花と蝶

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家三 / 記憶喪失 / ほの暗い

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 また床にも入らずに、こんなところで丸まって。
 家康は顔に苦笑いを浮かべたまま、縁側に寝そべる細い身体へと歩み寄る。降り注ぐ陽光が心地よいのはわかるが、もうそろそろ風にも冷たさが混じり始める頃である。関ヶ原の戦が終わってから向こう、めっきり身体の弱くなった三成を、いかに気持ちよさげに眠っているとはいえ放っておくことは、家康には出来なかった。もっとも、関ヶ原以前であったとしても、同じような場面に遭遇すれば、やはり家康は三成を起こしただろうが。
「三成、そんな所で寝ていると風邪を引くぞ」
 腰を落とし、膝を曲げた状態で、被さるようにそう囁けば、華奢な体はいっそう小さく丸くなった。落ちる影を避けるように、角度を変えた頭に合わせ、するり、と流れた月色の髪が、隠されていた項を晒す。
 細い首だ、と家康は思う。細い、白い首だ。
 まるで剥き出しにされた骨のような、首だ。
 長い間、雨風に晒されて、無駄な肉が腐れ落ちた骨のような、潔い、白い、首だった。
「いえやす」
 まろい声が自分の名を呼ぶのに、はっとして家康は数度、瞼を瞬かせる。己に項を無防備に向けていた彼の琥珀色の瞳が、少し潤んで自分を見ていた。
「……三成、部屋に、入ろう」
 濁りのないその瞳は、自身の闇の中から真実さえ引きずり出しそうな程無垢で、家康はとっさに浮かべた笑顔のまま、少しだけ彼から顔を背けた。
「ん……」
 まだ少し眠たげな三成が伸ばしてくる腕を、己の首に絡めさせて、薄い体を抱き上げる。くったりと肩にもたせかけられる重みを、幸せだと、家康は思った。
 生きているうちにこの体を抱きしめこと、もうないと、思っていた。
 関ヶ原の後、重傷を負っていた彼が、一命をとりとめることは絶望的であった。その怪我を負わせたのは自分だったが、自分の目指す大平の世は彼の屍の先にあるとも覚悟していた筈だったが、それでも彼に、生きて欲しいと願っていた自分がいた。
 常から白い肌をより一層白くさせて、生きているかも死んでいるかもわからぬ三成を前に、気が狂わんばかりの三日間を家康は過ごした。
 その時、やっと、自分が三成を諦められないことに、気づいたのだ。
「ちょうを」
 耳の横で、まるで恋人のような距離で、三成が呟く。
「ちょうを、みていた。まだ、とんでいるだろうか」
「もう日が落ちるからな。さすがに飛んではおらんだろう」
「そうか……」
 残念そうな三成に、家康は吐息で笑ってみせた。ゆっくりと、壊れ物を扱うかのように、三成を敷かれたままの布団へと下ろす。
「蝶は明日も飛んでいよう。三成はまだ本調子ではないのだから、無理はいかんぞ?」
 白い髪を撫で、幼子に対するように言い聞かせる。くすぐったいのか、目を細めながら、家康の手から離れようと三成が首をすくめてみせる。嫌がられている訳ではないとわかっていたので、右手はわざわざ三成を追いはしなかった。滑らかな手触りを、もう少し堪能していたかったけれども。
「でも、あすもおなじちょうがくるとは、かぎらないだろう?」
 首を傾げながら、三成が言う。
「今日の蝶はそんなに美しかったのか?」
「うつくしい……」
 言葉の意味を理解しようと、家康の言葉を繰り返した三成は、そうして少し、ぼんやりと考え込んでいたが、しまいにこくり、と首を縦に振ってみせた。
「ああ、うつくしかった。あんなにうつくしいちょうは、みたことがない」
 本当に、嬉しそうに笑うので、家康もつられて笑みを浮かべる。
「そんなに美しいなら、ワシも見てみたいな」
「そうか」
 にこにこ、にこにこ、と三成が笑う。
「あすもくるだろうか」
「来るさ」
 小さく欠伸を一つ、して、三成は億劫そうに体を横たえる。そこに上掛けを掛けるのは家康の仕事だった。家康はこの後も仕事がある為、本丸へ戻らなくてはならないが、三成が眠りに着くのを見てからでも遅くはない。
 小姓をしていた時分から、いつ眠っているのかわからないような三成だったが、今やこれまでの不眠を取り戻すかのように、よく眠るようになった。
 今だって、先程まで眠っていた筈なのに、また瞼が落ちそうになっている。
「いえやす」
「どうした、三成」
「わたしに、きさまいがいのともはいなかっただろうか」
 睡魔に連れ去られつつあるか細い声を拾おうと、唇に耳を寄せかけた家康は体を強ばらせた。
 琥珀の瞳は既に瞼の奥に隠されて、なんの秘密をも暴こうとはしていないのに。
「……三成の友は、ワシ一人だ」
 手は震え、視線はどこへ逃げればいいのかとさ迷っているというのに、唇だけは、いつもとなんら変わらぬ声で嘘を吐く。
 三成に、自分に、言い聞かせる為に。
「うつくしかった……あかい……ちょう……」
 眠りの淵にいる三成に、嘘の言葉は届かず仕舞いで、そうして家康は一人現世に取り残される。
 蝶は――彼の、真実の友の、家紋だったか。
 家康は、三成を起こさぬように立ち上がると、そろりと廊下へ歩き出た。この離れ座敷から、出ること叶わぬ彼の為に、家康が作らせた庭は、夕暮れに照らされ赤く燃えていた。
 何もかもが赤い庭の中へと、家康は裸足のまま足を下ろした。冷たさを含んだ土の、足の裏にまとわりつくのも構わずに、花の咲き乱れる庭を歩く。
 手当たり次第、目に入る花のすべてを、抜き去り、投げ捨て、踏みにじる。
 家康がやっと我に返ったのは、切れた手のひらから滴り落ちた血が、花の甘い匂いをかき消した頃だった。

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2011/01/04

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