複眼

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家→三 / 吉 / 処刑ネタ / ほの暗い

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 俯いた彼の白すぎる項に、家康はなんと声をかけるべきか、一瞬躊躇った。
 見るものに痛々しさを覚えさせる程、細い、頸。
 この頸を斬り落とすのは、自分の意思であることが、ただひたすらに悲しかった。
 けれども東軍の総大将として、今や日の本全土を治める天下人として、彼はやらねばならぬ。
 愛しい人の頚を、落とさねばならぬ。
 きっと彼の首は晒し物にされるのだろう。天下人に牙向いた大罪人として、その顔の肉が崩れ落ち、烏に屍肉を啄まれ、そうして二目と見られぬ姿になってやっと、彼は葬られるのであろう。
 そうまでされる程の罪を、彼が犯したというのだろうか。彼はただ、主君に殉じようとした忠臣でしかなかったではないか。
 彼を罪人へと仕立てあげたのは、他ならぬ自分ではなかったか。
「この期に及んで言い訳を考えておるのではあるまいな、徳川よ」
 ずろり、と地の底から這い上がってきたかのような薄暗い声が、物思いに耽っていた家康の背中を撫で上げた。
 はっとして家康は顔を上げる。この声は、この、物言いは。
 ヒヒッ、と墓場に舞う烏のような不吉な笑声が、戸惑う家康を嘲笑う。
「なァ、徳川。ぬしの吐く嘘の味を教えやれ。それはさぞかし甘いのであろ?」
 彼の友人でさえ、長いこと目にしてはいないだろう、彼の秘されたかんばせが、無防備に目前に晒されていた。膿が溜まり、肌は破れ、肉が崩れて骨が曲がる。そうして二目と見れぬ容貌になっていたと聞いたのは、気のせいであったのか。厚く、厚く白粉を塗った彼の顔は、紛れもなく美しかった。鬼気迫る、美しさであった。
「ぎょう……」
「天下の悪党とはぬしの方よ」
 長の病の為に色の抜け落ちた髪を振って、彼は家康を断罪した。骨ばかりの指が、家康の罪を並べ数える。
「主君殺しに、同輩への裏切り。絆などという世迷い言を口にし衆を惑わせたかと思えば、己が裏切った男に全ての罪を擦り付けて死に追いやるとは。さすが東照権現よ、ヒトの所業とは思えぬなァ?」
「ワシは……! しかし、それは必要なことで……それに、絆、は、」
「それよ、ソレ」
 手を打って、大谷は――大谷吉継はにやりと顔を歪めてみせた。
「絆、絆と口にはするが、ぬしに結べた絆などこの世のどこにもなかろうに」
 一体何を言い出すのかと、家康は息を詰めて白く濁った双眸を見返した。自分が絆を結べぬ人間ならば、此度の戦がこれ程までに大きくなったわけがない。
 天下二分の大戦とは、すなわち家康が絆によって集めた軍勢と、豊臣の威光を引き継いだ三成の軍勢の戦いではなかったか。
「東軍についた将とは、ハテ、如何なる者共であったか」
 首を傾け、ヒヒヒと引きつった笑いを溢して、大谷が問うた。けれど、家康が口を開く前に、大谷はアァと大袈裟に声を上げてみせた。
「思い出したわ、オモイダシタ。奥州の伊達政宗に、紀州の雑賀孫一、伊予の隠し巫女に相模の北条か」
 独眼竜は、と大谷は、白い眼を細く歪めて、楽しげな声を上げる。
「確か、三成を恨んでおったな」
「それが、どう」
「女巫も、北条も、三成を恨んでおろうの」
 気づけば、家康と大谷の顔は、鼻先がぶつかるかと思う程に近付いていた。鉄格子を挟んで、二人は今までにない程に顔を寄せあい言葉を交わす。こんなにも近くで口をきくことは、共に豊臣の下で働いていた間にも、なかったことだった。
「雑賀は金で動く傭兵共よ。将だけではない、雑兵共には、大平の世を呉れてやると甘言を吐いたのであろ? 絆などという迷い言ではない。ぬしは金と怨嗟と欲でもって兵を集めたのよ」
 ――二人の間には、常に、三成がいた。
「ぬしが誇る本多とて、ぬしが結んだ絆ではあるまいに。アレはぬしではない。ぬしに流れる血に、忠義を誓っておるのよ。そうよなァ、ぬしに唯一、結べたキズナがあると言うのなら、ソレは」
「……三成」
 そうだ、いつでも三成がいたのだ。大谷と家康の間だけではない。独眼竜と家康の間にも、巫女との間にも、北条との間にも。
 いつでも、三成が。
「三成は、今、どうして、」
 何故、三成がここにいないのだろう。何故、こうして向かい合って、言葉を交わしているのが三成ではないのだろう。
 彼は、今、どこに。
「あやつは死んだ」
 家康の目の前で、赤い舌がひらりと蝶のように舞った。
「嘘だ」
「嘘なものか。われのこの目が」
 白い眼がぐるりと、回って、しかと、家康に向けられる。
「しかと、見たわ」
 瞳に家康の面を映したまま、ヒッヒッと、先よりも大きな笑い声を大谷が立てる。薄暗い牢内に響き渡る掠れ皹割れた声が、不意に、ぐちゃり、と粘った水音を含んで、途切れた。
「刑部っ!」
 ぼたぼたと、目の前でおびただしい量の血を吐き出されて、家康は慌てて鉄格子にかじりついた。そうだ、彼は病人なのだ。
 どれほど分厚く白粉を塗り重ねようと、身の内に巣食う病の根まで隠せる筈もなかったのに。
「い、今、薬師を」
 慌てて身を翻す家康の背に、大谷が地獄から声をかける。
「……ぬしにはやらぬ、ヤラヌよ、徳川」
 甘い、毒を、振りきるようにして、家康は牢を離れた。後ろを振り返ることは出来なかった。振り返ってしまえば、あの白い眼に映し出される、己の本心に向き合わねばならぬことを知っていたからだ。
 大谷の目は、まるで蜻蛉や蝶のソレのようであった。
 たった一つの物事を幾つもに増やして、突き付ける。その舌は雄弁であったが、家康は何よりも、あの瞳が厭わしかった。
 あれは、人間の瞳では、なかった。

 10月1日、石田三成は六条河原で死んだ。

 その瞼が、固く、閉じられているのを見て、家康は小さく、息を吐いた。

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2011/01/06

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