鬼の齢

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鶴さに

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 目を覚ますと枕元に鶴丸が座っていて、おはようと言った。わたしはおはようと返しながら、今日で39047日目だなと思った。
「今日も良い天気だぞ」
 笑いながら鶴丸がわたしの体を抱き起こす。そう、と答えて、鶴丸の肩越しに障子戸を見れば、朝の柔らかな光を湛えて輝いている。確かに鶴丸の言う通り、外は良い天気のようだった。
 傍らに用意していた角盥に布巾を浸して、鶴丸がわたしの顔を拭く。総楊枝で歯を磨き、口に水を含ませる。盥へわたしが水を吐けば、すかさず口元を柔らかい布で拭ってくれる。懐から取り出した櫛で髪を調えると、今日も君は美人だなあ、といつものように褒めてくれた。最初こそわたしは鶴丸を驚きばかり追求する落ち着きのない刀だと思っていたが、実際に使ってみれば、どうしてよく気のつく優秀な刀である。来る日も来る日も、鶴丸はこうして甲斐甲斐しくわたしの世話を焼く。
「もういいよ。朝ごはん、食べてきたら」
 布団の上に座り込んだまま言えば、いいやまだだと鶴丸は首を振った。
「君のメンテナンスが済んでない。食事はそれからいただくさ」
「後でいいのに」
「君が急に動かなくなったらと思うと、俺も気が気でないのさ」
 何でもないことのように言って、鶴丸がわたしを抱き上げる。けして軽くはない筈の体を軽々と持ち上げて、寝室から書院の間へとわたしを運ぶ。畳一枚上がった上段の間にわたしを座らせると、鶴丸はその前に胡座をかいて、
「それじゃあ失礼して」
 と寝間着の合わせに手をかけた。元から緩い帯がほどけて、わたしのただ白いだけの何の面白味もない体が、鶴丸の目に晒される。
「触るぜ」
 毎度律儀に宣言をして、鶴丸の意外にも骨ばった手がわたしの指を取り上げる。撫ぜて確かめ、耳を寄せる。くるくると回して、関節の音を聞いている。手首、腕、肩と来て、次は反対、それが終われば足を触り、最後は胸に耳を当てた。わたしのけして豊かではない乳房の間に鶴丸は白い頭を埋めて、胸の音に耳をすます。
「綺麗な音だな」
「よかった」
 すべてが終わると鶴丸はわたしに寝間着を着せ直す。その時には帯もしっかり締めてくれる。きちっと着付けが終わった頃になると、計ったように薬研がひょいと部屋に顔を出す。
「旦那、そっちは終わったかい?」
「ああ、後はよろしく頼む」
「じゃあ、診断の時間と行くかね」
 鶴丸と入れ替わるようにして、薬研が室内に入ってくる。鶴丸はこれから食事の時間なので席を外すのだ。薬研もまたわたしの前に座り込み、下瞼を引っ張ったり、舌を出させたりしてわたしの体を調べまわる。開けた口から喉の奥を覗き込み、ほうほうと何やら頷いたかと思うと、薬研は眼鏡を外して白衣の裾でレンズを拭った。
「具合はどうだい」
「問題ないな。昨日と変わりなしだ」
 朝食を終えて戻ってきた鶴丸に笑顔で答えて、薬研はどっこらせと腰をあげる。
「今日はいい天気だ。大将も少しは外に出るといい」
 それじゃあな、とからりと笑うと、薬研は開けたままの障子から去っていく。すかさず鶴丸が障子を閉めて、また部屋には鶴丸とわたしの二人きりになった。
「薬研もああ言っていることだし、今日は外に出るか」
 鶴丸はそう言いながら、赤の絞りの着物を隣の部屋から出してくる。あんまり絞りは好きではないのだけれど、似合う似合うと鶴丸が言うので、しょうがなく着てあげている。不満が顔に出ていたのか、鶴丸は苦笑いを浮かべてわたしを後ろから抱きこむと、なんにも言わずに寝間着を脱がして襦袢を着せた。着物を着せかけて、紐を結んで、帯を巻いて、また紐を結ぶ。毎日のことなので、鶴丸が迷いのない手つきで手際よく仕立てていくのをわたしは黙って見ているだけだ。ぽん、と帯の前を叩くのは着替えが終わった合図である。
「やはり、君には赤が似合うな」
 満足そうに鶴丸が笑うので、まあいいかと思った。着込んで幾分か重くなったわたしを鶴丸は抱き上げて、外縁廊下に面した障子を開ける。日の眩しさに目を細めていると、部屋の近くでたむろっていた刀たちが、主、主と飛んでくる。みんなの頭を撫でてやり、幾人かの腕に抱かれてやる。どんなに幼い見目をしていても、彼らはけしてわたしを取り落としたりはしないから、安心して抱かれている。秋田、鯰尾、蜂須賀と渡り、御手杵の腕の中に移ったところで、今日はいい天気ですね、とまた誰かが言った。
「この間、桜の木の傍の池で、大きい魚を見たんですよ」
「あっ、それ、俺も見た」
「ヌシってやつかなあ」
 主もせっかくだから見てくればいいと言われて、鶴丸の腕へと返される。わたしは彼らに手を振って、鶴丸と件の池を目指した。桜の舞う庭に鶴丸の下駄の歯が土を噛むさくさくという音だけが響く。払っても、後から後からわたしの上に降りかかってくる花びらを、律儀にひとつずつ取り除けながら鶴丸は進んだ。本丸の中でも一際古い桜の古木の傍に池はある。山に近い場所にある池の表面には、すっかり春めいているとはいえまだうっすらと氷が張っていて、近寄れば少し肌寒い。上掛けをとってくると言って、鶴丸はわたしを置いて行ってしまった。戻るまでじっとしていろと言われたが、暇で暇で仕方がない。少しだけだと地面をずりずり這って、わたしは池を覗き込んだ。浮草に阻まれて、池の中はよく見えない。ちらほらと覗く赤や黄色は鯉だろうか。もっとよく見ようとわたしは縁へと身を乗り出し、バシャン、と池に落ちた。

 頭上でゆらゆらと光が揺らめく。水草たちが、天へ向かって手を伸ばす。特殊合金の体はなすすべもなく沈んでいって、わたしの赤い着物の袖も、そんな水草の一種のようにゆらゆらと波に揉まれて揺らめいていた。口から漏れ出て浮かんでいく泡の間を、鯰や鯉や、あとはもうよくわからない魚が通りすぎていく。水面はどんどん遠のくのにいつまでたっても底につかず、意外にもこの池は随分深いのだと知った。池のヌシとやらはもっと深いところにいるのかと思っていると、射し込む光が一際大きく揺れて、鶴丸がこちらに向かって泳いでくるのが見えた。腕を引かれて抱き寄せられる。後はもう、ぐいぐい空が近づいて、気づけばわたしは水面に顔を出していた。ぷは、と大きく息を吐いてから、鶴丸はわたしに向かって盛大に顔をしかめて見せた。
「じっとしていろと言っただろう!」
「ごめんね」
 暇だったから、と言えば、急に鶴丸は表情を無くして、
「君、」
 とまた言った。続く言葉は予想できたので、わたしはやっぱり、
「ごめんね」
 と言った。鶴丸が無言で肩に頭を預けてきたのでわたしはされるがままに受け入れて、髪を撫でてやりたいなとも思ったが水を吸った着物が重いので結局何もしなかった。

 あの人は百年経ったら会いに来ると言っていたが、もう百年を過ぎたのにいまだに来ない。あの人を待つ為に死なない体を手に入れたけれど、それに最後まで反対したのは鶴丸だった。
「死なないだけなら、他にも方法はあるだろう。例えば、」
「例えば、ここにいる誰かと結婚する、とか?」
 人をやめるのに、妖怪になるのも機械になるのも同じだと言って、その時のわたしは鶴丸を拒んだ。それなのに鶴丸は実に39047日の間も、わたしの傍でわたしの世話を焼いている。たまに鶴丸が冗談めかして、俺にすればいいのにな、と口にする時は、決まってわたしは、無理だよ、と答えることにしていたが、もうあの人の顔もはっきりとは思い出せなくなってきたので、そろそろ答えを変えてもいいかなと思っている。

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2018/02/04

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