ありあけの月

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数珠さに

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 嘘つきが泥棒のはじまりなら、審神者なんて職業は大泥棒の集団にちがいない。息をするように嘘をつく。盗んだのは、他人の人生。
 けれど、わたしだって、欲しくて盗んだ訳じゃないのに。

「嘘をつくと、地獄に落ちますよ!」
 広間から聞こえてきた声に、びくりとして足を止める。覗き込んだ先には、一期一振が腰に手を当てて、包丁藤四郎を叱りつけているところだった。包丁のことだから、理由はまた食事の前におやつを食べたとか、そんなところなのだろう。ぷうと頬を膨らませて、懲りた様子は欠片もない。ため息をつき、首を振る一期の心労は察して余りあるが、それでもわたしは先程聞こえてきた彼の言葉の恐ろしさに、息をするのも忘れて固まっていた。
「どうかされましたか?」
 後ろから声をかけられて、ようやく、ひゅっと息を吸う。振り返れば本日の近侍である数珠丸恒次が、いつもと変わらない穏やかな表情でわたしを見下ろしていた。閉じている筈なのに、すべてを見透かすような目に、少しだけ緊張しながら言葉を返す。
「なんでも、ないです」
「そうですか」
 我ながら、けして、なんでもないような様子ではなかったと思う。動揺を隠すつもりで、それでもわずかに震えた声に、他の刀なら、お節介な質の刀ならきっと、口うるさく聞いてきたに違いないけれど、数珠丸は何事もなかったように、梅が咲いていますね、と話題を逸らした。
「あ、はい、そうですね」
「最近は随分と暖かくなりました」
「桜も、もうすぐ咲きますね」
「おそらくは」
 ゆっくりと唇に微笑みを刷いて、参りましょう、と数珠丸が手を差し出す。促されるまま、わたしは一期たちから意識を引き剥がした。そうして連れ立って、厨へ昼食を貰いに行く。その日の献立は、梅うどんだった。
 数珠丸恒次は鍛刀で来た刀である。にっかり青江に次いで二本目の青江派の刀だということで、手に入ればそれはそれで嬉しいとは思っていたけれど、それほど気合いをいれて探し求めた訳ではない。余っていた富士札がなければ、今でもうちの本丸に数珠丸はいなかっただろう。
 彼が天下五剣と呼ばれる、特に珍しい刀であると知ってはいたけれど、元々、刀集めにはそれほど興味がなかった。しかし、それ以上に、数珠丸を求めなかった理由がある。
 わたしは数珠丸が苦手である。数珠丸だけではない、石切丸に、太郎太刀。江雪左文字、山伏国広も。次郎太刀とにっかり青江は少しはマシだが、それでも苦手な部類に入る。神や仏に縁のある刀が苦手なのだ。他の刀とはどうも少し、違う気がして。それは彼らの纏うどこか神聖な雰囲気だとか、達観したような物言いだとか、感情の揺れ幅が少ないところだとか、理由はいくらでもつけられるけれど、結局はわたしは自分の嘘がばれるのが怖いのだ。その静かな眼差しで、何もかもを見透かされているような気がして。もし本当にそんなことがあるのなら、今頃わたしなど見放されているだろうから、すべて勝手な思い過ごしでしかないのだけれど。

 わたしが審神者になったのは三年前の冬のことだった。ある日突然、政府の役人と名乗る男女がわたしの前に現れて、問答無用で審神者をやることになった。逃げ道はなかった。現世にはもう、わたしの居場所がないとわかったから。
 審神者の敵とされるのは歴史修正主義者だが、彼らはそもそも、よくある新興宗教のひとつだったという。過去を変えて、未来をより良いものにする。そんな理念を教義に据えて、胡散臭い神を拝む眉唾の宗教団体。もっと時代が古ければ、それはただの宗教で終われた。けれど、時代がそれを可能にしてしまった。信者たちは科学の力で時空を遡り、次々に歴史を変えていく。政府が気づいた時には既に、歴史は大きく変わってしまった後だった。
 もちろん、そんなこと一般民衆には公表されていない。誰もが自分は正しい歴史の延長線上に生きていると思って、疑わない。そもそも、考えたことさえないだろう。自分が間違った歴史のなかに生きているなんて。
 その事を知っている人間は、政府の一部の役人と、歴史修正主義者に対抗すべく組織された軍事組織『本丸』に所属する審神者だけだ。混乱を避けるため、歴史改変に関する内容にはすべて、厳重な箝口令が敷いてある。たとえば、審神者のこと。刀剣男士のこと。本丸のこと。だから、審神者たちはみな、たまの休みに現世に戻っても、日々の何気ない笑い話さえ口にすることは許されない。飛び込みで入った美容院で気まずい時間を過ごしたり、偶然出くわした昔馴染みとの世間話で怪訝な顔をされるくらいならまだ良かった。審神者の箝口令は親族にまで適用されるので、一度歴史の真実を知ってしまったが最後、家族にさえ言えない秘密を抱えて一生を過ごすことになる。審神者の要請には拒否権がなく、一度目をつけられれば二度と知らなかった頃には戻れない。
 嘘しか口にできない関係は次第に崩壊する。大抵の審神者が家族と疎遠に過ごすのは、その所為だろう。最初のうちは誰もが現世に居場所を繋いでおこうと、必死で嘘を並べ立てるけれど、生まれついての詐欺師ではないわたしたちにはいつまでも嘘を重ねることはできない。わずかな綻びから何もかもが嘘だとばれていき、いつの間にか現世では息ができなくなってくる。そして、逃げるように本丸へ帰っていくのだ。
 知ったような口を利くわたしもまるで同じ運命をたどった一人で、この数年は実家にほとんど帰っていない。帰ることは、これから先もきっとない。そもそも実家と呼べる場所が、いつまであるかもわからないんだけれど。
 そんなことを言ったって、もう現世のことは諦めたんだからどうでもいいのだ。これまで育ててくれた両親だって、仲良く過ごした友だちだって、憧れていた初恋の人だって、みんなみんな、現世のことは捨ててしまえる。あれらはみんな、元から、わたしのものではなかったんだから。
 けれど、他の誰でもない、こんなわたしに無類の信頼を寄せてくれる刀剣男士たちに嘘をつくのが、この世でいちばん、つらかった。

 午後の出陣で検非違使が出たらしい。たとえしっかりと対策をとっていたとしても、無傷とはいかなくて、何人かは中傷を負って帰って来た。審神者の任についてからというもの、もう幾度となく彼らの傷だらけの姿を目にしているというのに、負傷者が出る度にわたしは死んでしまいたいような気持ちになる。大丈夫ですよ、と笑う刀たちにひたすらに頭を下げて、手入れ部屋を後にした。手入れは深夜にまで及んで、全員の処置が終わった頃には就寝時間はとうに過ぎていて、本丸はひっそりと静まりかえっていた。白い月に照らされて、磨き抜かれた廊下が濡れたように光っている。自分の息だけが聞こえる静寂の中で、気を付けないと涙がこぼれてしまいそうだった。
 泣くのは、卑怯だ。
 いつかどこかで聞いた言葉が頭のなかをこだまする。痛いのはわたしじゃないし、苦しいのもわたしじゃないのに、泣いてしまえば自分を可哀想にしてしまえる。そうやって自分自身をうやむやのうちに許してしまおうとする、自分の甘さに嫌気がさす。
 頭ではわかっているのに、どうしようもなくうるみはじめる視界を振り払うように、ぎゅっと強く目をつむった。顔を伏せて庭へと降りると、つっかけばきを引っかけて、一直線に奥へと向かう。先へ先へ、誰も見つけられないほどに深く、森の奥へと進んでいく。差し掛かる木々が闇をますます深くして、わたしの存在もその中に溶けてなくなってしまいそうだ。歩いているうちに堪えきれなくなった涙がぼたぼたと頬を伝って、闇の中へと落ちていった。だんだんと早くなる足取りに合わせて、ひっ、ひっ、と喉から引き連れたような音が漏れる。
「どうして……どうしてっ!」
 勝手に言葉が口から漏れる。誰に聞かせるでもなく、悲鳴をあげる。どうして歴史なんて、守らなければいけないんだろう。大切なものを傷付けて。嘘ばかり口にして――正しい歴史に、わたしはいないのに。
 歴史改変に対抗する為の審神者の選定は、それにより更に歴史が変わるかもしれないという危険性を孕んでいる。そもそも何をもって正史とするのか。歴史の改変点はどこであったのか。詳しい話はわたしも知らない。知っているのは、ただ政府が『歴史改変を目論む人間が存在した』時点を、歴史の改変点として認定したのだということだけだ。歴史は変わらない。変えようとした者もいない。けれど、歴史は既に変わっている。それならば、歴史が変わったことによって存在する人間はどうなるのか?
 審神者というのは実のところ、誰もがなれる職業だ。特別な才能なんてなにも要らない。条件はひとつだけ。正しい歴史に『存在しない』こと。
 元から存在しない人間なら、誰が死んだところで歴史に影響なんかしないから。存在しない筈の人間同士が、互いの存在を消すために戦っている。馬鹿みたいな話だけれど、それが政府のいう正しい歴史で、その歴史さえいつかは消えてなくなってしまう。今だって、少しずつ、歴史は正しいものに戻ってきていて、わたしの家族も、友だちも、何もかもが別の誰かのものになっている。ううん、違う。本当は、みんな、わたしのものなんかじゃなかった。一度だって、わたしのものであったことなんか、なかったのだ。
 何もかもが、誰かの人生を盗んで得たまがい物。わたしこそが、わたしの存在こそが嘘だった。
 自分の存在を残すために、歴史修正主義者へ寝返っても無駄なことは、ご丁寧に政府が説明してくれた。歴史修正主義者たちは目指す未来の為に歴史を変えている。彼らはわたしたちの為に歴史を変えている訳ではなく、彼らの望む未来にする為にいくらでも未来は変わっていくのだと。そして、更に変えられた未来に、わたしたちが必ず存在する保証はない。
 だから、わたしたちに生き残る道はない。戦って、戦って、正しい歴史とかいう、よくわからないものの為に、最後まで戦い抜いて、そうしてふっと消えていく。いつ消えるかは、わからない。明日消えるかもしれないし、十年先かもしれなかった。わかっているのは、なにも残さず消えるということだけ。
 消えたくない、このまま変えられた歴史のなかで生きていたい、と言ったなら、わたしの刀たちは一体どういう顔をするんだろう。正しい歴史を守る為に呼ばれて、命をかけて日々戦ってくれているというのに。
 彼らのことを思えば、そんなこと絶対に口には出せない。本心を欺いて、最後の日まで、わたしは嘘をつくしかない。
「こんなところにいたのですね」
 さくり、と土を踏む音がして、わたしはのろのろと振り返る。静かだが力強い声が、闇を切り裂いて耳へと届く。穏やかな佇まいからは少し意外なほどの強さに、はっきりと姿は見えずとも誰がやって来たのかはすぐにわかった。今日の仕事はもう終わったというのに、こんなところまで追ってきてくれるとは真面目な刀だと思う。その真面目さが、嬉しくて、怖い。
「数珠丸、さま」
 闇に紛れて、こっそりと涙をぬぐう。太刀は夜目が利かないけれど、それでも念の為、なにもなかったかのように笑顔を作る。
「どう、されましたか。何か、ご用でしたか」
「貴女は」
 その時、さっと雲が流れて、月の光が木々の間から差し込んだ。それは劇的な変化だった。月光に照らされた数珠丸の姿は、まるで観音菩薩のように神々しかった。犯しがたい神聖が、わたしの魂を掬い上げようと、慈悲深くその白い指を伸ばす。
「地獄が、恐ろしいのでしょうか」
 それは蜘蛛の糸のようにも見えた。地獄に垂れる、救いの一筋。その手にすがれば救われるのだろうか。それとも、わたしのような嘘つきにそれは差し出されるばかりで、手を伸ばせば途端にぷちりと切れる幻なのだろうか。
 わたしはまじまじと数珠丸を見返した。彼の真意をはかろうと息を詰める。
 数珠丸は少し、首をかしげたかと思うと、にっこりと笑って見せた。仏像と同じ、アルカイックスマイル。黒と白混じりの髪がふわりと揺れて、生き物のように辺りに広がる。「違いますね」
 きっぱりと言い切って、数珠丸はにこやかに続ける。
「昼から様子がおかしかったので、その所為かと思ったのですが。……実を言うと、もしそうであればどうしようかと思っていたのです。地獄のことは私にもわかりませんから。刀の時分には語るべき口を持たず、人の身を得た今となっては、肉の体に縛られてあの世は遠のくばかりです」
 果たして、地獄とは真に恐るるべきものなのか。そも辿り着けるものなのか。
 そうやって、てらいもなくわからないと口にする数珠丸に、意外な心地がした。
「……数珠丸さまにも、わからないことがあるんですか」
「沢山ありますよ」
 細い指が頭へと触れて、ゆっくりと撫でていく。幼子を慰めるような優しい動きに、止めた筈の涙がもう一度溢れてくる。
「そうですね、たとえば、今、貴女が何に怯えているのかだとか。よろしければ、私に教えてくださいますか」
「わたし……」
 思わずすべてを打ち明けたくなる。みんなでなくていい、彼だけでいい。真実を口にすれば、わたしの魂のどこかを彼は救ってくれるかもしれない。そう思わせる何かが数珠丸にはあった。けれども拒絶もまた予想できて、結局わたしは何も口にできないまま、ぽろり、と涙だけがこぼれていく。数珠丸の体温の感じられない、およそ生き物らしくない指がわたしの涙をぬぐっていって、その感触にまた泣いた。どうして、この手に素直にすがりつけないのだろう。
「数珠丸さま、ひとつだけ、教えてください」
「私にわかることならば」
「この世に存在しない魂は、死んだらどこへ行くのでしょうか」
 意味のわからないだろう問いかけにも、数珠丸は微笑んでいる。微笑みながら、わかりません、と口にする。
「私もまた、この世に存在する筈のない魂です。死後のことはわかりません。この魂が終わるときを、死と呼ぶべきなのかどうかも」
 けれど、とふと細い首が捻られて、伏せられた目が天を見る。
「貴女とともに見た月は、きっと千年のちも、残るのでしょう」
 彼の言葉は絶対的な救いではなかった。わたしは嘘をつき続けるし、いつかは消えてなくなってしまう。そして、数珠丸がそれを知ることは生涯ないだろう。
 それでも、わたしはきっと、この月を、月に照らされた数珠丸の姿を、最後の瞬間まで忘れないだろうと思った。

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2018/04/14

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