狐憑きの娘

*

ブラック本丸 / 刀剣破壊描写あり / みかさに / 政府職員

*

「さぁ、この五振りの中から初期刀を選んでください」
「初期刀?」
「そうです。審神者様の初めての刀。これより先の長い戦いを支えてくださることになる刀剣男士です。まず右から、歌仙兼定、山姥切……」
 これは今日付けで新しい審神者を迎えることになった相模の国ろ‐573651号本丸。まだ幼さの残る少年が頬を染めて熱心に刀を選ぶ、初々しい様子が微笑ましい。

 問題なし。次。

「審神者様、日課業務は終わりましたか」
「うっ……出たな、こんのすけ!」
「なんですか、人の顔を見るなり害虫のように」
「人じゃなくて狐じゃん」
「しゅ、主君、そういうことではなく……」
 審神者歴6年目。中堅どころと言っていい薩摩の国ほ‐886437号本丸。刀剣との仲は良好。主は年頃の女性ではあるが特に誰と恋仲にもなっておらず、模範的な本丸といえる。ただし、書類仕事が苦手なのでその点では注意が必要。

 次。

「おや、お供の狐様、こんのすけになにかご用ですか?」
「実は主様にとうふどうなつなるものをいただきましたので、狐同士親睦を深めようかとお姿を探していたところなのですよぅ!」
「小狐丸も、来るよ」
「それはそれは。ありがたいことです! ぜひご相伴に預からせていただきます!」
 山城の国ち‐632145号本丸の主はベテランの初老の男性審神者。こちらも問題が起こる危険性はほぼない優良本丸だが、それに甘えて監査役である筈のこんのすけが刀剣と茶飲み友達になるとは言語道断。後で躾直さなくては。

 次。

「次の審神者会議の日程ですか? 定例通り、第二週目の月曜日となりますが」
「そうかぁ……。特に新しい刀剣男士とか、戦場が見つかったとか、そういう発表はないんだよな?」
「さぁ。確実なことは存じませんが、今のところそういった情報はありませんね」
「その日さ、嫁さんの誕生日なんだよね。翌日は有給取るとして、会議、長引くかなぁ」
 備前の国ろ‐774236号本丸の主は審神者歴14年、高校の同窓会で再会した元彼女と結婚したとかで、つい先日、子供が生まれたばかりの父親である。
 ……本当はこのように審神者の個人情報を知るのは私情をはさむ恐れがある為、好ましくないのだが、業務上、どうしても耳に入ってくるのはもう仕方のないことと理解している。

 と、その時、小指の先にピリッとした痺れを感じて、わたしはそちらへ意識を切り替えた。

「審神者様、何をなさっておいでですか」
「何って、見てわかんないの? セックスよ、セックス。私たち、愛し合ってるの。ね?」
「愛し合っている、というわりには、昨晩は別の方と閨を共にしていらっしゃったようですが」
 そこでやっと女が上半身を布団から起こしてわたしを見た。情事を途中で邪魔された女の顔はひどく不機嫌に歪んでいて、乱れた髪を邪魔くさそうにばさりと後ろへかきあげる。
 ……あーあ、またこのパターンか。
 突然の場面転換だったが、わたしはうんざりしながらもあらかたの状況を認識する。
「あんた、何が言いたいの?」
「審神者様、貴女様の行為は本丸運営法に抵触し、摘発対象となります。これは最終通告となります」
「はぁ? 私の? 何が摘発対象になるっていうのよ、こんのすけ。今まで一本だって折ったことはない。重傷を放置したことだってないわ。まさか、刀剣男士と寝たこと? そんなの誰だってやってることじゃない」
「貴女様は複数の刀剣男士様と交わられた。それは巫であれば当然の行為であり、それによって貴女様が処罰されることはございません。けれども、貴女様は殺しすぎました」
「だから、私は一本も」
「刀ではございません。貴女様が殺したのは人にございます」
 こんのすけの言葉に、さっ、と女の顔から血の気が退いた。その態度では自供したも同然で、わたしは女にもはっきりと聞こえるよう、ゆっくりと言葉を紡いだ。
『陸奥の国へ‐354211号本丸付き審神者     殿、殺人の罪により貴殿の審神者としての任を解き、今この場で拘束いたします。刑罰については追って担当官よりご説明差し上げます』
「そんな、イ……ッ!」
 返答は要らなかった。わたしが口を閉じると同時に中空から現れた一本の長い灰色の縄が、しゅるりと女の首を絞め上げる。死なない程度の力加減で、けれども悲鳴をあげることも許さない程度にきつく巻かれた縄に、女は目を見開き、慌てて爪を立てもがきだす。はくはくと音もなく開閉される唇が、まるで餌を求める池の鯉のようだった。実際、彼女は無力だった。いくら暴れようとこの縄の前では意味がない。呪符を幾枚も縒り合わせて作られた、神祇庁特製の拘束用呪縛縄。正規手順に基づいてのみ解呪され得るそれは、刀剣男士の刃をも防ぐ鉄壁の防御力を誇る。そんな特別製の縄が、女の身体を包み込むように指の先からゆっくりと這い登っていく。そうして人一人を包み終えると、後に残されたのは一つの丸い球体だった。髪の一筋、肌の一欠片も残さず覆い尽くしたのを見届けて、わたしは息を吐いた。
 ――これがわたしの仕事、わたしの生きる術である。
 管狐「こんのすけ」を使役し、対歴史修正主義者との戦いの駒である数千を超える数の審神者を監視する。平常時は各本丸に派遣された管狐の視界にランダムにアクセスし、問題が起きれば対処を行う。こんな風に、色に溺れた審神者の処分も業務内作業となる。が、本来、式神管理課職員たるわたしの管轄は本丸運営法に基づく審神者の拘束までとなり、以降の法的措置諸々は別部署の仕事ではあるのだが、下っ端役人には業務範囲外となる面倒な後処理がひとつ、存在する。範囲外もいいところだが……簡単に言えば、その場に同席した刀剣男士のフォロー作業である。
 刀剣男士という存在はどうにも不思議なのだが、たとえどんな扱いを受けていようと主という存在に多かれ少なかれ一定の執着を示すらしい。その刀剣男士の目の前で、他ならぬ主に乱暴狼藉を働くのだ。正当な理由をもつ権限執行云々は人ならざる存在には関係がない。つまり、逆上する可能性のある刀剣男士を宥めすかして、それでもだめなら大人しく斬られろ、というところまでが使い捨てにすぎない管狐の役割である。
 実際問題、管狐が斬られることのデメリットというのはほとんど存在しない。というのも、各本丸に派遣された管狐は眷族に過ぎず、「こんのすけ」にはなんの影響もありはしないからだ。大体、管狐なんて、霊体に過ぎないわけだし。付喪神たる刀剣男士と違い、本体たる依代があるわけではなく、物理的な攻撃を受けてもただ霧散するだけだ。(そして時と共に再度集合し、霊体として存在を確立する)
 とまあそんなわけで、人間様に比べて命の価値が低い、と言外に言われている管狐としては、唯々諾々と仕事をするしかない。しなければ、陰険上司から嫌味がねちねち飛んでくる。わたしだって、こんな仕事、本当はしたくない。実際に死ぬわけではないとはいえ、顔だけは良い男共から殺気を向けられ何度も斬り殺されるのなんて、トラウマにならないわけがない。正直、就職一年目は悪夢の連続だった。今はもう、慣れたけど。
 管狐の良いところは表情が変わらないところだ。いつの間にやら部屋の隅へとちゃっかり退避していた男へ、わたしはつとめてゆっくりと顔を向けた。できるだけ、刺激しないように。ただ、あの光景を見て瞬時に斬りかかってこないところを見ると、己の主が捕縛された理由にも心当たりがあるらしく、どうやら穏便に済ませられれそうである。このまま、無事に事が済めばいいのだが。
 男はその秀麗な顔に、にこにこと得体の知れない笑顔を浮かべていた。下に何も着けずに小袖を羽織っただけの姿ははっきり言って目の毒だが、今更、男の裸に恥じらいを感じるにはあまりにも似た光景を見慣れすぎていて、特に何の感慨もわかなかった。世の中の女は、何故こうも顔のいい男に弱いのだろうか。
『三日月宗近様、御前を騒がせ誠に申し訳ございません』
 にこり、と笑う男は天下五剣と呼ばれるレア刀の中でも最も美しいと言われる付喪神。人ならざる美貌を誇る平安生まれのイケメンじじい様である。何人もの審神者がこの刀に人生を狂わされているのを見ているせいか、わたし自身は彼に対してそれほど良い印象はない。それでも下手に出るのは、彼らが歴史修正軍に対抗しうる、現状唯一の戦力であり、わたしにとっては、食いぶちを稼ぐための大事な商売相手だからである。
「よい、よい。久しぶりにおもしろいものを見せてもらった。気にするな。このままでは早晩、青江がその女を斬り殺すのではないかと、それだけが心配だったのでなあ」
『にっかり青江様がですか』
 あの何事にも飄々とした態度を崩さないにっかり青江がとは珍しい。とはさすがに口に出さなかったが、伊達に長生きしている平安じじい様にはお見通しだったらしい。手を口にやって、ふふっと三日月はそれは優雅に笑って見せた。
「そうだ。青江はいつかのことを気にしてか、子どもには優しいからなあ。この本丸のそこかしこにいる水子を随分不憫がっておった」
 ゆるり、と白い指先が指した方角へと視線をやるが、部屋の隅には子どもの霊どころか何がいる気配もない。刀剣男士に見えて、管狐の目で見えないものがいるとも思えないが、たとえからかわれているのだとしても、さして問題ではなかった。わたしの仕事は本丸の除霊でもなければ、呆けた刀のカウンセリングでもない。
『追って水子供養の為の僧侶も伺うよう、要請しておきます』
「そなた、見えておらんだろう。俺の言葉をそのまま信じるのか?」
『水子霊がいようがいまいが、それを確認するのはわたしの仕事ではありせんので。三日月宗近様、ならびに当本丸の刀剣男士様におかれましては、更にお時間をちょうだいして申し訳ございませんが、担当官が参るまではこのままこちらで待機ください。誠に勝手ではございますが、然るべき処置の後、刀解または他本丸への譲渡のいずれかをお選びいただくことになるかと』
「その女はどうなる?」
『それは存じ上げません。管轄外ですので。お気になるようであれば、後ほど伺う担当官にお尋ねください』
 まるで予想外のことを言われたように、きょとん、と目を丸くしてそれから、三日月宗近は、はっはっは、と声をたてて笑った。
「俺は天下五剣だぞ。求められれば与えこそすれ、求めるのは俺ではない。他の奴等はどうか知らぬがな」
『それは失礼いたしました』
 笑ってはいるが、目がまったく笑っていない。つくづく面倒な刀だ。いや、この刀がとりたてて面倒なわけではなく、妖怪変化全般がともかく面倒な存在だという、それだけのことなのだ。本当に、わたしはどこをどう間違えてこんな仕事をするはめになったのか。内心ため息を吐きたいのを無理矢理押さえて、わたしはできるだけ冷静に言葉を紡ぐ。
『三日月宗近様におきましては、わざわざ申し上げることでもないかとは存じますが、担当官の参りますまではくれぐれもこの球体には触れられませんよう。この縄は霊力封じの特別製ですので、対となる呪がなければ、斬りもほどけもいたしません』
「あいわかった」
『それではわたしはこれで。この度はこちらの不手際により、大変ご迷惑をおかけいたしまして、申し訳ございませんでした。他のみなさまにもよろしくお伝えください』
 ぺこり、と狐のやけに重たい頭を下げ、早々に会話を切り上げる。さっさと意識を戻して必要部署に人員の派遣を依頼しなくては。けれども、
「まぁ、待て。こんのすけ。いや、そなたーー狐憑きの娘だな?」
 三日月の制止の言葉に、ぴしり、と体が勝手に強張る。
 狐憑きの娘、ただ、その言葉に、体が、頭が、反応を止める。
『……はて、なんのことやら』
 無理矢理捻り出した言葉は、なんの否定にもなっていなかった。三日月がくすくすと笑う。とても優雅に。その余裕が、こちらの感情を逆撫でする。
「そなたはただのこんのすけではない。見た目はただの管狐だが、中身は人の魂だ。よく目を凝らせば俺にもわかるぞ」
『こんのすけはこんのすけでございます。それ以上でも以下でもございません』
「いや、間違いない。俺はそなたを見たことがある」
 あれは、主に連れられて、手続きとやらに政府とやらにつれて行かれた時だったな、と聞いてもいないのに刀は続ける。
「俺は見たぞ。そなたの目を知っている。愛さがれたがりの目をした娘だ」
『誰の事やら、人違いでございましょう』
「なんと。照れておるのか? そうまで否定せずともよいだろうに」
『否定も何も、事実ですから』
「その言葉、嘘はないな?」
 三日月が一層笑みを深くする。冬の夜に見る月のような冷たさに、今は感じるはずのない背筋がぞっと凍えた気がした。
 人ならぬ物に嘘をつく、そのリスクをわたしとて知らないわけではない。
「まぁ、良い。そなたがいくら否定しようと、俺は真実を知っている」
『……ご用件が他にないなら、失礼させていただきますが』
「ほんに白々しい。なぁ、そなたはどうなのだ。そなたは俺が欲しくはないか?」
 本当に、目の前の天下五剣様は一体何を言い出したのか。あまりの自信過剰発言に思わずそのご尊顔をまじまじと見つめてしまった。美しいのは認めるが、誰も彼もが面食いの刀フェチだと思うなよ。そう口走りそうになるのを必死で飲み込み、わたしは口角を引き上げる。管狐が実際に笑えるものかは知らないが、そんなことはわたしの知ったことではない。
『お戯れを』
「老いらくの恋を戯れと申すか。そなた、冷たい娘だなあ」
 今度こそ本当に絶句した。
 恋、なんてどの口が言うのだろう。今さっき、求めるのは俺ではないとかなんとか抜かしたところではなかったのか。自分の言ったことをすぐ忘れるとはじじいか、いや、正真正銘じじいだった。
 それにしても、恋とはなんだ。まさか、先程の政府で見かけたという話、たったそれだけで恋だなんだと抜かすつもりか。
『あなたはわたしを、知らないでしょう』
「一度見かけた、それだけで十分だ」
 一目惚れ。不意に頭に浮かんだ言葉を踏み潰してぐしゃぐしゃにする。そんなことはありえない。ましてや、三日月が見た娘というのが、本当に自分のことかもわからない。娘と呼ばれるには、自分はもう歳をとりすぎているのだし。
 大体、彼はさっきまでそこの布団で他の女を相手にせっせと情事に励んでいた男だ。どう考えても、からかわれている。
 くらり、と目眩まで覚えはじめたわたしへ、追い討ちのように三日月が口を開く。
「そうだな、そなたの狐を斬れば俺に答えてくれるのか?」
 何事もないように紡がれる言葉に、はっ、と息をのみこんだ。
『……それ、は』
 青い瞳に浮かぶ金の三日月がぎらりと光る。わたしは否定も肯定もできぬまま、

 バチンッ!

「……陸奥の国へ‐354211号本丸付き審神者について、本丸運営法第16条違反により、本丸運営および審神者業務の継続に支障をきたすと見なし、同身柄の拘束を行った。同本丸担当官への速やかな通達および同本丸への審神者適正監査員、水子供養の為の、玄蕃局からの僧侶の派遣を要請する」
「はいっ!」
 バタバタと職員が一人部屋を飛び出していく。詳しいことはあの本丸に残してきた管狐が説明するだろう。はぁ、と大きく息を吐いて、わたしは両手で顔を被った。憑依状態から急に意識を引き剥がされたせいで、頭がぐらぐらする。頭蓋骨の中に手を突っ込んで、直接脳みそを揺らされているような気持ちの悪さ。三日月の余計な一言が原因なのは明らかだった。最悪だ。本当に、余計な真似をしてくれた。
 もうこのまま眠ってしまいたい。目を閉じると周りの音が少しずつ遠退いて行く。まるで、たった一人きり、深海に落ちていくように。重力が、身体を押さえつけていく。
 はぁ、とひとつ大きくため息をついて、落ちかける意識を無理矢理叩き起こす。息を吸って、吐いて、転ばないようにゆっくりと椅子から立ち上がる。珍しく我が儘を言って経費で購入した革張りの高級チェアの座り心地はなかなかだが、立ち上がるときがひどく辛い。
「課長補佐、どちらへ」
「……地下に。一時間くらいで、戻ります」
 部下という名の監視役へ、ぼそぼそと返す。毎度の事ながらご苦労なことだ。わたしがここから逃げるとでも思っているなら、無駄な心配だった。いちいち行き先を聞かなくても、わたしにはここ以外、どこにも行く場所なんてない。
 むっとした顔を返しても、わたしのような名ばかり管理職にどう思われようが痛くも痒くもないらしく、能面じみた面長の顔はひとつ頷くと、すました表情で護摩壇に向きなおり、経を唱える作業へ戻っていった。わたしは護摩壇の奥に祀られた荼吉尼天の白い掛軸をついでとばかりにちらりと睨んで、足元に注意しながら部屋の入り口へ歩き出す。神祇庁歴史修正対策本部審神者管理局式神管理課課長補佐、なんて大層な肩書きを持っていようが、実際はこんなものである。政府にとっては体のいい小間使いみたいなもので、数がいて、家族がおり、世間に名も知られた審神者の方がよっぽど待遇もよいし、給料ももらっている。命の危険がどうこう言う輩もいるが、実際に日々、歴史修正主義者と対峙して命のやり取りをしているのは審神者ではなく刀剣男士で、本丸や政府本部への襲撃はあるにはあるが、年に数件ほど。大体、現世にいようが、自動車事故に通り魔に、危険はいくらでもあって、審神者の死傷率と比べても取り立てて変わりはない。審神者の危険手当てなんて、官僚の使途不明金と同じぐらいわたしには理解できない費用である。
 なーんて、審神者と今の職場、どっちがましかと言われればどちらもお断りなのだが。
 部屋の天井、壁、床、至るところに何百、何千という竹筒が、吊るされ、積み上げられ、並んでいる。筒の奥からじっとりとこちらを見つめる獣の瞳に、薄気味悪さを感じて目をそらした。筒のうちのいくつかは本丸へと渡っている為、空の筈だが、それがどれなのかはわたしにはわからない。わからないから余計に不気味で、わたしの苛立ちを増長させる。
 いっそ、火をつけて回りたい、とふと思った。わたしも、無事では済まないだろうけど。

 なんとか筒を蹴飛ばさずに外に出れば、部屋の中との温度の差にぶわっ、とたちまち鳥肌がたった。四六時中護摩を焚いている部屋の中に比べれば、廊下はいっそ寒いくらいで、その場で腕を何度か擦る。そうして無駄に時間を過ごしたせいで、廊下の奥の角からひょこひょこと現れた、痩身中背の男と顔を合わせる羽目になった。
「オヤ、クダヤだ」
 耳につく、男のわりに甲高い声。出て来て早々、嫌なやつに会ってしまった。無視して進むこともできず、心の中だけで舌打ちをする。
「……おつかれさまです」
「日のあるうちから表に出てくるとは珍しい喃」
「そう、ですね……仕事がございますので、失礼します」
「貴君の仕事はそこの部屋で狐どもの機嫌を取ることではないかネ」
 ケラケラと男が嗤う。別部署の癖に狙ったようにやってきて嫌みを言うこの男は、これでなかなか地位が高い。陰陽庁は神祇庁に負けず劣らず血筋による派閥争いが盛んだという話だから、つまるところそれが示すのはこいつも名家のお坊ちゃんだということだ。こんな性悪のくせに金も権力もあるというのだから、世も末だ。いつか見返したいところだが、コネも身寄りもないただの管使いには逆立ちしても勝てない相手なので、この男に絡まれた時は、言い返さずに頭を一つ下げてさっさと脇を通り抜けるに限る。
「まったく、獣臭くて敵わん喃」
 うるさいうるさいうるさいうるさい。

 廊下の突き当たりを左に曲がって、下階行きの職員用エレベータにまっすぐに乗り込んだ。階数指定の文字盤の下の鍵穴に、首から下げた錆びかけの鍵を差し込んでぐるりと回せば、心得たとばかりに、エレベータがゴウンゴウンと今にも壊れそうな音を立てて動き出した。地下へ、地下へ、地獄にでも行くんじゃないかと思われる約三分半の下降は、実はそれほど下がっているわけではなく、単純に機械の劣化で時間がかかっているだけである。たとえ使う人数が少ないとしてもさすがにこれには予算をかけてもいいのではないだろうか。なんて思っているうちに、チン、と間の抜けた音がして、エレベータが目的階に着いたことを知らせた。階数表示はB127F。人間が訪れることを目的としないこの階は最低限の避難灯しか設置されていない為、エレベータから一歩足を踏み出せば、そこはもう自分の手さえも見えない真っ暗闇だ。
 一寸先の闇の中へ、八つ当たりぎみに右手を伸ばす。打ちっぱなしコンクリートの壁は冬は氷のように冷たくなるが、ここでは壁伝いに歩くしか方法がないのだから仕方ない。右手からぞくりと伝わる冷気を我慢して、左手で体を何度もさする。背後で、チン、とまたエレベータが鳴って、ガタガタと扉が閉まっていく。背後の光がなくなると、星の光よりもぼんやりとした避難灯しか頼るものはなくなった。だがこの暗さでは、もし万が一ここでなにかの災害が起きたとしても何の役にも立たないだろう。
 極端に視覚から得る情報が少なくなると、人間とは不思議なもので、他の五感がやけに鋭敏さを増してくる。
 どこか湿り気を帯びた空気。窓もないのに、わずかに風が吹き抜けて、血臭に似た生臭さを運んでくる。それに混じって聞こえてくる、獣の唸るようなぐるぐるという、声。
「はぁ、めんどくさ」
 ため息を一つ吐いて、わたしは歩き出す。今日だけでいくつため息を吐いただろう。口には出さずに飲み込んだものも含めれば、三十は下らない。ため息を吐くとしあわせが逃げるというが、それならもうわたしにはしあわせなんてものは残っていないかもしれなかった。
 ……馬鹿馬鹿しい。
 益体のない考えを首を振って振り払う。落ち込んだところで誰が救ってくれるわけでもない。沈みがちな思考を強制的に断ち切るように強めに一歩、足を踏み出す。こつこつと、歩きたくもない道を仕方なく歩いていく。時折角を曲がって、またしばらく直進する。進むほどに、唸り声が少しずつ大きくなってくる。
 何度目かの角を曲がった時、それは突然現れた。
『主様』
 ぐるぐるぐる、と耳に直接伝わるのは、相変わらずの唸り声だ。まるで火山の火口を覗き込んでいるような、マグマの煮え立つのにも似た唸り声。なのに、頭に響くのは無邪気ささえ感じさせるまだ幼い子どもの声だ。
『主様、お帰りなさいませ』
「お帰りって……、あんな風に無理矢理引き戻しておいて、どの口が言うんだか」
 鼻で笑って、声の主を睨み付ける。
 白に近い金色の毛皮が息をする度にきらきらと波打って、光もないのにそこだけが明るい。それは洞穴に潜む鉱物にも似ていて、けれどもけして物言わぬ無機物などではなく、わたしの背を遥かに越えて、小山ほどもあろうかという四つ足の生き物である。一見すると熊か狼にも似ているが、これは大きさが規格外なだけのただの狐だ。少なくとも、狐、と政府はそう呼んでいる。
「こんのすけ」
 ぐるぐると、きゃらきゃらと、まるで多重放送のように、二つの笑い声が狭い地下通路にこだまする。
『なんでしょう、主様?』
 こちらが何に怒っているのか、何を考えているのか、こいつはなにも分かっていない。これはそういう生き物なのだ、とわかっているのに、改めて目の前にすれば疲れがどっと押し寄せる。
 こんな生き物一匹に振り回されて、人生をめちゃくちゃにされて、逃げ出すこともできなくて。
『主様?』
 声に背を向けてずるずるとその場に座り込む。もたれた檻の鉄柱の冷たさが、スーツの上着を通してじんわりと伝ってきて、背筋をぞくぞくと震わせる。すぐ傍でふんふんと、獣が鼻を鳴らす音が聞こえた。鉄柱の幅は爪一本も差し込む隙間もないほどだから、向こうからこちらに触れることは叶わない。
 捕らわれているのはあちらの方だ。わたしは檻の外側で、こいつを置いてどこへでも行ける。そのはずなのに。
「こんのすけ」
 もう一度、名前を呼んだ。生まれたときから側にいるのに、未だにどんな言葉を交わせばいいのかわからない。友達、家族、恋人、そんな人間同士の関係はどれも当てはまらない。飼い主とペット、審神者と刀剣男士、どれも違って、私はいまだに迷ってばかりいる。
「頭……痛い。最悪……」
 体に力が入らない。重力に逆らわず、わたしはそのまま床にごろりと寝転んだ。この床、掃除してるのかな。
「最悪だよ……お前なんか、いなければよかったのに」
 例えるならば寄生虫とその宿主。
 そうして――父と母の仇。

 わたしが初めて政府の役人と名乗る男と会ったのは、両親の葬式の日だった。

 今思えば、その前にはもう大体の選定が終わっていて、あとはより条件の良い相手に声をかけるだけ、というところだったのだろう。ここで言う条件の良い、とはもちろん政府側にとって、という意味で、頼るべき親族もいない、かといって子どもと呼ぶには少し育ちすぎた17歳の狐憑きの娘にとって、そのスカウトが良いものだったのか悪いものだったのかは、今でもよくわからない。ただ政府にしてみれば、わたしはまさしく鴨が葱を背負ってきたような存在で、親をなくしたばかりの子どもに対する優しさだとか同情とかいったもので選ばれたのではないということだけは小娘のわたしでも理解できた。
 その時はまだ、漸く審神者という職が起動にのり始めたばかりの頃で、本丸への事務連絡や審神者の世話はすべて政府の、人間の担当役人が行っていた。けれども、歴史修正主義者との戦いは年々苛烈を極め、それに対抗する為に新しく採用された審神者の数も増加の一途を辿る、となれば、当然それを補佐する役人の増員が緊急課題となるのは当たり前のことであった。しかし、本丸というのは戦いの要となる刀剣男士をもてなすための神域であり、審神者を歴史修正主義者の手から守るための砦である。現世と隔絶されたそこへの道筋は政府の中でも限られたものしか知らず、ゆえに足りぬからと言って闇雲に人を増やせば、そこに敵の間者が潜り込まないとも限らない。困り果てた政府は手っ取り早くこの問題を解決するために、人ならぬものの力を借りることにしたらしい。
 それにしても刀剣男士にしろ、この件にしろ、どうやら政府は人外のものを便利な秘密道具のように考えているらしいが、そのうち手痛いしっぺ返しが来ることをわたしは切に願うばかりである。閑話休題。
 そんなわけで、わたしは17で政府に雇われることになった。四国の犬神使い、中国の外道持ち、関東の尾裂屋。わたしの生まれた家はそういう類いの憑き物筋の一つだった。
 今となっては父と母のどちらに憑いてきたのか、それとももしかしたらどちらもがそのような家だったのかは知るすべがない。わたしが知っているのは、仏壇にかけられた狐に乗った天女ーー荼吉尼天の掛軸を、両親が熱心に拝んでいたことだけだ。その掛軸は、今やわたしの仕事道具のひとつである。
 荼吉尼天は外法の神だ。一度奉れば逃げられぬ。命と引き換えに繁栄を約束する代わりに、信仰を失えば祟りをなす。荼吉尼天法は狐を使役する邪法であり、荼吉尼天から授かった狐を管狐と呼ぶ。竹の筒、つまり管に入るほどの大きさであるから管狐で、彼らは主人の意に沿って他家から財産を奪い、主家を富み栄えさせる。富が増えるとともに狐は増えて、やがて増えすぎた狐は家を食い潰す。だから、管狐の憑いた家は嫌われる。
 わたしの家の狐は物心ついた頃には既に富をもたらすものではなくなっていたらしい。親戚縁者どころか祖父母の名前を聞いたこともないというのは、そういうことだったのだろう。けして裕福ではない家庭で、両親は朝から晩まで働いてわたしを育てた。そして、仕事場からの帰り道、車に轢かれて死んでしまった。あまりに唐突すぎて、わたしは二人の最後の姿も満足に見ないまま、上の空で葬式を終えた。よくわからないうちに一切が済み、火葬場から上がる煙を見た時、やっと、一人になってしまったという実感が襲ってきて、そのまま遺影を抱き締めてぼろぼろと泣いていた。
「この度はご愁傷さまです」
 にこにこと、胡散臭げな笑みを浮かべて政府の役人が声をかけてきたのはその時だった。
「嗚呼、これは立派な管狐だ。これほどまでに増えてしまえば、ご両親が亡くなるのも無理はない」
 突然の庇護者の喪失に怯えていたわたしにその言葉はーー今思えばとんだお笑い草だが、なにかの預言のように聞こえた。何もかもを知り尽くした、神の託宣のような。
「む、無理はない、って、あなたは、父と母が死んだ理由を、知っているんですか!?」
「なんだ、憑き物筋の娘の癖に何も知らないのか。可哀想に」
 細い銀縁の眼鏡の奥から男が笑った。人を馬鹿にする、嫌な笑いかただった。ちなみに彼は今のわたしの上司で、笑いかたそのままの、実に嫌な性格の男である。
 震えるわたしは役人の言うままに数多いる管狐のなかから一匹を選んで名前をつけた。狐だから、こんのすけ。子どもの遊びの延長線上にある、センスの欠片もない単純な名前はそれでも確実に人外の物を縛り付けた。
 名は体を表すとは、名前はそのものの本質を言い表すという意味の諺だが、そもそもそのものただ一つを定義する言葉を名前と呼ぶのならば、名前が本質を表すのは当たり前のことなのだろう。言葉によってすべての事象はこの世に形を表し、定義される。ただ一つ、自分だけの名前を得た管狐もまた、わたしの思いつきでつけられた名前によってこの世に定義され、ただ一つの管狐になった。
 名前を持つことによってその輪郭を明確にしたこんのすけという管狐がまず一番にしたのは、辺り一体にたむろした、名前のない管狐たちを食らうことだった。首を噛み千切り、肉を食み、血を啜る。はっきりとした己を持たない管狐たちはなす術もなく皆、こんのすけの餌食になった。
 そうして、こんのすけは、ゆらり、とわたしの前に初めてその姿を現したのである。
 同族を食らうことで小山のごとくに膨らんだ巨躯、金の毛並みは返り血に濡れ、つきだされた鼻面から溢れんばかりの血臭が香り、にやり、と大きく開かれた口の間から覗く、鋭い牙からずるり、と肉片が落ちたのを見て――わたしは気を失った。

 あの日以来、こんのすけは政府施設の地下に封印されることとなり、わたしは彼を操る為の修行に明け暮れることになった。
 両親の残した荼吉尼天の掛軸を前に護摩を焚き、朝から晩まで呪言を唱える。学校は辞めた。辞めさせられた、と言いたいところだが、辞めるしかないと自分でもわかっていた。あの狐を操ることができなければ死ぬしかない。数百匹からたった一匹へと数こそ減ったにしても、その一匹を使役できなければ結末は変わらない。両親と同じ、腹をすかして制御のきかない狐に食い殺されるだけ。
 生き続けたいのならば、娘らしい楽しみは――友も、恋も、お洒落も、何もかも捨てるしか、道はなかった。
 何度も泣いて、怒って、そうして最後はいつも笑った。あの時両親と一緒に死んでおけばよかったとは、どうしても思えなかった。自分で思うよりもずっとずっとわたしは生き汚かった。
 元々、素質があったのだろう、わたしは一年でほとんどの呪法を操るようになり、通常の管狐ならば七十五匹までと言われるところを、特殊な呪法――蠱毒と後にその名を知った――によって強化されたこんのすけの数百、数千にもおよぶ眷族を各本丸へ派遣できるようになった。
 彼らの目はこんのすけの主たるわたしの目。眷族の目を通じて見る本丸は、たまに例外はあるもののそのほとんどが平和で、穏やかで、まるで戦時とは思えないものだった。
 ……羨ましくない、と言ったら嘘になる。
 心を許し、支え合える仲間がいる。たとえそれが人ではないものだとしても、審神者というものはけして孤独な職ではなかった。彼らは時に笑い合える友となり、頼れる人生の先輩となり、心解きほぐすいたいけな被保護者であって、ともすると愛し合う恋人となった。人外と親しく付き合うなどまっぴらごめんだが、そうして幸福そうに笑う彼らと比べれば、自分の人生は呪われたものにしか思えなかった。
「此所にいたのか」
「……課長」
「就業時間中に業務を放り出してサボりとは感心しない」
「一応、商売道具のメンテナンスも業務の内だと認識しているのですが。違いましたか?」
 不本意ながらも顔をあげると、目の前にやせぎすの姿勢の悪い中年男性が立っていた。普段はさっぱり顔を見せないくせに、こういうときばかり上司面をして顔を出す。にやにやと意地の悪い顔で笑って、細い縁の眼鏡をぐいと人差し指で押し上げる。
「道具風情にいつまでも振り回される出来の悪い部下を持つと、苦労が絶えんな」
 どいつもこいつも、そんなに文句ばかり言うなら自分がやってみればいいだろうに。なんて。そんなことを口に出せる筈もなく、わたしは溜め息をひとつ吐いて、おとなしく職場に連れ戻されたのだった。

 それからまた数日経った。数ヶ月、かもしれない。日々代わり映えのしない業務に追われるわたしの日常は時間の感覚が薄い。いつものようにこんのすけの視界を通して本丸を巡回している最中、ピリッと覚えのある痺れを小指に感じて、わたしは再びどこかのこんのすけへと意識を飛ばした。

 次の瞬間、立っていたのは戦場と見紛うような惨状の真っ只中だった。

『……歴史修正主義者による襲撃、か』
 散らばる調度にベットリと付着した血糊。キラキラとその間で輝くのは折れた刀剣の破片だろう。本丸はその場所が政府によって厳重に管理され、基本的には審神者とそこに住まう刀剣男士、管狐の他は訪れることもない。と言っても、毎日のように戦場へと赴いているのだから、情報が漏れるリスクは日々増える一方で減ることはけしてない。が、表向きに政府は敵軍による本丸の襲撃はほぼない、と発表している。審神者のなり手が減少することを危惧しているからだろう。確かに数は多くはないが、本丸の襲撃はわたしの知っている限りでも年に数回は起きていた。
 本丸は静かだった。おそらく、生きている者は誰も残ってはいないのだろう。一度本丸を襲来した歴史修正主義者は審神者を殺すまでは撤退せず、審神者が死ねば彼が顕現した刀剣男士はすべて人の身を失い、刀剣男士はたとえ己が破壊されようとも主を守ろうとする。だから、歴史修正主義者に襲撃された本丸は、大体何も残っていない。何もかもが死んで、折れて、なくなっている。それでも一応は生存者を探すため、わたしは四つ足を操って歩き出した。折れた柱に破れた障子、割れた硝子片と、それらをひょいと飛び越えながら、本丸の中へと上がり込む。こんな仕事をするうちに見覚えた拵の鞘のいくつかが落ちているのを、あれは歌仙兼定、あれは一期一振、と見定めながら歩いていく。審神者の遺体は執務室か、手入れ部屋か。
「おや」
 不意に崩れた柱の影から声がした。聞き覚えのある声に、思わず眉間に皺がよる。嫌な予感がする。
 ふらり、と影から出てきたのは、太刀の刀剣男士――三日月宗近だった。
「こんのすけ……では、ないな。狐憑きの娘か」
『三日月宗近様、よくぞ御無事で』
「しばらくぶりだが、そなたも元気そうで何よりだ」
 はっはっは、と三日月が笑う。崩れた本丸には不釣り合いなほど明るい笑い声だ。今しがた主を喪ったばかりの刀剣男士とはとても思えーー違う、主を喪ったのなら、刀剣男士として存在できる筈が。じゃなくて。今、この太刀はなんと言った?
『まさか……貴方様は、あの三日月宗近様ですか……?』
「うん? そなた、もう俺の顔を見忘れたのか。じじいは寂しいぞ」
 よよ、と狩衣の袖を目元に当て、三日月が泣き真似をして見せる。白々しい仕草には何の感じるところもないが、しかし、あまりの偶然に、しばしわたしは呆然とした。
 三日月宗近はレアではあるが、けして少なくはない数の顕現が確認されていて、その姿は珍しいものではない。とはいえ、この――嬰児殺しの審神者に顕現された、陸奥の国へ‐354211号本丸の三日月宗近に偶然でも出会うことは、二度とないと思っていたのに。
『何故……ここに……』
「あれから直ぐに本丸は閉鎖となったのだが、そなたの寄越した担当官とやらが潔斎だなんだとうるさくてなぁ。ようやっと一週間前に行く末が決まって、今日が新しい主との初顔合わせだ。まぁ、見ての通りだがな」
 にこにこと笑いながら三日月が口にした言葉が真実なら、随分と運のないことだった。
 本丸運営法に抵触した審神者の刀剣男士は、一定期間の精進潔斎の後、刀解または他審神者への譲渡を選択できる。通常、顕現を行った審神者が死ねばその刀剣男士はただの刀に戻るが、生前に譲渡される場合には、政府の神祇官の一時預かりとなって、顕現状態が解かれないからだ。譲渡を希望した場合には、顔合わせの後に、双方同意があれば本契約へと進むことができる。三日月の言葉によれば、今日が初顔合わせということだから、この三日月はまだ政府預かりということだ。主従の契りを交わす前の刀剣男士にとっては、過ごしてきた時代の事もあり、赤の他人の生き死には関心の外である。この惨状においても三日月が常と変わらぬ薄ら寒い笑みを浮かべているのはそのせいだろう。
『それは……なんというか、せっかくご足労いただきましたところをこの様な結果となりまして、大変申し訳ございません。……ところで、こちらにいらっしゃる際にご一緒した担当官はどこに』
「あぁ、役人なら連絡を取りに外に出ているぞ」
『そうですか。では、わたしはこれで』
 刀剣男士を置いて外に出ているということは、担当役人もこの場に危険はないと判断したということだろう。わたしとしても、いつまでもひとつの本丸にーー既に壊滅した本丸に長居する理由はないし、この三日月宗近と長々と話す謂われもなかった。ぺこり、と頭を下げて、意識を切り離そうとした時だった。
「あぁ、戻ってきた」
 ここだ、ここだ、と三日月がひらひらと手を振った。そちらを見ると、まだ20代前半の、若いスーツ姿の男が瓦礫を避けながらこちらへと駆けてくる。
「三日月さま、お待たせしてすみません……って、こんのすけ!」
『おつかれさまでございます』
 声をかけられて黙って帰るというのもできず、仕方なしに男に向かってぺこり、と頭を下げると、男も慌てて頭を下げ返してきた。刀剣管理課は初期刀の管理および様々な理由から主を失った刀剣の管理を主に行う部署で、その業務内容から、式神管理課との仲はそれなりに良好だ。たまにあからさまにこちらを見下してくる輩もいないではないが、この役人はそういった類いの男ではないらしい。
『本丸管理課への連絡は既に行っていただいた、ということでよろしかったでしょうか』
「はい、連絡済みです。処理班もすぐに到着します」
『承知しました。それでは、わたしは今度こそ失礼させて』
「まぁ、待て」
 嫌な予感にすぐさま尻尾を巻いて逃げ出したいが、そんなことをすれば役人に不信感を持たれること請け合いである。どうしようもなく、わたしははぁ、といずまいをただす。
「三日月さま?」
「のう、役人よ。ひとつ相談があるのだが」
「相談、ですか? なんでしょう」
 余計なことを言ってくれるな、と三日月の顔を睨み付けるが、任せておけ、とばかりに、わたしの方を向いて三日月が頷く。全然、まったく、安心ができない。
「この娘のもとへ行く、ということはできんのか」
 嫌な予感が的中した。
「へ? この娘って……?」
『担当官様! 三日月宗近様はどうやら、この惨状を目にされて少しばかり混乱されているご様子』
「狐憑きの娘や、そう邪険にせずともよかろうに。なぁ、こう何度も会うのは運命とは言わぬのか?」
 少なくとも俺は今日ここで言葉を交わせて嬉しいぞ、と三日月は笑うが、その背景には無惨に崩れた本丸の成れの果て。誰かの犠牲の上に成り立った出会いであっても、人ならぬ彼にはまるで関係のないことであるらしい。
 憎らしいほどの、自分勝手。
 それでもこの状況では誤魔化す以外になにもできなかった。神祇庁の中でも、こんのすけをただの狐型の式神だと思っている者は多い。管狐、という呪詛にも近い存在を遣うことはさすがに表立って口にできるものではないらしい。ましてや、その術者がたった一人の女だなどということは。
 びっくりまなこできょろきょろと三日月とわたしとを見比べる役人の様子を見る限り、どうやら話の内容を理解できてはいないようだ。しかし、これ以上余計なことを言われて他部署との関係が拗れては堪らない。
『三日月宗近様』
 わたしは渋々口を開いた。
『貴方様が無事、新たな審神者と契約を結ばれましたら、お目にかかる機会もございましょう』
「俺に誓えるか」
『はい』
「約束だぞ」
『はい、お約束いたします』
 仕方なしに、言上げた。
 この国はことばの国。すべてのことばは祝福され、呪われている。どんなものだろうと、軽々しく言葉を紡ぐべきではない。
 けれども、そんなこと、今更だ。
『それでは、わたしはこれで』
「あぁ、それでは、息災でな」
「おつかれさまでした」
 ぺこり、と一礼して踵を返す。三日月も、今度は引き留めなかった。
 管狐の体でできることはもはやない。わたしは狐の体のまま、術によって構築された時のあわいへと飛び込んだ。

 それから、平和なまま半年が過ぎた。三日月宗近には会っていない。今後も会うことはないだろう。そもそも、わたしは、お目にかかる機会もございましょう、と言っただけで、必ず会うとは言っていない。彼が新しい審神者と契約を結んだかも、その後刀剣男士として恙無く暮らしているのかも、何も知らない。
 それでいい。わたしなんかとは、会わない方がいいのだ。
 わたしが出ていく、ということは、何か良くないことが起きているということ。通常の本丸業務はわたしが手を出さずともただの管狐だけで十分に回せるもので、わたしがするべきことは呪法によってただ大元である「こんのすけ」を抑えておくことだけ。それ以外に私にすることなどないし、望めることも何もない。それだけがわたしの人生で、生きる術。
 そのはずだった。

「やぁ、久しいなぁ。狐憑きの娘」
「……えっ、はぁ……えっ……?」
 昼休憩にと、仕事部屋を出てエレベーターを待っている時のことだった。
「えっ、え……っ、あの、え?」
「会うのはこれで四度目だが、そなたの声は初めて聞いたな」
 はっはっは、とどう考えてもここにいる筈のない三日月宗近がわたしのすぐ側で笑っている。まさか、と何度かまばたいて、目をこすって、それでも消えない幻に、ウソ、と勝手に言葉がこぼれた。
「なん、で……、貴方様が、ここ、に」
「そなたがなかなか会いに来てくれなんだからな、俺から会いに来たのだ」
 さぁ、顔をよく見せておくれ。そう言って、三日月の手がわたしの頬を撫でる。両手でもって上向かされて、目と鼻の先に金色に光る三日月が見えた。
「よし、よし。俺が見込んだ通りの目だ」
 にんまり、と三日月が嗤う。
 一体、どうして、なんで。
 頭の中は疑問だらけで、何が起こっているのかわからない。頬を挟む手を振りほどけないまま、救いを求めてきょろきょろと目だけで辺りを見回せば、天下五剣一と謳われた美貌が、余所見はさせぬとばかりに更に迫る。
「ひっ」
 正直に言えば、泡を食って逃げ出したい。管狐の目から見るのとは、まるで違う、逃げ場の無い状況に、勝手に頬が熱くなる。はくはくと声もあげられないまま、口を開閉していると、下唇にそっと指がかけられる。なにこれ、嘘でしょ。
「三日月宗近様」
 救いは思いもよらぬところからやって来た。たとえそれが陰険上司であろうとも、今この状況においては、天の助けにも感じられる。無理矢理声の方に頭を向ければ、相も変わらず人を見下したような目つきで、神祇庁歴史修正対策本部審神者管理局式神管理課課長その人が腕を組んで立っていた。
「か、課長」
「なんだ、お前。まだいたのか」
 しっしっ、と犬でも追い払うかのように三日月が袖を振る。あまりの傍若無人な振る舞いに目眩がする。あとでどんな嫌みを言われることか。今から胃が痛くなりそうだ。
「いますよ。説明が済んでおりませんので」
 そもそもどんな状況かと、混乱の最中にいる私をよそに、三日月と課長は話を進める。
「今更、説明もなにもないだろうに」
「下手に抵抗されては困ります」
「外道だなあ」
「審神者を二人も潰したあなた様に言われたくはありませんね」
 飯綱、と課長がわたしを呼ぶ。私の名前ではない呼び名。ただ、職能のみを評価された名前だ。眼鏡の奥の瞳が冷たい。酷薄そうな薄い唇が、緩く弧を描いた。
「もうわかっているかと思うが、こちらは陸奥の国へ‐354211号本丸にいらっしゃった三日月宗近様だ。立て続けに主を無くし、お前への臣従を希望している」
「臣従って、わたしは審神者ではありません!」
 まさか、今になって審神者をやれと言うのだろうか。ここまでわたしを使い潰しておきながら。そんな、勝手なことを。
 かっと頭に血がのぼる。
「第一、こんのすけはどうするつもりですか! あれはわたしの言うことしか聞きません。わたしがいないと、わたしがやらないと、なにも、できないくせに……!」
「お前は本当に無能だな」
 馬鹿にしたような声音に、ますます身体の熱が上がった気がした。後先考えずに掴み掛かろうと伸ばした手を、後ろから冷たい手が取り上げた。そのまま青い袖のうちに、そっと隠すように抱き込まれる。
「俺の可愛い主だ。あまりいじめるな」
「甘やかされても困るのですが」
「どうしようが俺の勝手だ。指図される覚えはない。お前たちもそれを承知で俺に任せるのだろう」
 頭の上からくすくすと、笑い声が降ってくる。何がそんなに楽しいのかわからないが、ひどく上機嫌な三日月が恐ろしい。
「一体、何を仰りたいんですか」
「お前が三日月宗近様を引き取ることは上からの命令だ。拒否はできない。勿論、審神者になれ、ということでもない。あの管狐はお前の言うことしか聞かないからな」
「だったら、どうして」
「お前もそろそろ身を固めたらどうだ?」
 課長の顔は見えない。見れない。
 自分が今、どんな顔をしているのかも。
 わたしは狐憑きの家に生まれた娘だった。そのくせ制御の術も知らない、放り出されれば死ぬしかない弱者。父と母を殺した仇に、とり殺されるのを待つだけの存在が、今まで生きてこれたのはひとえに政府のお陰だった。だからって、だからってこんな。絶望に、指先が震える。
「わたしに、次の犠牲者を産めと」
「犠牲者とは心外だな。政府がお前にしてきたことを考えれば、やっと巡ってきた恩返しの機会だと喜んでもいいくらいだ」
 戦争の終焉まで、わたしが生きている保証はない。だから、こんのすけを継続して運用するためにはわたしの跡を継ぐ者が必要だった。管狐は家に憑く。他の誰でもない、わたしが産んだ、子どもが、いる。
 足に力が入らない。崩れる身体を掬うように抱き止められて、狩衣の胸へと引き寄せられる。近くで吸った甘い香の薫りに、頭の奥がくらくらした。
「そう怯えずともよい。そなたはただ、俺に愛を強請ればいい」
 三日月の声がどこか遠くで聞こえる。
「俺を欲しがってくれ」
 本当に、どこで間違えたのだろう。わたしの人生は結局、化け物に、食い物にされるだけの一生だった。

 三日月宗近は千年、人に愛された刀である。天下五剣一の美しさは様々な人間を魅了したし、なんの因果か刀剣男士と呼ばれ、人の身を持つようになってからもその美しさは冴えわたるばかりだった。誰もが三日月を羨望の眼差しで眺め、主と呼んだ人間でさえ、彼の美しさに目を奪われているようだった。三日月は、正しく、愛されるということを知っていた。
 けれども、愛し方は知らなかった。愛したい、と思うものに出会わなかった。
 主は三日月や他の見目麗しい刀剣男士を侍らせるだけで満足しており、愛されたいとはまるで思っていなかった。もしかしたら、勝手に愛されていると勘違いしていたのかもしれないが、三日月はそんな彼女を愛したいとは思わなかった。同じ刀はどれもこれも、自分より美しいものはおらず、やはり三日月は愛したいとは思わなかった。
 ある日、主に同行して政府の施設を訪れた時だ。主は役人と話をしている。護衛の役割もある三日月が場を離れることは許されないが、あまりに長々と話しているので段々と面倒になってきた。置いて離れれば怒られるだろうが、じっと待つのもつまらない。こんなことならば別の者に役目を押し付ければよかったかと思っていた時、こちらにじっと向けられる視線に気がついた。
 顔色の悪い、痩せた娘が一人、こちらを見ていた。
 焦がれるような、羨むような、それでいて、憎むような。美しい物を見る目ではなかった。何かを愛する目ではなかった。それは三日月が初めて見た、愛されたい、と欲する目だった。
 全身に稲妻が走ったようだった。あの娘は、なんて目をしているのか。三日月が衝撃に戦いているうちに、娘はぷいと顔を背けて、廊下を行ってしまった。慌てて後を追ったが、主の呼び止める声にそれ以上は行けなかった。娘が立っていた場所は、なぜか獣の臭いがした。
 あの娘が、愛してくれ、と全身全霊をかけて強請るなら、と三日月は思った。愛してやるのも、悪くはないだろう、と。

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2017/12/12

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