拝啓、お父さん。わたしは元気です。

「犯人は───みょうじさん、貴方だ!」

突きつけられた指先に、ひくりと喉が痙攣する。

思えば、わたしの人生そこそこに不運の連続だった。むかしから変な人にはよく絡まれるし、長蛇の列に並んでまで買い求めた人気商品がわたしの前で売り切れるのなんて当たり前。銀行に行こうものなら高確率で強盗とエンカウントするわ、ヤクザの取り立てが家に押しかけて来ることなんてしょっちゅうだわ。大きなイベント事の日には風邪で寝込むし、参加できると思ったら外は雷雨。

みょうじなまえ、齢18歳。とうとう犯罪者の仲間入りをするようです。

「ちょっと!お父さん!証拠もないのに⋯っ!」

鋭い眼差しにぐうの音もでず、ただ立ち竦むだけのわたしの目前に突然、艶やかな髪がぶわりと拡がった。高校生くらいだろう、堂々たるその背中にうっかり感動してしまいそうになりながらも弁明のチャンスに何度も首肯する。そうです、お父さん。わたしは無実です。しかし、そうは問屋が卸さないようだ。

「いいか、蘭。アリバイが無いのは彼女だけだ」
「でも⋯っ」

食い下がる娘を前に、彼は静かに人差し指を上に立てみせた。そのキリリとした真剣な眼差しに、周囲からは息を呑む音が聴こえる。当初の騒々しさとは一変、完全に場の空気を支配した彼───毛利小五郎は全員の注目が向いているのを確認すると再度鋭い眼差しを向けるのだ。

「酒井さんが死亡したのは午前3時から午前4時の間。早朝から温泉に向かう酒井さんの姿を、清掃員の和田さんが目撃している。そして、その20分後に温泉に向かう貴方の姿もしっかりと目撃されているんですよ」

これでも言い逃れするつもりか。そう自信たっぷりな眼差しに、「そ、そんな⋯」目の前の少女が愕然と慄く。ふらりと崩れた唯一の砦に為す術もなく、忽然と開けた視界に映るのは各所から突き刺さる軽蔑を含んだ畏怖の色。とはいえ困ったことに、こちらとしては全く身に覚えが無いのである。

「確かに、温泉には行きましたけど⋯」

確かにその時間、温泉には入った。しかし、くゆる煙の向こう側には女性の死体どころか、人っ子ひとり見当たらなかったのだ。まさか、福引きで当てた温泉旅行のチケットがこんな事態を招くとは思わず、突然のしっぺ返しにぐらりと気が遠くなる。

「でも、わたしじゃ⋯」

わたしじゃない。だって誰もいなかった。そんな嘘くさい反論が果たして通用するのかと、逡巡する暇もないのにぐっと眉が垂れ下がる。もごもごと口いっぱいに餅を詰め込んだような物言いが、尻すぼみに消えていくのは向けられた眼差しがあまりにも冷たかったからだ。

「それでは──」数秒の睨み合いの末、先に逸らしたのはあちらだった。ふぅと重い吐息の後、おもむろに懐に手を差し入れる。「──これに見覚えは?」そう言って、無骨な指先が引っ張り出したのは、ビニールに密閉された銀色の刃物だった。

「包丁⋯?」

ずいっと突き付けられた刃物にぱちりと瞼を持ち上げる。どこからどう見てもどこにでもある、家庭用の包丁だ。見覚えと言われましても。まじまじと顔を近づけてぐるりと思考を巡らせる。

──いや、あったわ。

「それなら普通に落ちてましたけど」
「落ちてた?」
「はい」
「落とした、の間違いでは?」
「はい?」

妙に確信じみた声色に、思わず眉が吊り上がる。いやいやハンカチじゃあるまいし。この世のどこにうっかり刃物を落とす人がいるというのか。いや、たしかに落ちてはいたんだけども。

「わたしは、拾って、届けただけです」

女湯の前に落ちていたのを、ただ厨房に届けただけだ。女将さんだって普通にお礼を言ってくれたし、朝食のヨーグルトもちょっとだけ量が多かった。

そうはっきりと告げたのに、けれど、毛利さんが勿体ぶるように指を振る。

「チッチッチ。嘘はいかんですよ。なんせこの包丁には被害者の血痕と、貴方の指紋がべったりと付着しているんですからね!」

まるで高笑いでも聞こえてきそうなほど。得意気に突き出された胸に、わたしは暫し唖然とした。
いやいやお父さん。わたし触れたって言いましたよね??

「アリバイもない。凶器に指紋も付いている。おまけに、そんな朝早くから温泉に入っていたのは貴方だけなんですよ!」

ぽかんと呆けるわたしを置いて、どんどんと話が進んでいく。そりゃあ旅行に来たんだし、温泉くらい入るでしょ。わざと人のいなそうな時間帯を狙ったというのに、まさかそれが仇となるなんて。

ちらりと周囲を窺えば、青ざめた表情がいくつも並んでいた。いつの間にかまるで「自分は関係ありません」といわんばかりに、綺麗に距離を取られている。
先ほど庇ってくれた少女でさえどこか怯えた表情を浮かべていて、気付けばあっという間に外堀が埋まっていた。

「⋯では。署までご同行願えますかな?」

遠い目をしているうちに、手首に金属が嵌められる。人生初の手錠は見た目どおり冷たくて固くて、すこし重い。
労わるように背中に添えられた手のひらが、無情にも歩行を促すように押していく。

「殺人の動機は?」
「動機もなにも⋯そもそも殺してませんし。というか知らない人ですし⋯」

完全に、犯人扱いである。帽子の鍔から覗く鋭い眼差しに、なんだか無性にやるせなくなって少々投げやり気味に答えた。当然、カツ丼でますか?なんて聞ける雰囲気でも気分でもない。

そういえばパトカーに乗るなんて、幼稚園の遠足で崖に落っこちて以来かも。幸い軽傷で済んだのに、お父さんにあっちこっちの病院に連れ回されたんだっけ。そんな事をぼんやりと考えていれば、不意に、高い子供の声が響いた。

「あっれれ〜〜?おかしいぞ〜〜」

思わず、こちらが首を傾げたくなるようなテンションに、わたしと警部さんは揃って足を止めた。振り返れば、低学年くらいだろう子供が、爪先を上げて脱衣所の棚に置かれた籠を覗き込んでいる。

「ねぇねぇ。酒井さんって、本当に温泉に入るつもりだったのかな?」
「あっ!ちょっと!ダメよ、コナンくん!」
「だって見てよ、蘭姉ちゃん!この人、タオル一枚も持ってきてないんだよ!⋯普通、温泉に入るならタオルくらい持ってくるよね?」

覗き込んでいる籠の中身は、きっと被害者の荷物だろう。不思議そうに小首を傾げた少年に釣られるように、全員の視線が自然と籠の中へ向く。

「だからなんだってんだ。んなもん、持ってくるのを忘れただけだろ」

捜査の邪魔だ、あっち行ってろ。シッシッと、猫を追い払うように指先を振った毛利さんに、けれど、少年は尚もめげずに食い下がる。

「でもさ、あの死体だって変だよ!」
「あぁ?」
「身体は濡れてるのに、髪はほとんど濡れてないんだもん」
「ったく!髪なんざ洗わなかっただけだろ!」
「でも、毛先は濡れてるよ?それなのに、根元だけが濡れてないのはおかしいよね?」
「知らねぇよ!!大方、頭にタオルでも巻いて入ったってことだろーが!」
「じゃあ、そのタオルはどこにあるの?」

少年の言葉に、ざわりと空気が変わる。ついさっきまで、流暢に回っていた毛利さんの舌が遂に止まった。てっきり、このまま連行コースかと思ったけれど、一旦カツ丼は保留らしい。
そもそもわたしからすれば、おかしいのは事件よりも手錠が嵌められているこの現状の方だけど。とはいえ口を挟めるような空気ではなさそうなので、ひとまず縋るような眼差しで少年を見つめる。少年よ、頑張って。

「おい!確認しろ!」
「見当たりません!」
「そっちはどうだ?!」
「脱衣所にもありません!」

警部さんの指示に、警官が慌ただしく駆け回る。あっちへそっちへ。棚に並んだ全ての籠を覗き込み、浴場の桶や椅子を代わる代わるひっくり返しては各々首を振ってみせた。まさか、たかがタオルの行方がこんな大騒ぎになるなんて。

「浴場及び脱衣所を隅々まで探しましたが、何処にもありませんでした!」
「ね、変でしょ?」
「ばーか!刺した時に血が着いたんだよ!血が!とっくに犯人が処分したに決まってんだろ!⋯ですよね?みょうじさん」
「⋯え?」

突然、こちらへ向いた矛先に思わずきょとりと瞬いた。排水溝に腕を突っ込みはじめた警官に気を取られていたからだ。聞いていませんでしたとも言えず、首を傾げたわたしに毛利さんがわしゃりと前髪を掻き潰す。

「ですから⋯酒井さんを刺した際、タオルに血が付いてしまった事に気付いた貴方はそのまま自分の部屋に持ち帰った。違いますか?」
「違います。」
「んえ?!」

即答すれば、毛利さんがズルっと足を滑らせたように体勢を崩した。

「部屋と荷物を改めさせて貰っても?」
「あ、はい。どうぞ」

警部さんに問われ、あっさりと首肯する。バタバタと忙しなく脱衣所から出ていった警官をぼんやりと見送っていれば、不意に、服の裾をくいっと引かれた。「ねぇ、お姉さん」──足元から響いた声に、おもむろに視線を下げる。

「女湯に来た時、なにかおかしいなって思うことなかった?」
「ん?おかしいって?」
「たとえば、物音が聞こえたとか声が聞こえたとか。あとは──荷物なんて最初から無かったとか」
「んー。どうだったかな〜」

少年の言葉に、記憶をなぞるように逡巡する。手錠のせいで腕を組むことさえも出来ないのがもどかしい。

「荷物は⋯⋯無かったかな」
「ほんとう?」
「うん。スリッパも無かったし」
「他になにか気付いたことある?」
「他に?え〜っと⋯あ、そういえば。シャワーの音がしてたかな」
「シャワーの音?」
「うん。男湯から。」

──まあ、でも。清掃中の看板立ってたし、掃除してたのかも。

大した情報じゃなくてごめんね。そんな気持ちだったのに、なにやら深刻そうな表情で少年は顎に指を添えていた。「⋯やっぱり⋯⋯」ぽつりと聞こえたその声に、わたしは首を傾げたまま。お父さんの真似かな?可愛いね。そう内心でにこにこしながら、唯一話を聞いてくれそうな少年を前に、一応、真面目な顔を作っておく。

「包丁は?どんな状態で置いてあった?」
「置いて⋯?いや、普通に女湯の前に落ちてたよ」
「床に?」
「うん。床に。」
「その時、血は付いてなかった?」
「なかったよ。さすがに付いてたら拾わないかな」
「なんで拾ったの?」
「え?⋯落ちてたから?」

危ないし。困ってるかもしれないし。そう答えれば少年が突然、じとっとした目を向けてきた。

「⋯⋯お姉さんって、不用心だね」
「急にひどいね??」

まさかの手のひら返しに、わたしはちょっぴり愕然とした。馬鹿でしょ。って目が言っている。こっちは君の質問に、わりと真摯に付き合ってあげたんですけど?

「お姉さん、ありがとう!」──満面の笑みだけを残して、少年はあっさりと踵を返した。恐らく、満足したのだろう。それをなんとも微妙な表情で見送る。可愛いからってなんでも許されるわけじゃないんだぞ。いや、許すけど。

そうこうしている間に、事態はいつの間にか急変した。はひぃと言うなんとも気の抜けた声と共に、突然、毛利さんが倒れたのだ。「来たのかね?!毛利くん!」「眠りの小五郎だ!」──あれだけわたしを疑っていたのに、並べ立てる推理は完全に、別の人を指していて。

ようやく外れた手錠に、わたしはそっと肩を下ろしたのだった。







やっと解放された手首を労わるように揉みほぐす。鞄から引っ張りだした携帯の画面には、どこから漏洩したのか迷惑メールの通知に紛れて、お父さんの名前がぽつんとあった。

──「げんきか。いつ、かえってこれるんだ。」

漢字変換もされていない、無愛想な文字。「今週末には帰れそうです」──そう打ち込んでから、ちょっとだけ悩んだあと、ささっと追加で文字を打ち込む。

「⋯⋯カツ丼、食べ損ねたなぁ」

そう小さくぼやいて、パチンっと画面を閉じた。せっかくだし、ご当地の駅弁でも買って帰ろうかな。そんな事を思いながら鞄を漁る。

「あ、あれ⋯??」

新幹線のチケットが、ない。たしかに財布に入れたはずなのに、あるのは数枚のお札とあとは友人たちに託されたお土産リストの紙切れだけ。そんなことってある?地面にぶちまけた鞄の中身を眺めながらがっくりと項垂れる。

「ねぇ、これお姉さんの?」
「え?」

ふと、頭上から落ちた声にわたしはゆるゆると顔を持ち上げた。ひらひらと目前で揺れる薄い紙切れ。お目当てのチケットにわたしはがばりと飛び付くように身を起こす。

「少年!それ何処で見つけたの?!」
「え。そこに落ちてたけど」
「君、ありがとう!!」

今度こそ、わたしは飛び付いた。さっきの事件の時といいこのチケットの事といい、この少年は、幸運の女神ならぬラッキーボーイに違いない。ちょっと変な少年だな、なんて思ってごめんね!腕の中でもごもごと唸る少年に、心の中で謝っておく。

「じゃあね!本当にありがとう!」
「うん。もう無くさないようにね」

からりと笑って、踵を返す。まさかこの数時間後、帰りの新幹線でばったり再会する事になるなんて、この時のわたしは思いもしていなかった。


───追伸。ちなみに、 ちょっと旅行先で殺人事件の犯人にされかけたけど、わたしは元気です。

prev   INDEX   next