死に隣る

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三吉三 / 鶴 / ほの暗い

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 こんこん、と扉を叩く軽い音に、大谷は体を強ばらせた。
 天下分け目の戦より敗走の憂き目にあって幾日経ったか、西軍総大将とその軍師がこうして山中の猟師小屋に潜んでいることは、誰も知らない筈のことであった。
 徳川と戦い、その命尽きようとしていた三成をここまで運んできたのは大谷である。骨の一片も渡してなるものかと、自身も傷を負いながら、それでも無理を押して三成の遺骸を掠め取ってきたのだ。実際、大谷自身も思いもよらぬことであった――あれほどの傷を受けて、三成が生きているなどとは。
 骨は砕け、肉は膿み、肌を血に染めつつも、三成は生きていた。常から白い顔色を、より一層死人に近い色にして、それでも生きて、いた。
 短い先をこの戦でさらに縮め、いっそこのまま骸と心中というのも悪くはないナと思っていた大谷だったが、そうとわかれば堪らず涙を溢した。
 元はといえば、三成を生かすために始めた戦である。戦をせねば三成の心は死んでいた。しかし、戦をすれば体が死ぬかもしれず、大谷にはせめて三成が本懐を遂げられるようにと策を練ることしか出来なかった。
 その策さえ、三成を勝たせてやることは出来なかったが。
 たとい快復したとしても、この分では三成が復讐を遂げられることは万に一にもないかもしれぬ。元より、刀を握れるかどうかも怪しい怪我だ。復讐を遂げる前に大谷が死ねば、三成を支える者さえいなくなる。
 本当に、三成の為を思うのならば、一思いに殺してやるべきなのかもしれぬ。まだ、己が生きているうちに。彼の心が死なぬうちに。
 けれど、大谷には出来なかった。
 この何日か、幾度も引きつる腕を叱咤し、包帯にまみれた指を三成の白い首へと回した。細い首は両手を回せば指があまる程で、そのまま体重をかけさえすれば、すぐにぽきりと折れてしまいそうに見えた。
 実際、三成を殺すことは易いことであろう。弱りきった三成は意識があるかどうかもわからぬ様子で、抵抗どころか殺気も見せない。そんな男の命を奪うことは、赤子の手をひねるより容易かった。けれども、男の首に手をかけた瞬間から止めどなく溢れだす涙を止めることは――どうしても、出来なかったのだ。
 三成の体の傍に身を投げ出して大谷は声を上げて泣いた。生きたい、生きたい、生きたい! 捨てた筈の生への妄執が病身を焼き焦がす。この男と生きたい。強く強く願うばかりに、その思いで死んでしまいそうな程、三成との未来をただ望む。
 片方だけでは意味がない。二人一緒に生きられねば、彼岸も此岸も同じことだ。
 二人、共に行くのなら、地獄も怖くはあるまいが、極楽も地獄もあると決まったわけでなし、死んでそれっきりになるのが大谷には何より恐ろしい。この男の手を離しては、もはや狂うしかないと思った。
 己から棄てた筈の神仏にまで、大谷はすがった。

 再び、こんこん、と軽い音が扉を叩く。大谷は息を殺し、気配を殺し、じりじりと三成を隠すよう体を動かす。
 東軍の者共が、三成を探しにきやったか。渡さぬ、ワタサヌ、たとえ骨だけになったとしても、三成だけは渡すものか。
 きぃ、と錆びた蝶番がきしんだ音を立てる。薄く開いた扉の隙間から、大分傾いた日差しと共に、するりと一羽の鳥があばら屋の中へと滑り入る。大谷はその姿を認めて、乾いた声でカラカラと笑った。道理で、この小屋がわかった訳だ。
「お久しぶりです、大谷さん」
 白い襟を翻し、常に変わらぬ清らかさで幼い巫覡はにこりと笑った。
「ヒヒッ、徳川に言われてわれらを迎えにでも来たか」
 ご苦労なことよ、と笑ってやれば、違いますよ、と頬を膨らませる。そのあまりの無邪気さに、本当にわれはこの娘と敵として相見えたのかと、それさえも曖昧になる。他人の生と死の間をすり抜けて、それでもまだこんな眸が出来るとは。
 まるで初めて船上であった日のように、敵意も不審も蔑みさえもないガラスのような瞳で、ただ目前にあるものをそのままとらえているような子どもの瞳で、鶴姫は大谷を見た。
「家康さんはここにあなた方がいることは知りません。捜してはいるみたいですけど」
「そうか、ソウカ。して、ぬしはわれにワザワザそれを教えにきやったか」
「悪い口! まったく、人の話はちゃんと最後まで聞くものです」
 ぷんぷんと怒って見せていた少女が、ふと顔を引き締めて、三成さんは、と言う。
「三成さんの、容態はどうですか」
 何もかも見えているくせに、たまに何も見えてないような振りをして、そうして喋るところが嫌いだった。それは今も変わっていないらしい。ヒャヒャッ、と大谷は引きつれた笑い声をあげる。
「聞かずとも、ぬしには見えておるのであろ」
 傍痛いわ、とそう言えば、それもそうですね、と鶴姫は静かに頷いた。
「では、大谷さん。私と死んでくれる気はありますか」
 なんでもないような顔で言い、なんでもないような顔でにこりと笑う。昨日今日の話ではあるまい、と大谷は思った。おそらく、この世に産まれたその日から、見えて、いるのだろう――己の死の瞬間が。
 先見の才も見える未来によりけりよナ、そう思いながら、大谷はわざとらしく首を傾げた。
「ハテ、ぬしが何を言うておるのかさっぱりわからぬ」
「もう! ふざけないで下さい!」
 また怒る。くるくると表情が変わるのは、まるで普通の少女である。それともこれもまた、振りか。
「ヒヒヒ、北条の忍は一緒に死んではくれぬのか」
 随分執心だったではないか、とからかえば、そういう方ではないのです、とツンとすまして返してくる。
「それに宵闇の羽の方は……」
 言葉を切って、ちょっと小首を傾げると、鶴姫はふふふといとも楽しげに笑った。北条の忍がどうなろうと、大谷には特段興味はない。
「われが断ることも見えていたのであろ」
「ええ、でも、大谷さんぐらいしか思い当たらなかったんですもの」
「共に死んでくれそうな相手がか」
 ハイ、と答えて、止める間もなく、するりと板の間に上がる。薄暗いので見えはしないが、間違いなく土や埃で汚れているだろう床に、そんなことには微塵も躊躇せず、鶴姫はふわりと腰を下ろした。そして死人のような面をした三成の顔をじっと見下ろす。
「三成さんの命を助ける代わりに、一緒に死んでください、と言ったら、どうですか」
 一瞬――ぐらり、と心が揺れた。このまま数人の部下を頼って、隠れ住むにも限界はある。満足な治療も出来ぬままなのも、三成をみすみす死に向かわせるだけかもしれぬ。けれどもこの話を受ければ、大谷は確実に死ぬ。死ぬべきでは、ない時に。
 いつ儚くなるかもわからぬ命が、今は心底、惜しかった。
「……こと」
「ふふっ、言ってみただけです」
 座った時と同じように、またふわりと立ち上がると、青い袴の裾をひるがえして鶴姫は板の間から降りた。
「あーあ。少しは期待、したんですよ?」
 振り返る少女の顔はいたずらが見つかった子どものような、明るい笑みを浮かべている。
「かわいいとか、嫁にしたいとか、本当の本当に嘘だったんですね。私のことなんかちーっとも、好きじゃなかったんですね」
「騙されるぬしが悪いのよ」
「またそれ! でも、騙す大谷さんの方がもっともっともーっと悪いと思います!」
 なのに、ズルいです。鶴姫は笑い続ける。諦めたように。
「私はひとりになったから、だから死ななくちゃならないのに。大谷さんはズルいです」
「左様か、サヨウカ。可哀想になァ」
「本当に、そうです」
 扉がかたり、と鳴って、鶴姫を呼ぶ声がした。鶴姫はそちらにちらりと視線をやって、じゃあ、と小さく口を開いた。
「さようなら、大谷さん」
「サヨウナラ、よ」
 手を振り、最後まで笑顔を絶やさず、鶴姫は小屋を出ていった。神の目を持つ少女が行った後の小屋に、再び静寂が舞い戻る。
 大谷はゆっくりと体をひねり、三成の顔を覗き込んだ。ほんの少し、頬に赤みが戻ってきているような気がする。包帯だらけの指先で、頬をつるりと撫で上げると、大谷はヒヒと笑い声を上げた。
「ぬしと共に死んでやるゆえ、われと一緒に死んではくれまいか、なァ、三成」
 意識がない筈の三成が、わずかに笑ったような気がした。

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 死に隣る恋のきはみのかなしみの一すぢみちを歩み来しかな(若山牧水)

2011/04/26

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