海蛇

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にかさに

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 それは七月も半ばの頃だった。出陣やら遠征やらで刀剣男士の出払った本丸で、わたしは一冊の本を探していた。書院の間を隅から隅までひっくり返してそれでも見つからない本に、これはもしかしたら書庫にあるかもしれないと見当をつけて、わたしは長らく仕舞っていた古びた鍵を取り出した。誰かのお下がりだというこの本丸はどこもかしこも随分と古めかしく、先代が遺していった稀覯本の類いが書庫には所狭しと詰め込まれていた。屋敷の北の端にポツンと離れて建つ書庫は、森の近くということもあり、昼間でもまともに陽が入らずに薄暗い。人の出入りがないせいか、澱んだ空気に満たされた書庫は、埃っぽい、化石のような臭いがした。何度か軽く咳き込みながら、わたしは一心不乱に目的の本を探し始める。あの本が必要だ。人を呪い殺す術の書かれたあの本が。わたしのものに手を出したあの女に、目にもの見せてやらなければ。
 そこでもない、ここでもないと手当たり次第に本を引き出していると、バサリ、と部屋の奥で山が崩れる音がした。覗き込めば如何にも年代物の、表紙の黄ばんだ和綴じ本が、床一杯に散乱している。普段使わない書庫であろうとこのままにしておける訳もなく、わたしは一刻も早くと焦る気持ちを抱えたまま渋々と本へ手を伸ばした。別段選んで拾い上げた訳ではない本だったが、その表題を認めて、はっとして目を見開く。
 それこそまさに、わたしが探し求めていた本だった。
 胸元に隠すように抱き込んで、急いで部屋の隅へと走る。頭上に設えられた小さな明かり取りの窓の下、まじまじと表紙を確かめた。特にこれといって特筆すべきところもない、ただ古いだけの本に見える。けれどもわたしは、この本が恐ろしい本だと知っている。本丸に来たばかりの頃、刀剣男士の一人が、この本を見て、けして読んではいけないよと言っていた。人を殺める術が書かれた本だから。良い子だね、約束だよ。
 磨りガラス越しに差し込む午後のわずかに傾きだした陽の光が、ゆらゆらと本の上で揺らめいている。外では雨が降っているのかもしれない。この部屋だけが切り取られて、水の中へ沈められてしまったかのように、書庫のなかは静かだった。
 震える指が、表紙をなぞる。寒いのか熱いのかもわからない、ぞくぞくとした感覚が背筋を流れて、頭をぼぅと曇らせた。呼吸が荒くなるのを、他人事のように聞く。わたしはこの本を開くことを恐れているのか。それとも、興奮しているのか。
 指の腹が紙の繊維に引っ掛かって、ペラリ、と薄い表紙が捲れ上がる。わずかに覗く墨の文字。ぐねぐねと綴られた、悪意の塊。
「主」
 唐突に背後から聞こえた耳慣れた声に、ヒッ、と息を飲んで振り返る。手は本にかけられたままで、開きかけのページが、風もないのにバラバラと音を立てて捲れていく。
 にっかり青江がそこにいた。薄暗い書庫の本棚の間で、金の目を光らせて、じっとこちらを見つめていた。普段と同じ、底知れぬ笑みを浮かべながら、髪の先からポタポタと雫をひっきりなしに垂らしている。
 こんなに早く帰ってくるとは思っていなかったわたしは、言い訳もできずに、猫に睨まれた鼠のように固まった。青江は白い布を亡霊のようにヒラヒラとはためかせながら、本の山を軽々と越えてわたしの傍へと寄ってくる。そうして、すぐ傍に膝をつくと、開いたままだった呪いの本を覗き込む。青江が顔を傾けた拍子に、ポタリ、と本へと水滴が落ちる。黒い染みが紙の上にじわじわと広がっていくのに従って、わたしの心にも彼を恐れる気持ちが広がっていく。
「悪い子だね」
 本から目を離さずに、青江が言った。恋人ほどに近い距離に顔を寄せた青江からは、海のような臭いがした。灰暗い海の底。海百合の咲く、深海の果て。一度沈めば、それっきり。
「悪い子には、お仕置きをしないとね」
 白い指が顎をさらって、一際高い波に飲まれたかと思うと、わたしはもう二度と浮いては来なかった。

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2018/03/15

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