面影草

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うぐさに / 転生モノ

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 何気ない仕草に、ふと見せる自然な表情に、穏やかに紡がれる声に、どうしても、彼の面影を見てしまう。
 ――それはきっと、恋だったのだ。

「今日の授業はここまでだな」
 終わりを告げる穏やかな声に、わたしははっとして頬杖を解いた。同級生たちは早くもばたばたと教科書を片付け出していて、わたしひとりがいつの間にか鳴っていたチャイムの音にも気付かずに、今日も夢から覚めたように瞬きを繰り返している。目線を落としたノートはまるっきり白紙のままで、わたしはそうっとため息をついた。この調子では、次のテストも平均点ギリギリが関の山だろう。
 古典は得意だったはずなんだけど、と少しの恨めしさを込めながら、教壇に立つその人をちらりと見やる。着古した淡い鶯色のセーターにグレーのチノパン。顔はいいのに、全体的にどこかだぼっとした服装で、その癖、すっと立つ姿勢は背中に物差しでも入れたようにまっすぐだ。二十八才はこの学校の教師の中では十分若手に入るけれど、あまり女子に人気がないのは、右目をほとんど覆うように伸ばされた前髪のせいだろう。あれはないよねー、と同級生たちが噂しているのを何度か耳にした。それどころか年配の女性教頭から注意を受けている現場にも、一度といわず数回出くわしたことがあるが、なぜかあの人は頑なに前髪を切らない。今日も変わらずその前髪は、ふんわりと鳥の羽のように外に跳ねながら、右目を覆い隠している。
 教壇の上から、ぐるり、と視線が教室中を一周する。その茶色みがかった黒い瞳がちょうどこちらへ向いた時、わずかに細まった気がしたのはただのわたしの願望だろう。向こうにとって、わたしは何十人もいるうちの生徒のひとりでしかない。特別かわいいわけでも、目立つわけでもないわたしのことなんか、あの人は名前も覚えているかどうか。
 わたしだけがこんなにもあの人を気にしている。前世の恋を、引きずって。

 わたしの前世はサニワとかいう特殊能力で戦う正義の味方だった。とはいっても、よくあるバトル漫画みたいな、能力を使って直接、敵と戦ったりするやつじゃなくて、もっと地味な……なんていうのかな、サニワというのはいわゆる召喚系の能力で、古い刀を何本も人間の姿に変えて戦っていた。本当に何を言っているか自分でもよくわからないんだけど、とにかく前世のわたしは日々、自分の能力を活かして悪の組織を倒すべく奮闘していたのだが、そんな忙しい毎日を送りながらも、年頃の乙女らしく本気の恋をしていたらしい。それも、相手はなんと自分の力で人に変えた元刀だというのだから驚きだ。虫食いだらけの記憶のなかであっても、彼らは皆一様にイケメンに美少年揃いだったが、それでも元はただの鉄の塊だし。どう考えても恋愛対象になんか絶対無理、という感じなのだけど、多分、前世のわたしは絶世の美形たちに主さまなんて呼ばれて優しくされて、なにか勘違いしたんだと思う。調子に乗ったまま一番見た目が好みな刀に告白して、そうして無事に玉砕した。
 どう言って、断られたかは覚えていない。ただ、フラれたはずのわたしは、それからもずっと彼を見つめ続けた。脇目もふらず、ひたすらに彼だけを。戦争が終わり、わたしが正義の味方からお役御免になって、彼がただの刀へと戻ることになった、その日まで。
 前世のことを思い出すようになったのは高校に上がってからで、それも劇的に記憶が戻ってきたというよりも、少しずつじわじわと水が漏れ出すように、覚えのない思い出が心の中に増えていったというのが近い。それもこれも、たった一人の、冴えない古典教師の存在が始まりだった。最初はなんとなく、どこかで会ったような気がする人だと思っただけなのに、気付けば視線が彼を追ってしまう。記憶の中で追い続けた彼と、同じようで違う人。名前も違うし、その身に纏う色さえ違う。そもそも刀であった彼は永遠に歳を取らなかったけれど、人間のあの人は当たり前のように歳を取って、どんどんと記憶の中の彼とはかけ離れていってしまう。今はまだ色味の違いぐらいの差しかないけれど、これからきっと皺も増えて、髪だって白くなったりして、腰も曲がって、そうしてただのお爺さんになる。その時、わたしはあの人のことを記憶の彼と同じひとだとは思えないだろう。だから、今更に何を伝えようとも、どうなろうとも思わない。この恋はわたしの恋じゃないし、あの人はわたしが好きだった彼ではない。

「好きなのか」
 ぼんやりと花を眺めているところに急に声をかけられて、びくりとして振り向いた。放課後の教室掃除で出たゴミを持って、校舎裏のゴミ捨て場に行ってきた帰りだった。
 準備室が並ぶ、一階の部屋の窓のひとつが開いていて、あの人が窓枠に腕をかけてこちらを見ている。わたしが驚いて固まっていると、その表情が徐々に苦笑いに変わっていって、すまない、と穏やかな声が小さく謝罪の言葉を口にした。
「驚かせてしまったか」
「い、いえ」
 慌てて首を振ると、そうか、とそれきり興味をなくしたように、あの人は口をつぐんでしまった。取り残されたわたしはこのまま立ち去っていいものか、少しだけ迷う。教室の外ではろくに話したこともない教師。関わらないと決めたけれど、逃げるのもおかしいし、こちらから振るような話題もない。結局、お辞儀ひとつしてこの場を後にしようと踵を返す。
「いにしえの面影草の夕ばえや、とめし鏡の名残なるらん」
 独特の節回しで紡がれる言葉に、足が止まる。もしかしたら独り言だったのかもしれない。振り返った先のあの人は、わたしの方を向いてはいなかったから。
「古い歌で、山吹のことを面影草と呼ぶものがある。昔、恋仲の男女が別れる時に、お互いの姿を写した鏡を埋めた場所から咲いた花であるからと」
 俺も山吹の花を見ていると、何かを思い出せそうな気がする。そう言って、淡く微笑むその横顔に、どうしようもなく胸が一杯になる。思い出して、と叫びたくなる。
 最後の日、彼はわたしの手を引いて、何も言わず庭へと連れ出した。別れの刻が迫るなか、ただじっと、わたしの顔を眺めていた。榛色の彼の瞳が鏡のようにわたしの顔を写し込んで、ゆらゆらと揺れていた。周囲に咲き誇る山吹の花が、幻のように美しかったのを、覚えている。
「……好き、です」
 なんとか絞り出した声が、みっともないくらいに震えていた。今にも泣いてしまいそうなくらい。もう、終わったことだというのに。
「本当に、好きだったんです」
 そうか、とあの人が笑う。彼の面影が、強くなる。
「俺も、好きだ」
 その言葉だけで、今はもう十分だと、自分に強く言い聞かせた。

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2018/04/11

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