うさぎのぬいぐるみと傷だらけの神さま

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R18 / ブラック本丸 / 暗い / 残酷表現あり / モブさに / 児童虐待表現あり

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「さぁ、審神者さま、おうちにつきましたよ」
 狐の式神の声に、うつむいていた少女がゆるゆると顔をあげる。きつくつむっていた目をおそるおそる開いて、目の前にそびえ立つ日本家屋を見上げると、手にしていたうさぎのぬいぐるみを抱き締める手にぎゅっと力をこめた。
「こんちゃん……ほんとうに、ここ?」
「そうでございます。ここが審神者さまとちーちゃんと、こんのすけのあたらしいおうちです」
「でも、わたし……なんだかこわい」
 ふたたびうつむく少女に、こんのすけと呼ばれた狐の式神は、やさしくやさしく話しかける。
「今はすこし汚れていますからちょっと怖いかもしれませんが、おそうじをすれば、きっと審神者さまも気に入りますとも。それに、ここにはこんのすけのお友だちもいるのです。みんなでおそうじすれば、すぐにきれいになりますよ」
「……こんちゃんのお友だち」
「はい」
「わたし……きらわれないかな。ちーちゃんとも、なかよくしてくれるかな?」
「もちろんですとも」
 数秒のためらいのあと、こくりとうなずいた少女に笑いかけると、こんのすけは本丸と呼ばれる屋敷の門をくぐった。

 空気そのものが停滞して久しい本丸に、風が吹くのはゆうに何年かぶりのことだった。生き物がいない場所に風は吹かないと知ったのは、いつのことだったろう。主と呼ぶのも忌々しい、あの人間を殺すまでは、そんなことを考えたこともなかったというのに。
 痛みに呻くこの身体は、人と同じ姿を持ち、触れれば温かく、斬れば血のでるものであっても、風を起こすことはできない。はっきりと引かれた人と人でないものとの境は、そのまま憎むべきものの境だった。
 どろりと渦を巻くような血と憎悪の臭いの間を縫うように、新鮮な空気が広間の中を渡っていく。
 それを合図に太刀が、打刀が、脇差が、大太刀が、薙刀が、槍が、短刀が、己の得物を鞘から引き抜いた。足の腱を切られた者、目を潰された者、片腕を落とした者もいたが、その全員が確かな殺意を広間の外へと向けている。吐息の音さえも殺し、風の吹き来た方向を睨み付ける。
「さぁ、審神者さま、こちらですよ」
「……うん。なんだか、どきどきするね」
「大丈夫ですよ。審神者さまなら、きっと仲良くなれますとも」
 こんのすけの声がする。続いて聞こえてきたのが新しい審神者の声か。まだ若い、女の声だ。怯えたように声が震えているのは、ここがどんな場所か聞いているからだろう。とはいえ今さら女だからと躊躇する彼らではなかった。元はと言えば、人間が先に彼らを傷つけたのだ。
「刀剣男士のみなさま、おひさしぶりでございます! こんのすけでございます!」
 襖の外でこんのすけが声を張り上げる。答えるものは誰もいない。
「ここの新しい主となっていただく審神者さまをお連れいたしました。みなさまがたにおかれましては、思うところもございましょうが、どうかご挨拶だけでもお許しくださいますよう! ……さっ、審神者さま、襖をお開けください」
 こんのすけにうながされ、襖のすぐ傍に気配が近づく。もっとも近くに立っていた三日月宗近には、空気の揺れかたで、襖の向こう側が手に取るように見てとれた。
 女の小さな手が引き手にかかる。ためらう女の足に、励ますようにこんのすけが身を寄せる。それを見て、一度深く息を吸った女が、もう一度顔をあげて前を見すえて、
「誰が開けて良いと言った?」
 微かに開いた襖をこじ開けるように刀を突き入れ、そのままの勢いで横薙ぎに薙ぐ。
 三日月の目の前に斬られた黒い髪の毛が、ばらばらと散らばった。どたん、と派手な音を立てて尻餅をついた女の頬には、赤い線が一筋走っており、ぱっくりと割れた傷口からは血がどくどくと溢れ出していた。
 女が思ったよりも年をくっていただとか、ひどい身なりをしていたとか、その手になぜかうさぎのぬいぐるみを持っていたとか、そういったことは三日月にはどうでもよかった。一撃で首を落とすつもりであったのに、余計な手間が増えたと思った。幸いにも女はいまだなにが起きたのかわからぬようで、呆然とこちらをみあげているし、この隙にさっさと殺してしまおうと、三日月が刀を振り上げた、その時だった。
「……なん、で」
 ゆっくりと、女が細い指が頬の傷口をさわり、ぽつり、と呟いた。
「なんで、なん……で、なんで、なんでなんで、なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでええええええええええええエエエエエエエエエッッッ!!!!!」
 突然の豹変に三日月が驚く間もなく、肩から提げていた鞄に手を突っ込んだ女が取り出したのは、刃渡り一尺ほどの出刃包丁だった。まさか、それだけを頼みにして、この女はこの本丸にやって来たというのだろうか。
 目を見開き、喘ぐように呼吸を荒げながら、女が三日月へと向かってくる。ひらりとかわせば、包丁ごと広間の中へ飛び込んでいった。勢いのまま、ぐさりと包丁が畳に突き刺さる。血を吸ってぶよぶよと膨らんだ畳から刃を抜くと、周りでいきり立つ刀剣には目もくれず、女はゆらりと体をゆらし、三日月の方を振り返る。
「なんで……なんで生きてるの……? わたしちゃんところしてあげたじゃない」
「審神者さま! おやめください! 審神者さま!!!!」
「こんどはちゃんと死んでねーーおかあさん」
 にたり、と口角をあげて女が笑った。
「死ね!!!!! 死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ねしねしねしねしねしねしねシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネ!!!!!!!」
 それは呪詛そのものだった。ただの直線攻撃、同じように少し動いてやれば簡単に避けられる、そんな太刀筋とも呼べないような動きがどうしても避けられない。その時三日月の足を止めたものは、狂った人間への恐怖、はたしてそれだけだったのか。
「なにぼーっとしてんだ!」
 和泉守の怒声が三日月の耳を打つ。我に返ったときには、女は同田貫と蜻蛉切に押さえつけられていた。ばたばたと暴れる体を無理矢理畳に押しつけて、右手から包丁を奪う。
 包丁を奪われて、おとなしくなるどころか、女はますます手におえなくなった。自分の爪を武器にして、手当たり次第に引っ掻き回す。まるでこの世の終わりのように、呪詛の言葉を叫び続ける。
「死んでよねぇおねがいだから!!!!! 死んで! 死んで!!! どうして死なないの! 死んでよおおおおおおおお!!!! 死ね死ね死ね死ね!!!!」
「お前が死ね!」
 頭に血が上った同田貫が己の得物を振りかざす。
「おやめください、同田貫さま! どうか! どうかここは刀をお納めください!!!」
 女と同田貫の間に、こんのすけがすべりこむ。女の爪はこんのすけをも容赦なく襲ったが、こんのすけはひかなかった。
「この方を殺すその前に、どうかこんのすけの話をお聞きください!」
「こいつは本気で俺たちを殺しにかかってんだ! 話を聞くどころじゃねえだろ!」
「それでもです!」
 御免、と一言呟いて、こんのすけが素早く女の喉に噛みついた。うっ、と短く呻いたかと思うと、女の首ががくりと折れる。急に力の抜けた女の体を、同田貫が慌てて抱き止める。まさか人間の絶対的味方であると思っていたこんのすけが人間に噛みつくとは。すべての刀剣男士が驚きに目を見張る。
「お前……なにを」
「お話を、聞いてくださいますか」
 神格を持つ刀剣男士とは異なり、管狐であるこんのすけは完全なる妖怪である。政府の遣いという立場を除けば、まったくの下位と言ってよい。話をきく義理はなかったが、その小さな体にたたえた常にない真剣さに、三日月は思わず頷いていた。
「おい、三日月」
「話ぐらいはよかろう。その人間が殺されるのは、変わりないだろうがな」
 そう口にしながら、三日月は床に倒れる女を見下ろした。胸が微かに上下しているので、どうやら気を失っているだけと知る。彼女のかすかな寝息によって、広間の中に、わずかに風が吹いていた。

「この方は、みなさまがたにとって真実さいごの主となります」
「さいご、とは?」
「この方が亡くなった時には、この本丸の刀剣男士さま全員を破壊処分とさせていただくことに決まっております。今までのように、次の主候補が送り込まれることはございません」
「随分な言い様じゃないか」
「そうですな。それも刀解ではなく、破壊とは。神をなんだと思っておられるのか」
「己の都合で呼び出し……使役し……、挙げ句の果てに己の意に沿わぬとわかれば切り捨てるとは……この世は地獄です……」
「人間憎しと思われるみなさまがたのご心情は察するにあまりありますが、それでもあなたさまがたは人を殺しすぎました。あなたさまがたの有り様はもはや和魂とは言えず、本霊に戻ることは叶いません……それはこの方も同じこと」
「どういう意味?」
「この方は人殺しです。現世の人の間には、この方の居場所はございません」
「つまり、体の良い厄介払いと言うことか。僕らには余り者の審神者が相応しいって?」
「神への供物は古来から清ら乙女と相場が決まっておろう。そなたは我らを侮るか」
「今さら人を哀れと思う心があれば、こんなにも手を血で染めることはなかったでしょうね。あなた、一体なにを期待しているんです?」
「慈悲を」
 大真面目にそう口にしたこんのすけを、すべての刀剣が嘲笑った。慈悲! そんなものはとうに無いと、今さっき狐自身が口にしたばかりではなかったか。
 後継の審神者として、この本丸には男も女も子どもも大人も老人も、ありとあらゆる人間がやって来た。はじめてやってきたのは、それこそ神の贄に相応しい、世の汚れなどなにも知らぬような清ら乙女だったが、同じ人間として前の審神者の行いを伏して詫びると涙ながらに語った乙女を、ならば態度で示せと散々になぶり殺しにしたのを、この狐とて知らぬわけではないだろう。最後には呪詛の言葉を吐き散らして、鬼女のごとき形相の死に顔をさらした乙女の首は、短刀たちが笑いながら門へと蹴り込んだのだから。
「あなたさまがたが人を憎むのは、人にとっては親とも言える、顕現を行った人間の残虐非道な行為によるもの。この方もまた、実の親より幼き頃より手酷く扱われ、あまりの暴虐に耐えきれずに親を殺した親殺しです」
「それで? そんな話で俺たちの同情を買えるとでも?」
「人ではない身なればこそ、いくらでも非道になれたのでしょう。実の子に向けるものとは訳が違うはず」
「ねぇ、さっきまで戦場で背中を預けてたはずの仲間に刀を向ける気持ちってわかる? どちらかが折れるまで終わらない殺し合いの、相手が仲間だった時の気持ちをさあ!」
「たとえ折れることになったって、二度と人間を主だなんて呼ぶのは御免だぜ」
 こんのすけがはぁ、と息を吐く。刀剣達は己の主張をそう簡単に曲げるはずがないことは、この狐もわかっていたはずである。
「いくら言葉を尽くしても受け入れられぬというのならーーでは、ご覧いただきましょう。そうしてお決めになってください。ここでこの方と共に死んでくださるのか、それとも生きてくださるのか」
 パチン、と音がして、そうしてもう広間からは、なんの音も聞こえなくなった。

 ここはどこだ。
 思わず三日月がそう口にするのも無理はない。そこは本丸でも戦場でも、ましてや三日月宗近に見覚えのある過去のどの光景でもなかった。
 六畳ほどのせまい部屋。向かって左に襖があり、後ろにはガラス戸があって、その奥に緑色の扉が見えた。薄暗い室内の様子は、不思議と太刀である三日月にもよく見えた。壁には斑にできた染み、床には空き瓶や冊子、腐りかけの食べ物が雑多に転がる。部屋に漂うどこか荒んだ雰囲気に、どうやらここの住人はそれほど裕福でもないらしいと当たりをつけた。
 それにしても、あの狐はどこに行ったのか。女は、広間にいた数十の刀剣たちは。
 かしゃん、と部屋の隅で物音がして、三日月はとっさに刀に手をかけた。そのままゆっくりと音のした方向ににじりよる。
 小さな鉄製の檻。薄い布が申し訳程度にかけてあって、近づけばすえた臭いがする。小動物でも飼っているのか、と目を凝らせば、檻の間から黒い毛が幾筋か流れていた。
 ……人だ。
 三日月は思わず息を飲んだ。人が檻に入れられている。
 中の人物は背を丸めて、ちぢめた足を抱え込むようにして檻の中に収まっていた。その人間は子どもらしく、まだ小さな体躯をしていたが、それでも身じろぎするたびにかしゃん、かしゃんと体のどこかしらが鉄柱に当たって音が立つ。なにかに怯えているのか顔を上げようとしない相手のおかげで、三日月は檻の傍に座り込んで、この人間の子どもをよく観察することができた。
 檻の外まで溢れるほどの長い黒髪は、整えることもしていないのか、毛先が痛んで茶色くなっていた。むき出しの肩は骨が浮き、申し訳程度に皮がついているような見た目で、そこからたどった腕には、無数の青あざと火傷跡が散っている。髪の隙間から見える足は細く、どうやら服は着ていないらしい。爪だけがやけに長く伸びていた。そうしてその子どもを見つめてどのくらいがたっただろう。
 唐突にガチャガチャとガラス戸の奥から騒々しい音がして、ビクン、と檻の中の体が跳ねた。がしゃんと檻が高く音を立てる。それにますます怯えたように、体がいっそう縮こまる。
 三日月は立ち上がってガラス戸を睨み付けた。自然に腰へと伸びた手が、鯉口をかちゃりと切る。
 扉の向こうの気配は、ひとつ、ふたつ……みっつ。女が一人に、男が二人。なにやらペチャクチャと騒ぎながら、ガラス戸に手をかける。バンッ、と乱暴に戸を開け放ち、最初に姿を表したのは女だった。その顔を見て、三日月は目を見張った。女の顔はぐちゃぐちゃと墨で塗りつぶしたように真っ黒だった。
 続いて表れた二人の男の顔も同じように黒く潰れており、その口は意味のわからない言葉を甲高く喚き続けている。彼らはまるで三日月が見えていないかのように、まっすぐにその脇を通りすぎ、躊躇いもなく檻をガンと蹴りつけた。
 キャン、と犬の鳴き声のような小さな悲鳴が部屋に響く。
「■イ、■■ナ■蹴ル■■ナ■ン■ャナ■■?」
「別■■シ■■ガ勝手■ロ! ■タ■■娘■ン■■■、ホ■、サ■サ■■ナ!」
 ばちんと掛け金を跳ね上げて扉を開けると、女が檻の中に片手を突っ込んだ。嫌がる身体に無理矢理爪を立てて引っ張り出そうと声を張り上げる。
「出■ッ■■ッテ■ダ■!!」
「ギャ■■!! 嫌■■レテ■■■!」
「手■ッテ■ロ■■、ホ■!」
 男がガンと檻を蹴る。檻が揺れて踏ん張る力が緩んだのだろう、ずるり、と半分体が檻から飛び出した。その拍子に、薄汚れた布の塊がころりと檻の外へ転がり落ちた。あっ、と小さな声を上げて、子どもがそれに手を伸ばす前に、女がそれを取り上げた。
「ち、ちーちゃん」
「返シ■■シ■■ャ、■ッ■ト出■、■間■ケ■■ン■ャ■イ■ヨ!」
 びくびくと身体を震わせながら、子どもが檻からずるずると這い出した。それをすかさず男達が取り押さえて部屋の真ん中へと引きずり出す。
 子どもは女だった。裸の、痩せ細った娘で、檻の外からは見えなかった、腹にも顔にも痣や傷ができていた。怯えようから、周りの大人たちに付けられた傷だということは明らかだった。カタカタと震える小さな身体は、短刀達よりも非力だった。
 子どもの全身を見て、男の一人が嗤った。
「■■ダヨ、■レ。■■エ、最■■母親■■」
「■■? 何■■テン■? ■ノ役■モ■タナ■■■、生■シテ■ッ■■ダ■ラ、■謝■テ■■■ク■イ■ン■■ド」
「■ア、■ハ犯■■ャ、ナ■■モ■イ■■、殺■ナ■ャ■■ッテ■イ■ン■■ナ?」
「■ョ■■、チャ■ト■■画■ッテ■。■女喪■A■■テ■ッ■■ルン■カ■」
 三日月には彼らが何を言っているのかわからなかった。彼らの喋る言葉は雑音でしかなく、なんの意味も三日月には伝えなかった。けれども彼らが自分の最初の主と同じ、忌まわしい人間だということは、十分すぎるほど理解できた。
「死ね」
 それで十分だった。
 一瞬で抜刀した己自身で子どもにのし掛かっている男の首を撥ね飛ばす。その側でいそいそとなにやらわからぬ鉄の塊を取り出す男の首も、同様に切り捨てる。返す刀で酒へと手を伸ばす女の首へ刀を突き刺した。
 鮮血が三日月の視界を真っ赤に染めてーーけれど次の瞬間には、なにもかもが元通りだった。確かに切り飛ばしたはずの彼らの首は胴体に繋がって、子どもへの蹂躙を再開する。男の舌が伸びて、子どもの顔をべろりとなめる。
「いや、おかあさん、ちーちゃん」
「■ル■■、馬鹿!」
「嫌■ッ■■■ガ■■ンダ■? 無■矢■ッポ■■」
「■マ■、■畜■ナ■!」
「ナ■、■■子、中■生ク■■?」
 ばたばたと、子どもの足が床を蹴る。しかしそのわずかな抵抗は、大の男にしてみればないのも同然のようだった。軽々とその身体を抱き上げて、もう一人の男の前へ見せつけるように突きだした。
「セ■カ■■カ■、処■■撮■■コウ■!」
「バー■、■メ■デ■レ■カヨ」
「エ■、拡■■バ撮■ン■ャネ?」
 子どもの下半身へと男が手を伸ばす。いやいやをする子どもの顔と、下半身とを、もう一人の男が構えた鉄の塊が行き来する。
「やめよ」
 もう一度、三日月は刀を振るった。
 子どもを抱える男の首が飛んで、三日月の足に当たる。鉄の塊を持ったまま、男の腕が飛ぶ。酒をのんだまま、つまらなそうにその光景を見ている女の目を、ぐしゃりとつぶして刀が貫く。
 べしゃり、ぶしゃん、と血が跳ね飛ぶ。
 けれど、ひとつ瞬きすればすべては元通りだった。男は子どもの秘処に無理矢理指を突き立てて、乱暴にそこを暴き立てていた。もう一人の男は顔を近づけながら、下卑た笑いを漏らしている。
「いや、たすけて、たすけて、おかあさん、ちーちゃん」
 他の三人の人間の話す言葉はまるで意味がわからないのに、なぜか子どもの助けを求める言葉だけは、三日月にもはっきりとわかった。それなのに、
「チー■ャ■■■、何?」
「ソ■、ヌ■■ルミ、■タ■ノ■ノ男■買■■■ッタン■ケ■、■イ■イ■気ニ■ッ■色■■カ■ヤガ■タ」
「ヘー■、フェ■■ラ■サセ■■ノカ■?」
「知■■ー■、ム■ツ■■ラ追■出■タ」
「ジャ■、試■■ミ■カ」
 三日月には見ていることしかできなかった。悪夢のような光景を。ひとりのかわいそうな子どもが助けを求めて泣き叫んでいるのを。
「やめよ、やめよと言っている」
 三日月の手は男を素通りする。それならばと子どもを取り上げようとしても、やはり何もつかめずに指先は空をかく。
「やめろ、やめてくれ、」
 この光景を見たことがある。数年前までは、これが三日月の日常だった。あの悪夢は、既に断ち切ったはずなのに。
「お願いだ、やめてくれ、頼む」
「歯■■ルナッ■イ言ッ■ダ■■■!」
 自分の股間を子どもにしゃぶらせていた男が急に激昂して、子どもを床へと突き飛ばした。
「ごめんなさい、ごめんなさい!」
「■■■■ス■ダ■警■イ■ネー■■ヨ!」
「悪■子■■オシ■キ■■要ダ■■?」
「■ャ■ハ■! オマ■■リ■リ■ャン!」
「■エ■■、ドエ■!」
 何が楽しいのか、ギャハハと三人の人間が笑い声を立てる。男の一人が部屋のすみに転がっていた布の塊を持ち上げた。それは、檻の中から転がりでた、古びたうさぎのぬいぐるみだった。
「や、やめて、ちーちゃんにひどいことしないで……」
「■マ■ガ俺■■ウ事聞■■イ■ラ■イ■■ロ、■■!」
「■ー■、可■想■ナ■■ーチ■■、オ■■ガイ■■ニシ■■■、■ン■事■ハナ■■カ■タノ■ナァ」
 じゃらり、と男が西洋袴の脇からなにかを取り出す。手のひらに収まるくらいのそれをくるりと回すと、中から銀色の刃が飛び出した。
 刀子だ、と三日月は思った。刃渡りは短いが、子どもの首を掻き切るには十分な長さを持っている。
 三日月は無駄とわかっていながら、床にへたりこむ子どもの前へと飛び出した。その頭をかき抱くように身を屈め、やめてくれ、と震える声でつぶやいた。
 これ以上しては、この子どもは折れてしまう。
「いや、やめて、やめてください。おねがいします」
「もうやめてくれ、何がしたい! 俺に何を見せたいというのだ!」
「やめて、おね……イヤアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!」
 腕の中の子どもが、絶叫を上げた。
 三日月をすり抜けて、子どもが男へと飛びかかる。けれどもあっさりいなされて、また床へと引き倒されると、口へと性器を突き入れられた。男は嗤う。無力な子どもを、三日月を嘲笑う。嗤いながら、ペチャクチャと狂った言葉を吐き続ける。
「今度■チ■■ト■■ブ■、ぎャあああアアあアああああああアあああ!!!!!」
 ぶちん、と肉の千切れる音がした。鼠に噛まれた猫のように、男が悲鳴を上げながら子どもの上から飛び退いた。ごろごろと床を転がりながら、股間を押さえて叫び続けている。その異様な光景に、もう一人の男も女も、呆気にとられて動けない。薄暗い部屋のなか、ぴちゃり、ぴちゃり、と湿った水音が子どものいた場所から響いてくる。部屋のなかの視線が、ゆっくりと音源へと集まって、
「ひィィぃぃっ!!!!」
「アンタアああああアあアアあア!? 何シてんノオおオおおおおオオお!!」
 男が体を震わせ、部屋の出口へと逃げていく。女は先ほどまであおっていた酒の缶を、子どもの顔へと投げつけた。上半身を起こしていた子どものちょうど目の上辺りに当たった空き缶は、カン、と軽い音を立てて、その下の血だまりへとぽちゃりと落ちた。子どもの口が、その拍子に、ぺちゃっ、となにかを吐き出した。白い、なにかの、肉片のような。
「アああああアアああアああああアアアあ!!!!!」
 叫びながら女は、男が取り落とした刀子へと飛び付いた。それを両手で構えると、子どもめがけて振りかぶる。
「死ね! 死んジマえ! コのヤくびョうガみいいいいイイイぃぃイぃぃイ!」
 刀子は薄い子どもの肩に突き刺さった。絶叫が上がる。暴れる子どもが女の腕に噛みつく。女がひるんで尻餅をつく。女の手から逃れた子どもは、一直線に部屋の隅へと走った。自らが入れられていた檻ではない。水屋のように見えるそこの、棚を迷わず開け放って、刃渡りが一尺もあるような出刃包丁を取り出した。
 それを見て、女が初めて、悲鳴を上げた。
「止メテ、止めナサい、親ニそンなモノ向ケテいいト思ッテンの!?! 今ナラ許シてアゲるかラ! ホラア!」
「ちーちゃん、死んじゃった。おかあさんが死ねばよかったのに」
 子どもはにこり、と笑った。
「死んでよ、おかあさん」

 三日月ははっと息を吐く。そうして、慌てて周囲を見回した。いつのまにか、見慣れた三日月の本丸へと、戻ってきていた。周りには苦節を共にした刀剣達が、三日月と同じく呆然とした様子で立っており、その真ん中にはすやすやと寝息を立てる人間の女がいた。その顔を見れば、目の前の女が先ほどの子どもの成長した姿だということが嫌でも理解できた。
 ゆっくりと視線を廊下に移す。冷たい板間に落ちているうさぎのぬいぐるみは、腹の辺りに縫い直した後があった。
 部屋の隅に飛ばされた出刃包丁は、柄のところが古い血で汚れて黒くなっていた。
「……あの後、あの子どもはどうしたのだ」
 震える声で問いかける。あの、三日月の救えなかった子どもはどうしたのか。この場にいるすべての刀剣男士と同じく、己の手で自らの親を殺した子どもはどうやって生きてきたのか。
 女の胸の上でくるりと丸まっていたこんのすけは、恐ろしいほど静かな瞳で、ぐるりと居並ぶ刀剣男士を見回すと、淡々とその後の顛末を語りだした。
「血臭に不審を感じた近所の住民の通報によって、審神者さまは警察に逮捕されました。けれども実の親から虐待を受けていたこと、教育の義務を放棄されていたこと、その当時12歳だったことが情状酌量の余地ありと認められ、現世の裁判所では数年の保護処分のみとされたそうです。しかし、身体検査によって審神者の素質ありと認められた審神者さまは、現世の法機関ではなく、時の政府による保護を受けることになりました。現世にはこの方の血縁者がいなかったことも、その処分を決めた一因でしょう。それからこちらにうかがうまでの10年間、この方は誰とも接することなく、ただ審神者制度の贄として、生きてこられたのでございます」
「贄って、なに」
「審神者制度が成立して50年も経たないのは、皆様もご存知でしょう。それゆえ、審神者も刀剣男士も、まだまだ政府が把握できていないことばかりでございます。審神者は霊能力者でも、超能力者でもない、処女ではある必要も、童貞である必要もない。傷が早く治るわけでも、病気にかからない訳でもなく、歳も他の人間と同じようにとる。見た目には全く差違がないが、神に好かれる魂を持っている。それぐらいのことしか、未だにわかっていないのです」
「まさか、こいつは」
「皆様の、お察しの通りでございます」
 しくしくと短刀達が泣き出した。声さえ出さずに打刀達が涙をこぼす。もう誰も女を押さえ付けたり、捕まえようとしたりはしなかった。力なくしなだれた肢体に三日月は近づいていって、彼女を起こさないようにゆっくりと抱き上げた。くたりとした体はこんのすけの言を信じるならば、もう子どもの一人や二人いてもおかしくはない年齢の女のはずだった。だというのに、抱き上げた体は、まだ母親の庇護から離れられない子どものように軽かった。
 ぽろり、と三日月の月の瞳から涙がこぼれて、女の頬へぴちゃんと落ちた。
「この子どもは俺自身だ。どうして殺すことなどできようか」
 恨むぞ、狐よ。
 そう口にした三日月に、こんのすけはにっこりと笑って見せた。
 存分にお恨みください。私の願いはただひとつ。この方の真の幸せでございます。

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2015/12/02

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