さざ波の小気味よい音がさあさあと聴こえてくる。陽の光が波を照らしてゆらゆらと光がゆれる。私は浜辺に座り込んでそれを一身にうけて、遠くをぼうっと眺めている。
私の髪を揺らす海風が心地良い。私を包んでくれる優しい優しいとりかご。ずっとここにいたいと思ってしまうほどに。
「ほら、もう帰る時間よ」
海にあたってうっとりしていた私は、ママの声で覚醒される。気がつくと日は傾き、引いていた海面がすぐそこまできていた。
「あーあ。まだいておきたかったのに」
「暗くなったら危ないでしょ」
ママは少し過保護なところがある。でも、
「ダイゴくんにまた言われちゃうわよ」
鳥籠に私を繋ぎ止めて、本当に私を縛っているのはツワブキダイゴ、彼だった。ママは何かと私とダイゴの仲に気を遣っているようだった。本当は、そんなキレイなものではないのに。
「あ、そうそう」
帰宅して、ぬるめの湯船にゆっくり浸かって、ママが作ってくれた食事を食べていた時だった。
「どうかした?」
「ダイゴくんが帰ってきてるらしいわよ」
え。私は思わず声をあげた。彼が、帰ってきた。いきなり浴びせられた現実に頭がぐるぐるした。食べているものの味が分からなくなって、指先がじんわり冷えていった。
思わず止まってしまった箸にママが心配そうに覗き込んだ。
「大丈夫?」
「あ、うん。大丈夫。へえ、そうなんだ。ダイゴが、」
大丈夫、その言葉を額面通りに受け取ったママは「明日、会いにいってきたら?」ニコニコと微笑んで、私にそう助言した。実際のところは、助言どころではなかったのだけれど。
食事を終えた私は、自室のベッドの上で膝を抱えなら、さっきのママの言葉を脳内で反芻していた。
彼はここ、トクサネシティに居を構えている。だから、帰ってくるのは何もおかしいことじゃない。とはいっても、彼はホウエン地方のチャンピオンとして、デボンコーポレーションの社長の息子として、忙しい日々を過ごしていたし、そうでないときは趣味の石集めに興じていたから、ここに帰ってくることはあまり頻度が高いところではないのだけれど。
彼の品がある、でも意地の悪い笑みが脳裏に映る。彼のことは嫌いだ。でも。
私は彼から離れることができない。もう二度と会いたくはない気持ちともう一度会いたい気持ちが自分の中でせめぎ合って、いつも後者が勝ってしまう。
私と彼の関係は一言では形容できない。愛や恋のようなものではなかった。お互いがお互いを縛りあって息を止め合うような関係。
堅く目を閉じる。彼に触れられた感覚を思い出す。ひどく熱く、懐かしいものだと刻まれた感覚。
明日会おう。私はそう決めてベッドに倒れこんだ。自らの肚の中に渦巻く欲望を抑えることなどできなかった。私は弱い女だった。
翌朝、柔らかな日差しが窓から差し込む、そんな最高の気候の中で目が覚めた。私の最悪な気持ちに反したようなそれにうんざりしながら、それでも気だるい体を起こすと、「ごはんできたわよー」ママの声が聞こえる。
「今日はどうするの?」
「うーん、ダイゴのところへ、行く」
「あら、そうなの。楽しんできてね」妙に楽しそうなママを尻目に食事を終えると、ダイゴのところへ行く支度を始めた。
めかさなくても良かった。別に、そんなに、それなりで。でも、やっぱりきれいな私をみせたいというおおよそ認めたくはない感情が私の中に存在した。こんなのは要らないのに、化粧を施し、お気に入りの真っ赤なワンピースを着る。大好きな服を着た私は自分で言うのもおかしな話だけれど、よく似合っていた。
太陽が南に高く昇る少し前の時間に私は家を出た。私の家からダイゴの家までの距離はそんなに遠くない。歩いて、15分ほどの距離。急がなくても良いのに、はやってしまう足を抑えて、浅い呼吸を整えた。彼に会うのに酷く緊張してしまっていた。
丁度15分経ったころ、彼の家の前に到着する。一拍おいて、呼び鈴を押す。呼び鈴が鳴った後、辺りは静寂に包まれた。妙に速い鼓動の音だけが聞こえた。
しばらく経っても家主は現れなかった。落胆する気持ちを抑えられず肩を落とす。でも、仕方のないことだった。私と彼とは特に会うという約束を取り交わしたわけではなかったから。私が、勝手に、彼の家に押しかけただけ。
また、別のときに会うかもしれないし、その機会はもう訪れないかもしれない。これで良かったのかも、私は一人でそう納得して踵を返そうとしていたときのことだった。
「アイシャかい?」
見知った声が鼓膜を震わせた。
声の主は帰り道、私の目線の先、少し離れたところにいた。もう会いたくなくて、ずっと会いたかった人。あらゆる感情が綯い交ぜになって私の脳を支配していく。
「久しぶり。家にきなよ」
彼は微笑みながら私を家へと誘った。彼は笑っていたけれど、何を考えているのか、私には断することができなかった。
ダイゴの家は前来たときと変わらず、質の良さそうな丁度品が置かれている。一方で所狭しと飾られている石の種類は、以前よりずっと増えているような気がした。
「石、増えた?」
「ああ。もちろん増えたよ。あれはね…」
そこからダイゴはしばらくの間石について語った。彼のことは嫌いだけれど、好きなことについて話しているところだけは憎めなかった。
「…すまないね。石のことになると話がつい、」
「いいよ。ダイゴのそういうところ、悪くないと思うよ」
ダイゴが出してくれたお茶をテーブルで飲みながらそう言うと、「ありがとう」私の隣に彼は座る。私の隣。近いようで遠い距離に心の中で安堵しながら、私はかねてからの質問を投げかける。
「ママが教えてくれたの」
あなたが、帰ってきたこと。
「あの人が…そうか」
「…帰ってくるなら一言いってくれれば、」
なんで教えてくれなかったの?その問いは彼によって散ることになる。
「キミに言う必要あった?」
言う必要あった?そう言われた。え、なんで。そんなことを言うの、狼狽する私を面白そうに見る彼は悪い笑みをしていた。さっき石について話していたときのものとは全く違う、何度も思い出した悪い、笑み。
「キミは」
距離を詰めたダイゴは私の背に腕を回す。項のあたりを擽られ、耳元で囁かれる。私が、私がその大勢に弱いことを彼は知っていた。突然のことに顔に熱が集中していく、心拍数があがっていく。そんなこと、されたら、
「キミは…言わなくてもここにくる。ボクのところに」
見透かされていた。そうだ、私はここにくるのだ、鳥籠に閉じ込められた鳥のように。ここから抜け出すこともできず、あなたのところへ行って、口を開けてあなたの施しを待つ。
「そうだろう?」
殆どキスしそうな距離で彼は私を見た。口をはくはくさせている私をじっと見つめて、ややあってその唇を塞いだ。ずっと私が恋焦がれていたもので、保っていた理性ががらがらと音を立てて崩れていった。
事後の体の倦怠感がずっしりと私にのしかかっている。少し、寝ていたみたいだった。時計の針は3を指していた。隣のダイゴを見ると彼もまた眠っているようだった。
あれから私と彼はセックスをした。彼に触れられる、この時をずっと私は待っていた。そして、彼に触れられることを私は望んでいた。
でも。一方で嫌悪感もそこにはあった。彼は言わなくてもここにくる、そう言っていた。あの笑みで。全ては彼の手中のうちだったのだ。ぞわぞわと負の感情が私の中で広がっていく。これらの感情を逃がすようについたため息に、寝ていたはずのダイゴが反応を示した。
「ため息をすると幸せが逃げるよ」
「起きてたんだ」
「ついさっき、ね」
彼は悪くない笑みをしていた。「体、大丈夫かい?」彼は優しい言葉をくれる。さっきまでの彼とはまるで違うような。善良な彼とそうではない彼、きっと彼にとってどっちも本物なのだろう。
「私、」
「うん?」
「私、あなたのことが嫌い」
「…知ってるよ。ボクもキミのことが嫌いだ」
ダイゴは寝台の上、裸のまま私を抱き寄せた。嫌いだと言いながらも。私もそれを拒むことはしなかった。ダイゴから伝わる体温の優しさに私は心が乱される。
「私、どこかいっちゃうかもよ」
ぽつりと言葉を発した。ダイゴに聴こえるか聴こえないかの声量で。会って再認識した。彼からいろいろな感情を渡されて私の心は溢れてしまっていた。この感情の終着点を探さなければ。これは私のダイゴに対する挑戦だった。
「行きたいなら行けばいい。ボクはキミがどこにいても、困らない。…でもキミはここから出られない。そうだろう?」
私の言葉を耳に入れたらしい彼は、しばらく思考した後そう言った。彼は「行きたければ行けば良い」と言った。敗北だった。「いて欲しい」そう言って欲しかった。どこかで期待してしまっていた。
「そっか」
ほとんど喉がカラカラだった。もう、こんどこそ潮時かもしれない。涙を溜めた目で外を見ると夕日が差していた。真っ赤な光が部屋に満ちてとてもきれいで。鳥籠の外もそうなのかしら。今まで出ることのなかった素敵な鳥籠。でももっときれいな、素晴らしい世界が待っているのだとしたら。
ああ、ほんとうに、どっかにいっちゃうかもよ。
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