地獄のはなし

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刀さに / 女審神者 / 死にネタ

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へし切長谷部

 生ぬるい沼に浸かっている。羊水のようだな、とある筈もない胎児の記憶を手繰りながら、わたしはゆっくりと上体を起こした。空は燃えるような夕焼け。地平の先まで赤く染まって、腰の下を濡らす沼の水も、また血のように赤かった。脇腹に大太刀がずっぷり突き刺さっているのを認めて、嗚呼、私は地獄に堕ちたのだと、その時漸く理解した。
 刀の柄を握って一息に抜き去る。傷口から、パシャン、と新たな血が溢れて沼に混ざった。痛みはない。死んでいるから、当たり前だ。これからどうしようかと思っていると、向こうから一人の男が紫のキャソックを翻してやって来る。
「主! お待ちしておりました!」
 一の忠臣、へし切り長谷部は白い靴下が血にまみれるのも厭わずに私の元へと飛んできた。可愛い可愛い私の刀。
「他の刀どもも追々やってまいります。直ぐにでも戦を始められますよ」
 何百何千敵を屠り、遂に地獄の底に至る。それでもまだ足りぬ、と刀は私に囁く。
「貴方に仇なす尽くを血祭りにあげましょう」
 笑う刀に手を伸ばし、私もにっこりと笑った。
「これからも宜しくね。長谷部」

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三日月宗近

 地獄には太陽がない。太陽がなければ、月もない。朝も昼も夜もなく、いつでも薄暗い夕焼けが広がっている。たまに雨がしとしと降るくらいで、日々の感覚は酷く曖昧だ。けれど、此処にいる者は皆既に死んでいるのだからそれでもさして障りはない。
「三日月」
「どうした、主。此岸が恋しくなったか」
 にこにこ笑って三日月宗近が私の顔を覗き込む。その紺碧の瞳だけが、今の私の空であり、瞳に浮かぶ金の打ち除けだけが、今の私の月である。
「だって、何処まで行ってもずっと同じ景色なんだもの。いい加減、厭きてきちゃったわ」
「そうかそうか。可哀想に。此処には花も咲かぬからな。お前の髪を飾りも出来ぬ。ヤア、宝石代わりに、じじいの目を抉って遣ろうか」
「要らないわよ。三日月はずっと私の傍に居るじゃない。わざわざ取り出さなくたって、見たい時にいつでも見れるわ」
「それはそうだなあ」
 三日月がわたしを緩く抱き締めた。此処は地獄の底である。神も人も妖も、もはや命は尽きた後。寿命の果てのその先の、永遠に続く黄昏である。

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平野藤四郎

「この新たな力をもって、今後もお供します。……地獄の底まで」

 平野藤四郎は私の刀たちの中でも随分初めの方に修行に出ていった刀だったが、後にも先にも帰還の後にそんな事を言い出したのは彼一人だけだった。仮にも主君に向かって地獄行きを言い放つとは、行き過ぎた忠誠心の表れか、それとも不敬か判断に迷ったが、地獄に堕ちた今となっては、もうどうでも良いことだ。平野は此岸にいた頃と変わらず、私に仕えてくれている。
「私が地獄に堕ちたのは、敵を沢山殺した所為かしら」
 地獄の底に流れる赤い河の畔、私は頬杖をついて考え込む。
「仰る通りです」
 何でも無い事のように、平野が肯定した。
「それが何であれ、生ける物を殺すのは悪業です。例えその手を汚さずとも、その指揮で幾千万と殺したなら、それは主の業となります」
「平野の言い方じゃ、まるで私が極悪人みたいじゃない」
「そうです。僕の主は極悪人です」
 可愛らしい少年の成りをした刃物はにっこりと笑う。その鋭さは血にまみれても錆びる事は無い。
「もし貴女が天下の大罪を犯そうと、僕は主の刀です。主の行かんとする道を僕もお供するだけの事」

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燭台切光忠

 私が地獄に堕ちてからそれなりに時が経った。朝も夜もない地獄の時間感覚は曖昧で、それが実際にどのくらいの日数かはわからないが、何度か戦闘を経験し、何度か眠って、何度か目覚めた。代わり映えのしない日常を私が日常として受け入れ始めた頃、燭台切光忠がこっそりと私の元を訪れて言った。
「主も地獄に堕ちて随分経ったね。そろそろ僕も限界だ。君には僕の全てを見て欲しい」
 彼はうっとりと夢見るような面持ちで言った。ついぞ此岸では見たことのない表情だった。
「漸くだ。漸く君に見せられる。どうか僕を受け入れて」
 歌うようにそう言って、燭台切は私に顔を近付けると、ペラリと右目の眼帯を捲った。黒革の覆いの下、真っ暗な闇が顔を覗かす。本来眼球があるだろうそこには虚ろな孔が空いていて、飲み込まれそうな程に暗い。よくよく目を凝らしてみれば、奥底に仄かに赤く、光るものがある。
「これは何?」
「これはね、地獄の炎だよ。僕の中でずっと燻っていたけれど、此処に来てまた燃え始めたんだ」
 燭台切は笑って、眼帯を直した。機嫌の良い燭台切を見て、私は地獄に堕ちて良かったと思った。

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にっかり青江

「不思議だね」
 彼方に広がる夕焼けを見ながら青江が言った。地獄の空はいつでも黄昏時で、血をぶちまけたように赤い。
「何が?」
「此処に来て、皆が当たり前のように亡霊を見るようになった事さ。今までは、どんな名刀名剣と謂えど、幽霊斬りにおいては僕の右に出る者はいなかったのに」
「悔しいの?」
 彼は変な所で矜持が高い。亡霊も何も、此処は地獄の底である。歩いているのは死者しかいない。死者が死者を見たところで、不思議な事は何も無い。
 青江はゆるゆると首を振った。
「悔しいのとは違うかな。僕はね、ただただ不思議なんだ。此岸から彼岸に来て、一体何が変わったんだろう。僕は変わらず亡霊を見る。未だに違いがわからない」
「あら、貴方、寂しかったのね」
 キョトンとした顔をして青江が振り向いた。普段は大人びた大脇差は、そうすると随分幼く見えた。
「今は皆、貴方と同じ世界を見ているわよ」
 夕焼けの下、青江の向こう、地平線の先に敵影がポツリと現れる。ジワジワと数を増すそれは、全て私が過去に殺した亡霊である。にっかり青江は地獄においても幽霊斬りの名刀である。

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宗三左文字

 赤一色の地獄の風景の中でそこだけが目にも涼やかな水色を、私は遠目に眺めている。シャラシャラと滝のような長髪が、血臭の混じった風に靡く。
「江雪兄様は可哀想ですねえ」
 声もかけずに隣に座り込んだ宗三左文字が詰まらなそうに言った。憐れみを口にした癖、欠片もそんな事を思っていない口調だった。
「彼方も地獄、此方も地獄。どんなに経を唱えたところで、斬れば斬るだけ地獄が深くなるばかり」
 そも刀に生まれついたのが兄様の不幸ですね、と彼は言う。
「貴方は?」
「僕ですか? 僕は魔王の刀ですよ。地獄は慣れています」
 意外な事を聞かれたという風に、宗三は驚いて見せた。パチリ、と瞬く碧と翠の色違いの瞳。青は左文字の色である。平和を愛する兄と同じ色である。
「まあ、あの人と貴女が同じ地獄に堕ちなくって良かったとは思います。今更、あの人の元に侍るなんて面倒ですからね」
 緑は草木の色である。血を啜り他者を喰らって繁栄する、猛々しい命の色である。
「貴女は深く堕ちて下さった。信長公よりずっと深く」
 地獄の底で、彼の翠は濃さを増す。

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蛍丸

 三尺三寸四分五厘の大太刀が、敵兵の首をポーンと飛ばす。地獄でも変わらぬ鮮やかな切れ味は、思わず見惚れてしまう程。身の丈に合わぬ刀身を軽々と操ってあっという間に敵を殲滅すると、蛍丸はパシャパシャと血溜まりを蹴散らすように、こちらに向かって駆けてきた。
「勝った勝った!」
「有難う、蛍丸は相変わらず強いわね」
「まあね、これぐらい朝飯前だよ」
 頬の返り血を拭い取り、丸い頭を撫でてやる。背が縮んじゃうと口では不平を言いながらも、その表情は満足気だ。
「地獄って思ってたより良い所だね。海の中よりずっと良いや」
「地獄に蛍はいないわよ」
「でも、国俊も国行もいるじゃない。主に頭も撫でてもらえる。それに、地獄にも蛍はいるよ」
 言って蛍丸は刀を撫でる。命あるものはすべからく、いつの世にか地獄に堕ちる。
「本丸で暮らすのも楽しかったけど、地獄は本丸の次に楽しいね」
 どうせ堕ちるなら、一人沈む海の底より、皆で堕ちる地獄が良いと、いとけない姿の大太刀は無邪気に笑った。

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大包平

 喉を貫く衝撃で目が覚めた。痛みは無いが、煩わしい。直ぐに引き抜かれる感覚があったが、開いてしまった傷口に風が通ってスウスウする。ごめんごめんと誰かが笑う声がした。
「誰だ、仕損じた奴は!」
 私を抱えて眠っていた大包平が吼えている。瞼を開けば今正に、刀が敵兵の首を刎ねる所だった。ビシャリと血が弾けて、目に入る。視界が忽ち真っ赤に染まる。
「貴方、いつにも増して赤いわね」
「なんだ、目に入ったのか。仕方のない奴だな」
 上体を起こして刀を振りきった大包平が、顔を覗き込んでくる。大きな口から舌が伸びて、私の目玉をベロリと舐めた。一滴残さず舐め取られた後も、私の視界は変わらず赤い。地獄の空も地面も、何処もかしこも赤一色だ。赤い世界に溶け込むように、目の前の男もまた赤い。
「全く、首に穴が開いてしまった」
 冷たい舌が首筋を舐める。心配性の犬のようなそれに私は耐えきれず笑った。
「笑い事ではないぞ」
「くすぐったいもの」
「お前はどうにも危機感が足りん! もう死ぬ事は無いと言っても、脆い事には変わりがないというのに」
 俺から離れるなよ、と大包平が言って、何処にも行けないわよ、と私は答えた。

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鶴丸国永

 クルリクルリと白い羽織がはためいた。優美な鶴の舞である。片手に持った太刀を一度振れば、次から次へと面白いように首が飛ぶ。返り血が全身を赤く染め上げて、その姿は鶴というより朱鷺である。一通り敵を殺して回ると、鶴丸国永は弾んだ調子で私の元にやってきた。
「どうだい? 随分鶴らしくなったと思うんだが」
 地獄に来てからというもの、折れないのを良い事に、鶴丸は自分をより鶴らしく染めるのに、日夜研究を重ねている。
「今日はちょっと赤すぎじゃないかしら」
「ちょっと?」
「かなり」
 やっぱりそうかと笑って、鶴丸はバサバサと血を払った。
「それにしても君、俺が血塗れになっても全く驚かなくなったな」
「いい加減、慣れちゃったんだもの」
「それは良くない! 人生には驚きが必要だ。予想し得る出来事だけじゃあ、心が先に死んで」
 嗚呼、と鶴丸が息を吐く。
「君も俺も、もう死んでいたんだっけな」
 墓の下よりはましだが、まあ詰まらないなと鶴丸は言う。死とは不変の事であり、死んでしまった私たちには過去も未来も現在も無い。今日も地獄は薄暗く、暮れることのない黄昏が続く。

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数珠丸恒次

 地獄に堕ちたことを後悔しているかと聞かれれば、思ったよりは満足している、ときっと私は答えるだろう。いつ折れるか、いつ死ぬか。あの頃私を悩ませていたそれらの問いは今や全てが杞憂に過ぎない。けれども私の道連れにして、申し訳ない、と思う刀も幾つかある。
「浮かない顔をされていますね」
 数珠丸恒次はその内の一人だった。
「貴方を地獄に連れてきて、良かったのかと考えていたの」
 ふむ、と数珠丸は考え込んだ。
「後悔しているのですか」
「貴方が嫌なのじゃないかと思って」
「私は私自身の役割を、貴方を正しき道に導く事だと考えております」
 数珠丸は破邪顕正の刀である。徳高い僧の佩刀であり、自身も長く寺に居た。すっくとした立ち姿は、泥沼に咲く蓮の花を私に思い起こさせた。
「貴女は地獄に堕ちた事を、後悔されておいでですか」
「いいえ」
「ならば、貴女が地獄に堕ちたのは貴女の罪です。けれど、貴女をむざむざ地獄に堕としたのは、やはり私の罪でもあります」
「よくわからないわ」
「私は私の罪ゆえに、此処に堕ちてきたのですよ」
 観世音菩薩もかくやの笑みだ。数珠丸恒次という刀は、やはり地獄の似合わぬ刀である。

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2017/12/22

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