沼の底

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こぎさに

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 小狐丸の主は天下に類を見ない、恥知らずの大嘘吐きである。

 主は美しい少女だった。流れる黒髪、真白い素肌、夢見るように瞳は濡れて、唇は赤く熟れている。年の頃は十八か九と聞いただろうか。今を盛りとばかりの初々しさに、目にした者は老若男女を問わず、思わずほぅと息を吐く。主の美しさは姿形に留まらず、所作のひとつひとつまでが誂えたように美しい。行儀作法に煩い刀剣でさえ、彼女の立ち居振舞いには文句のつけようがないほどで、主は現世の縁について滅多に口にしないが、恐らく相当の名家の出であろうとは、由緒正しい大名差しの言である。その上、心ばえも良いときて、けして傲らず昂らず、公平を旨とし、不正を許さず、始終、周囲への気遣いを忘れることなく、常にゆったりと微笑んでいる。まるで生きている人間とも思えない、理想を絵に描いたような女主に、この本丸の刀剣どもは疑いもせず、皆揃って絶対の忠誠を誓っている。少しでもその花のかんばせが曇るようなことがあれば、我先にと飛んできて、どうした何があった、その憂いの原因を、と捲し立てる。そんな仲間の有り様が、小狐丸にはどうにも道化に思えてならぬ。あの女は嘘吐きだ。誰も彼もが彼女一人にだまくらかされて、良いように手玉に取られているが、小狐丸だけは女が嘘吐きであると知っている。知っているが、黙っている。それは、偏に嘘がばれても小狐丸には何の得もないからである。だから今日も、小狐丸は口をつぐむ。

「もう三年になるかな」
 と、歌仙が言った。歌仙はこの本丸において、最古参の刀である。客間から見える桜の花がちらちら舞うのを見ながら、本日の近侍である小狐丸は茶を啜った。
「そうですねえ、もうそんなになりますか」
 政府の役人だとかいう男が、しみじみと頷く。
「本当に、痛ましいことでした」
「ぼろぼろの着物姿で、泣いている主を見た時は、どうしたものかと思ったけれど」
「しかし、そこからこんなにも立派に立て直されました」
「そうだね。主は、本当に頑張ったと思うよ」
 うんうんと彼らは揃い合わせたように頷くと、口々に主を誉めそやした。やれ、刀剣の所持数がどう、戦績がどう、つまるところは主には一軍の将たる才覚がある、ということらしかいが、それにつけても誉めすぎてはないかというくらいに、彼らは主を持ち上げる。傍らで聞いている小狐丸は、よくもまあそんなに誉めちぎるネタがあるものだと感心するくらいである。いよいよ欠伸でも出そうになってきたところで、すぅと、襖が開いて、
「随分楽しげですわね。なんのお話ですの?」
 帰陣の部隊を出迎えに席を外していた主が、笑いながら問いかけた。歌仙と役人は顔を見合わせて、ちょっと笑うと、
「何でもないよ」
 と首を振る。
「あら、まあ、わたくしには仰れないこと?」
 主は恨めしげに歌仙を上目遣いでねめつけると、ぷぅ、と頬をふくらました。童女のようなその仕草は主の年齢では少し幼すぎる気もするが、小狐丸以外の人の目には十分に愛らしく映ったらしい。歌仙も役人も、途端に相好を崩して、いやいや違うと言い訳を口にし始めた。
「あなたの優秀なのを、歌仙と誉めていたのです」
「そうだよ、君が政府に認められていると聞いて、僕もつい気を良くして、少々熱が入りすぎてしまった」
「……少々という程ではなかったように思いますが」
 思わず小狐丸が口を挟むと、おや、と歌仙がわざとらしく驚いて見せる。役人がそれを笑って、主は赤くなった頬を隠すように両手を当てて、もう、と拗ねた声を出す。
「小狐丸様もそう思ってらっしゃったなら、歌仙様を止めてくださいな」
「これは気が利かず、すみませぬ」
 適当に答えてやって、小狐丸はツンと顔を背けた。まったく白々しいことである。己の企みにこうも上手く騙されて、調子に乗らない筈がないのに、この女はどこまでも純情な振りを貫くのだ。一体、心の中ではどう思っているか知れない。
 小狐丸のつれない様子に歌仙がむっと顔をしかめたが、主が気にしていないとばかりに優しく笑ってとりなすと、それ以上は何を責めるでもなく、会話に戻っていった。知らぬが仏よ、と小狐丸は思う。知ったが最後、歌仙もまた沼の底だ。

 三年前のこと、この本丸は時間遡行軍の襲撃を受けたのだという。顕現していた刀剣は皆勇敢に戦ったが、力及ばず一本残らず折れ果てて、後には主だけが残された。敵が去った静かな本丸で、主は折れた刀をひとつひとつ拾い集めると、それらで一振りの打刀を造り上げたそうだ。それが、歌仙兼定である。
 酷い有り様だった、と歌仙は酒の入る度にその時の事を思い出して涙ぐむ。ここに来た刀は皆、一度は彼の絡み酒に捕まるので、これは知らぬもののない話である。だが、それもまた怪しいと小狐丸は思う。
 歌仙が見たのは襲撃を受けたとおぼしき主と屋敷の様子だけで、実際に敵を見たわけではない。主は蔵に押し込められていて無事だったというが、共にいたという役人は今以て行方知れずである。あるのはただ、主の言葉だけだった。
 ところでこの本丸では、月に一度の血忌みの日にはすべての仕事が休みになる。その間、主は離れに籠って出てこないが、小狐丸は知っている。他の刀が遠慮して近付かないのを良いことに、主がそっと離れを抜け出していることを。
 それは単なる好奇心であった。どこへ行くつもりかと後を追った先は、草が生い茂るままに放置された裏山で、その頂上に近い場所に小さな土饅頭がぽつんとひとつ盛られていた。主は用心深く辺りを見回してから、土饅頭へと近寄ると、周囲をぐるぐる回って、そうしてほっとしたように息を吐いた。たったそれだけ、手を合わせることもなく、本当にただ様子を見に来たというだけで、主は足早に去っていく。一体、何をしに来たというのか。
 木々の向こうに主の後ろ姿が消えたのを確認してから、小狐丸は木立の陰から姿を表すと、ゆっくりと土饅頭へと近付いた。小さな土饅頭である。小狐丸が両腕を回せば、すっぽり中に入るぐらいの大きさで、わずかに雑草が生えはじめているものの、まだできて新しい墓に見えた。そう、ちょうど二年か、三年か。
 ふむ、と少し考えて、小狐丸は墓を掘り返すことにした。何のことはない、野生の感に任せて行動したのである。そうして、墓の下から現れたのは――若い、女の骨だった。

 役人は一頻り、ここ最近の本丸の運営状況について主の手腕を誉めてから、いくつか事務的な連絡事項を伝えると、辞去の挨拶を口にした。歌仙が立ち上がって役人を玄関へと送っていき、主もまた見送りのために席を立つ。主の為に手を差し出してやりながら、小狐丸は何気ない様子で、ふと口を開いた。
「ぬしさま、ぬしさまが近頃、血眼になってお探しになられているものですが」
 はっとした様子で、主が小狐丸を振り返る。必死に動揺を押し隠そうとしながらも、とても平静とは言い難い女の様子に小狐丸は笑いを噛み殺しながら、その小さな耳殻に、最近の彼女の懸念事項をそっと囁いてやった。
「あれでは野犬が荒らしましょう。私があらためて、沼の底に沈めておきましたゆえ」
 ――ご心配なく。
 女の目が恐怖に震え、口がはくはくと引き連るのを見て、ついに小狐丸は声を出して笑った。

 ぬしさまが嘘吐きなのは、この小狐丸、とっくに知っておりますよ。

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2018/04/11

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