エイスに蹂躙される 前編
それは、一瞬のことだった。背後から忍び寄る気配に気付いた時には遅く、バチリッと項に走った痛みに弛緩した身体は呆気なく地へ沈んでいく。「おっと、」前方へ傾いた身体は、屈強な男の腕に抱えられた。だらりと垂れ下がった両腕と、髪の隙間から覗く固く閉ざされた瞼に、男の口角が三日月のように醜く歪む。「···悪いねぇ」上唇をぺろりと舐めた男は、一瞬のうちに姿を消した。硬いコンクリートに残されたのは、コンビニ袋に入った溶けかけのアイスだけだった。
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咽ぶような咆哮と、けたたましい狂騒が沈んだ意識をゆるりと掘り起こす。どこか靄のかかったような喧騒が徐々に脳を揺さぶり、人の悲鳴をはっきりと知覚した瞬間、なまえはハッと瞼を持ち上げた。むわりと噎せ返るような鉄の臭いと、下卑た野太い哄笑が、なまえの感覚を刺激する。けれど、視界にうつるのは深々とした夜のような暗闇で、なまえは視界を布で覆われていることを知覚した。両手首は後ろ手に縛られているようで、冷たいコンクリートの感覚すらわからなくなる程、長時間放置されていたようだった。
「おっ。やっとお目覚めか、弟くん」
グイッと乱暴に襟首を引かれたなまえの上半身が、コンクリートから剥がされた。突如、開けた視界に、眩むほどの明かりが飛び込んでなまえは薄らと目を細める。ぼんやりとした視界の中でも、赤い唇が厭らしく弧を描いているのははっきりとわかった。
「誰だよ、お前···っ!」
「俺が、誰だかって?ギャハハッ、そりゃあ知らねぇよなー!弟くんはよぉ!」
「···さっきから弟、弟って···何言って···──っ!」
ハッと口を噤んだなまえを、ドレッドヘアーの男はにったりと目尻を歪めて見下ろした。「まさか、お前、カナメになにかしたんじゃ···っ!」そう、食いかかったなまえの頬を分厚い掌がガシリと掴んだ。頬骨の軋む音が耳の裏まで届くような感覚に眉を歪めたなまえの、鼻先の触れる距離にゆっくりと男は顔を近付ける。膝を折った男の表情に、浮かんでいた笑みは消えていた。凍てつくような深い憤りの色が全面に押し出された瞳を直視したなまえの背筋からツーッと冷えた汗が滴れる。
「カナメくんになにかしたかだってぇ···?ハッ!違うな!アイツが!!この、俺様に!舐めた真似しやがったんだっ!!」
激情した男が、空いている手を振りかざした。たったそれだけの動作だ。それだけの動作だった筈なのに、スッパリと機械で切ったようにコンクリートの床が切断されたのだ。後、数ミリでも違えば、なまえも同じように身体が別れていただろう。「···テメェにはなんの罪もねぇんだが、アイツの絶望した顔を見なきゃこの俺の気がすまねぇんだよぉ」言葉を失い、瞠目するなまえの耳殻に、ぐっと更に顔を寄せた男の熱い吐息が掛かった。
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「へぇ、なまえちゃんね。15歳っつーと、まだ中学生ってとこか?」
ゴホゴホと、身体を丸めて床に這い蹲るなまえを見下ろす男の手には財布が握られていた。長方形の黒い財布はなまえの物だ。少ない紙幣には目もくれず、個人情報だけを抜き取った男はヒラヒラと見せ付けるように顔の前で振ると、まるでゴミのようにぞんざいに放る。床に落ちていくそれらを横目に、なまえは床に伏せながら男を射るように睨んだ。
「おいおい、聞いてんだろーが、よっ!」
「──ぅぐっ···!」
再び襲った鳩尾を抉るような蹴りに、なまえの身体は簡単に宙を舞う。受け身も取れず、ごろごろとコンクリートを滑る身体を男は執拗に腹ばかりを狙って嬲り続けた。胃の中のものを全て吐き出したなまえの口端からは胃液と唾液が伝い落ち、床の至る所に飛び散っている。内臓が、焼けるように熱かった。チカチカと点滅する視界に、男の下卑た笑みと周囲の嘲た双眼がうつり、痛みとカナメの存在だけがなまえの朦朧とする意識を辛うじて繋いでいた。
男の興が削げた頃には、なまえは目を開ける気力すらなくなっていた。脱力するなまえを冷めた視線で見下ろした男は、チッとひとつ舌を打つ。「あーあ、やり過ぎちまったじゃねぇの」後頭部を掻いて、突然、踵を返した男に周囲の人間がざわりと響めいた。
「えっ!
「あ"ん?」
「あ、いえ、その!コレクションが···」
「そりゃあ、もちろん頂くぜ。···別の方法で、たっぷりと可愛がった後でな」
ぺろりと舌なめずりしたワンに、彼の下劣な思考を汲み取った男はぎょっと目を見開いた。カナメに打撃を与えるには暴力より効果的だとワンは思っていたし、なにより真っ直ぐに自分を睨み続けるなまえの折れない精神をズタズタに壊したくなったのだ。けれど、意識が失せた人間を相手にする趣味はなく回復するまでは放っておいても問題はないだろうとワンは倉庫を後にする。
数人の仲間を引き連れて遠のいた男の気配に、なまえは重い瞼をこじ開けた。まだ数人の気配はあったが、男に指示でも受けているのか遠巻きに見ているだけのようでヒューヒューと荒い呼吸を整える。呼吸をする度に、身体中が悲鳴を上げていた。痛みに呻きながら視線を探れば、埃っぽい此処はどうやら倉庫のようで、遠くの方で海のさざめきが聴こえる。その音に交じって、歯の隙間から漏らすような微かなうめき声が聞こえた。痛みに耐えて首を捻れば、遠くはない距離に横たわる黒い学ランが見えた。すこし太めの、金髪の男の両手にはぐるぐると包帯が巻かれ、真っ赤な鮮血が滲んでいる。本来の長さよりも随分と短いその指先に、男の状態を瞬時に汲み取ったなまえは大きく目を見開いた。
「···あ、あの!」
もぞもぞと、痛む身体を動かして、周囲に気取られない程度に男ににじり寄ったなまえは声を潜めて呼びかける。男は啜り泣いていたようだった。ビクリと大きな身体を揺らしてなまえを向いたその顔は涙と鼻水で濡れていて、その顔色は血が足りていないのか蒼白い。唾液と胃液、噛んでしまった口腔から洩れた血が唇を濡らすなまえも似たようなものだろうが彼に比べると余程マシに思えた。
大丈夫ですか。そう声を掛けようとしたなまえは、けれどキュッと口を結んだ。彼の泣き腫らした瞳はどう見たって大丈夫とは言い難かったからだ。きっと、彼もカナメの関係者として拉致られたのだろう。そう、当たりをつけたなまえは男の濡れた瞳を真っ直ぐに見つめる。
「きっと、カナメが助けに来ます」
「···カナメが?」
「はい。でも、もし逃げる隙があれば俺の事は構わず全力で走ってください。俺も、できるだけ隙を作りますから」
拘束のされてない彼ならば、チャンスさえあれば逃げだすことも可能だろうとなまえは思った。もしもの時は、最悪、暴れてでも注意を引き付ければいいし彼が警察にでも駆け込んでくれれば御の字だ。なにより、身内のなまえだけならいざ知らず、関係の無い人巻き込んだ上、非道な行為をする彼らの卑怯なやり方になまえはふつふつとした怒りを感じていた。
「···な、なんでそこまで···」
「だって、カナメの友達ですよね?」
戸惑った男に、なまえはきょとりと瞬いた。巻き込まれた彼を優先するのは当然だと思っているし、素人目から見ても彼の様態は深刻だ。痛みからか脂汗の滲んだ男の額に、眉を寄せたなまえを、男──篠塚は瞠目して見つめる。
「···カナメの弟だっけ」
「?はい」
そっと床に視線を落とした篠塚の、唐突な、独り言のような呟きになまえは脳裏に疑問を抱きながらもゆるりと首肯する。
「似てるな、お前ら」
「···そうですか?」
「ああ、すげーそっくり」
そう、眉を垂れた篠塚は目尻を緩めて、泣きそうな顔でくしゃりと笑った。それは胸を打たれるような痛々しい表情だったが、何処と無く落ち着いた様子になまえはそっと胸を撫で下ろす。
「似てるって言われたの、はじめてです」
「そうなのか?」
「俺、母親似なんで」
「てことは、カナメは父親似?いや、けど、似てるよ。顔っていうより、雰囲気っつーか···もっとこう···」
「べつに、無理しなくても──」
「無理じゃねーって···!」
ガバッという音が聞こえそうなほど、勢いよく身を乗り出した彼になまえは僅かにぎょっとした。「しーっ···!聞こえるから···!」声を潜めて咎めたなまえに、篠塚は慌てて後方を振り返る。倉庫の扉に数人、固まって談笑している連中はなまえ達の様子など視界に入れてすらいなかった。「···ぜんぜん見てねぇじゃん」ほっとしているのか呆れているのか、肩を竦めた彼になまえの口から思わず笑いがこぼれた。声を抑えて、肩を震わすなまえを篠塚は仏頂面で眺めていたが、次第に気の抜けた笑いが飛びだしていく。暫く、互いに無音で肩を震わせていた。そうして合わさった双眼には、淡い色が宿っていた。
──いまなら、いける。ニヤリと口角を持ち上げた篠塚に、なまえも薄らと笑みを浮かべる。完全に、痛みが引いた訳ではなかった。内蔵を圧迫するようなジクジクとした痛みが断続的に襲っていたがそれでもいくらかマシだったし、動かせないほどではなかった。折角の活路を不意にする訳にもいかず、興奮から痛みが遠のいていく感覚もする。
チャンスは、1度きりだ。もし失敗すれば、拘束も監視もより厳しくなるだろう。彼もそれを理解しているのか、ゴクリと唾液を嚥下する音がなまえの耳に届いた。なまえは、じりじりとできるだけ篠塚の傍ににじり寄った。立ち上がる手助けをして貰えるようにだった。「···いち、にの、さんでいくぞ」声を潜めた篠塚に、なまえは静かに頷いた。
「──いち、にの、さん···っ!」
コンクリートとなまえの身体の間に腕を入れた篠塚は、グイッとなまえを後方に引いた。しっかりと床を踏み締めたなまえは、雄叫びを上げて扉に向かっていく彼の背中を追いかける。突然の暴挙に、虚をつかれた連中は狼狽していた。我武者羅に腕を振るう篠塚よって、転がされた身体を飛び越えながら、なまえは必死に足を動かした。
篠塚が、両開きの扉の前で立ち止まった。伸ばされる手を掻い潜り、蹴り付けながらなまえも彼の傍に走り寄る。両指を切り落とされた今の彼に、固く閉ざされた扉を開けるのは難しかった。瞬時に理解したなまえは、くるりと身体を反転し、後ろ手に取っ手を掴んだ。必死な形相で、迫ってくる連中を睨みつけながらなまえは扉をスライドさせていく。
「おい···っ!お前もはやく──」
「行って!!!」
僅かな隙間に身体を捩じ込んだ篠塚は、焦燥を浮かべてなまえを振り返った。しかし、なまえは扉の前にピタリと背をつけたまま動かなかった。銃を構え、にじり寄ってくる連中に額から汗を伝わせながらなまえは声を張り上げる。
「いいから行けってばっ!!!」
迷うように視線をさ迷わせていた篠塚は、けれどその一言で、ぐっと唇を噛んで振り切るように踵を返す。砂利を踏み締める音が、徐々に遠ざかっていくのを耳に入れながら、なまえは薄らと口角を持ち上げた。
「あーあ。お前ら、リーダーから怒られるんじゃない?」
「···っ、ンの野郎···っ!!」
ピキリと青筋を浮かべ、殴りかかってきた男の拳になまえは歯を食いしばる。ガツンッと米神を抉った銃のグリップに、なまえの視界がぐわんと振れた。米神を伝い、生温い液体が頬を滑るのを感覚しながらも、なまえは不敵に頬を持ち上げて男たちを見上げる。
「ガキが···っ!調子乗ってんじゃねーぞっ!!」
「ぐっ···!」
胸ぐらを掴み上げた男が、なまえの腹に拳を沈めた。背を付けていた扉が、ガタガタと無機質な音を響かせる。ゴホゴホと咳き込むなまえに構わず、男は喉元を圧迫するように扉に押し付けると、般若のような厳つい形相を鼻先に近づけた。苦しさと不快感から、なまえの眉間が自然と深まる。
「ハッ!エイスから本気で逃げられると思ってんのか?」
口端を上げた男に、なまえの眉がピクリと動いた。エイス。それが組織の名前だろうか。なまえには聞き覚えのない名前だったが、男の様子を見る限り余程大きな組織なのかもしれない。それでも、先に彼が警察に駆け込んでさえくれれば此方の勝ちだと、鼻先にある男の瞳を睨んでいたなまえの背後の扉が、突然、ガラリと開いた。支えを失った身体は、胸倉を掴む男と共に後方へと倒れていく。驚愕に目を見開いたなまえの背中がぽすりと硬いなにかに当たった。恐る恐る見上げれば、蛇のような顔つきのドレッドヘアーの男とかち合った。
「あれ?もしかしてお取り込み中だった?」
うっそりと笑った男の背後には、右目に眼帯を嵌めた男が仕えるように立っていた。その男の小脇に抱えられた、見覚えのある金髪になまえの瞳がみるみると大きく見開いていく。まさか、そんな。俄には信じ難い光景に、男の胸に寄りかかったままなまえは唖然とした。まるで縫い付けられたように篠塚から視線を外さないなまえの、米神から伝う真っ赤な鮮血をワンは人差し指で拭うと、長い舌先でぺろりと舐める。
「それじゃあ、第二ラウンドといきますかねぇ」
赤く色付いた唇を、歪にしならせたワンの言葉さえ、最早なまえには届いていなかった。