龍宮

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鯰さに

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 本丸の主、審神者の寝室は六畳ほどの畳敷の和室であったが、その床の間には、就任の初日より掛軸が一幅飾ってあった。誰が掛けたものかはとんと分からぬ。この本丸の主になったのは私が初めてだというから、前任者の置き土産という訳でもない。こんのすけに聞いてみたが要領を得ず、政府からの贈り物というにはあまりにも審神者業とも何の関連もない絵であるので、それで不思議に思っている。
 掛軸に描かれているのは、巷間にありがちな、何の変哲もない山水画である。墨の濃淡で描かれた峰列なる山々と、遠景に浮かぶ薄らぼんやりした半月。手前には湖らしき水溜まりが広がって、水べりに競りだしたように小さな四阿が建つ。欄干から垂れる細い線は釣糸だろうか。人らしき姿は見当たらない。
 大した絵ではないな、と芸術の才のない私にでさえ思わせる絵であった。その道の大家を称する歌仙に見せても何とも言えぬ渋い顔をしていたので、やはりこの掛軸に美術的な価値はないのであろう。まあ、見ていて虫酸が走るというような絵でもない。代わりに飾る掛軸の持ち合わせもないことであるし、私は掛軸をそのままに、普段の生活では気にも留めず、日々を過ごしていたのであるが。
 ある晩、眠っているところにざぶざぶと水の音がしたような気がして目が覚めた。布団を頭まで被ったまま、薄目を凝らしてわずかな隙間から何事かと部屋を見回すと、あの掛軸が闇のなかにゆらゆらと揺らめいている。部屋の障子が開いていたかで風が吹き込んでいるものかと思ったが、じっと見ているうちに、掛軸が揺れているのではない、描かれた絵が揺れているのだと気がついた。薄墨で表された月は今や皓々と冴え輝き、山々は夜闇に沈みながらも、深い碧を湛えている。湖の表面は穏やかに波打って、その度に月の光を反射してちろちろと光っていた。鼻先には描かれていない筈の甘やかな沈丁花の香まで漂ってきて、そうして初めて、私はこの絵が春の光景を描いたものなのだと知った。あんなに大したことはないと思っていた絵であっても、こうまで五感に訴えられては、王宮にある名画もかくやと思えてくる。半分寝惚けた頭で、ああ、この絵のなかに入ってみることが出来たのならばな、と思ったが最後、波が一際高く跳ねたと思うと、ざばん、と掛軸という境を乗り越えて、部屋の中へと水が溢れてきた。私は布団にくるまれたまま水に呑まれて、六畳一間はあっという間に小さな水槽と化したのである。
 ぷくぷくと泡を吐きながら、上へ上へと流されていく布団や家具や畳を見送る。杉目の天井は底が抜けたように白い光を放っていて、誰に言われずともそれが水面を照らす月の光であると理解した。地上ではあんなに静かな夜だというのに、水中においてはこれほど眩しいものだとは、果たして人であった時には思いも寄らないことであった。しかし、その眩しさゆえに、水の中のあらゆるものは月の光に引き寄せられて天に登って行くのである。私もまた鰭を持つ水の中に棲む生き物として、天を目指そうかと思ったが、ふと、本丸に住んでいる筈の刀達のことを思い出した。刀の身で人の体を得た彼等は、今度もきちんと魚の体を得ることは出来たのだろうか。天に登るにしても、夜はまだまだ明ける気配はない。私は既に飛び去った間仕切りの縁を越えて、刀達を探すべく、するすると水の中を游いでいった。
 屋敷はもはや地上に在った姿ではなく、石や水草の生きるところとなっている。それでも記憶を辿りつつ、厩、茶室、広間に厨、居室と順繰りに廻っていると、水底に生えるように、刀が一本二本と刺さっている。皆は魚に成れなかったのだなと残念に思っていると、向こうから近付いてくる者がいる。まるで水の中とは思えない、地上を歩くような身のこなしで、鯰尾藤四郎は私の前へとやって来た。青みの強い黒髪を鯰の髭のように揺らして水底の砂を踏む様は、平生とまるで変わらない。
「主、迎えに来ましたよ」
 にこり、と鯰尾がその少女めいた顔を笑み崩した。言葉を発しているのに、気泡の一粒も漏らさない。彼は呼吸をしていないようだった。さすがは刀である、と私は妙な感心をした。水の中にあっても、彼はまさしく粟田口吉光の打ち上げた一振りの刀剣である。
「鯰尾も一緒に、天に登ってくれるのね」
「違いますよ」
 私は嬉しくなって鯰尾の手をとったが、予想に反して、鯰尾は呆れたような顔をした。年長者が考えの足りぬ子どもを嗜める時の表情である。
「全く、主は仕様がないんだから。こんな幻術に引き込まれるなんて」
「幻術?」
「そうです、早く起きないと、朝になりますよ」
 鯰尾はその朝焼けの色をした紫の瞳で私の目を覗き込んで言った。
「大体、魚であっても夜には眠るもんです。こんな風に起きて俺と喋っている主は、本当は魚になった訳じゃ、ないんでしょ?」
 成程、それもそうかと思ったところで急に息が苦しくなって、そこから先はもう忘れてしまった。

「主、起きてます?」
 部屋の外から鯰尾の声がして、ぱっと明かりが点いたように目が覚めた。私は魚ではなく、勿論部屋に水が張っている訳もない。ぱちぱちと瞬きをしながら見上げた天井は見慣れた杉目模様で、障子越しに白い朝陽が射していた。掛軸は行儀よく床の間に掛かっており、部屋中どこを見渡しても、濡れた気配は欠片もない。夢を見ていたのだと一人納得して、私は鯰尾にいらえを返すと朝の支度を始めたのだった。

「魚の真似事は、金輪際、勘弁してくださいね」
 魚の名が付いていようと、俺も刀なんですから。
 朝食の席で隣に座った鯰尾が、鯵の開きを解しながら言った。ああ、それで彼が来たのかと、そこで漸く得心がいって、私は、うん、と答えて味噌汁を啜った。

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2018/04/01

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