うちの蔵のえらい神さま

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典さに / 一般人

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 うちにはえらい神さまがいる、と言っていたのは祖母だった。なんでも曾祖父が昔、戦地から帰ってくる際に、祀っていた神さまをそのまま貰ってきたらしい。すぐ前の戦争と言ったから、第二次世界大戦かと思うが、曾祖父の生きていた年代から考えると時代が違うし、そもそも戦争で祀っていた神さまなんて聞いたことがない。皇祖神とか、その辺りだろうか。祖母も嫁いだ後に祖父から聞いたらしく、詳しくはわからない。家には社も神棚も、それらしいものはなにもなく、だから、わたしもそのことはすっかり忘れていた。
 ――蔵の中で、彼と出会うまでは。

 三十路まであと数ヵ月、という八月の末日に会社を辞めた。辞表の書き方はネットで調べた。一ヶ月の休職期間の後の辞職願いだったから、さしたる引き止めもなく、すんなりとわたしは無職になった。この先の展望などまるでなかった。
『暇なら、おばあちゃんちの片付けでもしてきてくれない?』
 辞職を打ち明けた電話で散々わたしの計画性のなさを詰った後、諦めたように母が言った。電話口では、うん、とか、ううん、とかはっきりしない返事をして、それでもわたしは三日後には祖母の家を訪ねていた。それは単純に、もう一度、母から催促の電話を受けるのが恐ろしかったからだった。
 祖母の家は山陰のある県の、田舎の、山の方にあって、東京からは新幹線と電車とバスを乗り継ぎを繰り返して五時間はかかる。それも、時刻表通りに進んだ場合の話で、ちょっとでもどこかで遅れれば、田舎のバスなんか二時間に一本とかそんな頻度でしか来ないから、ひとつ逃すと大変なことになる。そんなドのつく田舎ではある祖母の家だったが、昔は地元でも有数の名家だったらしく、平屋の一軒家には立派な蔵さえついていた。もっとも、道楽者の祖父の代で価値のあるものは全部売ってしまい、蔵に残っているのは値段がつかなかったガラクタばかりだという話だった。
 祖母の家についたのは、もう日も沈みかけた、夕刻の頃だった。祖母が死んでから誰も手入れをしていないのだろう無駄に広い敷地内は雑草が茂り始めていて、リーリーと虫の声が聞こえた。特に価値のあるものもないからと不用心にも玄関前の植木鉢の下に隠してあった鍵を取り出して、かちゃかちゃと簡単な作りの引き戸を開ける。途端にむわり、と生温い空気があふれでて、虫とか出たら嫌だなあ、と思いながら家の中へと足を進めた。
 真っ暗な玄関、奥に延びる廊下の先は見えない。はあ、とわたしはため息をついて、持ってきた鞄を式台に下ろす。ガタガタと音をたててキャリーバックを引き入れると、そのまま鍵もかけずに座りこんだ。
「疲れた」
 自然とこぼれ落ちた言葉が、今のわたしのすべてだった。

 翌朝は鳥のピチピチという鳴き声で目が覚めた。上がり框に座りこんだまま靴も脱がずに足を放り出して眠っていたせいで、全身どこもかしこも痛かった。腕を伸ばせば、関節がぼきほきと音を立てる。昨日は夕食を抜いてしまった。お風呂にも入っていない。開けっ放しの引き戸から射しこむ朝日に目を細めながら、空腹のせいか余計にまわらない頭でぼんやりと思う。これから、どうしようか。頼まれていたのは片付けだが、あいにく整理整頓は不得意だ。大体、どちらかといえば疎遠だった祖母の遺品整理なんて、何から手をつければいいのかまるでわからない。逃げればよかった、と思った。母の言うことなんか素直に聞いて、こんな田舎まで来るなんて。わたしはただ、逃げたかっただけなのに。母から。わたしの、一人暮らしのあの部屋から。
 のろのろと靴を脱いで、ようやく家に上がりこむ。はあ、とまたため息が出た。ここ数年でため息をつくのが癖になってしまった。前はもっと、毎日が楽しくて、趣味とか、友達とか、なんでも時間を費やせるものがあって、こんなに息苦しくなんてなかったはずだ。多分。おそらく。もう思い出せないけど。
 薄暗い廊下をしばらく歩く。疎遠と言っても子供の頃はなんどか泊まったことのある家だ。大体の構造は覚えている。居間を通って台所へ。電灯から下がる紐を引っ張れば、パチパチと不安げな音を立てながらも一応無事に明かりが点いた。台所の真ん中に鎮座する四人掛けのダイニングテーブルにはレースのテーブルクロスが掛かっていて、安っぽい造花の置物が載る。中学を卒業してからは一度も来たことがないのに、記憶の中のそれと寸分も変わっていなくて、まるで、ここだけ時が止まってしまったかのようだ。半年前までは、確かにこの家で、祖母は生きて暮らしていた筈なのに。
 ダイニングテーブルを迂回して、流し台へ向かう。固く締められた蛇口を捻れば、少しのタイムラグの後、ごぽごぽと音を立てて水が流れ出す。透明な水に、とりあえず安心して、水切り籠から伏せてあったガラスのコップを取り出して軽くゆすぐ。二三回繰り返してから、コップのなかばまで水を注いで蛇口を止めた。流し台に背を向けて、体を預けて水を飲む。水道水はカルキ臭い味がした。
「どうしよっかなあ」
 答えはでそうにない。母の電話口の言葉がふと頭を過った。
『あんたって子は、本当に、計画性ってものがないんだから』
 そうだね、と口にしないで心のなかだけで賛同する。母に言われるまでもない。わたしには、計画性がない。あったら多分、仕事だって続けている。
 コップを手に、居間へと戻る。独居老人には大きすぎると思われる液晶テレビに、栗の大机。壁際の箪笥の上に並んで掛けられた鍵の中に、一際大きな鍵があった。L字型の鉄の鍵。蔵の鍵だ、とすぐ気づいた。
「蔵……蔵かあ……」
 蔵なんか見てもなんにもならない。母の言う片付けは多分、母屋のことだし、蔵だって、ガラクタばっかりという話だし。
 でも、ガラクタだらけの方がわたしにはちょうどいいのかもしれない、という謎のネガティブ思考で、わたしは結局、蔵の鍵を手に取った。

 がちゃん、と音をたてて落ちてきた錠前を両手で受け止める。赤茶に錆びた錠前は見た目を裏切らない重さをしている。それをさっさと地面に置いて、観音開きの外戸を開けた。こちらも重い。古いものはなにもかも重い。
 やっとのことで開いた先の格子戸をがらりとひく。途端にむわっと、埃と、カビの臭いが溢れだした。
「わっ、わーっ!」
 やばいやばい、これはやばい。げほげほと咳きこみながら顔を背ける。すごい臭いする。やばい、死にそう。
「だ、大丈夫か?!」
「いや、無理でしょ!」
 慌てた声に、反射的に叫び返して、
「……え?」
 今の、誰だ?
 右、左、そして後ろを見て、誰もいないのを確認する。そりゃそうだ。わたし以外の誰かがいるはずない。祖母は半年前に亡くなったし、過疎地域だから近所の家も空き家ばっかりだし、こんな田舎に泥棒が出るわけがないし。
「おい、大丈夫なのか?」
 もう一度同じ、声がした。
 ぎぎぎ、と音がしそうなくらいのぎこちなさで前を見る。埃の舞う蔵の中、男がひとり、所在なさげに立っていた。
「だ、誰?」
 聞いた瞬間、聞かなきゃよかった、と思った。なんと返ってこようと怖すぎる。少なくとも半年は開けていない蔵の中にいる正体不明の男、なんて。
「まさか、俺が見えるのか……!?」
「ゆ、幽霊?!」
 ぎゃっと叫んで逃げ出そうとしたが、違う! とすごい剣幕で否定された。幽霊にしては声量やばいな、と思って、幽霊じゃないのかな、と思った。よく見れば、足もあるし。幽霊っていうか。
「座敷、わらし?」
「違う」
「まあそうだよね、わらしっていうには無理あるよね」
 じゃあなんだろ、と首を傾げるわたしに、男は、俺は刀のツクモガミだ、と言った。
「つくも、がみ……かみ……? えっ、かみさま?」
 ぽかん、と口を開けたわたしに、男は眉間のシワを深くして、だから、ツクモガミだ、と言った。ツクモガミがなんだか知らないが、ビンボウガミとかヤクビョウガミとか、そういうカミだろう。つまり、神さま。
「あ、ああ! そういえば、おばあちゃんが言ってた。うちにはえらい神さまがいる、って」
「俺はえらい神などではない」
 ぼそぼそと神さまが言った。聞き取りづらい。さっきの音量とまではいかないけど、もうちょっと声だしてほしい。
 それはともかくとして、神さまと思って見てみれば、色々と納得した。神さまはやけに格好よかったからだ。なにもかも気に入らない、というような渋面を除けば、ただの高身長の彫りの深いイケメンだった。声もぼそぼそ喋るわりには腰に来るイケボである。
「すごい、かみさまってイケメン標準装備なんだね」
「だから俺は神では……なんだ、誉められているのか?」
「誉めてるよ。わたし、かみさまって初めて見た」
「あんたが人の話を聞かないのはわかった……」
 イケメン神さまが額を押さえている。イケメンは何をしても格好いいなあ、得だなあ、と感心した。なんてことないポーズだけど、ファッション雑誌に出てきそうだ。わたしも美人だったらなあ、とついでに思って、胸の奥がちりっと痛んだ。
「俺は大典太光世だ」
「すごい、名前まで格好いい」
 そうか? と神さまは相変わらずの渋面だけど、ちょっと嬉しそうだった。嬉しかったら笑えばいいのに、と思ったけど、人のことは言えないので黙っておく。
「あんたはここの家の血縁者か?」
「そう。おばあちゃんが死んだから、遺品整理にきたの。暇してたからね」
 わたしは笑った。笑ったつもりだった。けれど、神さまは、大典太光世はわたしの笑顔を見て、怖い顔をますます怖くした。
「顔、怖いよ」
「元からだ」
「かみさまには、嘘つけないのかな」
 大典太光世は何も言わなかった。赤い瞳がわたしを見ていた。
「会社、やめたの。だから暇になったの」
「どうしてやめたんだ」
「疲れちゃったから。もう会社行きたくないなーって、思ったの」
「そうか」
 わたしね、と聞かれもしないのに、わたしは言葉を続けていた。誰にも言えなかったことだけど、神さま相手ならいいか、と思った。
「女子校育ちで、今まで彼氏いたことないの。だけど、この歳になるとさ、みんな、当たり前のように彼氏いて、結婚して、子ども産んで、子育てして。同じようにしてたはずなんだけど、わたしだけ、取り残されてるみたいな。それで、婚活とかも、したんだけど、全然駄目で。じゃあ、仕事がんばろうって、思ったんだけど、わたし、ミスばっかりで、もう社会人7年目なのに、どうしようもなくって」
 大典太光世はうんともすんとも言わなかった。けれど赤い瞳が穏やかだったから、それに励まされて、わたしは言葉を続けられた。
「わたし、ダメ人間なの。なんのために生まれてきたんだろ。がんばるの、疲れちゃって、もう、どうしようもないよね、ほんと」
「俺は」
 へへっと笑ったわたしを見て、大典太光世は哀れむような顔をした。慈悲深い神さまの顔だった。
「俺は、えらい神じゃない。だから、あんたを救えない。……すまない」
 大典太光世は苦しそうだった。わたしなんかを救おうとする前に、自分を救うべきなんじゃないの、ってわたしは思った。わたしは本当は神さまなんて信じていなくて、だからここで大典太光世に会えたこと自体がラッキーで、救われないままでも仕方ないと思うから、わたしを救えないことに大典太光世はなにも苦しまなくっていいのだ。神さまは優しいから、こんなダメ人間でも、救おうとしてくれるのかもしれないけど。
「俺は本丸にいた刀剣男士の中でも遅くにきた方で、戦場に立ったことも数えるほどしかない。特に信頼厚い刀だった訳でもない。主とは、ほとんど会話をした覚えもない。天下五剣とは名ばかりの、カビ臭い置物だ。それなのに主は退任の時、俺を選んで、そうしてこの蔵にいる」
 わからないんだ、と大典太光世は言った。わたしは大典太光世の言っていることの半分もわからなかったけど、彼がわたしと同じように苦しんでいることだけはわかった。この神さまもまた、自分の居場所がわからないんだ。
「俺は長らく蔵にあった。蔵を出るのは誰かが病気になった時だけ。それも、この蔵に納められてからはなくなった。いつの間にか時が過ぎて、主も亡くなったことを知った。病で死んだのか、老衰だったのかはわからない。俺は蔵を出されなかったからな。だが、それなら俺は、何の為に」
 泣きそうな顔で胸元をつかむ大典太光世に、わたしは手を伸ばした。触れられるとは思えなかったけれど、予想に反して触れられた。大典太光世の、骨張んで、ごつごつした手を両手で握って、神さまも悩むんだね、って言って笑うと、大典太光世はわたしを見て、そうだな、と笑った。笑うと、イケメンが三割増しだった。後光が差したみたいだった。
「俺みたいな置物でも、あんた一人くらいは笑わせることはできるんだな」
 優しい、優しい笑顔だった。心の底から、わたしが笑って嬉しいって言ってるみたいな笑顔。わたしにこんな笑顔を向けてくれる人が、この世の中にいたなんて、夢みたいだと思った。あっ、人じゃなかった。神さまだった。とうとい。
「すごいね、かみさまって」
「なにがすごいのかよくわらないが……、まあ、あんたがそれでいいのならいいか」
「もっと、触っていい?」
 ご利益ありそう、と言えば、何もないぞ、と言いながら、大典太光世は腰を屈めた。綺麗なご尊顔がぐっと近くなる。目元が少し赤いのに気づいて、強面の神さまが実はシャイってやばいな、と思った。ギャップ萌え的な意味で。
「姿勢つらくない? わたし、蔵の中に入るよ。かみさまが、いいのなら」
「俺はかまわないが……」
 おゆるしが出たので、よいしょ、と敷居をまたいで、蔵に入った。蔵の中は外と比べて随分、ひんやりとしていた。大量の埃はずいぶん落ち着いていたけれど、そっと歩かないとすぐに舞い上がってとんでもないことになりそうだった。わたしを蔵に入れるために、大典太光世は入り口からすぐ脇の通路に体を避けていた。光の差しこまないところに立っていても、大典太光世の赤い目は星のように光っていた。
「大丈夫か?」
 ぼそり、と大典太光世が聞く。
「大丈夫だよ」
「しかし、さっきはあんなに咳きこんでいたじゃないか」
「それは、あんな埃っぽかったら、咳もでるよね」
「病気じゃないのか」
「体はね」
 あんまり大典太光世が優しいので、言わなくてもいいことが、ぽろりと漏れた。親にも、友だちにも言ったことがないことが、この神さま相手には、気をつけないとぽろぽろ溢れる。
「どこか、悪いところがあるのか」
「わたしにも、よくわかんないんだけど。あえていうなら、こころ、かな。適応障害だって、病院で言われた。もう治ってるから平気だよ。会社に行かなきゃ、大丈夫なの」
「こころの病気」
「やだな、そんな重病じゃないよ。ほんと、気にしな」
 大典太光世の大きな手が、わたしの左手を取りあげて、そっと両手で包みこむ。そうして、膝を折ってその場に跪くと、両手に額を寄せて、まるで祈るようにまぶたを閉じた。190近い長身の大典太光世をわたしは見下ろして、物語に出てくる騎士みたいだと思った。この神さま、格好よすぎじゃないですかね。光は当たっていないはずなのに、大典太光世だけが、きらきら輝いているようにはっきりと見える。
「……治ったか?」
「へ?」
 しばらく黙ってそうしていた大典太光世が、ふと顔をあげてこちらを見た。ぼけっと大典太光世を見つめるだけだったわたしは、何を言われたかわからなくて、間抜けな声を出した。治ったか、って、何が?
「……もしかして、病気、治そうとしてくれたの?」
「ああ。絶対ではないが、過去に何度か、病魔を斬ったことがある。……ここに刀はないし、あんたについている病魔の影は俺には見えないから、気休めにしかならないかもしれないが」
「すごい。ご利益、あるんじゃん」
 さっきはないって言ってたのに。病気平癒とか、立派なご利益じゃん。神さまパワーすごすぎる。
 大典太光世は怒ったようにむっと顔をしかめたけれど、照れかくしかな、と思ったのはやっぱり目元が赤かったからだ。かわいいなあ、と思っていると、大典太光世が立ち上がって、わたしの左手をひいて歩きだす。真っ暗な蔵の中を見えているみたいに大典太光世はすいすい進んだ。わたしには棚があるな、とか物があるな、ぐらいにしかわからない狭い通路を迷いなく進んでいって、そうして蔵の奥まったところにある階段梯子のところまできて、ちょっと考えこむように黙ったあと、その高そうなグレーのジャケットを脱いで階段の上にぽんと広げた。
「狭くてすまないが、ここに座ってくれ」
「いやいやいや」
 なんでもないことのように言われたが、わりととんでもない。こんな高そうなジャケットの上に座るとか。そもそも値段の前に、神さまの衣装ってところもやばい。
「わたし座ったら、汚れちゃうよ。ありがたいし、超紳士的で感動したけど、申し訳ないから大丈夫だよ」
「もう手遅れじゃないか?」
 ぺらり、とめくられたジャケットの裏は、すでに埃で真っ白になっていた。あああああ。
「じゃ、じゃあ、お言葉に甘えて……アリガトウゴザイマス……」
 おそるおそる腰を下ろすと、案の定くしゃりとお尻の下でジャケットがよれて、飛び上がりそうになる。でも、大典太光世がじーっと見下ろしてくるので、結局、圧に負けてそうっと座りこんだ。大典太光世はわたしが座ったのを確認すると、よし、と頷いて、自分は階段の下に腰を下ろす。
「二階の窓を開ければ、少しは明るくなると思うんだがな……。俺は物には触れないし、あんたに二階まで上がってもらうのも危ないから、すまないが暗いままで我慢してくれ」
「それはいいんだけど」
 触れないの? と聞けば、ああ、と小さく頷く。
「わたしには触れるのに」
「それは多分、あんたに審神者の才能があるからだ」
「さにわ?」
 またわからない単語がでてきた。神さま語録はむずかしい。
「そうだ。ただの刀だった俺が、こうして人の身を得たのも審神者の力あってのことだ。主の力がまだこの身にわずかに残っているから、審神者の力を持つあんたにも、触れることができるんだろう」
「んー、よくわかんない」
「そうか」
「まあなんでもいいけど、かみさまに触れるのはうれしい」
 手を握ってもいい? と聞けば、ほら、と右手が寄越される。大きな、角張った男の人の手。人間の男の人だったら、きっと緊張して話せもしなかっただろうけど、神さまだから平気だった。
 手をとって、表、裏、と見て、自分の手と合わせてみて、指を絡めてにぎにぎして、そうしてふと思い立って持ち上げて、頬にぺたりとくっつけた。
「な……」
「冷たくて気持ちいい」
「あんたは……なにを」
「かみさまもしたい? ほら」
 自分の手を伸ばして、大典太光世の頬をつつむ。大典太光世のほっぺはひんやりしていて、わたしの手の方が熱かったから、申し訳なくてすぐ離そうとしたけれど、それに気づいた大典太光世が左手でわたしの手を押さえてしまったからかなわなかった。そのままふたりでぼんやりと、お互いの頬を触っていた。
 どれくらいそうしていたかわからないけれど、自分でも意識しないうちにいつの間にか体が冷えていたらしい。ぞくり、と背筋に走った寒気に思わず身を震わせると、大典太光世がはっとしたようにこちらを見た。
「……ずいぶん長いこと、引き留めてしまったな」
「わたしこそ、長い間、邪魔してごめんね」
 大典太光世がいまにも謝りそうだったから、わたしは慌てて首を横にふった。するり、と大典太光世の手が頬をすべって離れていく。つめたかったはずの手は、わたしの体温が移ったようにあたたかかった。
「あの、また明日も、来てもいいかな」
 その熱が消えてしまう前に、急いで言った。
「いつでも……明日でも、明後日でも、明々後日でも、ずっと、俺はここであんたを待っている」
 大典太光世の手が、わたしの手を一際強く押しつけて、そうしてふっと力を抜いた。わたしの手が、大典太光世の頬から離れてぱたんと落ちた。
 それを見て、大典太光世は、ああ、とすべてを理解したように声を漏らした。
「あんたは、ずっといるわけじゃないのか」
 わたしはなにも言えなかった。今は仕事をやめてここにいるけれど、ずっといるつもりはまるでなかった。いつかは東京に戻って、仕事を探して、そうしてなにもなかったように生きていくんだと思っていた。もしかしたらまたわたしはくじけてしまうかもしれないけど、でも、働かずに生きていけるほど、人生が甘くないことも知っていた。
 けど、この神さまはどこにも行けない。わたしをずっと待ってると言ってくれた神さまは、たぶんこの蔵を出られない。きっとこれまでもこの、つめたくて暗い蔵の中で、ひとりさみしく、誰かが来るのを待ってたんだ。
 大典太光世のいままでの孤独を思うと、胸の奥がきゅっとなる。神さまなんて初めて会ったけど、それでもかみさまの中でも大典太光世は特に優しくて、すごい神さまだと思う。そんなすごい神さまに、このさみしい蔵は似合わないと思った。こんな蔵の中じゃなくて、もっと明るいところで、しあわせそうに笑うのが、きっと大典太光世には似合うのに。
「かみさまは、蔵の外には出られないの?」
 声は震えていたかもしれない。泣きそうなのが、ばれたかもしれない。ことさら優しく、大典太光世は言った。
「俺には蔵がお似合いだ。あんたは何も、気にしなくていい」
「そんなの、」
「あんたがまた、ここに来てくれるかもしれない、と思うだけで、俺には十分だ」
「全然、足りない! 十分じゃない!!」
 いきなり立ち上がって叫んだわたしに、大典太光世はびっくりしたようだった。大典太光世もまた立ち上がって、おろおろしたように手を伸ばして、結局諦めて腕を下げる。それが悲しくて、くやしかった。無理矢理腕をつかんで、自分の背中に回させる。大典太光世は目に見えてぎょっとした。わたしは構わず、目の前の体に思いっきり抱きついた。
「自分のこともどうすればいいのかわかんないわたしが言うのも、無責任かもしれない。でも、でも、かみさまはそれでいいの?! もう二度とわたしに会えなくって! もう二度と、誰にも会えなくっても!」
「俺は……」
「わたしはいやだよ……! ねえ、わたしにできること、あるなら言ってよ。なんでも、するから……」
 勢いで物を言っている自覚はあった。後先なんてものはまったく考えていなくて、ただ、このかみさまをひとりここに残していきたくないという気持ちだけがふくらんで、抑えきれなかった。
「……なんでも、してくれるのか」
 それまで戸惑ったように宙に浮いていた大典太光世の手が、そろりとわたしの背中を抱いた。顔が大典太光世のシャツの胸に埋められて、わたしは初めてこんなに近くに男の人の存在を感じた。けれども想像していたような男臭さなんてまったくなくて、大典太光世は湿っぽい、水のような匂いがした。彼はどこまでも神さまだった。
「す、する。わたしに、できることなら」
 慌てて頷くわたしの手をひいて、大典太光世は階段梯子の裏に回ると、大きな長持の前に立った。漆塗りのいかにもお宝が入っていそうな品だった。
「これ、開けるの?」
「いや、この下だ」
「下!?」
 すまない、と大典太光世が言った。そうだ、この神さま、物には触れないんだった。つまり、わたしひとりでこの長持を動かす必要があるわけで……。わたしはびびりながら長持に手をかけた。見た目を裏切らず、めちゃくちゃ重い。
「う、ううう」
「……無理なら、」
「無理じゃない!」
 叫んで、気合いを入れ直して、長持を引っ張る。ず、ず、と一ミリぐらいずつ、少しだけれど、長持が動く。思いっきり息を吸って、わずかに舞い立っていた埃も吸いこんでしまい、げほげほと咳きこんだ。大典太光世が背中をさすってくれた。
「できるから、できるからね!」
「ああ、ああ」
 自分に言い聞かせているのか、大典太光世に言っているのか、わからなくなりながら、わたしはやっとのことで長持を斜めになるまで動かした。長持の下から現れた埃の積もっていない床を指して、大典太光世が、そこの床板を外してくれ、と言った。
 床にしゃがみこんで、板に手をかける。指された板は簡単にかぽりと外れた。その中に手をつっこんで、指が触れた細長い包みを引き出した。重くて、なんだかごつごつしている。土で汚れていたけれど、紫の袱紗は日にも焼けずに綺麗な色を保っていた。
「これ……」
「開けてくれるか」
 大典太光世にうながされて、わたしは結び目をといた。はらり、と開かれた袱紗の中からは、一振りの剣が現れた。両手で抱えるほど長く、茶色の鞘に黄色い糸が巻き付いている。
「俺だ」
「……んん?」
「それが俺だ」
 また神さまがわけのわからないことを言っている。と、思ったけど、もしかして、これがいわゆるご神体っていうやつなんじゃないか、とはっと気づいた。鏡とか、掛軸とか、そういうのと同じものなのでは。
「……触れてくれ」
 大典太光世を見上げた。大典太光世はわたしの後ろから、覗きこむようにわたしを見下ろしていた。赤い瞳が不安げに揺れていた。その目は、わたしがこの剣を放り出して、今にも逃げだしてしまうんじゃないかと言っていた。
「わかった」
 触れるね、と一言断って、わたしは剣の鞘に触れた。両手で、上から握りしめるように。ぎゅっ、と力を込めた瞬間、
「ひゃっ!」
 ぶわり、と指の隙間からピンクの花びらが溢れだして、みるみるうちに視界いっぱいに花吹雪が吹き荒れる。それに負けないように、わたしはますます剣を握る手に力を入れた。舞い散る花に窒息しそうだ。花の勢いにひっくり返りそうになる体を、大きな体に抱き止められる。二本の腕が脇から伸びてきて、大典太光世の手がわたしの手の上から鞘を握った。つめたかったはずの大典太光世の手は、燃えるように熱かった。花吹雪は、止んでいた。
「……っ、はぁ……はぁ」
 息が整わないわたしの頬を、大典太光世はいたわるようにゆっくりと撫でた。視線を合わせて、口を開いた。
「……天下五剣が一振り。大典太光世だ。あんた、俺を封印しなくていいのか?」
「よく、わかんないけどっ……! なんでここまでして、また、封印しなきゃいけないのっ?」
「そうか」
 大典太光世がはにかんだ。その顔がなんだか嬉しそうだったから、わたしも笑った。やけに疲れていて、立ち上がれそうもなかったけれど、大典太光世が抱き上げてくれたので、ありがたく体を預けることにした。背中と足の下に腕を回す、いわゆるお姫様抱っこの姿勢だったけれど、とにかくだるくって、そして大典太光世の腕の中がひどく心地よくって、わたしはほとんど眠りながら蔵を出た。

 目を覚ますと、もう夜になっていて、頭上には満天の星が輝いていた。わたしはご神体の剣を抱きしめたまま、大典太光世に抱きしめられて彼の足の上に座っていた。リーリーと虫が鳴いていて、夏の終わりの生ぬるい風が吹いていた。
「起きたか」
「うん」
「気分はどうだ」
「もう全然平気。……ね、外、出れたね」
「ああ、あんたのおかげだ」
「わたしが役に立てたなら、よかった」
「主」
 大典太光世がわたしをぎゅっと抱きしめた。蔵の中で抱きしめられた時とは違う、熱を持った体だった。水のような匂いは変わらなかったけど、今はもう、不思議とそこまで神さまなんだとは思わなかった。
「なんの説明もなしに励起させた俺を、あんたはいつか恨むかもしれない、憎むかもしれない……その時は折ってくれてかまわない。だが、俺が折れるまでは、あんたと共にいさせてくれ……」
「よくわかんないけど、いいよ」
「あんたはそればっかりだな」
 ふふっ、と大典太光世が笑う。わたしの肩に顔をぐりぐり押しつけて、ぎゅうぎゅうに抱きしめてくる。わたしもつられて笑う。
 明日になって、朝が来て、そしたら大典太光世はきっと、わたしが望んだ通り、明るい日の光の下で笑うんだろう。それはとても、しあわせな光景に違いなかった。

 大典太光世と暮らし始めたわたしの元に、政府から審神者のスカウトがやってくるのはまた数日後の話である。

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2017/12/17

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