悴む吐息
膝の上にふわりと落ちてきた焦茶色の枯葉を優しく摘み、空を仰げば、枝の間から漏れる暖かな陽の日にうっすらと眼を細めた。いまはすっかりと枯れ落ちて寂しくなった木々たちも、あと半月もすれば元気いっぱいに葉を揺らすのだろう。感慨に溢れた吐息は白く、肌寒さの増した空気に解けて消えていく。地面に敷かれた落ち葉も、口許を隠すマフラーも、冷たさに混じって鼻腔をくすぐる冬の匂いもそのどれもがわたしをすこし切なくさせて、けれどそれだけが原因でないこともちゃんと分かっていた。
ぼんやりと木々を仰ぐ意識の端で、始業を報せる呼鈴がなる。浅い眠りから起こされたときのような緩やかに意識が戻される感覚にほんの少しの憂鬱を携え、膝の上に置かれたままページの進んでいない擦り切れてぼろぼろの推理小説をぱたりと閉じた。園子ちゃん怒ってるだろうな。すこしキツめの、形のいい綺麗な瞳で凄まれるのは例え彼女なりの愛情表現だとしても未だぜんぜん慣れなくて、美人に見つめられるといろんな意味でどきどきして心臓に悪いし、近頃はそれに呆れの色もプラスされてちょっとだけかなしかったりする。加えて蘭ちゃんも慣れたのか、元々慣れているのか、仕方ないなぁという暖かな空気で「おかえり」と迎えてくれるようになった。その変化に喜んでいいのか申し訳なく思えばいいのか些か難しいところだけど、幼少からの幼馴染の仲に一歩踏み込めているんだと思えばやっぱり嬉しい変化だったりする。
もう一度、空を見上げて、腰掛けていたベンチから身を起こせば足元でかさりと落ち葉が鳴いた。頬を撫ぜていく冷たい風に、思いだしたようにちいさく身震いしてすこしだけ足早に校舎へと戻る。
ーーー工藤くんがいなくなってひとつの季節が終わろうとしていた。
「で、新一くんはいつ帰ってくるって?」
「うーん、連絡してるんだけど繋がらなくて...。忙しいのかも」
「なーにそんな悠長なこと言ってるのよ。いーい、蘭。今回はアヤツにかかってるって言っても過言じゃないの。とにかく、繋がるまでじゃんじゃん掛けるのよ!」
目の前にいる美人が鼻息荒くそう言えば、隣にいる美人が困ったように笑った。美人に囲まれた居心地の悪さと、じろじろと不躾にも伺うような周囲の視線になんだかいたたまれなくて、意味もないのに居住まいを質したわたしは大人しくストローを啜ることにする。蘭ちゃんの部活がお休みの日は近くのファーストフード店でぐだぐだするのがここ最近のお決まりコースなのだけど、どうやら今日の園子ちゃんはいつもとひと味もふた味も違うようだ。
「新一くんと蘭、あんたらのあまーいラブストーリーをこの園子様手ずから脚本も演出もするっていうのにその主役がいなきゃ意味ないでしょーが!」
ぷりぷりとポテトの山も鼻息で吹き飛ばせそうなほど憤慨しているらしい園子様に、蘭ちゃんが更に眉毛を垂れさせて助けを求めるようにわたしを見たけど、メーターを振り切った彼女を抑える凄技なんて持っていないのでとりあえず被害の出ないうちにポテトの山を救出することにする。
大体は工藤くんの話題から、どっかにいい男落ちてないのかしらになって、次の休日はなにしようとかこの映画みたいとかそんなどこにでもあるような日常会話を広げていくのに、どうも今日のHRで決まった文化祭の出し物が彼女の熱を沸騰させていて、いないのに主役に大抜擢された工藤くんがいないことが更に彼女をヒートアップさせているみたいだった。怒りの矛先がめちゃくちゃでちょっと理不尽なんじゃないかなんて思わなくもないけれど、それが園子ちゃんなりの励まし方で蘭ちゃんと工藤くんを合わせてあげたいという純粋な気遣いだってことは蘭ちゃんもわたしも分かっていたからそれが不快だなんてことは当然なくて、むしろそんな園子ちゃんが可愛くて、嬉しいような擽ったいようなぽわぽわと日向ぼっこをしているような暖かさにゆるゆると頬が緩んでしまう。
「なぁににやけてんのよ」
「だって、ねぇ」
へらりと締まりのない顔を目敏く見咎めた園子ちゃんがちょっと唇を尖らせたけど、友達想いの彼女のベクトルはあくまでも工藤くんと蘭ちゃんだから今回ばかりはちっとも怖くなくて、ぐつぐつと煮え滾るやかんか山火事のように使命に燃えている園子ちゃんもどうやらわたしをほっておくことに決めたようだ。宝石を磨いたような綺麗なエメラルドグリーンの光沢がふたたび蘭ちゃんに向いて、その迫力に蘭ちゃんがちょっと仰け反った。
「とにかく、蘭はなにがなんでも新一くんを捕まえて帰って来させるの!」
「ええ、でも、ほら邪魔しちゃ悪いし...」
「でももへったくれもないわよ!もう、蘭がそんなんだからあの推理オタク調子に乗ってふらふらしてんでしょーが!」
尖い牙をもみえそうな魔王園子を前にして、それでも工藤くんの重荷になりたくないからか嫌われたくないからか勇敢にも立ち向かった健気な勇者に、ドラマのラストシーンでもみているような感動さえ覚えたわたしは拍手喝采、スタンディングオーべーションを心の中で送っていたのだけど、やっぱり魔王は強かった。ダイヤモンドよりも硬い頑固さと、百獣の王さえ尻尾を巻いて逃げそうな咆哮にさすがの空手部主将もお手上げのようで素直に白旗を上げてしまった。
「なまえも!」
「ぅあはい」
「新一くんを見かけたら是が非でも引っ張って私の前に連れてくるのよ!見つけたら一発ぶん殴ってやるんだから」
「ぜ、善処します」
あれ園子ちゃん目的変わってませんか、なんていえる勇気は生憎持ち合わせていないので墓場まで大切に保存しておくことにする。彼女だったらやりかねないし、それに蘭ちゃんからは涙攻撃を受けるしでダブルパンチの工藤くんの悲惨な未来の安否を祈りつつ、だけどやっぱり我が身が可愛いわたしは見つけたらきっと献上してしまうので胸中でそっと合掌しておいた。どうかできるだけ遠くに逃げてください、でもはやめに帰ってきてあげてくださいなんて超能力者ばりのテレパシーを送ってみたけど、届いたかどうかは甚だ疑問が残る。
そもそも鈴木財閥の力を持ってしても捕まえられない彼を、お見舞い品の果物のカゴのようなメインディッシュに添えられたパセリのような平凡が裸で歩くを地で行くわたしが見つけられるわけがないし、電柱にチラシを貼ったほうがよっぽど効果的だとおもうのだけれど。とはいえ、その鈴木財閥家のお嬢様はなんでも最近世間を賑わせているらしい怪盗1412号ーーー通称キッド様の白いマントを追い掛けるのにお熱を上げているようなので彼女の天秤がどちらに傾いているかは些か怪しいところだと密かに思っていたり。
「あ、そうだなまえ」
「なあに、蘭ちゃん」
「なまえに紹介したい子がいるんだけど、良かったら家に寄っていかない?」
「きょう?」
「うん、園子は何回か会ってるんだけどそういえばなまえには合わせたことなかったから」
さながらロボットのような、首の関節とか骨とか筋肉とか変な音なってますけど大丈夫ですかなんてちょっと不安になってしまうくらいの上下運動でも園子ちゃんにはご満悦頂けたようなのでそれにはほっと胸をなでおろしつつ、寿命切れのしなしなになったポテトを齧っていたわたしに新発売のピーチシェイクを飲んでいた蘭ちゃんが言った。
たまに晩ご飯をごちそうになったり、お父さんがいないからとお菓子とかジュースとか買い込んでちょっぴり背伸びして夜更けまでぐだぐだしちゃって目の下のくまを見合わせて笑ったりとか、蘭ちゃんからの誘いは珍しいことじゃないけれど、ここ最近は沈んだ気持ちを落ち着かせるためか部活に精をだしていたみたいし、そんな彼女を汲んで主に園子ちゃんがいろいろ誘ってみたものの尽く振られつづけていたからすこし意外でかくりと首を傾ける。そこらへんのチンピラも一発でノックアウトケーオーしてしまう彼女はまだまだ向上心に溢れていらっしゃるので工藤くんではなさそうだけどはて、なんてポテトと睨めっこするわたしを迷っていると勘違いしたのか蘭ちゃんは晩ご飯も振舞ってくれると付け加えてくれた。とっくに胃袋を掴まれてしまっているわたしだけど、もとより彼女からお願いを断るつもりは1ミリグラムもなかったので素直に首を縦にふれば園子ちゃんがちょっとだけ羨ましそうな声をあげた。
お家の用事があるとかなんとかいいつつ、恋する乙女も卒倒しそうなほどぐでんぐでんに蕩けきった表情で颯爽と帰路についた園子ちゃんに、蘭ちゃんとふたり、苦い笑みを見合わせてほんのりとオレンジ色に染まった道をゆっくりと歩き出す。大方、怪盗キッド絡みなんだろうけれど、それがなんだか彼女らしくて微笑ましささえ感じてしまうほどには毒されているつもりだ。世界が誇る財閥のお嬢様なのにぜんぜん鼻にかけてなくて、さばさばしていて友達想いで、わたしにとってもそうであるように落ち込む隙さえ与えてくれない彼女は蘭ちゃんの支えとなっている。自然とペースに巻き込むのが上手い彼女だけれど、それを意図してしているんだとしたら男前すぎて惚れてしまうかもしれない。
「蘭姉ちゃん?」
「あれコナンくん」
談笑を交えつつ、人通りの疎らになった道を並んで歩いていれば後ろから掛けられた、可愛らしい声。蘭ちゃんと共にカクリと首を傾げて振り向けば、黒い額縁眼鏡が印象的な小学校低学年くらいの男の子。蘭ちゃんの名前を呼んでいたからきっと彼女の知り合いなんだろう。その証拠に、片手に抱えたサッカーボールと同じくらい洋服を泥んこカラーに染めている少年に、蘭ちゃんが「もう、またこんなに汚して!」とちょっぴり憤慨した様子で唇を尖らせている。
「...うわぁ、かわいい」
「え?」
「なまえ?」
その距離の近い親しげな押収のなかでついつい口から零れた間抜けなことばに、くるりと振り向いた瞳よっつ。二対の違う色に見詰められ、ぱちりと慌てて口元を覆ったわたしに合わせたように視線を見交わせたあと、蘭ちゃんがそうでしょうとばかりにちょっぴり得意気にほほ笑みを浮かべたのも文句なしに可愛くて、ここに工藤くんの姿がないことが悔やまれる。できればこの話題で園子ちゃんと一夜を明かしたい気分だ。工藤くん探し、ちょっとだけがんばってみようかななんてふつふつとしたやる気に拳を握っていれば、澄んだ青空のような爽やかなコバルトブルーがじぃっとこちらを観察するように伺っていてちょっとだけどきりとしてしまった。
「そのお姉ちゃんは?」
「ああ、なまえよ、みょうじなまえ。私と園子と同じクラスの友達なの」
「そうなんだ。はじめましてなまえお姉ちゃん、僕は江戸川コナン」
「はじめまして、えっと、コナンくん」
鋭い視線から一変、にっこり効果音がつきそうな人懐っこい笑顔で差しだされた小さな掌を握り返しながら、意志の強そうな青い瞳に見覚えがあるようなないような、ちょっとした既視感が脳裏をぐわりと駆け巡り、それでも拭えない異物感に消化不良で胃もたれを起こした感覚がちらり。けれど、わたしに小学生の知り合いはいないし、江戸川コナンなんて心擽る名前にも聞き覚えはないからきっと気の所為だろうと、もやりとした不快感を奥底へと捩じ込んで、蘭ちゃんとコナンくん、肩を並べて歩きだしたふたりの背中を追いかける。それにしてもご両親がミステリー小説好きなんだろうか、コナンなんてめずらしい名前どこを探してもいなさそうだ。
「そういえば蘭ちゃんが言ってた紹介したい人ってどんな人?」
「ああ、この子よこの子。江戸川コナンくん、私の弟」
「ええっ」
「なんてのは冗談だけど、新一の遠い親戚みたいでご両親が海外に行ってる間うちで預かってるの」
「工藤くんの?」
「そうそう」
阿笠博士とも遠ーい親戚みたいでね、なんて話す蘭ちゃんはなんだか嬉しそうだ。阿笠博士という人は、工藤くんのお隣に住んでいる結構凄腕の発明家らしくて、聞けば聞くほど工藤くんがわたしとはちがう次元の人に思えてくるし、工藤くんの血縁関係ってなんだか複雑そうだ。思わずぽろりと口から出していたみたいで、間に挟まれたコナンくんがハハハと苦い笑いをしている。
「へぇ、たしか工藤くんのお父さんって推理小説家だったよね」
「そうよ。ちなみにお母さんは大女優!」
「え、女優さん?なるほど。だから工藤くん綺麗なのか。なんか、コナンくんも大人になったらすごい人になりそうだね」
「コナンくんってすごく頭いいし、新一の真似ばっかりして探偵ごっことかしてるし、なんか警察の人も一目置いてるし、将来はきっと新一を超える有名な名探偵になるかもね」
「ふふ、じゃあ今のうちにサイン貰っとこうかなぁ」
「ええっ、で、でも、ほら僕まだ小学生だし...」
「小学生だからだよ、コナンくん。まだ若いんだし、これからどんどん伸びるんだから謙遜しちゃだめ」
「なんかなまえ、おばあちゃんみたい」
「蘭ちゃんひどい」
ちいさく唇を尖らせたわたしに、蘭ちゃんが笑った。見下ろせば、口元を両手で隠したコナンくんからも控えめな吐息が漏れていて、「もう、ふたりして!」なんて唇がますます突き出る一方で、胸中でそっと安堵する。自然と声を上げて笑う蘭ちゃんを見るのはいつぶりだろうか。もちろん、わたしと園子ちゃんの前でも笑みはみせていたが、心ここに在らず、ぼんやりとして話が耳に届いていない時もあったし、ちょっぴり硬い笑みで、気を使わせないように無理をしていたのはわたしも園子ちゃんも気付いていたし、それがとても歯痒かったのだ。けれど、いま、蘭ちゃんは楽しそうに笑っていて、わたしの口角もゆるゆると弧を描く。それもきっとコナンくんのおかげなんだろう。蘭ちゃんは弟だと冗談で言ったけれど、弟のように可愛がっているのはこの短時間でも充分すぎるほど伝わったし、なにより探偵を目指しているらしいコナンくんがほんのり工藤くんを匂わせて寂しさが薄れているのかもしれない。ああ、そうだ、ちょっと工藤くんに似ているんだなんてこんどはわたしから不躾な視線を送れば、気づいたコナンくんの「なあに、なまえお姉ちゃん」とかくりと小首を傾げる仕草の破壊力といったら。目に入れても痛くないってこういうことかなんてしみじみと感じながらもへにゃりと笑って首を振る。
「んーん、なんでもないの。ただ、んーそうだなぁ」
「なに、」
空を見上げれば、もうすっかり綺麗な紅色。突然立ち止まったわたしに合わせて、足を止めたコナンくんが怪訝な色を浮かべて見上げている。疑念の孕んだコバルトブルーの目線に合うようにしゃがんだわたしに、コナンくんがきょとりと瞬いた。
「コナンくんにお礼言わなきゃなって」
「へ?」
「ありがとう」
ぽかんとしたコナンくんにへらりと笑う。ちょっぴり悔しいような気もするけど、蘭ちゃんにとってそれくらいコナンくんの存在が大きいということだろう。「もー、ふたりとも置いてくよ!」3メートルほど離れた電柱の下でわたしたちが居ないことに気づいた蘭ちゃんがぷりぷりと仁王立ちで目くじらを立てていて、「いまいく!」片手を口許に、彼女の鉄拳が飛んでくる前にと立ち上がる。未だ、ぽかりと口を大きく空けてわたしを目で追っていたコナンくんにそっと手を差し出せば、さらにぽかんとされてしまった。
「行こう。蘭ちゃんって怒ると怖いんだよ」
「う、ん。...知ってる」
そうか、蘭ちゃんはもう技量を発揮しているのかなんてぎこちなく重ねられたちいさな手をやんわりと握り返して彼の歩幅に合わせてゆっくりと歩きだす。弟がいたらこんな感じだろうか。戸惑ったように握り返された暖かな掌が少しだけ擽ったかった。