなぁ。なんか、あったんか?」

 隻眼が私を見据える。そんなことはありえない筈なのに、支配人にそう見られると全てを暴かれる気がして、私は珍しく、しどろもどろになりながら返答を探す。彼氏のせいで悩んでいます、だなんて。

 「え、えっと、何にも…ないです」
 「ほんまか?なんかあるなら、俺に相談してや。うちの女の子には元気でおってほしいからな」
 
 去っていく支配人の背を見て、やり過ごせたと心の中で安堵する。元気でおってほしい、なんて、私だけに発せられたものではないとわかっていても、ときめいてしまう私がいた。

 真島さんみたいな人が恋人だったら、と考えたことは、ある。あんなに素敵な人が恋人だったらきっと今みたいに悩むこともなかっただろう。そこまで考えて、ため息をつく。とても、手が届くような存在ではないのだ。あの人にはきっともっと素敵な女性が合うに違いない。そして、逆に私にはアイツのような人がお似合いなのだ。



 それからしばらくたったある日、今日1日の仕事を終えて、帰るための支度をしていたときのことだった。この間、私は金を無心され続いていて、私生活は疲弊していた。仕事だけが自由な場所だった。時見せる支配人の心配そうな顔が私の心を燻らせる。
 きらびやかなドレスの上に大きめのパーカーを羽織って、セブンスターを片手に屋上へ向かう。
 蒼天堀一面に輝くネオンを眺めながらゆっくりと煙を蒸す。アイツは私が煙草を吸うのが嫌いだから、きっと帰ったら怒られるかもしれない。

 「煙草、吸うんやな」
 
 突然の声に驚いて振り向くと、そこには支配人がいた。

 「支配人」
 「真島でええ」
 「真島…さん」

 「お疲れ様です」終業後とはいえこんなところで油を売っていた、湧き上がる後ろめたさに小声でそう呟くと、「なまえちゃんもな」優しい声が降ってきた。

 「すいません、こんなところでゆっくりしてて」
 「もう店じまいの後や。気にせんでええ。…しかし、なまえちゃんもやりよるなぁ」
 「え?」
 「今日の売り上げ。なまえちゃんがトップやろ」
 「そうなんですか」
 「そうなんですか、ってなぁ」
 「きっと、運が良かっただけですよ」

 本当にたまたまだ。たぶん。プライベートでむしゃくしゃしてたから、仕事に精を出しただけ、だなんて口が裂けてでもいえない。可愛げなく返す私に、真島さんは何を思ったのかはわからない。ただ私の隣に立って煙草に火をつけながら口を開く。
 
 「なまえちゃんはセッターか」
 「滅多に吸いませんよ」
 「滅多に、」
 「そう、滅多に」

 「…何があったんや?」
 
 ああ。度々訊かれていた話題だ。でも今回は纏う空気が違った。そんなふうに言われたら、私は口を開かなくてはならなくなる。
 
 「えっと、」
 「とぼけるのもええ加減にしや」

 真島さんのほうを見上げると、隻眼と目が合った。ひどく真面目な顔つきをしていた。そんな姿を格好いいと、場違いにそう思う私がいる。
 
 「心配するのは」
 
 口元から煙草の煙が漏れ出る。

 「大事なキャストだから、だけではないで」 

 心臓を掴まれた心地がした。真島さんの言葉の意味、それが分からないほど幼くはなかった。真島さんは、私を。体の中を感情の奔流が駆け巡っていく。思わず私はぎゅっと目を瞑った。もうほとんど短くなっていたのだろう、持っていた煙草を「誰か」が優しく抜き取って、そのまま指を絡めとられる。

 「そんな顔したらあかん」

 目を開く。真島さんの顔が至近距離にあって、それで。

 「…話します」
 
 言わなければと思った。言わねば誠実ではない。前に進むために。

 「彼氏のことで悩んでました」
 「彼氏、おったんやな」

 真島さんは絡めていた手をゆっくり話す。そういう気遣いが彼の良いところなのかもしれない。けれど、今は手を繋いでいてほしかった。私は自分から真島さんの手をとった。真島さんは私のことを見た。

 「禄でもない男なんです」
 
 ――私の身体とお金にしか興味ない男。自嘲気味に話すと、真島さんが手を握り返してきた。

 「今日も取られました。5万円。安くないはずの金額です」
 「なまえちゃん」
 「帰ったら、きっと抱かれるのでしょう。それは乱暴に」
 「なまえ」
 
 真島さんがはっきりと私の名前を呼んだのが聴こえた。
 
 「なんで付き合っているのかわかりません。放っておけないんです。最低の男なのに、」
 「もう辞めや」
 「え?」
 「訊いたんが間違っとった」

 顎を持ち上げられ、キスされるのかと目を閉じたら、ゆっくり頭を撫でられた。その感覚が気持ちよくてふわふわと温かいものがこみ上げてくる。こんな、こんな気分になったのはいつだっただろう。記憶を手繰り寄せようとして――、叶わずに辞めた。

 「なまえちゃん」
 「はい」
 「幸せは、掴むもんやで」
 「…」
 「俺やなくてもええ、誰かと一緒でも一人で生きるのも選択の一つや。けれども」
 「けれども?」
 「そないな男に搾取されて生きるのは、間違っとる」



 男と別れようと思った。別れて、自由に。そうする権利があると、真島さんは言った。自由になりたい。もう、こんなのは、こりごり。

 「ねえ」

 茜さす夕方、「恋人」がいつものように部屋にたむろしていた。「なんだい?」恋人はこれから話す内容など知らないのだろう、いつものように、偉そうに、怠そうに、私の方を向き直る。
  
 「別れて欲しい」
 「は?」
 「二度言わせる気?別れて。今すぐ出て言って」

 別れて欲しいと伝える時、声が震えたのが分かった。今も、心臓がバクバクと音がなっている。彼が私の方に詰め寄る。口が上手い男だ、負けないようにせねば。

 「理由くらい教えろよ」
 「今までの行動を振り返ればわかるでしょ」
 「俺を見捨てたら俺死んじゃうかもよ」
 「それは…」

 死んじゃうかもよ、何度かそう言われたことがあって私はその度に折れてきた。今回も情が揺れそうになる。でも私は、
 
 「そんなの知らない。勝手に死んどきなさい」
 
 搾取されてはならない、真島さんの言葉を思い出す。私は自由に、なるのだ。



 あの後、アイツを追い出して、引っ越しをした。「覚えておけよ」アイツの声が遠くで聞こえた。「忘れるよ」心の中でそう呟く。
 それからの日常はとても穏やかなものだった。すべてが誰かのためではない、自分のもので、自分のために人生を消費した。
 仕事の方も順調だった。以前は無理していたのかもしれない。今は、ほぼ自然体で接客ができている。売り上げの方も上々で、毎回トップ、とまではいかなくても自分の中で納得のいく結果を出せている。
 一方で真島さんとの関係は進展していない。真島さんは忙しい人だから、あれからほとんど会えていなかったのだ。グランドにいても、いつも誰かと何かを話していて、だから、男と別れたことすらも伝えられていなかった。
 支配人とキャストだから心配したわけではない、と真島さんは言った。あの夜のことを思い出す度に初恋のような気持ちになる。私はそのことについても、真島さんと話をしたいと思っていた。

 

 別れてから三週間たった頃、私がいつもどおり接客をしていた時、「グランド」の入り口がやたら騒がしいことに気付く。何かしら、接客の中、入り口を盗み見ると知った男の顔が。もしや、と顔が青ざめる。

 「なまえ!なまえはいるか!」

 アイツは私の名を呼んだ。幸い、源氏名は別のものだったから客には私ということは気付かれない。

 「騒がしいねえ」
 
 シャンパンを傾けながら客が眉を寄せる。
 
 「も、申し訳ありません…」
 「なんで、君が謝るんだい?ま、こっちは楽しくやろうよ」

 気が気でないまま接客を続けていく私の耳に、高らかな声が聞こえる。

 「『お客様』。何か、問題がありましたでしょうか」

 真島さんがアイツと対峙していた。これは、心強かった。こうなったときの真島さんは負けを知らない。

 「なまえ…なまえに用があるんだよ」
 「そのようなキャストはうちにはおりません。もし――キャストのプライベートのことでしたら、私が言付けておきますので、店の外にてお伺いしてもよろしいでしょうか」

 有無を言わさぬ、ある種の凄みを感じるその言葉に、アイツは渋々向かう。彼はかなりの小心者なのだ。弱者しか食い物にできない弱い、人。

 それが彼を見た最後だった。その日は目まぐるしく、こんなことがあっても仕事はなくならない。日付が変わって、漸く業務が終わって。やっと、今日あったことを思い出す。
 あの男がグランドに、きた。想定できたことだった。けれど、実際に遭うと心がざわつかせた。こんなことが何回もあってはいけない。

 「なまえちゃん。今ちょっとええか?」

 いつものパーカーを羽織って、セブンスター片手に屋上へ向かう。先に真島さんがいた。煙を燻らせながら私の方に視線を寄越す。

 「今日もセッターなんやな」
 「…滅多に吸いませんよ」

 ようやく、ようやく真島さんとの時間がとれた。話したいことはたくさんあった。でもどこから話していいか分からなくて、言い淀んでいると、真島さんが口を開いた。

 「なまえちゃんの彼氏、今日グランドにきたで」
 「今日は、ありがとうございました」
 「ええねん。清々しいほどのクズだったわ」
 「なんて、言ってましたか」
 「『なまえには俺がいないとダメなんだ、なまえに会わせて欲しい』それだけをぶつぶつ言っとった。通さんかったら殴りかかってきたから」
 
 ――ちょっと相手したった。店の外やしな。真島さんは腕っぷしも強いようだった。

 「まあ、もう来んと思うで。痛そうやったしなあ。もし来ても何度でも相手したる。だから心配せんでええ」

 真島さんは元気づけるようにそう言うと私の肩に手を置いた。心配するなよ、と伝えるように。深呼吸をする。今度は私が口を開く番だ。

 「私、あの男と別れたんです」
 「とうとう決心したんか」
 「もう三週間も前のことです。最初は怖かったし、こんなこともあったけど、今は気が楽です。私はもう自由なんだ、って」
 「それなら良かったんや。あれからずっと心配しとったんやで」

 あれから。私が全てを曝け出して真島さんが余すことなくそれを受け取った、その夜。

 「すみません、ずっと言いたかったんですけど。忙しそうだったんで」
 「捕まえて話せばええ。そうしてもええんや、やってなまえちゃんは俺の――」
 「俺の?」
 「…俺はなまえちゃんのことを好いとる。俺のモンにしたいくらいに」
 
 これに近い言葉を聞いたのは二度目だった。二度目はずっとまっすぐな言葉で、私がずっと聴きたかった言葉。
 
 「真島さん」
 「いや、これは俺のエゴやな。なまえちゃんが幸せならなんでもええんや」
 「真島さん!」

 目を閉じると私は背伸びして唇に軽くキスをする。微かにお互いの煙草の味がした。「なまえ…」真島さんは私を見つめて呆然としていた。

 「私、あの夜から変なんです。あの夜を何度も思い出しては初恋のような感情になります。これって、」

 きっと真島さんのことが好きなんだと思います。私ははにかんだように笑う。「そうか、ほんなら…」真島さんはゆっくりと私の肩を寄せる。

 夜明けはすぐそこだった。





蒼天堀時代の兄さんとグランドのキャストとの恋。彼女にはヒモがいてろくでなし。兄さんが助けてくれる。

ジャスミン様リクありがとうございました!