恋の火

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鶴さに

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 刀の俺は裸の腕に抱かれて、墓の下で夢を見ていた。

 夢の中で、俺は池の畔に立っていた。傍には満開の桜の木が立っていて、それ以外は何もなかった。空には丸い月が昇っていて、凪いだ水面を静かに照らしていた。
 池は十歩も歩けば回りきれるような小さな物だった。白い水が張っていて、覗き込むと随分深い。底の方に大きな魚が一匹泳いでいて、わずかに届く月の光を受けてキラキラと光っている。上半分は抜けるように白く、下半分はくねる度に虹色に輝く不思議な魚で、よくよく見れば、それはただの魚ではなく、ひとりの女の人魚だった。長い黒髪が夜の澄んだ水の中、烏の羽の濡れたように艶めきながら揺れている。こちらを向かないかとじっと見つめていると、俺の視線に気づいたのか、人魚の小造な顔がくるりと振り返った。人魚にしては平凡な、取り立てて美しいとも言えないような顔であったが、その眼窩にはまるふたつの眸が、珍しい黒真珠のようにとろりとした輝きを放っている。随分長く生きているが、こんな眸は見たことがない。その妖しい輝きに、どうしても目が離せなくなった。それにしても、彼女はなぜあんなに深い場所にいるのだろう。まるでこちらをからかうように、底の辺りばかりを悠々と泳いでいるのが憎らしい。手の届くほど近くへ来れば、今すぐに捕まえて、そうして手元に置いておくのに。
 唐突に胸を過った凶暴な欲望に、自分でも戸惑いながら人魚を見つめていると、人魚はコロコロと笑い始めた。童女のように大口を開けて、笑う端からぷくぷく泡が出る。立ち上ってきたその泡沫を舐めるように、水面に顔を寄せて水を啜った。水は甘い味がした。
「なぁ、君、上がってきてはくれないか」
 堪らず声をかけると、人魚はきょとんとして首を傾げる。水の中まで音が伝わっていないのか、それともひとの言葉がわからないのか。人魚が上がってくる気配は一向にない。捕らまえて檻に入れようという己の悪心を棚に上げて、苛立ちがジリジリと腹の底を熱く炙りだす。
 こちらを警戒する様子のない人魚は、おそらくまだ子どもなのだろう。大人の人魚は恐ろしく、人間を誑かしては水中へ引き込み殺すという。それでも人魚の肉を食めば永遠の命が得られるとあって、愚かな人間どもは競って人魚を捕らえるらしい。
 俺はそんなことはしない。捕まえたとて、食いなどしない。檻に入れるのも人魚を愛でるためであって、守りこそすれ脅かすことはけしてない。だから、安心して上がってこいと、顔に笑みを張り付ける。自分でも白々しいと思えるほどの作り笑いに、それでも人魚は安心したのか、少しずつそのからだが浮かんでくる。いいぞいいぞと思っていると、チラチラと視界の隅を過るものがあった。それは池の表面に次から次へと降ってきて、人魚の姿を隠してしまう。水面に触れんばかりだった顔をあげてよく見れば、薄紅色をした無数の桜の花びらが風もないのに池に向かって舞い落ちているのだった。花びらはそのまま沈むことはなく、水面に触れるやいなやあっという間に燃え上がる。瞬く間に池は炎に包まれて、俺はおどろいて飛びすさった。これは一体どういうことか。惑う頭で考える。おそらく、傍らにあった桜の木が妖物であったに違いない。俺が人魚を手に入れられそうになったから、悔しくなって今更、邪魔立てをするのだ。
 すぐさま斬り倒してやろうと、俺は立ち上がりざま腰の刀を抜き放った。途端に鞘から、ぱっと、花びらが散って、あれっと思った瞬間にはもう花びらは燃えていた。振り向いた先に桜の木は影も形もなく、いまや花びらは俺のからだから溢れるように降っていた。
 これは人の似姿を得た代償なのだ、と不意に気づく。自由に動かせる四肢を得て、ひとを愛する心を得た。只の刀には持ちきれぬ思いが、花びらとなって溢れ出るのだ。そうして俺のこの思いが、人魚を――主を焼き殺す。
 気づいてしまった真実に呆然としている間にも、花びらは絶え間なく降り続け、池の炎は激しさを増す。それは地獄の光景だった。妄執の果てに俺が堕ちるだろう場所が、すぐ目の前に広がっていた。真っ赤に燃え盛る炎の中で、ほっそりとした二本の腕がゆらゆらと花のように揺れている。俺は弾かれたように池の傍へと座り込み、腕に向かって手を伸ばした。人魚のすんなりとした指に己の骨張った指を絡め、祈るように組み合わす。このままここに放っておいては、人魚は焼け死ぬだけである。俺は人魚を助けるという立派なお題目を得て、彼女をこの手に捕まえる。それでいいのか、と誰かが耳の後ろで囁いたが、俺はその声を無視して人魚を引き上げた。ぬめらかな腕が首に巻き付き、人魚の顔が水面から出て、口づけるほどに近くなる。いっそこのまま口づけてやろうか、と思った。口づけて、舌を噛んで、そうして骨も残さず食らい尽くせたら。
 にっこりと、主の顔をした人魚が笑った。
「共に恋の火に焼かれましょう、鶴丸さん?」
 俺は一瞬、息の仕方を忘れ、その隙にやにわに力を増した人魚に池の中へと引きずり込まれた。

 目が覚めると、全身が打ち上げられたばかりのように熱かった。俺は人のからだを持ち、腕の中には柔らかい女のからだを抱いていた。
「君、」
 俺よりも一回りも二回りも小さい今生の主は、幼げな顔をして眠っている。俺の浅ましい劣情など露程も知らず、ただ春の夜の手枕と、刀の戯れを許している。障子の隙間から射し込む月の光だけが、主の顔を照らしていた。俺は主を起こさぬようにそっとそのからだに覆い被さると、耳元に唇を寄せて、震える声で囁いた。
「あれは、君の本心かい。君は俺と、焼け死ぬ覚悟があるというのかい」
 何も知らぬ主のすうすうという穏やかな寝息だけが、夜のしじまに響いていた。

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2018/03/19

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