ガチ恋は実らない

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現パロ / みかさに

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 まさか二十代も後半、三十路手前にもなって、アニメキャラに本気で恋するとは思わなかった。しかもアニメというが、正確に言えば、ゲーム原作のアニメ化であり、ゲームは所謂乙女ゲームというものだ。
 何が悲しくて、いい歳こいて二次元の男相手にきゃあきゃあ言わなきゃならないのか。
 そんなことは、もう百回は自問自答したし、夢豚と呼ばれるオタク趣味が一般的には眉をひそめられこそすれ、認められるものではないとも理解している。しかし、恋はするものではなく落ちるもの、というように、萌えは唐突に訪れ、沼は一度はまれば抜け出せない。わたしだって、はまろうとして、はまったのでは決してない。気づけば頭の上までどっぷりとはまりこんでいて、サムズアップをしたままただひたすら沈んでいくだけだったのだ。もう今更、抜けようとしたところで、下手をすれば命に関わる。一体全体どうしてこんなことになってしまったのか、理由がわからないところが更に恐ろしいが、その代わりに、人生が楽しくてしょうがない。これまでに生きてきたなかでも、今がわたし史上最高に輝いていた。それもこれも、すべては、私立聖ミハイル学院高等部二年、麗しの図書委員長、龍造寺マリオン様(16)のおかげである。
 そのマリオン様が、なんとこの度、2.5次元化する。アニメが思いの外成功したらしく、最終回を迎えてすぐ、三部作での舞台化が決定したのだ。第一弾はわたしの最推しことマリオン様とそのライバルで生徒会長の立花・正宗・クラディウスの物語だ。いち早く発表されたメインビジュアルを目にした瞬間、わたしは心で涙した。推しは実在したのだと改めて確信し、すべてのものに感謝した。生きててよかったと心から思った。中の人のサイン入りポスターの抽選申し込みの為とはいえ、円盤を二十枚も積んだ甲斐があったというものだ。
 マリオン様に出会ってからの一年で、わたしの社会に出て働く意味が大きく変わった。以前は生活の為、外聞の為だったのが、今やマリオン様に貢ぐ為の労働になっている。日々、金に糸目を付けずにグッズを買い漁るのは勿論のこと、ファンクラブ会員限定の先行申込によってめでたく舞台の千秋楽チケットをゲットできた段に至っては、社会人でよかったと心の底から実感した。学生だったらとてもじゃないけど、この戦いを勝ち抜くことはできなかったな……。
 そして、今日も今日とて、愛の為に好きでもなければやる気も起きない仕事を無心でこなして、最終電車を待っている。終電といえど金曜深夜の地下鉄のホームにはまだまだ人が多くいて、ご機嫌な酔っぱらいにご同類の残業疲れ、そんなに別れがたいならラブホでも行ってこいと思わなくもないイチャイチャバカップルと、花金の名に恥じぬカオスの様相を呈している。そんな中、わたしはひたすら周りを無視してマリオン様のことを考えていた。とりあえず帰宅したら、先日届いたばかりの円盤の二巻目を開けよう。晩ごはんは買いだめしているカップラーメンで十分だ。明日はどこにも行く予定がないし、お風呂には入らず、拭くだけの化粧落としで誤魔化して、そうして徹夜でマリオン様観賞会と洒落こむのだ。ああ、やっぱりお供のチューハイは必要かな、途中でコンビニに寄らなくちゃ。そんなことをつらつら考えているうちに、電車の到着を告げるアナウンスが鳴り響いて、プォーン、という甲高い音とともにがらがらの電車がホームへ滑り込んでくる。一瞬のがたつきの後、すーっとドアが開いていき、降りる客も待たずに後ろからの圧力でどかどかと車内へ雪崩れ込んだ。無理矢理押し込まれて、自分の意思でなく先に進まされていく感覚は、幼い頃に読んださかなの群れの絵本を思い出させる。ほとんど同じ色の、見分けのつかないさかなたち。不快の中にひそむ、自分が何者でもなくなるような不思議な感覚。突き飛ばされるようにして、足をもつれさせながら車両の奥まで突き進み、突き当たりの壁に激突した。鞄を抱えたままぎゅうぎゅうと壁と人とに押し潰されて、一気に肺から空気が抜ける。満員電車のこの非人道的な潰され方にはもう慣れっこになってしまって、今更悲鳴なんてあげないが、ついで、バンッ、と顔の両側に突かれた男の手に、うわ壁ドンだ、と妙な感動を覚えてしまった。まあ、結局、こういうのってぱっとしない中年のおじさんだったりするんだよね……と思いながら、ふと背後に目をやって、
「……ピェッ!?」
 瞬間、語彙力が消失した。
「苦しいのか、あいすまぬ」
 わたしの背後に立っていた若い男性が、申し訳なさそうに眉をへにょりと歪ませる。マスク越しにくぐもる美声、ぐるぐるマフラーにちょっとださめの黒縁メガネ、それでも隠しきれないあふれでるイケメンオーラ。32歳独身、職業舞台俳優、名前は――、
「み、みか、」
 嘘でしょ、待って、待って、理解できない。本当に無理、えっ、どうして、なにこれ夢、……マジ?
 頭の中がパンク寸前でくらくらする。正直心の中は大絶叫だったのだが、実際にはぱくぱくと途切れ途切れに口を動かすことしかできなかった。それでも、明らかにおかしいわたしの様子に気づいた背後の男性が、はっとしたように目を見開く。まあ、はい、ガン見してるからね、さすがに気づくよね、すみません。男性は眼鏡をかけていてもわかる、長い睫毛を音でも立てそうなほどバサバサと上下させながら、慌ててマスクを顎の下まで引き下ろすと、しぃ、と人差し指を唇の前に立てた。
 なにそれかわいすぎるでしょっ!?
 吐血必至のしぐさに、んんん、と変な声が漏れそうになって、とっさに口を強く引き結ぶ。これはやばいぞ、落ち着けわたし!
 実際は(心の)出欠多量でまともな言葉が出せなかっただけなのだが、一応はおとなしく口をつぐんだわたしに満足したのか、男性――三日月宗近はにっこりと微笑んだ。心持ち首をかしげつつなのがあざとかわいくて尊い死ぬ。っていうか、今の体勢やばくない? あの三日月宗近に壁ドンされてるんですけど? わたし、ファンに刺されない? この後、不慮の事故とかにあったりしない?!
「やあ、俺を知っているのか」
 嬉しいなあ、とこっそりと耳元に囁かれる声が心臓に悪い。そそそそそれは、勿論、存じ上げておりますとも!
 何を隠そう彼こそが、この度の舞台化において生徒会長の立花・正宗・クラディウスを演じる役者さんなのである。文武両道、眉目秀麗、家柄確かな富家良家の御曹司という、三拍子も四拍子も揃った二次元でしかありえないキャラクター設定を持つクラディウスにはそれはもう熱狂的なうるさ方のファンがついており(ちなみにマリオン様ファンはおとなしめの喪女が多い、まさにわたしだね!)、下手な役者にやらせたらただじゃおかねーぞ、みたいな声があちらこちらから上がっていたのだが、キャストが発表されるやいなや、それらすべてを黙らせたという、文句のつけようのない神レベルの超絶美形こそがこの三日月宗近(32)(愛称は「みかち」)なのである。すごい。
 ま、まあ、わたしはマリオン様役の数珠丸恒次ことずず推しなんですけど!
 しかし、推しではないとはいえ、この美貌はすごい。リアルに輝いている。意味がわからない。尊みがひどい。
 さらさらの黒髪に、しみひとつない陶器のような肌。睫毛はエクステしてます? ってぐらい長くて、唇は女子顔負けのモテピンクのうるつやぷるり。そして、何よりすごいのは、その名が示す通りの、三日月型の虹彩である。まるで夜空に浮かぶ本物の月のように輝く金の虹彩は、なんとカラコンでもなんでもない天然物というのだから、これぞまさに二次元ですありがとうございます!
 わたしは拝むようにして、とにかく目の前の奇跡のイケメンを網膜に焼き付けた。寿命が余裕で十年は延びる。推しじゃないけど! 推しじゃないけどっ!
 引き続きの熱視線に、みかちはちょっと困ったようにううん、と唸って、なぜか左手のてのひらをわたしの方に向けてきた。思わず、みかちの顔とてのひらとを何度も見比べる。なんだ? これは一体何の謎かけ? これ以上は事務所NGです、とかそういうこと?
 けれどみかちは、混乱するわたしを見て、いたずらっ子のようにくすりと笑い、
「さーびす、だぞ?」
 そっと、わたしの、手をとった。

 ……気づいたら朝だった。
 チュンチュン言う雀の声で目が覚めて、フローリングの床からゾンビのようにむくりとからだを起こす。エアコンも床暖房も点いていない12月のワンルームはめちゃくちゃ寒くて、自覚したとたんにぶるりと全身に震えが走った。
 正直、みかちの手が触れた辺りから家に帰ってくるまでの記憶がない。あれからみかちと何を話したのかも覚えてないし、そもそも何か話したのかさえおぼろげで、ぶっちゃけて言えば、みかちのてのひらの感触だって覚えてない。なにやってるのわたし! せっかくの生みかちだったというのに、しっかりして!?
 思わず頭をかきむしれば、手に伝わるのは二日目にありがちな脂っぽい感触で、口からうぎゃあと悲鳴が漏れた。化粧しっぱなしでべたついた顔に、コートさえ脱いでいない体たらく。床に直接寝転がっていたせいでからだの節々が痛いし、フレアのスカートはしわくちゃでクリーニング屋に持ってかないとダメな状態。
 一体、何がどうなったのか。断片的にも思い出せない記憶にひとしきり、うがーっと叫びたおした後、このままこうしていてもどうにもならないと、ようやく現実を受け入れる。とりあえずお風呂にでも入ってこようと、わたしは痛む体を引きずるようにして立ち上がって、そうしてようやく、もう半日を過ぎてしまった土曜日の行動を開始したのだった。
「……うん! 夢かな!」
 急速追い焚きで温めた湯船に浸かりながら、よくよく考えて出した結論がこれ。終電帰りの社畜ATMが見た真夜中の白昼夢。これしかない。
 大体、みかちが金曜の最終電車に乗っているところがおかしいし、その上わたしの後ろに立って壁ドンして、サービスとか言っておさわりオッケーとか、とりあえずもう願望駄々漏れって感じで、どう考えてもこれが現実な訳がない。っていうか、みかちって本当に実在するの? あのひと、妖精じゃなかったっけ?
 夢か現実かを確かめるために思わず自分の手の臭いを嗅いだりなんてこともしてしまいましたが、わたしは今日も元気です。というわけで、風呂上がり、ゆるめのルームウェアに着替えたわたしは炭酸水を片手にテレビに向かっていた。大好きなマリオン様がしゃべって動いているさまをじっと見ているのでなければ、今にも叫びだしそうだったからだ。
 そうです、全然落ち着けてません。
 だってだって、これが落ち着いていられますか!? 夢かな、とか言ったけど、夢ならどんだけ疲れてるんだよ病院行け、って感じだし、夢にしては細部描写凄すぎだし、そもそも本当に夢ならそこはみかちではなくずずが出てくるところでしょ!?
 つまりこれは紛れもない現実。わたしはみかちとほぼゼロ距離で接近したあげく、壁ドンからのおさわり(※手だけ)を体験した、あまりのラッキーっぷりにいつ死んでもおかしくない人間なのだ。っていうか、許容範囲越えすぎて今すぐ死にそう。
 誰かにこの奇跡体験を自慢したくてしたくてしょうがないが、生憎、わたしは隠れオタク。リアルの友人は誰もわたしが二次元に貢ぎまくり、2.5次元にまで手を出し始めていることを知らないし、こんなネタはSNSにも投稿できない。この衝動を発散する術を持たないわたしには、低い呻き声を発しながら、床をのたうち回るしか選択肢がなかったのだった。
 ……それにしても、みかち、格好よかったなー。

 まあ、でも言っても一回きりのミラクルだとわたしも思っておりました。
「また会ったな」
 にこにこと笑うみかちの幻影がなぜか月曜日24時13分の車内に見える。わたしもそろそろ病院に行くことを真剣に検討した方がいいのかもしれない。
「は、はひッ」
 しかも、今回は金曜とは違って向き合って立っている。そのせいで顔がめちゃくちゃ近い。みかちの整いまくった顔面が、目と鼻の、先に。息が、でき、ない!
 はふはふとおかしな呼吸の仕方をするわたしは、どこからどう見ても不審者丸出しだが、見た目が美しければ心まで美しいのか、みかちはいやな顔ひとつせず、またすぅと片手を差し出した。
「さーびす、するぞ?」
 ひぇぇぇぇぇぇぇっ!
 麗しの美貌を間近に感じつつ、耳元で囁かれる言葉に、なんていうかみかち本人に全然そんなつもりはないというのは百承知ではありますが、どーしても、エロいものを感じてしまうわたしはどこまで業が深いのか!?
 なんて思いながらも、からだは正直で、無意識のうちにそろそろと腕を持ち上げている。だって、サービスしてくれるって、みかちがせっかく言ってくれてるんだもん……。
 おそるおそる伸ばした手を、みかちはためらいなく取り上げると、きゅっと握りしめてくれた。伝わる力強さに、わたしの心臓もきゅっとなる。
「ふむ、そなたの手はあたたかいなあ」
 感心したようにみかちが言う。みかちの手は冷たかった。まるで、氷を触っているみたいに。ぶるり、と震えたわたしを見て、みかちの眉がへにゃっと下がる。
「いや、俺の手が冷たいのだな。すまぬ」
 みかちの手から力が抜けて、離れていこうとするのを思わず両手で握りしめた。ん、とみかちが小さく声を漏らすのを聞いて、全身からざっと血の気が引く。や、やってしまった。自分からのおさわりは、さすがにマナー違反かなって思っていたのに!
「あ……あの、スミマ、」
「いいのか?」
 慌ててほどきかけた手を、みかちがぐっと引き寄せる。電車の揺れにあわせてぐらつくからだを、しっかりとした腕に抱き止められる。
 はっとして見上げたみかちの顔は、とろけるような笑顔を浮かべていた。
「ありがたい。そなたは優しいな」
 至近距離で向けられる全開の笑顔に、一瞬、心臓が止まった気がした。周囲のざわめきがフェードアウトして、世界にわたしとみかちしかいなくなる。ぽーっとして見惚れるしかない一般人の心境なんて欠片も理解できないのか、それとももうそんな視線には慣れっこすぎて気にしないのか、みかちはわたしの手をにぎにぎしたり、ひっくり返してぺたぺた触ったりと好き勝手して遊んでいる。もはや驚愕を通り越した無心の境地で、わたしは目の前で繰り広げられるありえない光景をただひたすらに眺めていた。
「どうしたら、こんなにあたたかくなるのだ?」
 さすさすとわたしの手を指の腹で撫でながらみかちが言う。それはみかちが触ってるからじゃないですかね! とは思ったが、まさかご本人を前にしてそんなこと言えるはずもない。わたしはいまだぼんやりとする頭から、やっとのことで当たり障りのない回答をひねり出した。
「て、てぶくろ、を」
「ほぅ」
 手袋は確かに暖かいけど、カイロみたいに発熱するわけじゃないので、おそらくみかちみたいな末端冷え性には効かないんじゃないですかね。とは思うものの、みかちがすごくいいことを聞いた、みたいな顔をするから、もう何も言い出せなかった。イケメン耐性ゼロのわたしを許して、みかち……。
 それから最寄り駅に着くまでの28分間、みかちはよほどわたしの手のあたたかさをお気に召したのか、満面の笑みを浮かべながら手を撫でさすっていて、わたしは華奢に見えるみかちの指が意外と太くて骨張っていることとか、長いから細く見えることとか、ハンドケアはしっかりしているのか肌がすべすべとしていることとか、ちょっと爪が深爪気味なこととか、そんな些細な発見にいちいち生命の危機を感じながら、長いようで短い時間を過ごしたのだった。

「うっわぁ、すごいイケメン。こういう人がタイプだったんだ?」
「違います」
 火曜日12時41分、お昼休憩の真っ只中。ふと背後に影が射したかと思ったら、三つ上の先輩がパソコンの画面を覗き込んでいた。わたしは反射的に否定の言葉を口にして、開いていた検索画面を慌てて閉じる。
「あの、友だちが、今ハマってるらしくて」
「へー。まあ、そうだよね。こういうの興味なさそう」
 こういうのって、どういうのですか? 笑顔で言葉を飲み込んで、何かご用ですか、なんてわざとらしく聞いてみる。きれいにパーマをかけた栗色の髪の毛をネイルもばっちりな指先でくるくる回しながら、別に、と先輩も笑顔を返す。
「珍しいな、って思っただけ。私生活とか全然話してくれないし、ミステリアスなところあるからー」
 そりゃ、彼氏なし、趣味は二次元、休みの日はゲームとアニメとイベント三昧、なんて会社の先輩に言えるわけがない。見るからにリア充な先輩なら、余計に。先輩だって、こんな風に話しかけてはくれるものの、本当はわたしのことなんて欠片も興味がないの丸わかりだし。上っ面だけの付き合いなのは、わたしも向こうも、同じのはず。
「ミステリアスだなんて。無趣味なだけです。普通ですよ」
 えー、そんなことないよー、なんて言いながら、先輩は自分の席に戻っていく。なんとかこの場は誤魔化せたけど、やっぱり会社で検索なんてするんじゃなかった。寝不足でどうも判断力が低下している。こめかみに指をぐりぐり押しこんで、わたしは午後の仕事を始めるため、改めてパソコンへと向き直った。頭のなかにはさっきまで見ていた、こちらにきりっとした視線を向ける、みかちの宣材写真の像がまだはっきりと残っていた。

「やあ」
「こ、こんばん、は」
 三日目にして、まともに挨拶を返すことに成功。人間としてどうかなって感じだけど、この神様が丹精込めて作りましたって感じのどえらいイケメンを相手に、三日でここまでこぎつけられるって、逆にすごくないかな? という気もするので、いいことにする。それこそよく言われるように、美人は三日で……全然、飽きない。
「さーびす、するか?」
 すらりと差し出された手に、おずおずと指を伸ばす。こんなのに三日で慣れるとかどんだけ強心臓よ!? 無理無理、一生かかっても無理。しかし、慣れずとも、手を出すことはできるわけで。
「あった、かい」
 ぺたり、と触れたてのひらは、昨日とは違ってほんのりと暖かかった。
「そうだろう、そうだろう」
 ドヤ顔かわいいかよ。満足げに笑うみかちのあまりの尊さにうっ、と息を詰めながら、それでもしっかり手を合わせる。ぴったりと重なりあった手、ガラス越しに見つめあう恋人同士、みたいなロマンチックな妄想がところ構わず脳内を駆け巡るが、リアルにてのひら越しに伝わる熱とか、満員電車のざわめきのなかでもそこだけフォーカスされたように耳に響く微かな呼吸音とか、目の前に迫るダウンジャケットから漂ってくる香水ではない、体臭なのか柔軟剤なのかなんかよくわからないけどちょっと甘めの良い香りとか! 妄想よりも妄想すぎて?! 今この瞬間を生きていくのに忙しくて仕方ない!
 ほとんど瀕死状態になりながらも、人間は強欲な生き物だね、ついつい更なる刺激を求めてみかちの顔をちらりと見上げる。……死んだ。
「手袋をな、してみたのだ」
 ふふふ、とみかちが嬉しそうに笑っていた。顔ゆるっゆるですけど。あの宣材写真の、女なんて百人抱いたぜ、みたいな雄みの強いキレキレイケメンオーラは一体どこへログアウトしてしまわれたの。いや、こんな至近距離でそんなキメ顔向けられたら腰抜かして立っていられなくなっちゃうけど。
「これで、そなたの手に触れても冷たくはないな?」
 合わせるだけだってのひらが、わずかに離れて、その長い指が指の間を割って絡められる。するりと撫でられた指の側面から、言い様のない感覚がぞくぞくと背筋へ流れていった。うわ、声出そう。
 本当に、やばい。

 二度あることが三度あるなら、三度あったことに四度目がないはずがあるだろうか。いや、ない。
「こ、こんばんは」
「おや、そなたか。こんばんは」
 水曜日24時10分。駅のホーム。終電待ちをする人々のなか、一人だけ飛び抜けて背の高い人影に声をかける。相変わらずのぐるぐるマフラーにちょいださのだて眼鏡、マスクをしてきても隠しきれない芸能人オーラ。これ全然隠せてないでしょ、わたし以外にも絶対気づいている人いるでしょ、って思うけど、周囲はこちらのことなどまるで気にした様子もなく、スマホをいじる人や、イヤホンで音楽を聞く人、疲れたように目を閉じている人などばかりで、いぶかしげな目を向けてくる人さえいない。たとえみかちのことを知らなくても、こんなイケメン、どう考えても一般人じゃありえないと思うのに。
「今日も残業か? 大変だなあ」
「あっ、はい」
 わざわざ並んでいた列を抜けてまでわたしの傍へと寄ってきたみかちが、今日も今日とて、残業帰りの疲れ目には眩しすぎる、輝く笑顔を向けてきた。何の変哲もない、ホームの蛍光灯の光が後光に見えるなんて、いよいよもって恐ろしい美貌である。
「俺もな、仕事帰りだ」
 誰も気づいていないようだとはいえ、誰が見ているかもわからないホームで手を繋ぐわけにもいかないのだろう。今日のみかちはいつになく饒舌で、わたしの方をちらちらと見下ろしては、楽しそうに話しかけてくる。
「今の仕事が、もうすぐで正式に始まるのでな」
 あああ、それあれですよね、例の舞台ですよね、知ってます! わたし、千秋楽のチケットとってますけど!?
「俺も毎日、この時間まで稽古のし通しだ」
 はっはっは、とみかちはなんでもないように笑うけれど、わたしの脳内には瞬時にクラディウスの格好をしたみかちの姿が再生されたから、そこからは呼吸をするのだけで必死すぎて、一緒に笑うなんてとてもじゃないができなかった。こんなにさらっと仕事の話出すなんて、ファンサービスが過ぎるのでは。
 その時、プォーンと電車が到着する音がして、みかちはふっと黙りこんだ。ドアの開くのを待つ数秒の間、何気ない、ただ笑っていないというだけの横顔に、どうしてか胸が苦しくなる。もしかすると、笑いかけられている時よりも、もっと。
「こちらに」
 腕を引かれて電車に乗り込む。押し流される感覚はいつもと同じだが、潰されるほどではないのは、みかちが庇ってくれているからか。見上げれば、みかちは当たり前のようににこっと笑うけれど、それでもこんな乗車率120%みたいな状況で、恋人でも友人でもない相手にするような、簡単なことじゃないことぐらい、わかる。
 車両の奥、壁を背にして立つわたしへ、みかちがすぃと手を差し出す。
「さーびす、だ」
 抗いがたい引力に負けて、わたしは目の前のてのひらへと自分のてのひらを重ねた。二日前とは違う、ほの暖かいてのひらに心の奥のやわらかい部分まで溶け出してしまいそうで、思わずぐっと唇を噛む。それなのに、
「そなたとこうしている時が、一日のなかで、いちばん、落ち着く」
 なんで、そんなことを、言ってしまうの。

 木曜日24時12分。発車ベルの鳴る終電へ飛び乗ると、無理やりからだをねじ込ませる。明らかな迷惑行為だが、この電車を逃せばタクシーを利用するしかないのだから、申し訳ないが見逃してほしい。ドアの間際のわずかな隙間につま先立ちで乗り込めば、今にも弾き飛ばされそうな、ぎゅうぎゅうに詰まった人の壁の中から、にょきりと腕が生えてきて、わたしの手をぐいと引いた。あっ、と思っている間に人の足元近くを転がるように抜けて、誰かの腕に抱き止められる。甘い匂い。つるりとした紺のダウンジャケット。
「よかった」
 ぎゅっと抱き締められて、耳元で囁かれる声は、今、一番会いたくて、一番会いたくなかったひとの声だった。
「み、みか」
「今日はもう、会えないかと思ったぞ」
 見上げればお月様。紺の瞳に浮かぶ三日月の虹彩が、きらきらと光ってわたしを見ていて、それだけでもう息ができなくなりそうだ。
「仕事が忙しかったのか?」
 へにゃりと眉を下げてみかちが問う。答えないなんて選択肢はわたしにはなくて、ぶんぶんと頭を上下に振った。視界の端で、サラリーマンが迷惑そうに顔をしかめるのに、心の中で頭を下げる。
「そうか」
 まるでわたしの言い分を疑うこともなく、みかちがうむと頷いた。それはそうだ。疑う必要なんてない。みかちにしてみれば、ファンであるわたしがみかちに対して嘘をつく必要なんて、ないんだから。
「しかし、若いおなごがこうも毎日、遅い時間に帰るとなると、心配だなあ」
 あまり頑張りすぎるなよ、とみかちがやさしく言ってくれるのに、嬉しいのに泣き出しそうになる。やめて、と叫んでしまいそうになる。
「俺は明日は休みでな。そなたとこうして会えるのも、これが最後だろう」
 舞台は土曜日から始まる。本番が始まれば、電車の時間もずれるのだろう。二週間の公演が終われば、次は地方公演が待っていて、会える確率はますます減る。そもそもみかちがこの沿線に住んでいるのか、公演の為だけに一時的にこの近くに滞在しているのかさえ、わたしは知らないのだ。
 わたしはこのひとのことを何も知らない。本当の名前も、何も。
「あたたかい、なあ」
 なんの前触れもなく絡めとられたてのひらが、燃えるように熱かった。揺れとともに近づく顔が、肩口にそっと寄せられる。あの美しい顔は、どんな表情を浮かべて、こんな罪深いことを口にしているんだろう。ただの平凡な社会人に、ありえない夢を見せるなんて。
 今にも逃げ出しそうなわたしの心を、強く握られたてのひらだけが、ただただここに引き止めていた。

 金曜日、いつも通りに出社して、いつも通りに仕事を終えて、いつもと同じ、最終電車に乗って家に帰った。変わらない生活。つい一週間前までの日常。それなのに、寒くて寒くて仕方がなくて、わたしは家に帰ったとたんに、何も食べずにベッドにもぐり込んだ。ひんやりとしたシーツの間に挟まれて、ただあの暖かいてのひらのことを思い出していた。

 それからの二週間のことはあまり覚えていない。気づけば朝になっていて、会社に行って仕事をして、その繰り返しで毎日を過ごす。寝不足の頭はミスを連発して、最初は怒っていた上司も、そのうちだんだんと腫れ物を触るような扱いになってきた。申し訳ないと思う気持ちと、放っておいてほしいと思う気持ちがないまぜになって、トイレに駆け込んでは泣いていた。手帳に大事にはさみこんだチケットだけが心の支えで、この舞台さえ終わったら、わたしはまたなにもなかったかのように、現実に戻れると信じていた。そう信じるしか、なかった。
 待ちに待った日曜日、朝から起きて美容院に行った。髪を切って、高いマッサージも頼んだ。その足でネイルサロンに寄って、爪をピカピカに磨いてもらった。近くの百貨店でお昼を食べて、化粧室で何度もメイクを直した。マスカラで睫毛をぐいぐい上げて、目の下の隈をコンシーラーで塗りつぶす。昨日もあまり寝れなかったせいで、血の気の引いた頬の色を誤魔化すようにチークをはたく。鏡のなかにはこれから彼氏とデートにでも出かけるような、やけに気合いの入った女がいて、その癖、にこりともせずにこちらを睨み付けている。怖い顔だな、と自分で思って、平日には使わないかわいすぎるピンクの口紅を、もう一度塗り直した。
 今日はただ、マリオン様を見に行く日。ずずの芝居を見に行く日。推し変をしていないわたしには、それ以外の理由はなくて、あとは、ほんの少し、自分自身に現実を見せつけてやるだけ。夢が夢であることを、夢を見ることで実感するだけ。
 五時半開演の舞台に間に合うように、電車に乗った。降りるのは会社の最寄り駅。毎日、通っている駅だけど、土日に降り立つことはまれで、いつもより少し華やかな服装の人が目立つ駅の光景は、初めてきた場所のようだった。いつも使う出口とは、違う出口で地上に向かう。ここ二週間、せめてすれ違わないかと、未練がましくランチタイムにふらふら出歩いたりしたけれど、それも全部、今日で終わり。
 前は向かずに、下だけ見て、足早に劇場を目指した。顔をあげれば探してしまう。人混みのなかに、すれ違う人のなかに、あのひとがいないかって。
 早めに着いた劇場には、同じように舞台を見に来た若い女の子たちばかりがたむろしていて、そこかしこできゃあきゃあと甲高い笑い声が聞こえていた。壁に貼られたポスターを撮ったり、パンフレットをめくったり、本当に楽しそうな笑顔が、そこかしこにあふれている。わたしはそれからさっと目をそらして、俯きながらロビーの端へと逃げ出した。自分のことを特別だと、勘違いしてしまう自分自身を必死で押さえ込んで、死刑宣告を待つ囚人のように、じっと開場の案内を待つ。その時、ふと、まだ席番号を確認していないことを思い出した。鞄から手帳を取り出して、皺の寄らないよう挟み込んでいたチケットを引っ張り出す。
 ――1列目、19番。
 これが運命だって、信じられたらよかったのに。勝手に潤み出した目を、涙がこぼれないように何度も何度もしばたたかせる。きっとこれは、神様がくれた最後のチャンスだ。あのひとの顔がよく見えるように、わたしが諦められるように、その為のチケットだ。
 チケットをぎゅっと胸元に引き寄せて握りしめた。神さま、どうか。わたしにあのひとを諦められる、強さをください。

 ライトに照らし出される華やかな舞台上で、あのひとが笑っている。青いブレザーの制服姿で、髪の毛もきれいに撫で付けてあって。似たような姿をした共演者と肩を組んだり、手を繋いだりしながら、楽しそうに笑っている。
 公演内容は素晴らしかった。二次元にしか存在しなかった世界が目の前で熱や風を伴って実在していた。キラキラはディスプレイ越しに見るよりも更に煌めいて見えたし、愛の言葉はイヤホンで聞くよりも更に耳元で囁かれているようだった。より近くで、よりリアルに。手を伸ばせば、駆け寄れば、抱き合える距離にいるというのに。
 けれど、世界が違う。
 カーテンコールが終わって、役者さんたちが舞台の幕へとはけていく。みんなが笑顔で、お辞儀をしたり、手を振ったりして、夢の終わりを告げていく。今回の主演であった二人もにこやかな表情を浮かべて、お互いの好演を称えあっていたが、いよいよ時間が押してきて、深々と客席に向かって一礼した。バレエのダンサーのようなきれいなお辞儀。ゆっくりと頭があげられて、ふと、月を湛えた紺の瞳が、何かを探すようにぐるりと客席を見渡した。
 右から左へ。空の高いところに浮かぶ月の運行のように、ただただ遠くから眺めるもの。それが、わたしの方を見て――にっこりと、微笑んだ。
 とたんにダッと涙があふれた。止めようもなく次から次へ流れ出す涙を、両手で隠してうつ向いた。一瞬見えたあのひとの顔は、驚いているようだった。そりゃそうだよね、だって、向こうにとってはただのファンの一人で、ちょっと顔見知りだから、少しサービスしてくれたって、それだけなのに、こんなに泣いたりして。それだけ感動したんだって、思ってくれればいい。泣くほど嬉しかったんだって。それで、いいことしたな、とか思ってくれれば、それでいいんじゃないかな。今夜、眠る前に少しでもわたしのことを思い出してくれれば、もう明日には忘れていてくれて構わないから。
 ありがとう、と心のなかで呟いた。
 さようなら、と唇だけで囁いた。

 劇場を出る頃にはもう完全に日は落ちていて、街灯やショーウィンドウが道を明るく照らしているとはいえ、あまり近くに寄らなければ、細かい顔の造作まで見えないぐらいには暗かったから、少しほっとした。涙の跡が幾筋も残る湿った頬に、夜の北風が冷たかった。劇場から出てくる女の子のなかにはぐすぐすと鼻を啜っている子もちらほらいたから、わたしもそれほど目立ってはいなかったと思いたい。できるだけ下を向いて、極力視界から情報を取り除いて、そうして急ぎ足で歩いた。向かう先はカラオケボックス。最低限の会話で部屋の鍵を渡されて、ワンドリンクはコーラを頼んだ。足早に向かう304号室、店員さんが飲み物を運んでくるのを待ち受けて、部屋のドアが閉まったのを確認すると同時に用意していた曲をリクエストする。流れ出すしっとりめのバラード。愛してるって伝えられずに意固地になってばかりだった、なんて、素面で聞くと臭すぎてつらくなる歌詞が表示されて、背景で二次元のイケメンが笑いかけていた。これがわたしの世界。これがわたしの現実。まただらだらとあふれだした涙を、今度は拭いもせずにじっと画面を見つめ続けた。
 前にネットで見たことがある。こういうの、アイドルとか役者とか、そういう生きてる世界が違う人たちに本気で恋をしてしまうこと、ガチ恋っていうんだって。苦しい、やめたい、つらい。そんな言葉ばかりがネット上にはあふれかえっていた。それを見た頃のわたしは、まあこっちは次元が違うから、とか言って、他人事みたいに笑っていたけれど、今ならあの人たちの気持ちがよくわかる。同じ世界に生きて、同じ空気を吸って、短いけれど言葉を交わして、軽い接触なんかもして。そんなことしてたら、たとえ無理だとわかっていても、好きになるに決まってる。あんな、きれいで、格好よくて、かわいくて、やさしいひとに、恋をしないなんて、無理だった。
 泣きながら受付に電話をした。ビールに、枝豆、ポテトの盛り合わせ、あと焼きそば。電話の向こうで店員さんがぎょっとしているのがわかったけど、これ以上はとりつくろえなかった。ビールをグビグビ飲んで、手当たり次第にポテトを食べて、泣きすぎて気持ち悪くなって、ソファに横になりながら、それでもわたしは画面を見続けた。恋はするものではなく落ちるもの。沼は落ちるものではなくはまるもの。それなら、きっと、この苦しさも、いつか二次元が癒してくれるだろう。
 気づいたらわたしは眠っていて、のろのろとスマホの画面を見るともう終電にぎりぎり間に合うかという時間だった。大慌てで荷物をまとめて、マフラーを巻くのも適当に部屋を飛び出した。会計を済ませ、冬の夜道を駆け抜ける。もう人通りも少ないのに、急ぎすぎて転けそうになりながら地下鉄の階段をかけ降りた。改札を抜けて、ホームへ向かう。プォーン、と甲高く響き渡る電車の到着する音に、ますます鼓動を早めながら、乗降を始めたドアを目指して足を早めて、
「待て!」
 二の腕をつかまれ、がくんとからだが傾いだ。しりもちをつく前に、見た目よりも力強い腕がおなかの前に回されて、ぐいと固い胸板を背中に感じた。耳元で感じる、荒い息遣い。目の前でドアが閉まっていく。視界が、にじんでいく。
「ど、して」
「なぜ、泣いていた?」
 肩をつかまれ、振り向かされる。腰を屈めて、顔を覗き込んでくる。紺の瞳のなか、美しい三日月がわたしだけに向けられている。
「泣いて、なんて」
「今まで、泣いたのか?」
 驚いたような声に、何も答えられない。心配させたい訳ではなかった。そんな風に気を引きたい訳じゃない。けれど、うまく言葉が浮かばずに、黙って首を振っていると、ふっ、と世界の違う美貌の顔がゆるんだ。満員電車で見続けた、まるで、心を許したような笑顔。
「まったく、そなたは仕方がないなあ。せっかく少しは慣れたかと思っていたのに。俺はそなたともっと話がしたいと思っているのだぞ?」
 頭にぽん、と大きな手がのせられる。そのまま、よしよしと子どもにするように撫でられて、よし帰るか、とほがらかに彼が笑う。
「終、電」
「そうだな、行ってしまったな」
 すまんすまん、と欠片もすまないと思っていない顔で謝られて、少しだけ、笑ってしまった。さっきまであんなに苦しかったのに、このひとにやさしくされると、とたんにうれしくなってしまう。わたしが笑ったのを見て、彼はにこにこと笑みを深くして、そうして愛しげなものでも見るかのように目を細めた。
「タクシーでも拾うか。……家はどこか、聞いてもいいか?」
 こんなに遠慮なく抱きしめたりしたくせに、たかだか家の場所を聞くのに、緊張した顔を見せるなんて。そんなことをされたら、本当に。
「……名前も知らない人に、教えられません」
「おや、知らなかったのか?」
「本名は、知らない、です。あの……」
 勘違いしますよ、と言えば、勘違いしてくれ、と笑いながら彼は返した。
「俺の名は、な、」
 耳元で囁かれた名前を、わたしはきっと一生忘れないだろう。

 ――ガチ恋が実らないなんて、誰が決めたの?

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2018/03/19

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